底なし沼~1~
僕は、深い深い底なし沼へと足を踏み入れた。
学校での犯行は、やりにくくなった。あの事件以来、僕が教室に一人残ろうとすると、どこからともなく視線を感じた。誰かが僕を見ている。担任か? 生徒か?
ちゃんと謝ったのに……
先生も被害にあった生徒も生徒の親も、精一杯謝る僕を許してくれた筈なのに。やっぱり嘘だったんだ。
もやもやした気持ちを沈めてくれるのは、もう万引きしかない。最近は和樹も部活に夢中で、一緒にいる時間が全くと言っていいほどなくなった。
まぁいいや。一人の方が、気楽でいい。そんな風に思うようにもなっていた。
手慣れた手つきで、次々と店の物を鞄に詰める。欲しいものはもちろん、たいして欲しくもないものでも、ドンドン詰めて行った。
鞄の中身は満たされていっても、僕の中身はそれに反比例するかのように空っぽになっていくのか感じられた。それでも、止められなかった。止める気もなかった。
店で捕まる事はなかったが、意外な所で、犯行は明らかになってしまう。
「これ、どうしたの?」
学校から帰ると、険しい顔をしたお母さんが、リビングで腰に手を当て立っていた。ダイニングテーブルの上には、カードゲームのBOXや、流行りのキャラクターのキーボルダー、お菓子の包み紙等、僕の戦利品がズラリと並べられていた。
「どうして……これ……」
「あなたの部屋を掃除してたら出てきたのよ。お小遣いで買える範囲じゃないわよね? 一体どうしたの!?」
突然の事で、頭が回らない。咄嗟の言い訳も出てこなかった。
何も言えない僕に、お母さんは声を震わせながら恐る恐る言った。
「万引き……したの?」
自分でもわかるくらいに、目が泳いだ。また勝手に部屋の中を見られたのであろう悔しさと、人の物は二度と盗らないという約束。それぞれの思いがせめぎ合っていた。
突然なんて卑怯だよ。もっと僕に考える時間をくれれば良かったのに。だったら悲しませなくて済んだのに。
「やっぱり……そうなのね?」
もうお母さんの目は潤んでいた。仕方ない。僕はコクリと頷いた。またこの間みたいに泣くんだろうと思っていた僕は、お母さんの予想外の反応に驚いた。
突如、僕の肩をしっかりと掴み、ヒステリックに喚き散らす。
「どうしてそんな事ばかりするの! どうしてわからないの? この間の反省は嘘だったの? どうしていけない事ばかりするのよ!!」
一気に捲し立てた後、そのまま床に座り込み、ワァワァと大声で泣き始めた。
子供みたいに泣くお母さんなんて初めて見る。それは、あまり気分の良いものではなかった。
でもね、勝手に僕の部屋を見たりするから悪いんだよ。見なければ苦しまなくて済んだのに。
仕方がないから、また救う言葉をかけてあげよう。二度目だから、なかなか信じてもらえないかもな。
だったら、僕もお母さんみたいに泣き喚きながら謝るよ。前の時みたいにシクシクと泣くんじゃなくて、ワァワァ泣き喚いて、もっとたくさん反省してる"フリ"するから。だから元気出して。お母さん。
その日の夜、帰宅したお父さんとお母さんは、僕を二階の部屋に行かせて、長い間リビングで話をしていた。
お腹空いたんだけどな……
ようやく呼ばれたのは、一時間をとうに過ぎた頃。
怒鳴られる覚悟をしていたが、全くその気配もなく、ただ、
「もう万引きなんてするんじゃないぞ。お前のやった事は泥棒と一緒だ」
それだけ言ってお父さんは、お風呂に入りに行った。
……終わり?
僕は拍子抜けした。だって何となく覚えていたから。お母さんが───
『これ持ってお店に謝りに行くわよ! 代金も払わなきゃいけないんだし』
とか何とか言ってたから。
僕にとってそれは、特に難しい事ではない。謝るなんて簡単だし、お金も自分で払う訳でもないし。でもこんなアッサリと終わってしまうと気味が悪いな。
お父さんが風呂場の扉を開けて入る音を耳で確認した僕は、夕食の準備をしていたお母さんの後ろ姿に問い掛けた。
「ねぇ……謝りに行くんじゃなかったの?」
煮魚の味見をしていたお母さんの手が、ピクッと揺れる。
「ねぇ…」 「いいのよ」
被せるように言ったお母さんの声には、ロボットのように感情がなかった。
「いいって……お金払いに行くんじゃ──」
「だからもういいって言ってるの。謝りに行ってる所を誰かに見られでもしたらどうするの? もしもあなたが万引きしたお店に、知ってる人が働いていたらどうするのよ!」
ああ、そういう事か。要するに、『世間体』ってやつだよね。
世間体……
便利な感情があるもんだ。
世間体を気にして万引きをうやむやにする。それって本当は悪い事なんじゃないの? 僕には悪い事をするなっていうくせに、自分達はいいのか。知ってて黙ってるなんて、同罪だよね。
僕だけが悪いんじゃない。みんなだって嘘をつくし、罪だって犯す。お父さんもお母さんも、先生やクラスメート達も、みんなみんな犯罪者なんだ。
同じ、みんな同じ。仲間だね。
次の日の学校は、なんだか僕を迎え入れてくれてるような気がした。特に何かが違うって訳ではない。極々普通の、何の変哲もない日常。それでも僕には、全く違って見えたんだ。
ふざけあって馬鹿ばっかりやってる男子達。好きなアイドルの話で盛り上がる女子達。こいつらも、みんな上辺だけで善人ぶってる犯罪者達なんだ。そう思うと、可笑しくて笑い出してしまいそうだった。
なんとかこらえたつもりだったが、どうやら僕は本当に笑っていたらしい。
「何ニヤニヤしてんだよ?」
突然声をかけてきたのは、同じクラスの三浦。
「いや……別に」
口ごもる僕を、奴は笑った。
「思い出し笑いかよ? 気持ちわりぃな。まぁ俺もよくやるけどな」
「あ、そう」
「そうそう、この間なんかさぁ……───なんだぜ? 笑っちゃうだろ?」
なんだよこいつ。一人でペラペラとよく喋る奴だな。
そう思いながらも、身振り手振りを加えてあまりにも馬鹿みたいな話ばかりする三浦に、迂闊にも笑ってしまった。そして……
どこからどうそんな話になったのか。知らず知らずの内に、一緒に帰る約束をしてしまっていた。
放課後、二人で帰るものだとばかり思っていた僕は戸惑った。なぜなら、他のクラスの男子三人も合流してきたからだ。
「こいつら小学校の時からの友達なんだ。一緒でもいいだろ?」
「あぁ……うん」
僕の事より、みんなが嫌がるんじゃないだろうか。そんな心配もよそに、なんとも気さくにしゃべりかけてくれる仲間達。みんな楽しくて、友達っていいもんだなってほんの少しだけ、思った。
僕達五人は、毎日遊ぶようになった。この日も、いつもの公園で待ち合わせをしていたのだが───
「お待たせ!」
最後に来た三浦が、手に何やら持っている。
「ゲーム持ってきたんだ。順番にやろうぜ!」
それは最新型の携帯用ゲーム機だった。
僕達は時間も忘れてゲームに没頭した。夢中だった。楽しくて楽しくて仕方なかった。そして、僕も自分のゲームを手に入れたい、そう思った。
早速、晩御飯の時に切りだそうとした。が、お父さんに先を越された。
「実はな……うちの会社、危ないんだ」
お母さんが目を見開く。
「危ないって……潰れるの!?」
「いや、すぐにどうこうって訳じゃない。ただ──」
「まさか……お給料が?」
「ああ。今までの半分……とまではいわないが、かなりカットされるのは間違いないだろうな」
「そんな……これから色々と入り用なのに……」
そんな、って僕の方がそんなだよ。これじゃあゲームなんて買ってもらえる筈がない。我慢するしかないのか。我慢……
我慢なんて、する必要あるのかな。