最初の嘘 ~1~
一番最初に嘘をついたのは───
幼稚園のユリ組の時だ。そう、あれはお絵かきの時間だった。
「は~い、じゃあねぇ、今日は先週遠足で行った動物園の絵を描きましょう」
ウサギのエプロンをつけた丸い顔の先生。エミ先生、と皆から呼ばれ慕われてたっけ。
顔と同じまん丸な目で、いつもニコニコ笑ってた。
そんなエミ先生が大好きだった。
僕は色鉛筆をお道具箱から取り出して、猿の絵を描いた。格子状になった檻の隙間から手を出して、必死に餌をせがむ猿の姿が哀れで……
───哀れ?
たかが幼稚園児が、捕らわれている猿を見て哀れんだりするだろうか?もしかしたら、後から付け足した記憶なのかもしれない。
沢山いた猿の中に、一匹だけ少し毛色の違う猿がいたんだ。他の猿は茶色に塗った。でもその猿は、茶色とは違う、そう思った。改めて僕は12色の色鉛筆を眺めた。
───ない。
あの猿の色がない。そしてふと、24色の色鉛筆が目についた。持ち主は、健吾だった。
幼い社会にも上下関係はあるもの。大人のそれとは比べものにならないが、こいつには逆らってはダメ、といった暗黙のルールがあったように思う。それが健吾だった。
僕は健吾が嫌いだった。いつも威張ってて、すぐ暴力を振るう。関わり合いにならないよう過ごしていても、やはり時には火の粉が降りかかる。僕の左腕についている歯型も、健吾の仕業だ。
そんな相手の色鉛筆に、あの猿の色を見つけた。その時はわからなかったけど、それは"こげちゃ"色だった。
僕のには入っていなかった色。だけど、貸してとも言えず、ただただチラチラと眺めていたこげちゃの色鉛筆。 どうしても使いたい。ちょっとだけ……ちょっと使うだけだから。
健吾がよそ見をした瞬間、 咄嗟に手を伸ばし、こげちゃ色の色鉛筆をつかんだ。
「できたぁ♪」
思うままに表現できたそれを、早く見て欲しかった。
「先生!できたよ♪ 見て~!」
意気揚々と、画用紙をエミ先生の所へ持って行った。
「あら、上手ねぇ。 充くん、お猿さん好き?」
「う~……うん」
エミ先生は笑いながら頭を撫でてくれた。
「じゃあ色鉛筆、お片付けしておいてね」
『はーい』と返事をして席に戻った僕は、空いてる箇所に一本ずつ丁寧に色鉛筆をおさめていった。
「あれ、一本余った? ──あ! そうか……」
こげちゃ色なんて、僕は持ってない。これは、健吾のだ。
こっそり返しておこう───と色鉛筆を握りしめた瞬間……
「先生~! 俺の色鉛筆、一本足りない!!」
健吾は立ち上がって、大きな声でそう言った。
僕は咄嗟に色鉛筆をポケットにしまった。いや、しまってしまった。そして何食わぬ顔で、健吾の色鉛筆を、皆と一緒に捜したんだ。
一生懸命机の下やごみ箱の中を捜す"ふり"をしている内に、自分のポケットに入っている物の存在などすっかり忘れて、僕は本気で健吾の色鉛筆を捜していた。
泣きべそかいている健吾を遠目に見つめて、ちょっと同情したりもしてたな……
結局、健吾の色鉛筆は見つからなかった。当然だ。僕のポケットの中にあったんだから。そうこうしている内に、お帰りの時間になった。
汚れてもいいように、スモック姿でお絵かきをしていた僕等は、一斉に制服に着替える事に。そしてズボンを下ろした瞬間───
ポロリと色鉛筆が床に落ちた。
あ……早く隠さなきゃ!
慌てて拾ってポケットにしまおうとした僕の目と、先生の目が合った。驚いたような先生の目。まん丸く見開いた先生の目が、未だ忘れられない。
叱られる! 僕の心臓はバクバクとうるさいくらいに跳ね上がった。俯き、ギュッと目を閉じる。
……………………
あれ?いつまでたっても先生の声もしなければ、近付いて来る気配もない。
「お前、何やってんだよ?」
健吾の声で、顔を上げた。
先生は、机の上を拭いてまわってた。他の子が話し掛けても、いつも通り普通に会話してた。から……
ばれてない。そう思い込んでしまったんだ。
たぶん一生忘れない。
あの時の、まるで汚いものを見るような先生の瞳は────
「先生! 見て! 僕、折り紙で蝉作ったんだよ!」
いつもなら羽の所がクシャッってなっちゃうんだけど、今日は上手くできた。きっと先生は、『上手に出来たわね!』って誉めてくれる。
期待を胸に、出来上がった蝉を先生に見せに行った。でも…
紙に何やら書いていた先生は、一向に顔を上げようとしない。
聞こえなかったのかな……
僕はもう一度、声をかけた。さっきよりも、もっともっと大きな声で。
「先生! 見て!」
「…………」
「僕が作ったんだよ!」
「…………」
「上手にできたでしょ?」
「…………」
「……先生?」
覗き込んだ僕の目に、冷たい先生の視線と言葉が突き刺さる。
「……そう。忙しいから邪魔しないで」
聞いた事もないような、低い低い声。涙を溜めて立ち尽くす僕に、それでも冷たい視線を崩さず言う。
「邪魔よ。あっちへ行きなさい」
先生……どうして僕をそんな目で見るの? どうして冷たくするの? 僕がいけない子だから? 僕は泥棒だから? もうしないよ。色鉛筆も健吾に返す。もう絶対に絶対にしないから。いつもの優しい先生に戻って。お願い。
ごめんなさい……