2 人間じゃなかったよ
孤独の不安を押しのけるように、勢いよく立ってみた。どこへ行きたいのか何もわからない。でもとりあえず歩いて――「しゃがめぇ!」
急に聞こえてきた怒鳴り声に、反射的に体を縮めた。頭上を何かが通り過ぎて、後ろに降り立つのがわかった。行動を起こそうとした矢先だったので、いきなり慌ただしくなってきた状況に脳が追いついていない。
「やっぱり闇じゃなかったか。捨てられたんだな」
正面から姿を現したのは、刀を構えた着物姿の青年だった。気のせいではなく、彼の茶色い髪と目は発光しているように見える。さらに、その瞳には、歯車のような文様が浮かんでいた。首には銀色のシンプルなネックレスがぶら下がっており、ラフな印象だ。ただ、纏う雰囲気は決して柔らかいものではなかった。
「さあ、時がダネストに立ち入ってもいいのかな?闇の奴らが来る前にさっさと帰れ」
彼が刀をこっちに向けた。切っ先は僕ではなく、その後ろを指している。つられて振り返ると、真っ白なローブで顔まで覆った人がナイフを構えていた。傀儡のような彼の2Pカラーである。僕の頭上を飛び越えた人だ。体のシルエット的に、女の人に見える。
白ローブは「帰れ」という彼の言葉を無視して、ナイフを手に突撃した。もちろん直線上には僕がいる。まずっ、踏みつけられる!
きゅっと目をつぶったが、痛みはおろか踏みつけられた感覚すら襲ってこなかった。澄んだ金属音が響き、目を開ける。すると、なぜか僕からかなり離れた前方で彼と白ローブがぶつかっていた。位置感覚が狂ったのだろうか。彼はもう少し近くにいたはずなのだが、今は倍ほどの距離があるように思える。彼が後ろに下がりながら、白ローブの攻撃を受け止めたのだろうか?
「【過重】!」
彼が大きくそう言った瞬間、白ローブの持つナイフのブレード部分が綺麗に折れたのがわかった。いや、彼に折られたのだろう。彼の二の太刀を躱そうとした白ローブは、顔を少し斬り裂かれた。やはり女性だったようだけれど、その顔は無機質で感情を宿していなかった。しかし、それを上回る違和感がそこにはあった。血が出ていなかったのだ。顔には確かに斬られた跡があるのに、血は一滴も出ていない。
「糸は細めで助かった」
「――ッ」
文字通り、彼が彼女の後ろに瞬間移動した。もしかしたら、彼の動きが早すぎて僕と彼女の目では追えなかったのかもしれない。どっちにしろファンタジーだ。……そう思ってしまった時点で、薄々感じていたことを認めなければならない。ここは、僕が記憶を失う前までにいた世界とは別なのだ。住んでいた具体的な場所はやっぱり思い出せない。でも、こんなファンタジーな現象が存在しなかったのは分かる。記憶がないせいで、ショックも現実味も薄いけど。
彼女が後ろを振り向く前に、彼女の頭上を刀が横薙ぎにする。その途端、直接斬られていないのに、彼女は気を失ったかのように地面へ倒れた。そして彼がしゃがみ込んで彼女の背中に触れると、彼女の姿は跡形もなく消失した。
「な、なにしたの……?」
「ん?あぁ、カオリス、俺の師匠のところに送ったんだ。クロートスに操られていたわけだし、放置も可哀想だろ?」
「言ってること、全然分かんないです……」
「……君、いつ捨てられた?っていうか捨てられたんだよな?」
刀は瞬きの間に消えていた。質問の意図はわかりかねるけど、僕がさっき捨てられたのは間違いない。大人しく頷いた。
「目覚めたら知らない場所で、すぐに捨てられました。さっきです」
「そうか……最下位か。そりゃ大変だったな。何もわからんだろ?」
「はい……」
「とりあえず、俺の家に連れていくよ!家族たちが待ってるんだ。それに、ここは結構危ない場所だからさ。あっ、先に言っておく。怪しいものじゃないって自分で言うのもおかしいか」
背の高い彼が、一人でツッコむ姿はちょっと可笑しい。怪しくないどころか、春の日だまりのように落ち着く雰囲気で溢れていた。
「キズキだ。キズくんでもキズにいでも好きに呼んでいいから。敬語もいらない。あー、ズッキーニだけはほんとに勘弁してくれ」
そのくだらない冗談で、心臓を締め付けていた鎖が一気にほどけたように笑ってしまった。僕はこんな声で笑うんだと、少し驚いた。自己紹介されたからには、こちらも自己紹介をしなければならない。
「僕は……」
――のだけれど、何も思い出せない僕には、名乗る名前がなかった。
「あぁ、作られてすぐ捨てられたなら、名前もわからないよな。君は、俺と同じ絡繰人形なんだ。電素っていう特殊な物質をエネルギーにして動く種族で、体には『絡繰』という魔法に似た機能が備わっている」
「人間……じゃない?」
「そうだ。しかも、俺も君も自然に生まれた人形じゃなくて、人為的に作りだされた人形だ。だから、これまでの記憶がないんだよ。おそらく、もともと別世界の人間だったんだと思う」
「あの、じゃあキズキさんの名前は?どうやって知ったの?」
「おっとすまん、名前の話だったな。君のもちゃんとわかるから、そのパーカーを胸までまくれ」
「えっち」
「んな趣味ねぇよ!元気が出てきたようで何よりだ」
自認と体の構造は一致しているらしく、僕は男だ。キズキさん以外に誰もいない森で見られたくないもなにもないので、言われるがままにした。ちょうど心臓のあたりに、キズキさんが人差し指をおく。すると、一瞬電気が流れたように体が痺れて硬直した。痺れがなくなり、人差し指が離れると、そこには紫色の文字が浮かんでいた。
「ミカゲ、だってよ。しっくりくるか?」
「ミカゲ……」
口にした瞬間、生まれたときから僕はミカゲだったという、地面に両足がついたような安心感が訪れた。
「うん、僕はミカゲだ。キズキ、さん。ありがとう」
温かな安堵に包まれ、思わず体がふらついた。キズキさんに支えられて、まぶたが重くなる。
「キズキでいいぞ。目覚めたばかりで大変だったな。少し休んどけ」
朗らかに笑ったキズキは、僕を軽々と抱えた。その腕の中が妙に懐かしい感覚がして、いよいよ心地良い眠気に襲われた。
「糸切れ……」
まどろみの中でキズキの声が遥か遠くになっていき、僕は眠りに落ちた。




