私が受けた道徳の授業
私事で唐突で大変恐縮であるが、私が中学三年生の時に担任の先生から受けた道徳の授業を紹介しようと思う。しかしながら、印象に残っているが、細部に関してはあやふやな点もあるため、勝手に補足している点をお詫びしたい。
その1
ある工場で、健常者と障害者の双方が働いていた。しかし、工場の経営が苦しくなり、リストラをしなくてはならなくなった。さて、健常者と障害者のどちらをリストラするか。
その2
あなたの家族が、余命幾ばくもない。しかし、現時点では、本人はそのことを知らない。さて、告知をするべきかしないべきか。
授業では以上のようなことを問いかけてきた。
いずれの問題も、健常者側をリストラするか、障害者をリストラするか、はたまた選びきれないので気持ちとして中間にするか。黒板に簡単な表を書いて、自分の考えにあう箇所に自分のネームプレート(筆者の学校では、生徒の名前を書いた黒板用のネームプレートがあった)を張る。簡単に図にすると以下のような雰囲気である。A、B、Cは生徒の名前だ。
健常者 障害者
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A・・・・・・・・・・・・・・・B・・・・・・・・・・・・・・・・・C
この図の場合、Aは健常者をリストラしても良いという考えで、Bはどちらとも言えない立場で、Cは障害者をリストラしても良いという考えになる。
授業の流れでは、まず設問を問いかけて、最初の気持ち、スタンスを決める。その後、グループで議論し、さらに各グループの意見を発表する。そして、議論を聞いた後に、再び自分の考え、気持ちが変わっていれば、ネームプレートを貼り直しても良いという流れだ。
既に、お気づきの方もいるかもしれないが、この設問に、答えはない。
何年か前に流行った、トロッコ問題にも通じるものがあるだろう。
トロッコ問題とは、トロッコの進む先に分機器があり、一人いる場所と五人いる場所があり、トロッコが進めばどちらかが犠牲になる。貴方は分機器の近くにいて、その事にも気がついている。さて、貴方は分機器をどちらに進むようにするか。
この問題に、似ているだろう。
しかし、問題に正解はなく、問題の意図としては問題提起と議論自体にあるだろう。一概に正解は無い。あるとすれば、例えばこういう状況であったなら、自分ならこうするという自分なりの解答があり、その解答に対して、意見をもらったり、逆に意見したり、また、人の意見を聞いたりしたり。議論そのものが目的の授業であった。
例えば、その1の場合であれば、より再就職しやすい人間をリストラしたほうが良いのではないかという意見もあった。また、養う家族がいる方を残すべきと言う意見もあった。しかし、そういった細部の条件は設問として設定されておらず、あくまでも生徒が条件を考えて議論している。
当時の担任の言ったことは、道徳の教科書のような立派な事は言えないが、考えてもらいたいといった趣旨であった。しかし、今になって思えば、道徳とはただ教えるだけでなく、考えることだという思いがあったのではないかと思う。そして、筆者も、その通りではないかと思う。
ちなみに、その2の場合、どのような意見が出たかと言うと、自分が余命が短い立場なら、教えてもらいたいから、告知するという意見があった。逆に、本人の幸せのために、告知しないという意見もあった。
結局、これも、本当の正解は無い。幸せが、誰にとってどういう形かは、結局人それぞれである。しかし、考えるとき、確実に、人がどうあれば幸せになるかを考える機会を与えている。
世の中のモラルについて、叫ばれているが、筆者は、若者だけの問題とは考えない。老若男女全てに何かしらのモラルの問題はあると考えている(やや大げさかもしれないが)。
モラルに通じる道徳は、果たしてただ、教わるだけで良いのかというと、それは違うと思う。
これまで述べたように、道徳とは教わるだけでなく、考える物ではないかと思う。
立場、条件、他人について考えることが、道徳ではないかと思う。
私が、伝えたかったのはそれだけである。
今一度、道徳とは何かを考えるきっかけになれば、幸いである。
最後に、筆者の拙い文章を読んでいただき、ありがとうございます。