契約の刻
眼の前に手がある。差し出された両手。右手はシミ一つないほど綺麗で左手は赤く焼けただれている。カナタは呆然と目の前の悪魔を見詰めた。悪魔の瞳は蠱惑な輝きを放っている。
頭には螺旋状の角。
豊満な尻からは尻尾が生えている。
ランタンの灯りはぼんやりと悪魔の顔を浮かび上がらせる。高い鼻、アーモンド形の大きな瞳。
あれ?
どこか———で
見たことが
「ちょっと、なにぼんやりしてるのよ」
「……っは、ごめんごめん。思わず見とれちゃって」
なんだそんなことかと呆れて
「それはそうよ。私の顔には魅了の魔法が備わっているんだから…それで?私を呼び出したってことは何か叶えてほしい願いがあるんでしょ?」
「呼び出したって…僕が?」
呼んだおぼえはない。光る本を開いたらそっちから勝手に出てきたんじゃないかとカナタは思った。しかし悪魔にとっては違うらしい。
「あの本は『欲望の書』現世にある悪魔を封印した書物の中でも最上位のもので…ええっと…大きな欲望を持っている人の前に現れてなんでも願いを叶えるの。だだ———」
その時、カナタは悪魔の両手を飛びつくようにして握っていた。
「なんでも?!なんでも願いを叶えてくれるの?!」
これでもうガイム達にいじめられずに済む。
教師に学園始まって以来の劣等生扱いされなくて済む。
不満と恐怖と自己嫌悪がこれでもかと積み重なっていたカナタにとってこの機会を逃すはずがなかった。
「じゃあさ。僕は力が欲しい。あいつ等を見返せるほどの強い力が、無限の魔力が欲しい。これで契約できないかな?」
縋りつくように懇願するカナタをあきれ顔で見た。まだ一番重要なこと言ってない。まあいいだろう。
このくらいの人間が一番、
「分かったわ。ただ条件があるの」
「なに?」
一息おいて。
「私と契約するためには、契約に関連する記憶を全部忘れてもらわなきゃいけないの。どんな内容を望んだのかとか、どんな悪魔と契約したのかとか、全部」
「いいよ。そのくらい」
カナタは簡単に了承した。そのくらいならいいだろう。今までの苦痛が塗り替えれるなら。
「じゃあ…」
悪魔の左手が伸びる。赤黒く焼きただれた掌がカナタの顔に当たった。
ぱちん、と音が鳴った。
カナタの体が崩れ落ちる。
持っていたランタンが落ちた。蝋燭の灯が床におちた衝撃で消える。
それと同時に、悪魔の姿もぼんやりと———
悪魔リリーは嗤っていた。二百年ぶりに外に出れたのだ。呼び出した男も、願いも、なにもか
もが悪魔好みだった。
これなら、
これなら少しは楽しめそう。