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ただ僕のことを。

作者: れんじょう

「どうして……どうして、こんなことに」


 籐伊(とうい)はベッドの上で静かに横たわる咲耶を揺さぶりなじりたい衝動を抑えることに必死だった。





 人と人が知り合うことなんてとても単純だ。きっかけさえあればいい。

 籐伊と咲耶の場合は、高校の入学式の直後だった。

 案内された教室で座った席が隣り合ったのだ。だがそのときはまだ顔を会せた程度で文字通り知り合った程度でしかなかった。普段であれば異性に対して口下手になる咲耶が籐伊と話せるようになったのにはわけがある。担任の思惑がどう反映させたのか全く理解できないが、咲耶の席の周りに女子が全くいなかったからだ。恥ずかしくても隣に座る籐伊に話しかけるしかなかった。

 結果、籐伊は咲耶にとって救世主となった。

 消しゴムを忘れても「貸して」といえずにいた咲耶に気が付き、すっと目の前に差し出すやさしさがあり、男子たちが花を咲かせる話を咲耶に振ることもない。野外学習のときの班決めのときもさっさと自分の名前の下に咲耶の名前を書いて仲間はずれにならないようにしてくれたし、気後れする咲耶を奮い立たせて積極性をださせるようにした。周りの男の子たちはやんややんやと囃し立てるが「そんな仲じゃない」と一笑しつつ咲耶に優しい目を向けているものだから周りは何もいえなくなり、いつの間にか本人たちの考えとは別に公認の仲となった。 咲耶にしてみれば申し訳ない気持ちでいっぱいになったが。

 そう、籐伊はもてた。それもドラマ主人公のように。

 絵に描いたようにまっすぐな鼻梁に、薄情と言われる薄い上唇を補ってあまりあるぽってりとした色気漂う下唇。大きめの目に透明感のある鳶色の瞳はいつも柔らかく輝いている。染めたことなどない真黒い髪とすっと伸びた背筋は高い身長を堂々とより高く見せている。その上、咲耶(じょし)に向かう優しさが知れ渡ればもてないわけなどなかった。

咲耶は平々凡々な自分を知っている。籐伊の横に並べば不愉快な違和感しか感じないこともわかっている。だからこそ申し分けない気持ちにもなるが、けれど籐伊以外の誰とも親しい友人ができないでいる現状に周りがどうとらえているのかわかっていつつも籐伊のそばを離れるという選択もできないでいた。

 でもいつかは。いつか籐伊君に好きな人ができたなら。そのときまでは―――――。

 ずるいとわかっていても、籐伊の横にいておきたかった。

 打算でもなんでもない、いつの間にか持ってしまった好意があ

ったからこそつかの間でもいい横に並んでいたかった。けれどそれは幻のようなものだということも理解している。

 儚い夢をずっと見ていたかった。



 怖れていたことが起こったのは、学年も変わった夏前のことだった。

 二年になっても同じクラスだった籐伊と咲耶は相変わらず不可思議な付き合いをしていた。

 はたから見れば十分に恋人通しの二人なのに、当の本人たちは否定する。

 一年生の頃はクラス公認だった二人だったが、ここに来てその否定が悪い方向に働きだした。

 咲耶の立ち位置を欲しがる女子たちが動き始めたのだ。

 もちろん彼女たちは籐伊の唯一特別な存在という立場を欲したのであって、単なる仲の良い友人というものではない。

 咲耶にしてみれば、籐伊とは仲が良い友人そのものであって、キスも、手すら握ったことなどない。彼女では決してないのだが、誰もそれを信用しようとしなかった。

 否定しつづける、恋人たち。

 ――――じゃあ、私がその位置に立ってもいいじゃない。

 邪まな考えに取りつかれる女子は後を絶たなかった。


 籐伊がいないことを見計らってやってくる女子に囲まれるようになるのには時間がかからなかった。

「ねえ、自分って人間、わかってる?」

「籐伊くんと並んで恥ずかしいとは思わないの?家に鏡がないから自分が醜いって理解できないの?」

「きっと迷惑してるよ。ぐず子の相手なんてさせられて」

「必死なんだ?籐伊くんのやさしさに付け込まないと、きっと彼氏なんて一生できないもんね」

 女子トイレ、更衣室、調理室。

 休み時間は休息の時間とはならなくなった。

 籐伊といるときだけが息をつくことができる時間だったが、聡い籐伊のことだ、悟られるかもしれないと今度は気が張るようになった。

「咲耶、疲れてる?」

「え、……そうかも。ちょっと数学で解けない問題があって」

「どこ?一緒に解いてみる?」

「ううん。ここまで頑張ったから一人で解いてみたいの。達成感を味わえそうだし」

「そか。わかった。でもちゃんと睡眠はとらないとね」

 嘘をつくのが辛かった。

 けれども彼女たちの言葉に真実が含まれていることを知っている咲耶は籐伊に話すことなどできるはずなどない。高校に入学してから籐伊以外の友人を作ることができなかった咲耶に差し伸べられる手はなく、苦しさは胸の内に秘めておくしかなかった。


 日がたつにつれ、彼女たちの行動はエスカレートしていく。

 どこで咲耶のアドレスを知ったのか、不愉快なメールが日に何十通も届く。女子の横を通るだけでクスクスと意味ありげに嗤われるようもなったし、目が合うとあからさまにを背けられるようにもなった。駅での待ち伏せされ、路地に引き込まれ罵倒されつづけたこともある。

 体を直接傷つけられることはなかったが、心は疲弊しきっていた。そのくせ、夜に寝ようと思っても寝付くことが難しい。

「なあ、無理してないか?」

「……え?何か言った?」

 あまり眠れなくなったせいか、日中の意識が散漫となった。

 誤魔化すために微笑むことを覚えた。

 すると聞こえてくるのはため息だ。

「……もうちょっと、僕を頼ってくれてもいいんじゃない?」

 悔しそうにつぶやく籐伊に咲耶は首を傾げる。十分頼っているつもりだからだ。籐伊がいてくれるおかげで学校で一人にならなくてすむのだから。

「感謝、してるよ?」

「そうじゃなくて」

 不意に上がった手に、咲耶は一歩下がってやり過ごす。もし誰かに見られたら、今以上に何をされるかわからない。自己防衛に心が動いた結果だ。

 籐伊の手は空を掴んでだらんと下がった。

 あわてたのは咲耶だった。悲しそうな顔をさせるつもりなどなかったからだ。

「日誌を職員室に届けなきゃ」

 咲耶は黒板の上の時計を確かめるふりをして、逃げるように足早にその場を去った。


 そのまま下校するつもりなのだろう、咲耶の机の上にはすでに鞄がない。

 その机の天板を籐伊はつうと指先でなぞる。ぼこぼことした表面に何が書かれていたのか推測することなど簡単だ。

 女のすることはえげつない。

 籐伊は眉をひそめたが、その口元には薄い頬笑みを浮かべていた。 

「……やりすぎたか」

 つぶやきは誰もいない教室に吸い込まれていった。



 担任からの呼び出しを受けたのは、それからしばらくしてからだった。

 日に日に悪くなっていく顔色に何かあるのではないかと心配しての呼び出しだったが、担任が何をいってもどう諭しても咲耶は首を横に振るばかりで話は何一つ進まない。どれほど時間を使って説こうが何もしゃべるつもりのない咲耶にとうとう担任は折れ、勉強をおろそかにしないこと、睡眠時間を十分にとること、そして何かあれば恥ずかしがらずに相談をすることなど、ありきたりの注意を受けて職員室を後にした。

「あんたのせいで!」

 どんっと肩に何かが当たった。

 思わずよろけて壁に寄りかかると、今度は背中まで伸ばした髪をぐいと強く引っ張られた。

「あんたのせいで、私はいい笑いものじゃないの」

 怒りに満ちた声の主は、火傷しそうなほど強い瞳で咲耶を睨みつける。

 どこかで見たことのある子。

 いきなりぶつけられた怒りに、咲耶は何が起こったのかもわからない。けれど目の前の女子は籐伊を熱のある瞳で追っていた、そして咲耶を邪魔な存在だと集団で言ってきたうちの一人だったはずと妙に冷静に観察していた。

 その子が涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら射殺さんばかりに咲耶を見つめ、詰め寄ってきた。

「あんたの、あんたが……っ!」

 何を言いたいのだろう。

 強い憎しみを向けられて咲耶の意識は混乱し、鼓動が激しくなる。

 怖い。

 初めて咲耶は彼女に恐怖した。

 今までの彼女たちは咲耶を蔑みこそすれ憎しみを持ち合わせてはいなかったのだと、咲耶は息苦しさでぼんやりとしだした意識の中で考えた。

「籐伊君がっ……、籐伊君が言ったの!私たちはかませ犬だよって。かませ犬だよ、信じられる?」

「かませ犬……?」

 咲耶の小さな声にいきり立った彼女は瞳をぎらぎらとぎらつかせて叫んだ。

「そうよ、かませ犬!……ははっ、笑っちゃうわよね。私があんたにしてきたことぜーんぶ知ってるっていうのよ。全部、全部よ?だから絶対わたしを好きになんて絶対ならない。けど、わたしはあんたのよいところをさらによく見せるためのスパイスだっていうのよ。あんたを引き立てるための悪役だっていうの。悪役だって、わたしが、あんたなんかを、引き立てるための?……馬鹿にして。百年の恋も一瞬で冷めるっていうの、こういうことね。あんなに好きだった籐伊君なのに。籐伊君がそこにいるだけで幸せだったのに、しあわせ、だったのに。スパイスだとか、かませ犬だとか、……ありえない。わたしをどれだけ馬鹿にすればいいの?そんなにあんたのことが好きなら……好き?なあんの取り柄もなさそうな、あんたのことが?ははっ、それこそないわ。あんたなんて、あり得ない。あんたが、あんたさえ、いなければ。……こんなに悔しい思いなんて、しなくて済んだのに!」

 怖い。

 怖い、怖い、怖い。

 咲耶は半狂乱に陥った彼女が怖かった。

 綺麗に整えられた眉、薄くグロスを塗った唇。ヘイゼルにカラーを入れた巻き髪は動きに合わせて揺れている。おしりが見えそうなほど短いスカートとボタンをわざとかけずに着崩しているシャツはお洒落な女子の定番だ。それを彼女は十分に着こなしている。喚いてさえいなければ、どこにでもいるおしゃれを気にする可愛らしい女の子だったはず。頬に涙を流しながら目を血走らせ、髪を振り乱している姿は決して本人の意図であるはずがない。

 ぐい、と髪が引張られ、昨夜は首をかくんとあげた。

 急に焦点があったのは、一番会いたくない人物が見上げた先にいたからだ。

「―――――とう、い、くん」

 そこには二階の廊下から咲耶のいる階段の踊り場をじっと見ている籐伊がいた。

 ひ。

 喉の奥で悲鳴を押し殺した声が聞こえた。

 がたがたと体が震えたのは咲耶のせいじゃない。さっきまで怒り狂っていた目の前の彼女がずり下がり、震えながら咲耶の体にぶつかったからだ。

 逃げなくちゃ。

 どうしてそう思ったのかは分からない。

 いや、本当はわかっていた。

 普通の女の子である彼女をここまで追い込むことができる、人を簡単に駒にできる籐伊を恐ろしいと感じたからだ。

 咲耶はどこにそんな力があったのかと思うくらい強い力で恐怖におののく彼女の体を押しのけた。足を向けたのはもちろん、籐伊がいない一階だ。

 あわてた籐伊の制止など、聞く耳をもたなかった。



 がくん。

 ―――――――どごっ がんっ ががが、がこんっ どさっ




 駈け出した足は恐怖にもつれて、階段を踏み外す。

 ひねった体はありえない方向に転がり落ちて、不気味な音と埃をまき散らしながら、止まった。

 じんわりと温い何かが頬を濡らす。

 痛い。

 体中が悲鳴を上げた。

 腕が、足が。そして何より頭が割れるようだった。

 けれどそれも一瞬、痛みは何事もないように消え去った。ぼんやりと見える視界には、階段を駆け下りてくる籐伊が見える。

 必死になって何かを言っているような気がする。けれどその声は咲耶には届かない。

 もうなにもかも、どうでもいい。

 咲耶は意識を手放した。






 ここは、どこだろう。

 気が付くと咲耶は不思議な空間に佇んでいた。

 抜けるような青空とそれを映し出す鏡の様な水面の上で、一人ぽつんと立っていた。

 あたりを見回しても、何もない。あるのは青空の下の方で風に流れる厚い雲と水面を走る赤い糸。

 赤い糸?

 ふいに子供の頃のお伽噺を思い出した。

 小指に結ばれた赤い糸の先には運命の人が待っている。

 咲耶は笑った。

 人が苦手の私にいるわけがない、と。

 けれどもついつい糸の先を探すのは、心の奥底で誰かと繋がっていたいと願うからだろう。

 咲耶は赤い糸の先をゆっくりと目で追いかけた。

 ずっとずっと、永遠に続くのではないかと思い始めたころ、垂れていた糸は上へと持ちあがり、一人の男の人の指先に結ばれているのを知った。

 その人は足元の水面のような静かさで、咲耶をじっと見ていた。

 黒い学生服は咲耶が通う学校のものだ。

 どこかであったことがあるのかもしれない。

 見続けられる気恥ずかしさに咲耶が顔を背けると、その人はゆっくりと手を持ち上げて咲耶に手招きをした。

 するとどうしたことか、赤かった糸が結ばれた小指のところからゆっくりと色が抜けていくのだ。彼が手を振るたびに赤いはずの糸はだんだんと薄くなり、蝶々結びのさきから白へと変化していく。

 次第にこわくなったのは、静かだった彼の瞳が白くなる糸とは正反対に燃えるような狂気で赤く見えるようになったからかもしれない。

 手招く頻度が上がる。

 糸の色落ちは速度を増して、彼のすぐ近くまで白くなる。

 そして狂気の赤は彼の瞳で炎となって強く燃え上がり、指先に結わえた赤い糸の色が無くなったと同時に炎は糸へと燃え移る。

 導火線のように燃えゆく炎は凪いだ水面に引火して、一気に広がった。

 燃え盛る炎は勢いを増して咲耶を追い詰める。

 しゅるしゅると指に繋がれた白い糸は幅を増して布となって咲耶を逃がすまいと巻き付いた。

 怖い。

 咲耶は自分の運命を直視できなかった。

 ぎゅっと堅く瞑った目を開けたのは、目の前に人の気配を感じたからだ。

 糸の先の、男の、

 顔が咲耶の前にあった。

 知らない人のはずなのにどこかで見たことのあるような、それともとても親しい人のような顔が、にたりと嗤って咲耶を慄かす。

 ニガサナイ

 ごう、と炎が泣き叫び、―――――咲耶は目が覚めた。



 飛び込んできたのは真っ白い天井。

 消毒液の匂いと規則的な機械音。

 ―――――病院?

 咲耶は苦しいほど打ち付ける心臓を落ち着かせようと右手を胸にあてようとしたら、痛みで顔をしかめることとなった。

 手に、胸に、頭に白い布がこれでもかと巻かれていた。

「……ひ、」

 炎が目の前に迫る。

 旧知な誰かが咲耶を絡めとろうと不敵に嗤う。

「咲耶……?咲耶、目が覚めた?」

 がたんと椅子の引く音が、どこか遠くで聞こえた気がした。

 声に気遣いを載せて、ベッドの枠に手を載せたその人は、


 ニガサナイ


「あ、…………あ、あ、あぃ、い、いや、いやあぁぁぁぁあぁぁっっ!!!」


 籐伊だった。




「咲耶?……咲耶っ!?どうした、咲耶っ!」

 ナースコールを押しながら咲耶をなだめようとする籐伊に、咲耶は激しく拒絶する。

「いや、いや、いや!触らないで!!」

 怖い、怖い、怖い。

 咲耶は包帯で覆われた手を突き出して振り回す。

 籐伊は敵だ。

 咲耶を殺そうとする、敵だった。

 半狂乱の咲耶を落ち着かせたのは看護師たちだった。

 病室から籐伊を出て行かせながら暴れる咲耶に声をかけ怪我に触らないように取り押さえて薬を与える。暴れる人間を意識の底に沈めることは有効だった。咲耶は薬の力と籐伊がいなくなったことで安堵が全身を満たし、微笑みながら眠りに落ちた。

 籐伊が病室に出入り禁止になったことは、咲耶は知ることがなかった。


 なんだか、すごく、疲れてる。

 咲耶は自分の状況が不思議でならなかった。

 昨日は本当に酷かった。

 好きだった籐伊の本当の顔を知ってしまったからだ。

 詰め寄る彼女の苦しそうな顔が今も頭を離れない。それにそれを嗤うように見ていた籐伊の姿も。

 夢見も酷く、内容はうろ覚えだったが何かに追い詰められていたようだった。起き抜けの動機の激しさは尋常じゃなかった。

 階段から落ちたときに酷く打ち付けたようで、体のあちこちに打ち身があり、骨折もしている。

 満身創痍というのはこういうことかもしれないと、咲耶は笑った。

 だがこの疲労感は、それだけだろうか。

 咲耶は自問する。

 信頼していた、好きだった人の裏切りに等しい行為は、ここまで疲労を呼ぶのだろうか。

 今までそんなことをされたことがない咲耶にはわからなかった。


 明日はギブスを外すと、看護師が教えてくれた。

 けれど咲耶は首をひねる。

 怪我をしたのは昨日なのに、二日でギブスは外れる物なの?

 その言葉に看護師は微笑んでいた口元を引き締め、ちょっと待つように咲耶に言い残してナースセンターへと駆けていった。

 へんなの、私はどこにもいかないのに。

 クスクス笑っている咲耶の元にやってきたのは主治医ともう一人、見たこともない医師だった。

 それからおかしな検査が始まった。

 疲れながらも検査を終えた咲耶に医師たちはほっとした表情を浮かべて、明日の予定を伝えて去った。


 昨日も言ったけれど、今日はギブスを外すからねと看護師は言った。

 咲耶は眉間に皺を寄せる。

 たしかに昨日から入院しているが、ギブスを外すには早すぎないかと初めて咲耶を担当した看護師に声をかけた。

 看護師の巻きなおしていた包帯は彼女の手の間をするするとすり抜けて床へと落ちていった。

 ちょっとまってね、すぐ戻るから。

 看護師は慌てた様子でナースステーションへと戻っていく。

 へんなの、私はどこにもいかないのに。

 戻ってきた看護師の後ろから、担当医と初めて見る医師が興味深そうに咲耶を見た。

 それからおかしな検査が始まった。

 疲れながらも検査を終えた咲耶に、医師たちは一言云った。

「保護者を呼んで話をしましょう」

 何を言われているのかわからなかった。


 酷い夢を見た。

 炎の中、誰かが咲耶をがんじがらめにしてニガサナイと嗤うのだ。

 心臓の鼓動が激しく打ちすぎて痛い。

 苦しさに手を心臓にあてると、上下に動く胸になぜだか少し安堵した。

「咲耶、起きたの」

 仕事に行っているはずの母親が、なぜだか朝からやってきていたようだった。

「お母さん、どうしたの」

「ねえ、咲耶。今日は何日かわかる?」

 突拍子もない言葉に咲耶は笑ったが、母親の真剣なまなざしに口ごもりながらぼそぼそと答えた。

 喉の奥に詰まったような音が聞こえてきて、咲耶は顔を上げて母親を見た。

 口元に手を当てて、母親は泣いていた。

「おかあさ、ん?」

「……ごめんね、咲耶。お母さんちょっとナースステーションに呼ばれているからいってくる」

 咲耶の返事を待たず、母親が後ずさりながら病室を出ていった。

 咲耶にはわけがわからなかった。


 夢を見た。

 小指に結ばれた赤い糸の夢を。

 けれどなぜか白くなった糸は咲耶をがんじがらめに絡めとり、咲耶を炎の中に置き去りにした。

 咲耶は悲鳴を上げながら夢から覚めた。


 咲耶の時は止まってしまった。

 壊れたレコードの様に脳に傷が入って同じところをくるくると回っているのだそうだ。

 そんなことをいきなり言われてもぴんと来ないのは仕方がない。

 けれど見せられた新聞の日付が、怪我をした日から随分と立っていることを物語っていた。

 咲耶の中の間隔ではきのうのことだというのに。

 わかりやすいようにカルテも見せられた。腕や足に酷いけがと打ち身、骨折があったことなど詳細に書かれていたが、咲耶には覚えがなかった。

 階段から落ちたわりには怪我もなかったんだと自分の強運を喜んでいたくらいだったからだ。どうやらそうではないらしいが。

 母親が蒼白になる横で、咲耶は無感動にもふーんという言葉しか出なかった。


 咲耶は苦しい夢にうなされた。

 大好きだった人が咲耶を白い何かで縛りつけて炎の中に落とす夢だ。

 心臓が飛び出るほどの勢いで打ち付け続け、痛みが全身を襲う。

 咲耶は涙にむせびながら目を覚ました。

 昨日入院したというのに今日退院が決定していた。

 きっと体のどこにも異常がなかったからだろう。

 咲耶はほっと安堵した。

 咲耶に詰め寄った彼女は目の前で階段から転げ落ちた咲耶に酷く驚いたことだろう。けれど咲耶に怪我一つないのだから、彼女の心労は少なくてすむ。

 横にいた母親にそう伝えると、母親は力なく「そうね」と呟いただけだった。

 何かとてつもない不安感が、咲耶を襲った。


 咲耶は夢を見る。

 動機が激しく息苦しくなる怖い夢だ。

 首を掻き毟るようにして起きた先に、母親が心配そうに咲耶を覗く姿があった。

 だが、その母親の髪はあんなに白髪があっただろうか。

 手は、あんなに皺が刻まれていただろうか。

 母親に促されて安寧に眠る咲耶に、その疑問は意味をなさなかった。


 ひ、と喉の奥で悲鳴が上がった。

 夢見が悪かったせいだけではない。

 起き抜けに誰か知らない男の人が咲耶を見ていたからだ。

 見渡せば見知らぬ場所に寝かされていた咲耶は、そこが病院ではないことを悟った。

 色が多すぎるのだ。

 自分が選びそうな小物類があちこちに配置され、居心地よいように仕立てられていた。

「おはよう、咲耶。これを読んで」

 なぜ自分の名前を知っているのかわからない、見知らぬ男からの本を咲耶は恐る恐る受け取って表紙を一枚開けてみた。

『未来の私へ』

 そう書き出された言葉は、どう見ても咲耶の文字だった。

 書いた覚えはないが、私が私に向けてかいたのだろうから、未来と銘うっていても自分が読んで差し支えはないだろう。

 優しげな眼差しを向ける男に背を向けて、咲耶は本を読み始めた。

『あなたは病気になりました。記憶をなくす病気です。今のあなたはたぶん高校生だと思っているでしょうがそれはちがいます。新聞の日付をみてください』

 何かのゲームかと思ったが、男が新聞紙を差し出したので受け取って日付を確認してみると、そこには咲耶の理解を超える日付が印刷されていた。何より、一面の記事で書かれていた総理大臣の名も全く知らない人だったし、裏面のテレビ欄に至っては何一つ知っている番組がかかれていなかった。

 徹底したゲームなのかもしれないと咲耶は男を睨みつけたが、本の先を読むように促されると素直にそれに従った。

『嘘だと思うことでしょう。ですから、今度は鏡をみてください。高校生のあなたではない、大人のあなたが写るはずです』

 タイミングよく差し出された鏡を恐る恐る覗き込む。

 自分がよく知る顔よりも数段鋭利になって大人びた顔がそこにはあった。

 ストレートだった髪も緩やかなウェーブがかかり、カラーも入っている。

 本に書かれていたことが現実だと受け入れざるを得なかった。

「僕がわかるよね?」

 男は咲耶が彼を知っていることが当然のように振る舞った。

 知るわけがない。

 咲耶はもともと人見知りで、友達は少なかった。

 それに加え高校に入学してから友達は籐伊ただ一人。それも籐伊がわざとそうしたのだと昨日しったところだ。籐伊のことを考えると顔がゆがんでも仕方がない。

「籐伊だよ。咲耶の夫になったんだ」

 悲鳴を上げなかったのが不思議だった。


 どこからか遠くから激しい息遣いが聞こえた。

 夢見が酷く、胸が苦しく痛かったが、それよりも腰の尋常でない痛みをどうにかしたいと咲耶は瞑っていた目を開けた。

「咲耶、咲耶、気が付いた?」

 汗ばんだ手を握っている男は誰?

 そしてこの場所は、……テレビで見たことのある、産婦人科の陣痛室に似ている。

 痛みがずんと腰にきた。

 痛い、痛い、痛い、痛い。

 めりめりと何かが無理やり裂けるような音が体を伝って感じる。

 早く、早く出さなくちゃ

 本能が咲耶を動かして、咲耶を一人の母親へと生まれ変わらせた。


 本はベッドサイドのテーブルに置いてある。

 朝起きると手が勝手にその位置に動くようになった。

 それがなぜなのかわからないが、そこにある本を読まないといけないような気がしたからだ。

 咲耶は随分とくたびれた本を手に取って、眉を潜めながらその本を読み始めた。

 酷い内容だ。

 そんなわけはない。

 けれども本を捲る手に浮き出た染みが、皺が、本の内容が本当であることを正確に物語っている。

 本の下にあった鏡を取り上げると、恐る恐る自分を移す。

 高校生の自分とは随分と違う容姿の老いた女がそこにはいた。

 咲耶は涙を流しながら、現実を受け入れた。


 はあ、はあ、と息が上がる。

 夢が酷かったせいではない。身体がもう、持たないのだ。

 目を開けるとそこには見たことのない老人が心配そうに眉を寄せて咲耶を見ていた。

「咲耶、咲耶。僕を置いていくな」

 何かを言っているが、咲耶の耳には聴こえない。

 それどころか、その老人の顔がぶれて、夢で見たあの学生服の男の顔と重なったのだ。

 自分をがんじがらめにしてニガサナイと嗤った、あの男の子と。

「籐伊、くん……」

 擦れた声を拾い上げたのは、老人になった籐伊だった。

 歓喜にむせぶ籐伊はベッドから上げられた枯れ枝の様な手を握り締めようとしたが、強く跳ね除けられた。

「咲耶……咲耶っ?」

 その瞬間、咲耶は理解した。

 走馬灯とはよく言ったものだと感心しながら、今までの人生のすべてを知って涙を流した。

 そして最後の力を振り絞って口を開いた。




「お前なんて、大嫌い」





2014.12.25.一人称訂正 俺→僕

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