可燃性の夢と神様の苦悩
40作目です。まだ夜は長袖で眠っている私です。
当作品は私の他の短編「終わりある永遠の中で」に関連するものです。
小学生の時、少なくとも年に一回は絶対に訊かれるテーマがある。
「将来の夢は何ですか?」
これだ。このテーマだ。私はこれが苦痛で仕方がなかった。
小さい頃から夢なんか持ち合わせてなかった。自分でも冷めたガキだったと思う。バカみたいにリアルばかり眺めて、ただただ自分の首を絞めるだけの愚か者だった。
それは小学校最初の授業参観のことだった。
「今日は将来の夢について発表します」
皺が多く小太りの女教師がそう言った。なので、私は将来の夢について考えた。思考は万里を一瞬で駆け、様々な可能性に枝を伸ばした。けれど、どの枝もすぐに枯れるか折れてしまう。つまり、未来というものが私には想像できなかった。
予測なら可能だったろう。しかし、取っ掛かりもなく、単純に荒唐無稽な未来図を描くことが私にはできなかった。
「最初は青木さんから行きましょうね」
出生番号順に現実味の薄い未来の想像が発表されてゆく。
「わたしは、ケーキ屋さんに、なりたいです」
「ぼくは、消防士に、なりたいです」
「わたしは、アイドルに、なりたいです」
「ぼくは、サッカー選手に、なりたいです」
各々が大抵は実現しない未来図を語っていく。
私は出席番号が後半だったので、考える時間はたっぷりあった。しかし、いくら想像しても頭の外枠は真っ暗なままで、未来なんて抽象的なものは浮かばなかった。
逃げの考えで、どうしてこんな話をするのかということに思考が移りそうだったが、何とか押し留めた。思考するのは好きだったが、それは事実に基づいたことのみだ。何度も言うが、冷めたガキだった。
「次、円山くん!」
「はい!」
私のひとつ前の番号の円山という児童が元気よく立ち上がり、「ぼくは、俳優に、なりたいです!」と言った。後ろから拍手が聞こえた。親たちは子供の発表の度にいちいち拍手をしているのだ。
「立派な夢ですね」
女教師が陳腐で一定のレパートリーしかない感想を述べた。
「次は、瑞梨さん」
私のターンが回ってきた。私の脳内では七年程度の人生の中で最大最速に枝が伸ばされていた。けれど、外枠のダークマターに触れると腐食してしまう。人生で初めて冷や汗をかいたのはこの時だ。
「どうしたの?」
私が黙っていると女教師が顔を覗き込んだ。化粧が厚く、口臭がキツい。私は思わず顔を顰めた。
「えっと……、私は……」
視線がこちらを向いている。どうせならそっぽを向いて欲しいのだが、それは無理だろう。視線を集めるために立って発表させているのだから。これで互いのことを知り合うという意図もあっただろう。
「私は?」
「えっと……、まだわかりません」
親たちが一斉にざわめき出す。今思うと、親からすればどうでもいいことの筈なのに、どうして騒ぎ出したのだろうか。
「わからない?」
女教師の声が少し裏返っていた。これは場違いな疑問だが、どうしてヒステリックな教師は小学校に多いのだろう。
「はい、わかりません」
私は開き直っていた。こんなことで嘘だけは吐きたくなかった。嘘だけは吐かないことを信条にしていた。
女教師は「何か言え」と言いたげに私を睨んだ。
けれど、私は私の脳内の処理に手間取っていた。枝を無秩序に伸ばし過ぎた所為で少し処理が麻痺しているようだった。
「もう、いいですよ」
女教師は呆れたというポーズをあからさまにした後、次の出席番号の児童に夢を訊ねた。
私は座った後も処理に時間が掛かっていた。私は決して愚鈍ではなかった。だから、この程度の処理に時間が掛かること自体が驚きだったし、軽く絶望した。実はスペックが低いのかもしれない、と。プログラム通りにしか予想もできないポンコツなのかもしれない。
いつの間にか全児童に夢を訊ね終わり、女教師が前で総括を述べていた。私は何とか処理を終わらせ、いや、強制終了といった表現が正しいのだろうが、取り敢えず、未来という概念を放棄した。
ないものはない。
そういう風に割り切れるタイプだった。
授業参観後、私は女教師に呼び出された。母親も一緒だった。
「あのね、瑞梨さん。こういう場面ではしっかり言った方がいいのよ? ほら、親御さんもいるんだし……」
当時の私は小学一年生で、女教師が何を言っているのかよくわからなかったが、夢くらい考えとけと言いたげなのはわかった。この教師は自分の評価を優先しているということもわかった。
「すいません。しっかり言っておきますから……」
私は横で母親が謝っている理由もわからなかった。
私が悪いのだろうか。
未来を想像できないことはそんなに責められることなのか。
どうしてだろう。想像したって叶うわけでもないのに。期待するだけ、抱えるだけ無駄ではないか。どうして自ら絶望を選択したがるのだろう。なりたくてもなれないものなんていくらでもあるのに。
帰り道、私は母にぶたれた。これが初めてではなかったが、やはり、ぶたれると痛いものだ。
「どうして夢のひとつも言えないの!」
母は外だというのにヒステリックに叫んだ。
「出来の悪い子ね……」
私は母の言葉なんて耳に入らなかった。ただ、ぶたれことに対する憎悪ばかりが膨らんだ。こんなことごときでぶたれなければならない理由が私にはわからなかった。
その日は夕陽が綺麗だったが、それは頬に沁みて痛かったので、今でも私は夕焼けが嫌いだ。
母は家に帰ってもヒステリーを持続し、父が帰ってくると出来事を事細かに伝えた。父も父で短気だったので、私はまた怒られた。母は怒鳴りつけるだけだったが、父は殴ったり蹴ったりが多かった。その日も私は殴られ、蹴られた。
夜、湯船に浸かっている時、私は泣いた。どうしてこんな苦痛を受けなければならないのか、不確定な未来を語ることの重要性は何処にあるのか、どうせ母も父も幼少期に描いた夢とは違う癖に。叶わなかったから私に当たるのだろうか。未来がある私に。
湯船に沈んで息を止めてしまおうということが何度もあった。けれど、私は意志薄弱で、どうしても顔を上げてしまう。その度に私は泣いて、私を呪いたかった。
怒られた日から一週間ほど休んだ。私は学校なんか行きたくなかったし、親もぶたれた頬を見られて虐待を疑われたくなかったのだろう。
その一週間、私は未来を考えていた。
それは漠然としていて、上下左右前後が暗く、私が手を伸ばせば腐食していく。生温かくて、でも冷たい。
未来を考えるということは、自分の有限さを考えるということ。私は恐ろしくなった。どうして死ぬことを考えなければならないのだろう。未来なんて考えない方がいい。どうせわからないのなら、根拠のない不安なんて背負うべきではない。
私は死ぬことだけはどうしようもなく怖かった。
誰かがトラックに潰されるのを見てしまったからだろうか。
祖父が癌で逝ったのを知っているからだろうか。
私は生きることにはしがみついていた。媚びていたと言っても過言はないかもしれない。
小学四年生の時、再び未来のイメージを問われる機会があった。私は以前よりも、ずっとずっと綺麗に割り切っていた。
「未来なんてわかりません」
私はそう答えた。私なりの最善の答えだった。事実、私は一年生から四年生になるまで未来について考え続けたのだが、やはり、暗澹とした外には枝を一向に伸ばせなかった。
担任は男の教師だったのだが、そう解答した時から私に絡んでくることが増えた。気遣いのつもりだったのだろうが、私としては鬱陶しかったし、ゆっくりと「未来の不確定性」を私から取り除こうとしているようで不気味だった。
義務教育というのはステレオタイプを量産したがる傾向にあるようだが、私はその「洗脳」の外にいることができただろう。
でも、いっそ、「洗脳」されれば、私もステレオタイプにひとつになってしまえば、それはそれで楽だったかもしれない。
私は私が大切で、私以外が嫌いだった。
父も母も私には関心を失ったようだった。それは、私よりも遥かにステレオタイプ適正のある子供、妹を作ったからだろう。それは夢を訊ねられると「パティシエ」になりたいだとか、「お医者さん」になりたいだとか、いつもいつも解答を変化させた。
私にとってはありがたい存在だった。妹の人間性は嫌いだが、私の壁になってくれているのだから。妹がいなければ、私はずっと殴られて蹴られていただろう。
私は中学生になっても未来を想像できないままだった。寧ろ、より暗闇が増えたように思える。助かるのは、小学生の時と比べて現実的な視点が周囲にも増えたことだ。単純に諦めなのだが、当初から諦めていた私からすれば安心できる環境だ。
夢なんて描けないのが現実。
それを理解していた私はどれだけ優れていただろう。
未来を描けない私は私なりに勉強して、成績を伸ばした。不確定な未来に影響を与えるのは生きている今の一瞬一瞬だと知っていた。
私は思ったよりも順調に歩めていると感じた。その歯車となっているのは妹だった。妹が私に向けられる筈だった親の欲求を受けている。妹もそれを気にしていないようで、俗に言う「優等生」として生きていた。
両親の要求する理想の子供像というのは私から見てもおかしいと思えた。彼らは子供を傀儡だとしか思っていないようで、自分たちのレールから逸れようとしたならすぐに折檻をする。暴力ならば従えられると思っているのだろう。実際、妹は両親に服従している。
私は休みがちで授業もサボりがちだったため内申点が低く推薦などは貰えなかった。端から推薦など貰うつもりはなかったので、勉強に精を出し、なるべく遠い高校に通うつもりだった。
しかし、中学生の秋、私にとって予想外のことが起きた。
私が一週間振りに妹を見たのは薄暗い霊安室だった。何か透明なパーティクルが浮かんでいるような、境界線上の空間。そこの簡素な純白のベッドに彼女は横たえられていた。しっかりとエンバーミングが施されているのがわかった。
警察の説明によれば、妹はトラックに轢かれたらしい。
それも自ら飛び込んでのことだ。
遺書などはないが、私には何となく理由がわかった。
予想していたことだが、葬儀の後から両親の欲求というか、ストレスの捌け口の矛先が私に向いた。けれど、両親の理想から何千里も遠い私に彼らが満足するわけもなく、暴力で押さえ付けようとした。
私は一層学校へ行かなくなった。しかし、家でその分を勉強した。志望校への判定はAで、私も余裕だと思っていた。しかし、予想はしていたにしても障壁はあった。
それは両親の存在だった。両親は理想と異なる私を手近なところに置いて矯正をしたかったようだ。
「進学校に行くのはダメなの?」
私は訊ねた。
「近場にも進学校はある。そこで構わないだろう。お前は単純に私たちから逃れたいと思っているのだろう?」
「……わかってるなら、そうさせてよ。私は、子供は、あなたたちのマリオネットじゃない。それに、私はちゃんと『優等生』としてやって来たでしょう? まだ文句があるの?」
私は言い返した。自分が「優等生」なんてものでないことはよくわかっていたが、言わなければいけないような気がした。
「『優等生』? 『劣等生』の間違いだろう? 神様だってお前のように人間として劣ったものがいることを恥ずかしく思うだろうね」
「神様なんているわけないよ」
「だろうね。未来もろくに描けない劣等生に神様なんて信じることはできないだろうね」
「いつから信者なんかになったの?」
「信者? はは、下らん。そんな下賤なものじゃないさ」
「……神なんてクソ野郎だ」
私がそう言うと、父は血相を変えて私に迫り、何も言わずに殴り付けてきた。新興宗教にのめり込んでいた父は「神」の否定を許さなかったようだ。私が逃げようとすると捕まえ、踏みつけ、蹴飛ばした。頭からは血が零れ、肋骨は数本が折れた。ここ数年、ずっと栄養失調気味の私の身体は相当弱っていたらしい。
私は卒業まで殆ど学校に顔を出すことなく、高校も親が指定した近場に入学した。卒業式にも出ず、証書は後日、担任から個別に受け取った。
卒業証書を抱えて春の川原を歩いた。もう少しすれば桜並木になるらしいが、まだ蕾の段階だ。無事に咲ければ羨ましい。
丸太を模した柵に凭れて水色の空を眺めた。暢気な空だ。
私は証書を筒ごと川に投げ込んだ。濁って汚らしい川だが、人間よりも綺麗だと思う。
卒業証書の行方を私は知らない。
高校に入学したはいいが、私は家にいるばかりだった。同じ中学校の人も多かったのもあるが、何よりも親に反抗したい気持ちがあった。
学校に行かない分、家で学習した。最悪、高卒認定試験ルートになっても構わないと思っていた。
朝、親が私の部屋のドアを怒鳴りながら叩く。それを凌げば、両親は仕事に行くので、私は外に出ることができる。私の食事など用意されていないので、冷蔵庫から適当に食材を持っていって、部屋でそれを食べることにしている。栄養の偏りは否めないが仕方ない。
出席日数が必然的に不足するので、時折、学校の保健室に赴くことがある。これで出席日数を稼いでいる。定期試験もこうしている。
「いつでもおいでね」
保健室の先生はそう言った。優しいとは思うけれど、私はどんな人間も疑わないと気が済まなかった。
一度、クラスメートから寄せ書きを貰ったことがある。どうやらクラス委員長主導で行ったらしいが、私からすれば迷惑でしかなかった。お互い顔を知らないのに、嘘以外で何を書けばいいのだろう。二十センチ四方の紙に載っているのは、嘘と薄っぺらな哀れみだけだ。私はすぐに破ってゴミ箱に捨てた。
夜、明日にぼんやりとした不安を残したまま今日を終えようとベッドに横になる。ベッドの冷たさが身体に沁みる。
ベッドの上では決まって未来について考える。ずっとずっと答えが出ないままだ。もう想像するだけで暗闇に襲われて腐敗してしまいそうだ。腐った脳漿が眼から零れてしまいそうになったら、俯せになって、未来なんて考えるのを止めて、電源を落とすのだ。
いっそ、ブレーカーが落ちればいいのにと思いながら、思考の数々をゆっくりと夜の闇の沈めていく。
朝になると頬で涙が乾いているのがわかった。
頬が濡れていた朝は、きっと救いの朝だ。
そんな夜と朝を幾度も幾度も繰り返した。
私は高校一年の終わりに担任に呼び出された。どうせ進級に関してだと思って、朝が抜け始めた午前十時頃に家を出た。制服を着たのも久し振りだ。三月の気温は暖かさと冷たさが混じって鼻を擽る。私はくしゃみをしながら学校へ向かった。誰もいない昇降口を通り、一階の生徒指導室へ向かった。ろくに通っていないのに、内部構造は不思議と憶えていた。
生徒指導室に入ると担任が待っていた。四十代半ばの少し禿げた男で、鼻が大きいのが特徴だった。名前は知らない。興味もなかったし、憶えておく必要がなかったからだ。
「まぁ、座れ」
担任は言った。私は威圧的な印象を覚えた。
「ええと、話はわかっていると思うが、進級についてだ。瑞梨、お前は成績について申し分ないんだが、やっぱり出席日数が足りないからな」
担任は大きな鼻を掻きながら言った。
「進級する気はあるか?」
「……」
「ないのか? ないならないで構わないが……」
「……いえ」
「ん? あるのか? はっきり言ってくれ」
思えばここが分岐点だった。
「はい。あります」
こんなことを言わなければ良かった。
「そうか。じゃあ、手を考えよう。何とか誤魔化すことは、おれにならできるからさ」
「誤魔化す?」
「そうさ。出席してたことにする」
「……条件があるんですよね?」
「あぁ、流石、瑞梨だな」
担任は立ち上がると私に近付いた。
不味い状況だと思ったが遅かった。私は抵抗することもできず、なすがままにされた。痛くはなかった。屈辱の念が勝った。理想のシチュエーションなんてなかったから、そこだけが救いだと思えた。
叫べたらよかったのだろうけど、声が出なかった。
「進級のことなら考えといてやるよ」
終わった後、担任はそう言った。私は歯を食い縛って、去り行く担任の背中にカッターを突き立てた。
私はその場から走った。
何も聞こえなかった。
夢の中にいるように進めなかった。
来る時の路地のカーブミラーも、咲いていない桜並木も、くすんだ野良猫も、現実のものだとは思えなかった。手に残った感触こそが夢の産物だった。私は本当に学校に呼ばれて行ったのだろうか、それすらわからないし、わかりたくもなかった。
気付けば自室のベッドに倒れていた。
少なくとも夢でないことは痛みでわかった。
私は泣かなかった。いや、泣けなかった。
夕方、誰かが家を訪れたようだ。そして、私は部屋から引っ張り出された。勿論、理由は私が担任を刺したことについてだった。
「彼が私を襲ったから刺した」
私は説明をしたが、聞いて貰えなかった。両親も私が襲われたことなんて信じていないようで、私が全面的に悪いと言いたげに話を進めていた。まるで私なんて最初からいなかったみたいに。まるでカッターがひとりでに刺したみたいに。
「彼は訴えることはないと言っています」
「何て心の広い方でしょう」
訪問者の言葉に母が言った。
「こんな愚かな子を許してくれるなんて……」
私は呆れた。もう人なんて信じられない。やっぱり、考えても考えなくても最初から未来なんてなかったんだ。
訪問者が帰った後、父は私を強引にキッチンに連れて行った。
「償いをしないと天国には行けないんだよ」
「天国なんてない」
「矯正が必要らしいな」
この頃の父はのめり込み具合が一層酷くなっていた。どれだけを擬似的な神に貢いでいるのか私には見当がつかなかった。
父はコンロの火を点けると、私に訊ねた。
「さて、どっちの手で刺した?」
「……左」
私がそう答えると、彼は私の左手を掴んで、火に翳した。私が抵抗しても意味はなく、ただ、自分の左手が爛れて使い物にならなくなっていくのを感じていた。肉が焼ける臭いが私の鼻腔を刺激した。
「次は顔だ」
父はそう言うと、すでにゴミになった左手を火から逸らし、私の頭を押さえて火に近付けて、顔を炙った。
「神様に会わせる顔がないからな。リセットしなさい」
顔が変形していくのがわかった。溶けていくような感覚。
未来が焼かれていく。不確定が確定に変わっていく。
未来なんてない。
未来なんてない。
もう何処にもない。
もう想像するだけ無駄なんだ。
未来って何だろう。
その後はあんまり記憶がない。意識が熱と痛みで混濁していたからだろう。気付けば私は病院のベッドに横になっていた。
顔が作り物になっているような気がした。
「瑞梨さん大丈夫ですか?」
視野が狭いが、その中に白い人物が見えた。
私は「大丈夫です」と言いたかったが、何も言えなかった。口が機能していないみたいだった。言葉は思い浮かぶのに外に出せないのはとてももどかしいことだと知った。
私は左手を眺めた。見事に包帯がぐるぐると巻かれているのが見えた。腕は動かせるが、手先は全くとして動かなかった。あの時、利き腕ではない方を言って正解だった。
「落ち着いて聞いて欲しいのですが……」
白い服の医師が私にゆっくりと話し掛けた。
「瑞梨さんの右眼、右耳は感覚器官としての機能を失ってしまいました。口も上手く動かせないかもしれません。そして……顔全体の火傷ですが、完全に消すのは勿論、普通に近付けるのでさえ難しいと思います。それほどに崩れてしまっていました」
私は眼を閉じた。何も溢れたりしなかった。
「左手も治すのは難しいと思います。少なくとも後遺症は残ってしまうでしょう。えっと、それと……」
何も聞こえなくなった。聞きたくなくてシャットアウトしたからだ。自分には過去も今も未来も重荷でしかないらしい。こんな人生なら捨ててしまいたい。捨てて、もうそのままでいたい。
神は神でも死神になら逢ってみたいと思った。こんな襤褸の腐った命でも狩りたいと思う物好きな死神に。
私は二週間ほどして退院した。学校は知らないうちに辞めさせられていた。もう過ぎたことだ。どれだけ勉強を重ねたって、もう日の目を見ることはないのだ。一生、日陰にしかいられないみたいだ。
私はあれから火が怖くて仕方がない。火を見ると顔と左手が熱を持って痛みが走るのだ。火だけでなく、火に関連するものもダメになってしまった。焼いた肉なども私には苦痛そのものだった。それらはあの臭いと痛みを想起させるからだ。
父と母は私に対して謝罪もせず、のうのうと、私なんていなかったように生きている。そもそも、私はどんな理由で病院に運ばれたのだろうか。今さらどうでもいいことではあるのだが。
家の中にある写真から私が消えた。家族写真には父と母と妹、そして、全身を黒く塗り潰された私がいる。
父と母は私が近付いても何も言わず、触れても反応することはなかった。私は自分が生きているのか、死んでいるのか、それすらもわからなくなりそうだった。当然、食事なんかないので、冷蔵庫から適当に食材を漁るのだ。これは前と変わらないことなのだが。
私は相変わらず部屋から出られずにいた。前と違うのは、もう勉強をしていないこと。ずっとベッドに蹲っているだけだ。
何処で狂ったのだろう
ああ、最初からか。
季節は一周し、また春がやって来た。本当なら高校三年生になる筈の春だ。今年は桜の開花が例年よりも早く記録されているらしい。確かに窓からピンク色の桜の木が見えている。
そんな春のある日の早朝、私はベッドから立ち上がり、物置へ向かった。私はそこに灯油があることを直感的に把握した。父が自宅に灯油を置いて、給油していることは知っていた。
私は灯油の赤いタンクを抱えた。骨と皮の身にはずっしりと重かったが、こんな重いものを持つのも人生最後だと思って頑張った。
両親の寝室を開けて、そろそろと侵入し、寝ているふたりに灯油をぶち撒けた。両親は驚いて起きたが、動けなかった。何故なら私がマッチ箱を持っていたからだ。悪臭で灯油だとはわかるだろうし、下手に刺激をすれば自分たちが丸焼きになる。
「……何をしてるんだ、お前は?」
父が震える声で言った。
「何って? わからない?」
私のマッチ箱を持つ右手は震えっぱなしだった。火を持っているようなものだからだ。
「お願い、ねぇ、助けて、ね、いいこだから」
母は必死に宥めようとした。
けれど、私は箱からマッチを取り出して、勢いよく擦った。赤々とした炎が揺らめいた。
「……」
私はマッチを彼らに投げた。
ゆっくりと火が育つのが見えた。餌は二体分のヒト。
「助けて」と言いたげな母の絶叫が聞こえた。
「……ごめんね。私、いいこじゃないから。『劣等生』だから」
私は燃え盛る両親を寝室の扉で遮った。
もう何もない。得るものも失うものも。
桜が咲いているなら見納めに行こう。私はそう思って外へ出た。もう一年ほど陽の光なんて浴びていなかった。とても眩しかった。
卒業証書を捨てたあの川へ向かった。桜は満開ではなかったけれど、綺麗に咲いていた。羨ましい限りだ。いずれ散る運命だとしても、咲けるのならばそれでいい。
私は二年前のように柵に凭れ掛かって空を見上げた。あまりに水色が朗らかだったので、生きたいという気持ちが消えてしまった。
気付けば水の中にいた。桜の花弁が散るのを見たことは憶えている。水の中はまだ冷たくて心地が良かった。
もしも神がいるなら、こんな「劣等生」の存在を許すだろうか。
あなたが私を許さなければ、他に誰が許すのだろうか。
息が遠くなって、ほろほろと何かが崩れて消えた。
私は死んだものだと思ったが、気付いたらベッドの上にいた。どうやら病院のベッドらしい。窓からライトアップされた夜桜が見える。
「死ねたと思ったのに」
神は許してくれなかったし、死神も私を拒んだらしい。
「……綺麗に焼けたかな?」
私は欠伸をした。死ぬことでさえどうでもよくなった。
不意に病室のドアが開いて、誰かが入って来た。
「誰?」
「誰でしょうね」
「死神?」
「違う違う」
その声はとても高く澄んでいた。
「私はサービスに来たの」
「……サービス?」
「そう。あんまりに可哀想だから、ね。だって、死にたいのに死ねなかったのでしょう? あなた、神様に嫌われてるのかも」
「……」
「そんなあなたに新しい身体と世界をあげたくてね」
「新しい身体と世界?」
「そう。夢の世界なんだけど……」
「夢?」
「どう? 詳しい説明はそっちでするから……あなた、もう人生なんてどうでもいいでしょう? あってもなくても同じでしょう? だったら、騙されたと思ってこの錠剤を飲んでみて」
その人は私に錠剤の入った小瓶を手渡した。
「これを?」
「そう。毒は入ってない……あ、でも、死にたいって言うなら毒でもいいのかな?」
私は何も考えずに一錠、口に放り込んだ。
「じゃあ、先に行って待ってるからね」
私は頭が朦朧とし始めたが、その人に訊ねた。
「……名前は?」
「マリー。以後お見知りおきを」
意識が次第に混濁し、全てが春の空のように蕩けて何でもないようになっていくのを感じた。そして、沈下していく。次に気付いた時、どうなっているか、少しだけ期待しながら沈んでいった。