消えた罪悪感~1~
授業が全て終わって、下靴に履き変えようと廊下に出た僕は、教室の前で待つ、母の姿を見た。
「どうしたの?」
「心配だから迎えに来たわ。正門から帰るのか裏門から帰るのかわからなかったから、ここまで上がってきたのよ。入れ違いになっても困るし」
少し気恥ずかしいけど、素直に嬉しかった。
帰りの車内で、お母さんの口から聞きたくもない事実を知らされる。
「あなたが学校に行ってる間に、東中の校長から電話があってね、松井って子の自宅の電話番号を教えて頂いたの」
「え……?」
「向こうは知らないの一点張り。一度そちらにお伺いさせて頂いてもよろしいですかって言ってきたわ」
「そ、それで?」
「夜の7時に来てもらう事になったの。お父さんが帰ってからの方がいいと思ってね」
お母さんは、ゆっくりと車を走らせながら呟いた。
「居ないわねぇ……」
危なくない範囲で辺りをキョロキョロと見渡す。
捜しているのだろうか。居もしないグループを……
ふと僕は気付いた。
「こっちって……家とは違う方向だよね?」
車は自宅とは違う、未だ田んぼや畑が残る開拓されていない道を走っていた。
見覚えのある道。小学生の頃にはよく通った。
「お母さん用があるから、おばあちゃんちに行っててね。後で迎えに来るから」
自宅に一人で置いておくのは心配という訳か。
「用って? 中津警察?」
「それもあるけど……警察だけに任せておけないでしょ。近くの公園を片っ端から捜してみようと思って」
また胸の奥が熱くなる。柔らかく包まれているような幸福感。被害者って……いいな。
お母さんが迎えに来たのは、夕方6時を過ぎていた。
「遅くなったわね。急がなきゃ……」
来た時よりもスピードをあげて、車は暗くなり始めた帰路を走る。
「着く頃にはちょうど相手の方もいらっしゃるかもしれないわね」
「相手って……親だけが来るの?」
不安になった僕は、おずおずと切り出した。
「いいえ。もちろん子供も来るわよ。当事者が来ない事には始まらないでしょう?」
やっぱり来るのか。
逢ってしまったらそこで僕の計画は終わってしまう。どうしたら……
「お母さん、僕、怖いよ……脅した奴らに逢うなんて……怖い。会いたくないよ」
無駄な抵抗だと分かりつつも、足掻いてみる。
ちょうど信号待ちで車を停めたお母さんは、助手席に座っていた僕の方を向き、穏やかな声で言った。
「大丈夫よ。お母さんが守ってあげるって言ったでしょ? もう絶対に怖い思いはさせないから」
違う。そんな心配してるんじゃない。そうじゃないのに。
刻一刻と対面の時は迫ってきた。
だけど僕にはどうする事も出来ず、とうとう自宅が見える位置まで来てしまった。
「あら? もしかしてもういらしてるんじゃないかしら……?」
お母さんの言葉通り、玄関前には二つの人影があった。
「大変! ───松井さんですか? すいません! 車庫に入れたらすぐ行きますので」
窓を開けてそう言うお母さんに、
「いいえ~。早く着いちゃったもので」
と予想外に優しげな母親らしき声。
暗がりでよくは見えなかったが、隣に居た僕と同じくらいの背丈の影は、確かにあの松井だった。
自宅横の狭い車庫に、決して上手いとは言えない手捌きで苦労して車を入れる。
大きく息を吐き出したお母さんは、エンジンを切った。
その代わりとでもいう風に、僕の心臓は激しく運動を始める。
先に車を下り、助手席側まで回ってドアを開けてくれたお母さん。
頭が真っ白なまま、ゼンマイ仕掛けのロボットさながらのぎこちなさで、地面に足を下ろす僕の耳に顔を近づけ、囁くような小声で言った。
「充、ここからお母さんと手を繋いで行きましょう」
「 や、やだよ! そんな……」
驚きの余り、つい大きな声を出してしまった。
「シッ! 大丈夫。後ろに手を回しておけば見えないわ。いい? よく聞いて。あの男の子があなたを脅したグループの一人だったら、お母さんの手をギュッと強く握ってちょうだい。もし人違いだったら、手を離して。わかったわね?」
真剣なお母さんの表情に、僕は頷くしかなかった。
「行くわよ」
先に一歩踏み出したお母さんの手は、あったかくて、震えていた。
ドクッ……ドクッ……ドクッ……ドクッ……
一歩、また一歩。
ドクッ……ドクッ……ドクッ……ドクッ……
距離が縮まって行く。
ドクッ……ドクッ……ドクッ……ドクッ……
松井の顔が徐々にはっきりと見えてきた。
ドクッ……ドクッ……ドクッ……ドクン!!
松井が僕を見て、アッ! と小さく声をあげた。
確実に認識しているであろう表情。それを察知した僕は、お母さんの手を────
離した。