図書館の鴉
遠くに蝉しぐれを聞きながら、私は図書館のカウンターで、返却された本の整理を行っていた。小さな町の小さな図書館には、夏休みということもあって、普段より多くの子ども達の姿が見られる。閲覧スペースで絵本を広げて動物の名前を当てっこする子、漫画本をクスクス笑いながら読んでいる子、ファンタジーの世界に冒険に出かけている子、少し背伸びをして、難しそうな本とにらめっこしている子。皆、思い思いに本の世界で遊んでいる。
その中で一人だけ、本を手に取りながらも、どこかそわそわと天井の辺りにしきりに目をやる少年がいた。ライトでも切れそうなのかしら、と私も目を向けてみるが、瞬きするライトはどこにも見当たらない。虫かしら、とちょっと嫌々探してみるが、私がさっと見た限りではいないようだ。少し、ほっとする。
再び作業に戻ると、すぐに、人の気配を感じた。
「貸出ですか?ちょっと待ってて下さいね」
抱えた本をいったん下ろしながら言うと、
「あ、えっと」
と、小さな声が届いた。ようやく顔をあげると、そこには先ほどの少年の姿があった。本を大事そうに抱えて、少しうつむき気味で、しかし、やはりそわそわと後ろを気にしているような様子である。
「借りますか?」
笑顔を向けて手を差し出すと、貸出カードとともにすっと本が渡された。『妖怪大図鑑』というタイトルの本で、おどろおどろしい妖怪たちの絵が表紙いっぱいに描かれている。男の子って、こういうの好きよねえ、と思う。
「2週間の貸し出しになります。ありがとうございました」
と、本をまた少年に渡すが、少年がそこから立ち去る様子はない。先ほど、やはり天井の方に何かあったのではないかと思い、なるだけ柔らかく尋ねた。
「君、さっき天井の方を見ていたよね。虫でも入っていたかな?ごめんね、気になっちゃったね」
少年はそれに、どういうわけか、少し悲しそうな表情を見せた。何かまずいことを言ったかと不安になる。
「違ったかな?ごめんなさいね」
「いえ、大丈夫です」
ぽそりと言葉を返して、少年は本を抱えてカウンターを後にした。
少年が扉を開く。蝉しぐれが、図書館の中に溢れた。少年は最後にまた、図書館の天井を悲しげに見つめた。
次の日も、その次の日も、図書館には少年の姿があった。閲覧スペースで、『妖怪大図鑑』を真剣な眼差しで読みふけっている。そして時折、思い出したかのように天井付近に目をやる。それは、真上であったり、本棚の近くであったり、窓の傍であったりする。たまに、睨みつけるようにするどい視線を向けることもある。私も少年が天井を見るたびに同じように『何か』を見てみるが、特に何かを見つけることはなかった。
もしかして、少年は妖怪を見ているのでは、と思わなくもない。
だが、そんなわけがないと、またすぐに意識を作業の方に戻した。
「あの……」
カウンターに声がかかる。
「はーい、貸出ですか?」
視線を向けると、そこには少年がいた。やはり、『妖怪大図鑑』胸に抱えている。
「返しますか?一生懸命読んでいたわね。好きな妖怪は見つかったかしら?」
「いえ、まだ……」
それは、まだ返さないという意味か、まだ好きな妖怪が見つかっていないという意味か、どちらであろうと思考していると、少年がぱっと顔を上げた。今までよく見ていなかったが、幼いながらもきりっとした眼差しをしている。多くを見つめる目をしている。
「あの、鴉がいるんです」
「カラス?」
少年の目に心を奪われながら、ぼんやりと答える。
「ずっといるんです。それで、探したのに、見つからなくて……」
少年が本に視線を移す。少年は、この図書館で、ずっと鴉を見ていた。それで、それが何者であるか、図鑑で探していたのだ。
「えっと、それは……」
私が返答に迷っていると、少年の目は、また悲しげな目に戻ってしまった。
「ごめんなさい、いきなり、ごめんなさい」
ぽそりぽそりと、今にも消えそうな声でなく。少年の心を傷つけてしまったことだけが分かった。もしかすると、最初のあの日も。
暫く、遠くの蝉しぐれだけが、世界の音を作っていた。
私がしっかりしなければ。
私は思い付きで、ぱしりと、手を叩いた。本を読んでいた子ども達が、何人か驚いてこちらを見ている。少年も、年相応にあどけない表情に目を丸くさせている。私は悪戯っぽく微笑んだ。
「図書館はね、たまに換気をするの。今は夏だから昼間はほとんど閉め切ってクーラーをつけているけれど、ときどき朝早くに窓を開けて、本たちに新鮮な夏の空気を吸わせているのよ」
少年は、話が見えないといった風に首を傾げた。私は続けた。図書館に声が響いてしまっているが、今は気にしない。
「だからね、カラスさんも、その時に入ってきちゃったんだと思うの。見つけてくれてありがとうね。きっと、カラスさんも閉じ込められちゃって困っていたと思うわ」
「え、あ、そう、なのかな」
少年は勢いにたじろぐ様子も見せている。きっと、予想外の反応だったのであろう。してやったり、である。
「逃がしてあげましょう!ね!さあ、皆も手伝って!」
「え、ちょっと!」
立ち上がる私を少年が制するように前に出るが、なんだなんだと集まってきた子ども達に囲まれて、途端に身動きが取れなくなってしまった。困ったように肩をすくめている。しかし、その口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。
「皆で手分けして窓を開けていきましょう。上級生の子達は、二階の窓をお願いね。さ!取り掛かって!誰が一番多く窓を開けられるかしら?」
突然始まったイベントに、子ども達は大はしゃぎで散っていく。少年も誰かに引っ張られていってしまった。はにかんだ顔が本棚の向こうに消えていった。
かちゃり、かちゃり、からからから。図書館中に響く窓を開ける音。熱風と共にやってくる蝉しぐれ。開けた窓の向こうには夏の青空と入道雲。
「全部開けたよー!」
二階から上級生の男の子が元気よく手を振る。
「ありがとう!みんなのおかげよ!」
私も負けじと手を振った。さて、あとはあの少年である。どこにいったかと探してみると、閲覧スペースの大きな窓から、外をじっと見ていた。近付くと、じっとりと汗をかいた顔が、満足気に笑っている。
「今、空を飛んでます」
少年が指さす。その先には、幸福な夏空があるばかり。艶やかな羽をもった一羽の鴉が、夏の太陽を浴びて、気持ちよさそうに大空を羽ばたく。そんな様を、想像した。
「そう、よかった」
鴉の鳴き声が、蝉しぐれに溶けて、消えていった。