犯罪への道~2~
放課後、担任に呼び出された。職員室に来るように、って。
いやだよ……あそこは嫌いなんだ。発表会の看板とか運動会で使う飾りとか、変な香りのするマットも置いてあって。あそこの物置の臭いは、嫌なんだ。
「実はな、お前が一人で教室に入って行くのを見たって奴が何人かいるんだが……何やってたんだ?」
「……別に」
僕は今、生徒指導室にいる。いつもここに呼び出されるのは、いわゆる不良と呼ばれる奴らだけで、僕のような『普通』の人間は入る事はないと今までは思ってた。職員室に行った僕に、
「誰にも聞かれない部屋に行こうか」
と連れてきた部屋。
似てる。あの時の部屋に……
吐き気がしてきた。エミ先生の顔が、頭にチラつく。
『なぁ中川。人はな、間違いを犯すものなんだ。大切なのはな、その後だ』
何を言ってるんだ?
『やってしまったものはもう取り返しはつかない。だけどそれを悔い改める事が、この先に繋がるんだ。わかるか?』
わからない。何が言いたいのか。ようするに───
「僕の事、疑ってるんですか?」
先生の顔が、憐れみを含んだ表情に変わる。と同時に、机の上にある電話が鳴った。恐らく内線だろう。外線とは違った、急かせるような短い着信音だった。
「はい。はい私です。……はい。見つかりましたか……はい、わかりました。どうも……」
ゆっくりと受話器を置くと、先生は深い溜め息をついた。しばらく俯いて目を閉じていたが、唐突にスゥっと息を吸い、首を上げて僕を見た先生は───
あの女と……
あの女達と……
同じ顔をしていた。
「今、副担任から連絡があった。君の鞄の中から、盗まれた物が全部出てきたそうだ」
足が、手が、震える。バレた事に怯えたんじゃない。僕の居ない間に、僕の鞄を勝手に、見たという事実に震えが止まらなかった。
僕の頭は、活動を停止した。何も考えられない。考えたくもない。周囲の喧騒も、どこか遠くで聞こえてくるような不思議な感覚の中、聞き慣れた声が僕を現実に引き戻した。
───あれ? お母さん? どうしてこんな所にいるんだ? いつの間に来たんだろう? そんなに泣いて。
「申し訳ございませんでした!」
そう言って、一生懸命頭を下げるお母さん。何を謝ってるのか知らないけど、そいつら皆、敵なんだよ? だって、僕の鞄の中を勝手に見たんだ。謝まられるならわかるけど、謝る必要なんてどこにもない。どこにもないんだ。
………
……………
…………………
最後まで口を貝のように固く結んでいた僕に根負けしたのか、『また明日話そう』と先生が言ったのは、19時を過ぎた時だった。
これ以上話す事なんてないのに。時間の無駄じゃないか。それとも明日、謝らせるつもりかな。また、強引に僕を脅して。
悪いとは思ってない。だって悪いのは先生達だし。でも、謝って済むのなら、いくらでも謝ってあげる。"ごめんなさい"って言葉は便利だね。それさえ言っておけば、もう終われるんでしょ? たとえそこに、心が入っていなくても……
でも、大変なのは家に帰ってからだった。仕事を切り上げて帰ってきたお父さんは、僕の顔を見るなり殴ってきたし、お母さんはずっと泣いたまま。
「お前は……お前って奴は……人様の金や物を盗むなんて───とんでもない事をしてくれたもんだ!」
唾を飛ばしながらまくし立てるお父さんは、ひとしきり怒鳴った後に、深い溜め息をついて目を瞑った。先程見た担任の仕草とあまりに類似していて、口角が少し上がってしまう。
長い沈黙と、お母さんのすすり泣く声だけが、リビングに虚しく響いていた。
「どうしてだ?」
唐突に質問されて、僕は戸惑う。
「…え? 何が?」
すっとぼけた答えにイラついたのか、お父さんは顔をしかめる。
「どうしてそんな事をしたのか聞いてるんだ。小遣いが足りないのか?」
「そういう訳じゃ…」
「じゃあどうしてなんだ!?」
テーブルをバシンと叩く音に、身体がキュッと縮こまった。
やめてくれ。大きな音も大きな声も、嫌いなんだ。体の中で何かが蠢くんだ。心がザワザワする。自分の意志とは関係なく、何かが大きく膨らんでいくのかわかる。
何かが、僕の中で育っていく。
いつの間にか僕はベッドに横になっていた。きちんと部屋着にも着替えている。
脳裏に浮かんだ記憶の断片には、風呂に入り、きちんと着替えてから部屋に入る自身の姿があった。
僕は、叱られたり罵声を浴びせられている時の記憶が、途中から薄れる。断片として残ってはいても、まるでその時の僕は僕じゃないかのように受け答えし、何処か異次元にいるような歪んだ空間の中で、現実逃避している。今日もそうだったようだ。
グゥーと鳴るお腹が、空腹を知らせた。風呂には入ったが、夕飯はとっていなかったみたいだ。お母さんも、それどころではなかったんだろう。
僕は空腹を満たす為、キッチンへと向かった。
リビングへと続く扉を開けようと掛けた手が、止まる。
僕の顔くらいの丸いガラス部分から、ダイニングテーブルを挟んで向かい合わせに座るお父さんとお母さんの姿が見えたから。
テーブルに両肘をつき、頭を抱えるお父さんと、涙も枯れ果てたといった様子で呆然と一点を見つめるお母さん。
入るタイミングを失った僕は、一旦部屋に戻るべく、そっと足音をたてずに後ろへ下がろうとした。が──
充、と言う声が聞こえて足を止める。しかし僕を呼んだのではないようだ。
扉にピタリと体をくっつけ、耳を澄ませてみる。するとお父さんが、聞いてるだけでもわかるくらいに疲労を滲ませた声で言った。
「とにかく、出来るだけ早い内に謝りに行こう。それをしない限りは相手の方々も──それから俺達もスッキリしないだろ?」
お父さんの言葉に、お母さんも相槌を打つ。
「そうね……でも……」
「何だ? 何か都合が悪いのか?」
「そうじゃなくて……やっぱり……責められるのかしら? 育て方が悪い……とかって」
「……そうかもしれないな。だけど仕方ないさ。確かに俺達にも問題があったのかもしれないし」
「そうなのね。一生懸命育ててきたつもり……だったのに…」
声を詰まらせ、再び流れ出した涙を拭うお母さん。
ごめんね。お父さんやお母さんを、悲しませるつもりはなかったんだ。結果的にそうなっちゃったけど。
僕がした事は、そんなに悲しませる事だったんだね。だったら……
悲しみから救ってあげる。
僕はわざと音をたてながら扉を開け、リビングへと入って行った。驚いた表情の二人が、僕を見る。
「お父さん……お母さん……」
「……何だ?」
「あのね……僕……もう二度としないから。本当にごめんなさい」
零れ落ちそうな涙を、力を込めて食い止めながら言った。
「……約束できるか?」
力強く頷く僕に、お父さんも同じように涙を溜めて頷いた。
「わかった。お前を信じるよ。信じるからもう二度と───いや、いい。もう……いい」
お父さんが僕から顔を背けたのは、流れる涙を隠す為だったのかもしれない。再びこっちを向いたお父さんの顔は、何かが吹っ切れたようにも見えた。
「腹減ったんじゃないのか? ──おい、何か作ってやれよ」
「そうね、そういえば何も食べてなかったわね! すぐ作るから待っててちょうだいね」
鼻声のお母さんは、不自然なくらいの優しい笑顔を向けて、御飯作りに取りかかった。
遅い晩御飯は、まだ多少のぎこちなさは残るものの、僕にとってはそんなに辛いものでもなかった。お父さんお母さんも笑ってたし。さっきの重苦しい空気が、嘘のようになくなった。
嘘のように……
僕の嘘も、役に立つもんだな。
でも、お父さんもお母さんも、大好きだから。
もう悲しませたくないから。
今度は上手く。絶対にバレないようにしよう。