私と、青
セイジさんは、母の弟が以前勤めていた会社の後輩で、セイジさんの方が先に退職して今の洋菓子屋を始めたらしい。
その頃に、元奥さんと意見が食い違い、すれ違ってしまった、と、だいぶ前に母が言ってた。
セイジさんはお菓子作りに何よりも情熱を注いでいるけれど、誰よりも優しい事を、私は知っていた。
セイジさんが事故に遭い、意識不明の重体。
私は化粧も髪を整えもしないで、制服に着替えて家を飛び出した。搬送先の病院は自転車で5分くらいの所にある。
受付で場所を聞かずとも、向かう先は分かっていた。
かつて父がそこに居たから……。
しかしそんな重体患者の元へ簡単に入れる訳ではなく、恐らくこの辺りであろう、と辺りを見回していると、足早に看護師さんがいくつか器具やファイルを抱えて横を通り過ぎて行く時に、カルテのような物を一冊落としてしまった。
誰かの名前が書いてある。
『美原 青治』
知らなかった訳ではない。
お店で使う化粧箱を注文する時、この名前を入力した。
ハートマークを青にしたのも、本人には言わなかったけど、名前が由来だ。
私が、セイジさんを灰色にしてしまった。
どれだけこうしていただろう。
フロアの隅にあるベンチに座り、泡になって消えて行くような感覚だった。
どうして、私の手からはいつも、大事なものがすり抜けて行ってしまうんだろう。
消しゴムや髪留め、空だってもうこのままでいい。だから……。
消しゴムが始めにおかしいと感じて、その後にカナメの髪留め。
その前は……?その前は何もなかったし、それが始まりだ。
あの時、美術室へ急いでいて……。
棚の上から、絵の具を取り出した時、何か……。
何かが落ちてきて、ぶつかった。その何かは見つからなかったけど。
私は確信した。あの時落ちてきた物が原因だ。探そう。絶対どこかにあるはずだ!
学校に向かって走り出す。
時間はもう正午を過ぎている。学校に到着するともう昼休みで、美術室には誰も居ない。
準備室に足を踏み入れた瞬間、絵の具セットを置いている棚の前、私がちょうど倒れた辺りに、深い青色をした丸い物があった。
夏の太陽の光を浴びて、キラキラと輝いている。
まるで、世の中の青い色を凝縮したような、深い、深い青。
昨夜見た、海に沈んで行く夢の風景と全く同じ色だ。
あの日、この塊とぶつかってから、何度かここには足を踏み入れているし、私以外の人だってたくさん来る場所だ。
なぜ今まで、隠れていたのか。
なぜ今、出てきたのか。
なぜ、こんな事になったのか。
一つ一つ問いただすように近づき、そっと手を伸ばして持ち上げる。
それはガラスのようで、冷やりとしていて固い。
光を通した色はとても美しく、少し見惚れた瞬間、パリン、と静かな音を立てて砕け散った。
破片はキラキラと光を反射しながら舞い上がり、そしてゆっくりと消えていく。
私の胸に、一つの強い想いを残して。
教室に向かう途中、廊下の向こう側からカナメが走ってきた。
「シロタ!どうしたの?!なんかまた調子でも悪かったの?!」
カナメの髪留めに付いているビーズが青い。
「な、何が?良かったって……?」
視線を窓の外に移すと、快晴の青空が広がっている。
燦々と降り注ぐ太陽と、遠くに大きな入道雲。
夏の空が、帰ってきた。
放課後、再び病院に戻った。
朝、私が座っていた辺りで、ある看護師さんが声をかけてきた。
「あなた、朝もいましたよね?どなたかお探しですか?」
セイジさんの名前を伝えた。
「あぁ、その方なら、一時はどうなるかと思いましたが、お昼頃に意識が戻って、容態も安定したので一般病棟へ移動しましたよ。」
看護師さんは病室の番号を確認してくれた。教えてもらった部屋のドアを軽くノックする。
「はぁい」
中から、情けない声がする。そっとドアを開ける。
「はぁーい……あっ!トヨ!来てくれたのか!」
点滴に繋がれ、頭に包帯を巻いたセイジさんが、ベッドから顔を上げていた。
「ごめんなぁ、僕、悪い事しちゃったなぁ……」
悪い事をしたのは私の方だ。私がセイジさんの色を変えてしまったのだ。
ベッドの横で泣き崩れる私に、セイジさんは話を続ける。
「あの時、トヨが怒って出て行ったから、すぐ慌てて追いかけたんだ。そしたら、商店街を抜けた大通りの交差点も、よく周りを見ずに飛び出したみたいで……。」
苦笑いをしながら、ゆっくりとセイジさんは話す。
「前の奥さんにだってそうさ、僕はいつも気付かないうちに酷い事言って怒らせてしまうんだ。またトヨにも、同じ事しちゃったね……ごめん。」
私は首を横に振り、セイジさんをしっかりと見る。
「セイジさん、あのっ、私–––」
おしまい
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。