元騎士 5 魔法使いという人種
神は燃え尽きど炎は激しさを増し、一向に収まる気配を見せない。いくら机などが無傷とはいえ、なんだか心臓に悪い。此処は身体を張るしかないのだろうかと思案していると大量の水が俺に襲いかかった。心なしか空気が乾燥した気がする。
「ぎゃあああっ!?」
何故か俺よりも俺の近くにいた者が驚いている。顔面を直撃した水は不思議なことにそのまま飛び散らず、まとまって何処ぞへと消えていった。心なしか空気が潤った気がする。
これも魔法だろうか。しかし、どうせなら俺を濡らしているぶんの水も持っていってほしかった。
「さすが世界一。セキュリティ管理も万全だ」
「申し訳御座いませんでしたああああッ!!」
生憎手拭いは持ち合わせてはいなかったので滴る水をそのままに感心していると、紫色の物体がまるで銃弾の如く素早さで俺の足元に鎮座した。魔物だろうか。
思わず槍を手にとりかけると魔物(と仮定する)は驚いたことに人語を操り始めた。
「ま、ままままさか恩人さんにこんなご無礼を働いてしまうなんて……!!」
真っ青な顔で俺に平伏し続ける紫。何かと思えば先程の道楽娘ではないか。故意のものではないのだろうし、まさか俺も此処まで歳の離れた子供に本気で怒るほど器は小さくない。上着が肌に張り付いて気持ち悪い。
一張羅なのでこれが駄目になったら全裸になるしかない。豚箱送りは国の恥晒しだ。さすがに勘弁したい。
「俺の状態よりも、お前は水魔法を放ったことを気にしたほうが良いだろうな」
「よりにもよってこんな場所で」と付け足すと少女は顔色を青から白へと変えた。よくもまあころころと顔の色が変わるものだ。この娘は水の代わりに絵の具を溶かした水でも飲んでいるのではなかろうか。
消火活動だけに気が入っていて、其処までの考えが及ばなかったのだろう。少女は瞳に涙を溜めて慌てている。ところでこの濡れた本はどうすれば良いのだろう。……まさか、立ち入り禁止なんてことにはならないだろうな。
「あの子……、今、無詠唱じゃなかったか……?」
「……まさか」
ひそり、ひそりと囁き声が聞こえる。発信源は二人組の男から。やがてそれは周りの者に伝染し、小さなざわめきとなった。男たちが発した“無詠唱”という言葉に、思わず少女を見る。少女は涙目のまま、不思議そうに俺を見返した。
「ほ、本、濡れてる……。ど、どうしよう……!」
本とは多分、先程まで俺が呼んでいたものだろう。もう水でぐずぐずで読めそうにもないが。どうしたものかとため息を吐くと少女の「あ、そうだ!」と明るい声。水気のなくなる本。何があった。
大きくなるどよめき。剣呑な雰囲気。詠唱は聞こえなかった。
どうやらこの少女は道楽娘ではなく阿呆娘だったらしい。俺はすぐさま彼女の持っていたこの図書館のものであろう本を机に叩き付け、少女を抱えた。みすみす起りそうな犯罪を無視するほど腐ってはいない。
◆◇
「なななななんですか!? なんですか!? や、やっぱり怒ってますよね! ごめんなさい!」
外に連れ出すと同時に何かを激しく勘違いしたらしい少女はまた俺に謝罪をした。被害妄想が過ぎるだろう。
「ああ、もうわかった。許す。だから落ち着いて俺の話を聞け」
「は、はいっ!」
このまま意味がわからないと黙っていても埒があかない。ここは俺が妥協するしかないだろう。少女の何に向けたかわからない謝罪を受け取り、俺は少女の瞳を覗き込んだ。琥珀色が困惑したように瞬く。
「落ち着いたか。とりあえず何処か店に入るぞ」
少女が頷いたのを確認してから、俺は彼女を連れすぐ近くにあった飲食店に入店した。木造の何処か古めかしい店だ。
向かいには大きな硝子張りの窓がある、洒落た喫茶店があった。少女は店の扉が閉まるまで名残惜しそうに喫茶店を見つめていたが無視をした。あんなところじゃいくらなんでも人目につきすぎる。
中にいた店員らしき女に案内され、席につく。微妙な時間帯だからか、店内に人は全くいない。暫くして丸い木のテーブルに水の入ったコップが置かれた。店員が離れたのを見計らって、俺は口を開いた。
「俺の名はジャンという」
「えっ? あ、はい。私はナミネと申します」
いきなり名乗った俺を見て不思議そうにしながらも少女――ナミネは同じく名乗った。見知らぬ男にいきなり店に連れ込まれて唐突に自己紹介なんぞされたら誰だってこのような反応をするだろう。
見合いか阿呆め。少しだけ自分を殴りたくなった。
「ナミネ、単刀直入に問おう。おまえは、魔法使いなのか?」
「あっ、はい! そうです!」
ノリが軽い。これはいったいどうしたことだ。魔法使いはいつ訪れぬとも知れぬ奴隷へと成り下がる恐怖に日々怯えていると聞いたがそれは嘘だったのか。
「でも私、落ちこぼれで……。あっ! 聞いて下さい! だけどこの間、新しい魔法覚えたんですよ!」
どうして赤の他人同然の俺がお前の近況報告を聞かねばならん。しかし暗い顔から一転した明るい笑顔を曇らせることはどうにも忍ばれて、とりあえず「そうか」と頷いておいた。そろそろ話を戻したい。
「お前、周りの大人から人前では魔法を使わないようにと言われなかったか」
「え? ……うーん、言われたかなあ……」
言われたのを覚えていないのか、それとも本当に言い付けられてはいないのか、ナミネは小難しい顔をして黙り込んだ。
全く口をつけていない水の入ったコップの水滴が滑り落ちてテーブルに小さな水溜まりを作る・ぎしりと椅子が軋んだ。
覚えていないのならばナミネが阿呆だ。教えられていないのならばその周りの大人が愚か者だ。
ため息を吐いた。ほの暗い現実は毒になることがあるが、転じて薬となることもある。毒は使い方を間違えなければ多少与えても問題はないのだ。
「知っているか。戦争の多い国では魔法使いはとても貴重な存在だ」
「そ、そうなんですか?」
「何故だと思う」
やはり知らないらしい。ナミネは戸惑った様子で俺を見た。疑問を流して問いを用意してやるとわからないようで答えを求めるように俺をちらちらと見た。少しは自分で考えろ。
「常人と魔法使いでは魔法を発動させるまでの時間に大きな差があるのは知っているな」
「はい」
今度はすんなりと頷いた。此処まで知っていてどうしてその先がわからない。基礎は出来ても応用はできない人間か。学校に通っているなら成績は悪そうだ。
有効活用出来る道具の末路なんて想像に難くないだろうに。
「つまり、魔法使いは戦闘面では常人よりも圧倒的優位な立場に立つことが可能なんだ」
「え、ええっと……」
「……百人を死に至らせる魔法を発動させるのに、普通の人間は数分かかる。しかし、魔法使いは一瞬でそれを発動出来る」
「だから、争いの多い国では、魔法使いは喉から出るほど欲しい人材なんだ」と締め括る。
……逆に邪魔だと考える国もあるが、教えてやらずとも良いだろう。何も其処まで追い詰める必要はない。魔女狩り。聞かなくなって久しい単語だ。
「下手をすれば拐われるぞ。気を付けろ」
「嘘!?」
ナミネは目を剥いて俺を見つめた。そのように見られても事実だ。
店員の女が少し迷惑そうな顔で此方を見ている。注文もせずに長時間留まっていられたら煙がられるのは当然だろうな。店員を呼んで茶を頼んだ。それだけか、と目が言っていた。
「ご、ご忠告ありがとうございます……」
「ああ」
「……あの、さっきから気になってたんですけど」
消え入りそうな声。殊勝な態度で俺に礼を言ったナミネは切り出した。
コップの水を呷り、「なんだ」と視線だけで続きを促す。ちょうど水を飲み干したときに頼んだ茶がやってきた。「ご注文は以上でよろしいでしょうか」ああ、良いからさっさと行ってくれ。
「さっき、何が燃えてたんですか?」
「……紙だ」
「紙?」
大雑把に説明し過ぎたか、と言葉を付け加える。
「文字を書いたら燃え始めた」
「……なるほど、」
すると何かに納得いったらしく、うんうんと頷いてから俺を見た。
「もしかして、何処かの国のことについての情報を記そうとしてたとか……?」
「ああ、そうだが、」
首肯。確かに俺はシエレードの歴史をあの燃えた紙に残そうとしていた。それも何故か失敗に終わるわけだが。
「実はですね、世界中のものには魔法がかかっていて、あるルールに反した行動を取ると魔法が発動して、さっきみたいなことになってしまうんです」
そう切り出して、ナミネは続けた。飛び飛びで何を言っているのかわかりづらいところもまとめるとこういうことらしい。
この世にあるものには各国それぞれの魔法がかけられていて、国の機密情報を残す等、国にとって不利益な行いをするとその魔法が瞬時に発動し、消滅してしまう。
各国これは暗黙の了解のようなもので、色々と協定やらを結んでいるのでこれは成立するらしい。
どうやらこれがナミネが先ほど言っていた“ルール”とやらのようだ。
しかし、その“ルール”が無効となる方法もあるという。例えば何処かの国について書きたいことがあるなら、残す方法に用いる道具は全てその国のものを使う。そうすれば魔法は発動しないのだそうだ。
雑貨屋が異国の者にあんまり良い顔をしないわけがわかった。そう簡単には売れないだろうな、危険過ぎて。
「中々知識が深いな」
「いやあ、これくらい魔法使いなら当たり前ですよお」
「それもそうだな」
「……もうちょっと褒めてくれても」
褒めてやると意外や意外。控え目な性格のようだ。謙遜している。調子に乗るのかと思ったのだが。まあ、きっとこの程度の知識を知らんで魔法使いは名乗れないのだろう。言われてみれば其処まで凄いことでもないのかもしれない。
ナミネは何事かを呟いていたがよく聞き取れなかった。口を開かないし、さほど重要なことでもなさそうだ。俺は「ところで、」とナミネを見る。何故かナミネは身構えた。
「お前はこれからどうするつもりだ。かなりの人間にお前が魔法使いだということは知られているぞ」
「明日辺りにはお前の身は国境を越えているかもしれんな」と冗談としては些か笑えないものを吐き出すと、そのことをすっかり忘れていたのか、ナミネは青ざめた。
魔法使いという人種はどうやら後先を考えないお気楽な性格をしているらしい。後から色々なことで後悔するタイプだな。