生まれたての感情~4~
「頭を上げて下さいな」
膝をつき、目線を同じくして母親は言った。
それでも顔を上げれない二人の肩に、そっと手を掛ける。
そろそろと頭を上げる両親の、泣き濡れた痛々しい顔を凝視出来ずに、目を逸らした。
いくら人の良い松井親子でも、今度ばかりはさすがに呆れて優しくなんて出来ないだろう。
何も出来ずただ佇む僕の手が、ふと、柔らかい感触に包まれた。
「充君」
その手の主が、僕を呼んだ。
「充君、あなた、とっても幸せ者ね。おばさん羨ましいわ」
───僕が、幸せ者? 羨ましい?
皮肉だろうか、 僕を羨ましいだなんて。
「おばさんね、とてもじゃないけど、こんな事出来ないわ。ここまでして下さるなんて、愛されてる証拠ね」
僕は……
愛されていたのか。
今日はよく水分を失う日だ。こんなに出して大丈夫なのかな。
そう心配する程に、僕の身体から水分が失われていく。
「でもね、あなたを愛してくれる人達をこんなに悲しませてはいけないわ。それにあなたは男の子でしょ? お母さんを守ってあげなきゃ」
僕は反射的にお母さんの背中を見た。
こんなに小さかったかな?
背中を丸めて啜り泣くお母さんの後ろ姿は、記憶にある限りもっと大きかった気がする。
年をとったせいなのか。それとも、苦労ばかりかけたから?
子供の頃に遊んだ公園の遊具が、大人になってから見ると小さくなったように感じる、と聞いた事はある。その感覚なのかもしれない。
何かと強いイメージのあった親という存在が、自分の行動一つでこんなにも儚く脆い存在に変わるのか。
視線をずらした僕の目に、数えきれないくらい白いものが混ざったお父さんとお母さんの頭が見えた。
これも僕が増やしてしまったのか……
堪えきれなくなって、声をあげて僕は泣いた。
松井も見てるその前で膝をつき、初めて心の底から謝った。たった一言。
沢山の想いはあったけれど、それしか言葉に出来なかった。だけどその時の皆の反応や表情が、まだ未熟な僕に教えてくれた。
気持ちのない偽りの言葉を、どれだけ沢山並べたって意味なんてないんだって事。
薄っぺらな沢山の言葉よりも、自然に湧き上がる後悔から出る言葉の方が、ずっとずっと重いんだって事を。
それはたった一言でも伝わる、『ごめんなさい』
松井親子は、驚く程あっさりと僕を許してくれた。
「今度ウチに遊びにいらっしゃい。そうだ! 来週、勇馬の誕生日なのよ。ちょっとしたパーティーをしようと思ってるから充君もいらっしゃいよ」
「いいよ、そんなの! 子供じゃないんだし恥ずかしいからやめてよ」
「何言ってるの、子供のくせして。ね? 充君。いらっしゃいね」
誕生日会なんて初めて呼ばれた。
「でも……」
「でもじゃない! ほら、勇馬も誘いなさい!」
「うん……おいでよ。三浦も呼ぶからさ」
三浦か。って事は、全部バレるって事だよな。
自分のした事とはいえ、かなり気まずい。きっと軽蔑して絶交されるんだろう。
すると僕の心中を察したのか、松井はこう言った。
「三浦達には黙っておくからさ」
その言葉に喜んでしまう自分が嫌だった。
ありのままの自分を見てもらおうと決めたばかりだったのに。
松井の言葉は嬉しくて仕方なかったけれど、それじゃあ何にも変わらないんじゃないか。
甘えてしまいたい気持ちと、正反対の気持ちが交差し、頷く事も否定する事も出来ないでいると────
この親子は、読心術を身に付けているんじゃないだろうか。
「どうするかは充君自身が決めればいいわ。ただ、私達からは言わないでおくわね。三浦君だけじゃなく、誰にも」
こんなにも僕の欲しい答えをくれる。正しい道をつけてくれる。優しさがむしろ、叱責されているようで。
日陰の脇道じゃなく、日の当たる正道を歩きなさい、と諭してくれているように感じた。
僕はもう、逃げない。