第2話 【ファンタジー世界 〜其の一〜】
既に半年が過ぎた。正直焦っている。
何故なら未だに戻る方法が分からないからだ。いや、推測は出来ている。
この異世界にきた方法がトラック事故による"死"だとすればもう一度死ぬことで元の世界に戻れるかもしれないが、これは転生だ。
つまり、俺は死んでいるわけだ。だから仮に戻れたとしても「才川 明」として戻ることは出来ないはずだ。それに死ぬ以外の方法にしたい。死ぬ瞬間は覚えていないが、死ぬまでは本当に怖かった。
それに他にも問題はある。母さんだ。
俺は訳あって母さんと2人で暮らしていたんだが、俺が死んだことで母さんは独りになった。
一応婆ちゃんと爺ちゃんがいるにはいるが、仲は良いとはいえない。
俺があの高校に入ったのもいい仕事に就いて母さんを養うためだ。だが、俺は死んでしまい養うことは出来ず、戻る方法も見つからない。
そのせいで、なんともいえない心苦しさに胸を締め付けられる毎日だ。
その上、この半年の間に俺が出来たことはあまり多くない。
身体的に可能になったことと言えば、せいぜいハイハイが出来るようになっただけ。体の発達のお陰のようで、気付いたら出来るようになっていた。
俺には赤ん坊に関しての知識は皆無だ。この成長の度合いが標準かどうかなんて分からないが、このまま順調に発達してほしい。
そして、ハイハイという移動手段を得た俺は毎日毎日ハイハイで家の中を歩き回っている。
しかし、ハイハイというのは赤ん坊の俺にはキツイ。せいぜい続けられても2、3時間が限界だ。
そのせいもあって、ハイハイを習得してからのこの数週間で得られた情報は家の内装だけだ。
まず初めに、この家は中々に大きい。元の世界なら、ちょっとした金持ちの家に匹敵する。
30畳程の1階に加えて2階への階段がある。1階の上にそのまま2階か乗っかっているなら、相当大きな家だ。2階に続く階段は俺では登りきれないため見たことはないが、場合によっては3階があるかもしれないな。
他にも知識的なものでいうと言語を理解しだした。といっても、分かるようになったのは日常会話と家族の名前で、芳しい結果とは言えない。
最初に、俺の母親についてだ。彼女の名前はエルマ。こんなにでかい家な訳だし、忙しく家事をこなしている姿をよく見る。
次に父親だ。
あまり姿を見ない彼の名前はサルガだ。
相変わらず、毎日毎日朝早くに出掛けては日暮れ時に帰ってきている。
こんなに大きな家を設けられる程の稼ぎの仕事…
危ないものじゃないといいな。
そして1番気になっていた、青髪の少女。彼女の名前はアトミー。
俺の両親もそうだが、彼女の名前もやはりキラキラネームだ。多分こっちの世界ではこれが普通なんだろうな。そのうち闇の覇者とかいう二つ名の奴が出てきそうだ。
しかし、何故だろう。あの少女、アトミーだけは可愛らしく感じる。
贔屓目で見ているんだろうか。
ちなみに、この世界にも姓というものが存在する。
俺の一家の姓はガルミアだ。
俺ならばアルム・ガルミアとなる訳だが、サルガは「ガ」が連続して言いづらくないのだろうか。
=====
俺はその日も家の中を這いずり回っていた。
今日はリビングの方に行ってみよう。今更だが俺は家の外を見たことがない。リビングなら窓があるだろうしな。
初めて自分の姿を見た半年前は、窓の外よりも窓に映る自分に集中してしまったせいで外の景色を見損ねてしまったのだ。全く勿体無いことをしてしまったな。
ということで俺は家のリビングに来ている。
リビングには基本的な家具があり、壁には一辺50センチ程の正方形に近い窓が5枚規則的に取り付けられている。そして、そこから外の光が差し込んでいて部屋の中は暖かみのある優しい雰囲気で満たされる。
その窓の1つに長方形の机がぴったりとくっついて設置してある。
あの机に登れれば窓から外が見れそうだな…
さて、どうしたものか。
俺は未だにハイハイしか出来ない。どうやっても直接机に登れない訳だ。しかし、あの椅子はどうだろうか。台か何かを運んでくれば、台、椅子、机の順でどうにか登れなくもなさそうである。
キョロキョロと台候補を探していると視界の端に大体一辺30センチ程の立方体の木箱が映った。
…確かあれは、何日か前にサルガが持ってきたやつだな。中身は珍しい卵が入ってたんだったか。
ガチョウの卵程の大きさに青地に黒い点々という実に禍々しい卵を興奮気味で俺に見せにきていたのを覚えている。
俺はまだ赤ん坊だというのに執拗に自慢してきて、正直うざかった。一体アレの何が面白かったんだろうか。
俺としてはむしろ卵の柄と大きさを考えると怖いんだがな。名前といい卵といい異世界の常識は分からん。
よし、とりあえず台は見つかったな。後はこれを椅子の下まで運んでいくだけだ。
俺はハイハイでその木箱を椅子の下まで押していくと予定通りに机へとよじ登った。
そして、念願の窓へと近づき、外を眺める。
窓の外には、大体1キロ程奥まで麦畑が広がっていた。いや、麦かどうかはわからないがとにかく麦っぽい植物だ。まだ黄金色というわけではなく緑色ではあったが、長閑な風景には変わりない。
麦畑の中からポツリポツリと建物のようなものも見え、何人か畑で作業している姿もある。
「あうぅ」
おっと、声が出てしまった。「おぉ」といったつもりだったんだがな。言葉が話せないと変な声が出る。やはり赤ん坊の体というのは不便だな。
それにしても、ここは村ってことでいいのか?人もポツポツ見えるし、でも家はこの家より小さいな。だとすると、他の家とこの家を比べるとサルガは地主的な地位なんだろうな。
危ない仕事じゃなくて良かった。
……え、え?なんだあの生き物?気持ち悪っ!!
麦畑の一部まだ麦の生えていない、土がむき出しの場所で馬が動いている。否、馬ではない。
ぱっと見は馬のようだが、あれは確実に馬ではないのだ。
何故なら足が6本生えているからだ。
胴体は馬なんだが、通常の位置から普通に4本、そして片方の横腹から1本ずつ他の位置の様に計2本の足が生えている。
そいつは6本の足をパカパカと器用に動かして土をほぐしているようだ。
あの馬っぽいやつは脊椎あるよな…
馬ってのは哺乳類だ。哺乳類は脊椎動物の中の一種だから脊椎、つまり背骨がある。そして、哺乳類は脊椎動物であると同時に四足動物でもある。四足動物とは名前の通り、足が4本あるわけだが…
あいつは6本生えている。うーん、6本足ということは昆虫か?だとしたら尚更気持ち悪い。
それに昆虫ならば体が外骨格で覆われているはずなんだが……
俺はしばらく窓の外、というよりそのよく分からない生き物を観察した。ある程度満足したところで机から降りようと、椅子に足を伸ばす。
はぁ、結局アレが何なのかは分からず仕舞いだったな。
まぁ、それもそうか。ここは異世界なんだし、俺のいた世界の常識なんて通用しないのかもしれない。
そんなことを考えていたせいで、俺は降りる途中でバランスを崩した。まだ立つこともままならない体でバランスを崩したため、頭から床に落っこちている。
時間が異常な程遅く流れ、咄嗟に掴んだ机の上のコップも一緒にゆっくり落ちている。
流れの遅い時の中で一瞬だけコップが空中で静止したようにも見えた。しかし、俺はゆっくりとではあるが確実に落ちている。
その不思議な感覚の中、俺は絶望のどん底にいた。
あぁ、やっちまったなぁ…なんであのコップ止まったんだろうか。いや、どうでもいいや。はは、いつもなら気になるところなのに今は全く気にならないな。
俺はこのまま死ぬのか?折角転生したのにな。いや、死んだらまた転生するかもしれないのか。
あぁあ、この世界に未練なんてないが怖いもんだな、死ぬ時ってのは。死ぬんだったら前みたいに痛いんじゃなくて即死でお願いしたいな。はぁ、死ぬのに何を考えているんだか、俺は。
床が迫り頭に衝撃が加わった瞬間、泥のような時間が元のスピードで流れだした。
視界がぐるぐると回り、頭の中から頭蓋骨を直接叩かれているような痛みが走る。死んでいないのだ。
しかし、だんだんと意識遠のいていくのが分かる。
ふと、女の人の声が聞こえた。
「アルム‼︎どうしたの⁉︎まさか、机に登ったんじゃ…え、頭が少し凹んでる…ど、どうしたら…」
エルマか。焦ってるなぁ。
というか俺の…頭…凹んでる…のか。グロテスク…だな。あぁ、意識が薄れて…
「あ、そ、そうだ。治癒を掛ければ…
万物を癒す光の神よ、この者にその恩恵を与え給え。『ヒーリング』‼︎」
途切れかけた意識の中、俺は確かに聞いた。
呪文のようなものを唱えるエルマの声を。
そしてその直後、俺の意識は再稼働を始め思考が回りだした。
あぁ、おぇぇ、気持ち悪いし頭がガンガンする。あ、ちゃんと考えられるようになったな。
いや、それよりもさっきのは一体何だったんだ?呪文みたいだったが。
「ダメだ、まだ凹んでる…
そうだ、アトミーちゃんなら治せるかもしれない!」
「エルマさん、どうかされたんですか?あ、アルムくんの頭、凹んでる…?
エルマさん、治癒を掛けます。離れていてください」
エルマとは違う、幼さのある声が聞こえる。アトミーだ。
というか、人の頭をあまり凹んでるとか言わないで欲しい。気持ち悪い想像をしてしまう。
「万物を癒す光の神、スーリヤよ、この者に祝福と恩恵を与え給え。願わくば、その陽炎たる力でこの者を癒し給え。『ゴアヒーリング』」
また意味不明の呪文をアトミーが唱えると、後頭部が引っ張られるような感覚とともに頭の内側で響くような痛みが消えた。
え、痛みが消えた?それに今頭が引っ張られてた気がする。まさか今、俺の後頭部を引っ張って凹みを…
いや、考えるのはよそう。世の中には知らなくていいことがあるのだ。
そんなことより、さっきから聞こえる呪文みたいなものは何なんだ?まさか名前だけじゃなくて中身まで痛い人…?
「エルマさん、大丈夫ですか?治癒魔法は魔力消費が激しいので枯渇してしまう恐れがあります。
私も魔法使いですから魔力の移譲は出来ますが、枯渇からの復活には時間がかかりますよ」
「うん、大丈夫よ。私だって昔は魔法使いだったんだから、これくらいなら平気。魔法の腕ならアトミーちゃんには負けるけどね」
「いえいえ、エルマさんはお強いですよ。もし魔力が枯渇したなら言ってくださいね。昔のご恩もありますし、喜んで魔力を移譲します」
「お強いだなんて、お世辞なら大丈夫よ。そうね、私が枯渇した時はお願いしようかしら。でも無理はしちゃダメよ?」
「はい」
何だ、この会話?意味がわからないし、俺だけ置いていかれてる。魔法とか魔力って言ってたけど、さっきもなんか変なこと言った後に痛みが消えて、つまり…
俺はこの日、魔法という存在を知った。