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【短編】人面権

作者: 滝沢春眠
掲載日:2026/03/08

「まあっ!子供のころテレビで見てたわ……人面犬でしょう、これ?」


退屈そうな顔をしていた主婦は、ケージから取り出された犬を見るやいなや、表情をころりと変え、その頬を紅潮させた。


茶色で、綿毛のような感触の身体に、ぺたんと左右に垂れたちいさな耳。


丸まった愛らしい尻尾を振り、机の上で主婦を見つめるその犬の顔は____まさしく人のそれそのもの。


それも、黄色く濁った白目をして、脂ぎった肌の、中年男性の顔面に違いなかった。


主婦と相対するセールスマンの男は、にこやかな笑顔を浮かべたまま、中年の女が、中年の顔の犬に熱烈な視線を送るのを見守る。


人類の歴史上、初めて実物の人面犬が記録されたのは、いまからおよそ四十年ほど前のこと。


バブル期の真っ只中、街が煙やガスで充満していた時代に、人面犬は足立区周辺を徘徊しているのを補足され、一躍お茶の間を沸かせることとなった。


中年男性の気だるげな顔面に、犬の胴体が付いているという、その奇天烈なビジュアルに加え、人面犬は人間顔負けの社会知識とトーク力を兼ね備えていた。


本人曰く電気屋のテレビで学習したという、国際情勢に関する豊富な知識や、人の顔であることを活かした自虐的なギャグは、人々の関心を買ってやまず、世間は空前の人面犬ブーム。


街のおもちゃ屋には人面犬をデフォルメしたマスコットやキーホルダーが並び、当時の子供たちはそれをこぞって買う。


あらゆるメディアで人面犬の名前を聞かない日はなく、足立区で発見されたその日からの一年は、まさに人面犬にとって人生の絶頂期だった。


その目を見張るような活躍は留まることを知らなかったものの、その一方、世間の一部ではこんな意見が展開されていた。


「人面犬が法的に犬であるというのは、由々しき事態なのでは?

人間の言葉を喋り、タレントして活躍しているのに、もし殺されたとしても、法的には器物損壊罪にしかならないんですよ。」


あるコメンテーターのそんな発言に端を発し、それに賛同する識者と、あくまで犬が人語を喋っているだけだと訴える学者の対立が発生するなど、人権問題を巡る議論は紛糾した。


当初は、人面犬はただの犬であるとする意見が優勢だったが、その当時、既に自治体のPRなどにも利用されていた人面犬には、政府高官を含む庇護者たちが多数ついていた。


結局、この騒動から丸一年ほど経ったのち、人面犬は、名誉東京都民として日本国籍を獲得するに至った。


のちに「人面権」問題として知られる出来事である。


「……当時は特例中の特例だったそうですね。なにせ言葉を喋るとはいえ、犬に人権を与えるわけですから。」


「ええ、ニュースで見てた記憶があるわ……国会で問題になったの、どうのって。でも、たしか人面犬って、子供を作らずに死んだんじゃなかったかしら?」


主婦は色素の抜けた陰毛のような髪をかきあげると、机の上の人面犬に物珍しげな視線を向けながらそう質問する。


それを聞いた男は、主婦が興味を持ち始めていることを察し、机の下で手を揉み合わせながら意気揚々と解説に取りかかった。


「そうなんです、人気絶頂のさなかに、人面犬は心臓病で亡くなりましたよね。それから数十年、人面犬の子供はいないとされていたわけですが____なんと、ここ最近になって静岡県のとあるブリーダーが、人面犬の子供を育てていたことが発覚したんですよ。」


「へえ〜〜っ、それがこの人面犬ってわけ?」


「ええ、正確にいえば、人面犬から数世代を経た子孫ですね。ただ、元祖の人面犬が交尾をしたのがどうやら普通の雑種犬だったらしく、この子たちは人間の言葉を喋れません。しかし、人間並みの知能を持っていることはご確約しますよ!」


そう一気にまくし立ててやると、主婦は肉のついた頬に手を当てて、悩む素振りを見せ始めた。


セールスではここが正念場、と、詐欺罪で免職になった先輩に教わった言葉を頭に浮かべながら、机上の人面犬を持ち上げ、主婦の腕の方へゆっくりと差し出す。


「よろしければ、お抱きいただいても大丈夫ですよ?」


そう言ってやると、主婦の目が、一瞬きらりと光を帯びて輝いた。


これがただの犬だったら話は変わってくるだろうが、いま目の前にいるのは、主婦にとって「思い出のあの人面犬」であり、テレビの中にのみ存在していた生き物。


それを抱けるとなれば、仮にそれが購入を促す罠だと知っていても、せっかくだからと心が揺らいでしまう。


子犬を目の前に差し出された主婦は、むくんだ顔でしかめっ面をし、しばらく抵抗するように身体を揺らして逡巡していた。


しかし、その、本人にとっても上辺だけの抵抗は、さして時間もかからずにバラバラに崩壊し、男が出されたお茶を飲み終わる頃には、見事購入の同意書にサインがなされていた。


「お買い上げ誠にありがとうございます、この子も喜んでいると思いますよ。」


耳触りのよい言葉を流れるように口から吐き出しながら、机上の契約書を、気が変わらないうちにと手早く回収する。


主婦の太い腕に抱かれた人面犬は、契約の間にすっかりなついた様子で、髪の薄くなった頭皮を胸にこすりつけながら、楽しげな表情を浮かべていた。


その様子にどこか醜悪さを感じて目を逸らしながらも、悟られてはいけないと笑顔を作り直し、最後の説明をしようと口を開く。


「飼育に関しては先程申し上げた通りなのですが、契約書にもある通り、ひとつ注意点がございまして。我々の販売する人面犬には、『人権』がございます。」


「あら、そんなこと書いてあったかしら……?」


「ええ、元祖の人面犬が日本国籍を持っていたことはご存知かと思いますが、法律に照らし合わせますと、日本国籍者の子供は基本的に日本国籍者になります。つまりあの人面犬の血を引く子犬には、みな生まれながらに人権があるという理屈でして。」


「ふぅん、それは分かったけど……それで私がなにか特別なことをしなきゃいけないわけじゃないのよねえ?」


「はい。人面犬には基本的人権がありますが、教育や労働の義務は実質的に適用されませんので、ご安心ください。ただ過失で死なせてしまった場合は、殺人罪などで裁かれる可能性がありますが……杉本さんのように優秀な飼い主なら、そんなことはないと存じております。」


そう、取ってつけたようなお世辞を言い放つと、茶髪のガマガエルは「あらやだ」などと不明瞭な言葉を呟き、犬を抱いたまま身体をよじった。


こんな適当な言葉でお茶を濁し、軽く挨拶をして家を去れば、仕事は完了。


恐らく人面犬ブームの真っ只中にいたであろう、四十代や五十代の主婦を中心に人面犬の子犬を売りつける。


人面犬の販売を主力業務とする、神田川商事のセールスマンは、そんな古風な訪問販売に一日の大半を割いていた。


空っぽになったケージを社用車に積み込み、そのまま営業所へと向かう、かくいう自分も、その大半の社員のうちのひとりである。


「今日売れたのは五匹か……ま、今どき訪問でこんだけ売れたら上等だろうよ。」


と、フロントガラス越しに流れていく、繁華街の横顔を眺めながらそう呟き、左手で携帯用灰皿にタバコをぎゅっと押し付ける。


訪問販売員の仕事は悪くなかった。


自分が産まれる前のブームのことはよく分からないが、とにかく目を輝かせて人面犬を眺める中年相手に、商品という名のおかしな犬を売ればいいだけ。


もともとコミュニケーションは嫌いではなかったし、売上成績も決して悪いということはなく、むしろ就職して以来調子は右肩上がりだった。


まだ盛んに話し声のする営業所に向かい、今日分のノルマをこなしたことを上司に伝え、そのまま自分の車で乗り継いで家へ帰る。


男の生活とは、その繰り返しだった。


「あの」人面犬の子供たち、とさえ伝えれば、賢く飼育に手間のかからない人面犬を買う家庭は存外多く、程なくして会社は大きな成長を遂げていった。


SNSでは、実際に人面犬を見たことのない世代が、面白がって動画を撮影し、親が買ってくる珍しいペットとして知名度はうなぎ登り。


また四十年前と同じように、女子高生の間でキモカワと叫ばれるようになってからは、あっという間に、すわ第二次人面犬ブームかと疑うほどの売れ行きと市民権を得るようになった。


男が係長に昇進し、同時に神田川商事が上場してからは、二年が経った。


近頃、男は昼間も、寝る直前でさえも、人面犬について考えつづけていた。


やがて思考が途切れて、心地よい眠りについたあとも、起きてみれば、常に頭のどこかに人面犬の存在があった。


「とんでもねえよな全く……犬のくせに人権があって、そのくせ世間では市民権も得てるだなんてよ。俺みたいなただのおっさんより待遇が上じゃねえか。」


「まあまあ、少なくとも社会的地位では上ですし、瓜谷さんの方が稼ぎいいじゃないですか。少なくとも納税額では人面犬に勝ってますよ。」


「当たり前だろっ、それで負けてどうするんだバカ!」


取引先の会社に向かう道すがら、そう冗談めかして叱ってくるのは、今日の商談に同行する上司であり、同じ大学のOBでもある瓜谷営業課長だった。


今日、課長とともに新たに売り込もうと試みているのは、人面犬用のちょっとした玩具や、かねてから販売を構想していた自社製の自動餌やり器。


人面犬の販売事業が予想以上に上手くいき、今やペットフード事業にも手を出し始めた神田川商事は、悪く言えば節操がなく、よく言えば貪欲に成長を続けている最中だった。


ぶつくさと文句を垂れながら、ガタイのいい肩をいからせて歩くこの上司も、人間性はともかく、会社員としては優秀であり、うまく付き合えば悪い人間ではない。


「にしても、街中で人面犬見るのも増えましたよね……人面トイプードルだとか、人面チワワだとか、普通の犬より多い気がしますよ。」


「まあ、ひたすら売り込んだ成果があったってことだな。いまや『犬も歩けば棒に当たる』ってよりも『犬も歩けば人面犬に当たる』状態だからな……。」


瓜谷は色黒の顔と、唇を引き攣らせて皮肉げに笑うと、見ろ、とちいさく呟いて、横断歩道の向こう側を指さした。


交通量の多い通りを一本挟んだ、信号の向かいには、茶髪にサンダルの女が、大量の人面犬をリードに繋いで引き連れていた。


比較的顔の整った、『イケオジ』風の人面犬であったり、一方でより老けた中年らしい顔の人面犬だったりと、犬種の区別もなしに多頭飼育しており、それをまとめて散歩させているようだった。


「人面犬は賢いけどすぐに繁殖するからな、ああやって増えすぎて持て余してるんだろ……ほら見ろ、なんか話しかけてるぞ。」


なかなか信号が青に変わらない中、信号を待っていた女は唐突にしゃがみこんだかと思うと、犬に視線を合わせ、なにやら口を動かしていた。


かと思うと、そのまま人差し指を車道の方向へまっすぐ向けた。


そして同時に、一匹の人面犬に繋がるリードを、はらりと手から離す。


その瞬間。


顔にほくろのある一匹の人面犬が猛然と車道の方向へ走り出し、迷う様子も見せずにそのまま車の行き交う道路へと躍り出た。


と同時に、横断歩道をまさに突っ切ろうとしていた軽自動車が避けきれずに衝突し、一瞬にして、ちいさな肉の潰れる生々しい音が道路上に響き渡る。


「お、おいっ、いま……蔵内っ、お前も見ただろ!あの女、人面犬を車道に飛び出させたぞ!」


「え、ええ、指で指示してるように見えましたし、あれは明らかに故意ですね……とりあえず、僕らで警察だけでも……。」


数分経って警察がやってきた。


幸いにしてアポの時間までは余裕があったため、課長とともに通報者として事情聴取を受けたが、その間、飼い主の女は悪びれもせずにスマホを眺めていた。


車に突っ込ませる様子を見ていたらしい通行人が、何人か束になって女に食ってかかっていたが、当の本人はへらへらとして意にも介さず、逆に警官が通行人を引き剥がす始末。


一方で、ただ犬を轢いただけと思って出てきた運転手は、警官からそれが人面犬だったことを説明され、愕然としている。


現場に集まるパトカーの数は徐々に増えていた。

周囲の警官の話を聞いていると、どうやら軽自動車の運転者は過失運転致死罪で送検される可能性が高いらしい。


「実質的にあってないようなものとはいえ、人面犬には人権がありますからね……殺された以上は、人間と同じように裁かないと。」


若い警官は苦虫を噛み潰したような顔でそう言い、自動車のフロントに飛び散った血飛沫と、赤茶色の肉片をみて、さらなる応援を要請した。


瓜谷はしばらくあたふたと戸惑う様子を見せていたが、少し経つと、ただ目の前の事故現場を唖然として眺めるようになった。


結局その日の商談は中止となった。


警察との話し合いや、女についての聞き取りは比較的短い時間で済んだものの、家に帰っても気分は釈然としないままだった。


漫然とした心持ちで、なんとなしにネットニュースを見ていると、やはり今日の出来事は、既にスキャンダラスな出来事として取り上げられているようだった。


一回スクロールしてみれば、数時間前に目にした現場の写真がトップに表示され、SNSでも議論が紛糾しているらしい。


「こうした場合、轢いてしまった運転手は減刑すべきではないか」


「飼い主の女に責任が問えるのか」


などと、コメント欄には好き勝手な憶測を含め、さまざまな意見がずらりと並んでいた。


知らなかったが最近では、大量に繁殖させた人面犬を車道に飛び込ませたり、保険金をかけた上で川に流したりと、『人権がある』ことを悪用した詐欺まがいの行為が一部で横行しているらしい。


なまじ人面犬が人間と同じように扱われるからこその犯罪だが、現時点では明確な判例もなく、保険金や慰謝料も人間とそっくりそのまま同じ額が受け取れる状態。


男はため息をひとつつくと、スマホの電源を切り、掛け布団の中に深々と潜り込んだ。


ほうぼうで売り歩いた、もはや顔も覚えていないたくさんの人面犬のことを考えると、少なくとも寝つきが悪くなる程度には気分が悪かった。


人情に篤い方ではないと思っていたが、人並みの知能のある生き物が、目の前で死んだという事実と、それに伴う自分の責任についての考えが、頭の中をぐるぐると周回していた。


翌日出社すると、同じ光景を目撃した課長も、昨日とは違いどこか沈痛な面持ちでデスクに向かっている様子だった。


隣の椅子を引いて無言で座ろうとすると、課長が浅黒い顔でこちらを向き、普段とは正反対にうつろな声で話しかけてきた。


「おう、蔵内……昨日のこと、何回か考えてみたんだけどな……。」


「はい、僕も同じです……いまは、その、少し自分の仕事に疑念を抱いてるというか、これで正しいのか、自信がなくなってて……。」


「いや、そうじゃなくて。あの女、頭いいなあって思ってたんだ。」


「はい?」


口から思わず疑問の呟きが漏れると同時に、課長は一転、どこか晴れ晴れとした表情でこちらを向き直した。


「結局、犬なんかをちまちま売るより、ああやって人の金で賢く生きてく方が効率いいんじゃないかってな!ちょっと興味がでてきたんだ。」


「う、瓜谷さん、さすがにそれは。倫理的にも法的にも、今はセーフなだけで危ないですよ……。」


「大丈夫大丈夫、なんならお前も一緒にやろう。別に金には困ってないだろうが、今よりがっぽり儲けられるってのがやっぱり……。」


課長は曇りのない眼をこちらに向け、その後も滔々と持論を語っていたが、話の続きを聞く気にはなれなかった。


男は黙って席を立ち上がると、背後でなにかを叫んでいる上司を無視して、出社そうそうに別フロアに設けられた喫煙室へと足を運ぶ。


「昨日の今日でよくあんなこと言えるな、くそっ……。」


短くない付き合いの人間の本性が、あんな形で露呈するとは思ってもみなかった。


その思考が、というより、そんな思考を持っている人間と明日からも仕事をしなければいけないのがとにかく憂鬱だった。


重たい足取りで、階段の続きをあがり、喫煙室の前に立つ。


扉の傍、半透明なガラスのその向こう側には、特徴的な痩せぎすのシルエットがぽつんと浮かび上がっていた。


「栗山先輩、お疲れ様です。朝から喫煙ですか。」


「お前もだろ、蔵内。だいぶ沈んだ顔だな、なんかあったのか?」


入社当時の上司だった、栗山課長補佐とは、話題や趣味など、なんとなく馬が合い、指導担当を外れた今でも一定の付き合いがあった。


見計らったかのようなタイミングで喫煙室にいた旧知の先輩から、優しい言葉で問いかけられれば、男が思わずそれまでにあったことを語ってしまうのは必至だった。


男の、ところどころに無用な愚痴を挟んだこれまでの経緯を、栗山は黙って白煙を吐き出しながら聞いていた。


「なるほどね、瓜谷が……昔から猪突猛進タイプというか、あんまり深く考えないところもあったけど、そういう倫理観の持ち主とはね。」


「人面犬を轢き殺させてた女といい、瓜谷課長といい、もうこのビジネスに関わりたくないですよ。今の給料は惜しいですが、はっきりいって辞めたいです。」


タバコを右手に提げたまま、思わずそう吐露すると、無表情に話を聞いていた栗山が嘆息とともに煙を吐き出した。


短くなったタバコが、皿に押し付けられるやいなや赤く光る。


「蔵内、俺がいまどの部署で働いてるか知ってるか?」


「……?はい、製品開発部ですよね。人面犬の品種改良とかが専門の、あの。」


「そうだ。ちょっとついて来い、お前が辞める意志を固める前に、人面犬ビジネスの裏側を見せてやるよ。」


そう言うと栗山はライターをポケットにしまい、ついてくるようにと手招きのジェスチャーで伝えた。


意識したことはなかったが、この喫煙室があるフロアは、主に製品開発部が占有しているエリアでもあった。


煙たい部屋から飛び出し、新鮮な外界の空気を吸って栗山のあとをついていく。


程なくしてたどり着いたのは、今まで一度として入ったことのない、「製品調査室」とプレートのかけられたひとつの部屋だった。


一歩足を踏み入れて見てみると、その内部はさながら、ペットショップのディスプレイのような様相を呈していた。


ずらりと並んだ透明なガラスケースの中に、多種多様な人面犬が収められ、突然入ってきたサラリーマンふたりを興味深げに見つめている。


「すごいですね……これ、全部品種改良種ですか?」


「ああ、チワワとかペキニーズとか、色んな犬種と人面犬をかけあわせたりな。あと、特別に人懐っこい品種をつくったり。ここにいる人面犬は、みんな実験的に作られた新しい品種だよ。」


「うわっ、ほんとだ、めちゃくちゃ胴の長いのがいたりしますね。これはダックスフンドとのミックスですか?」


三段ほどに積み重なったガラスケースの端には、コッペパンのような形状をした胴体に、心做しかダンディな顔立ちをした人面犬が座っていた。


今まで柴犬や小型犬がベースの人面犬しか見たことがなかったため、のそのそと短い足で歩き回る様子は妙に新鮮に映る。


「ああ、やっぱり小型犬とか中型犬ばっかり売ってても、顧客も飽きがやってくるだろうからな。物珍しい犬種を作って管理するために、この部屋も作られてるんだよ。」


自分の部の話だからか、先程より饒舌になったように見える栗山はそう言うと、壁にかけられた温度計をチェックした。


この部屋は大事な新商品になるかもしれない人面犬を隔離するとともに、気温や環境を成育に最適なものに保つ効果があるらしい。


物珍しげにディスプレイの中身を物色して回っていると、今度は栗山が無言で上段のガラスケースを指さした。


「ほら、こいつなんかはまだ小さいが、実はアイリッシュ・ウルフハウンドの血が入っててな……将来はとんでもなく大きい人面犬になる予定だ。」


「日本ではそこまでメジャーな品種じゃないですし、確かに物珍しくはありますね……そうだ、例えばこの子とかも、どこかが特殊な人面犬だったりするんですか?」


古びたモップのような毛並みの人面犬を、しげしげと眺める栗山をよそに、今度は別のケースに入った白い人面犬を指さす。


というのも、この部屋の人面犬は大概なにかしらの特徴があるが、その人面犬だけは少し身体が小さいぐらいで、他にこれといった変化がなかったからだった。


「ああ、それは珍しい犬種とかじゃないんだけどな、人面犬全体の中でも相当知能が高いんだ。よく人の言うことも聞くし、老犬になる頃には複雑な言語も理解できるだろうな。」


「言われてみれば、顔つきがちょっと賢そうな気もしますね……。」


「だろ。実はその犬と、もう一匹の犬を交配させて作った特殊な犬種があってな……今日はそれを見せにここまで連れてきたんだが、生憎在庫が出払ってるらしい。」


ちょっと待ってろ、というと栗山は、部屋の隅に置いてある書類棚の方へつかつかと歩み寄り、埃っぽいファイルを物色し始めた。


あちこちに放り出されていくファイルの背に貼られたテープを見る限り、棚には遺伝情報や品種改良に関する小難しい資料が保管されているらしい。


しばらくの間は、がさごそと紙が擦れる音と、もの探しに熱中する栗山の細い唸り声が部屋に響き渡っていた。


そこから数分が経ち、男がガラスケースの犬に手を振ったりして暇を潰している間に、栗山はどうやらお目当てのファイルを探しだしたようだった。


「蔵内、お前営業だったよな。なら最近『ダ・ヴィンチ』って名前の、品種改良された人面犬が売られてるの知ってるか?」


滑るようにしてこちらに戻ってきた栗山にそう聞かれ、脳内のデータベースからダ・ヴィンチという言葉を必死に探し出す。


確かこの前の商談に向かう前、瓜谷課長が、一括購入希望の電話があったとうきうきで報告してきていたような気がする。


その特徴は。


「ああ、はい。えーと、たしか、従順で頭のいい品種のことでしたっけ……?」


「そうだ、正確にいうと、さっきの『人面犬の中でも頭がいい個体』と『ずば抜けて器用な個体』を交配させて作った品種だ。見てみろ、これ。」


栗山はそう言うと、探し出してきたファイルを両手で持ち、中に収められていた写真を開いて見せてきた。


そこには白色の毛を持つ小さな人面犬を、さまざまな角度から撮った写真が何枚も挟み込んであった。


明らかに中年の顔ではあるものの、言われてみれば聡明さを感じるような顔立ちに、触りやすそうなふさふさの尻尾。


ただし他の人面犬とははっきりと違うのは、一枚の写真に拡大して映された、異様に人間の手と似通ったその前足だった。


「え、犬にしては手指が異常に長い……これ、人間の手のひらとそっくりじゃないですか。」


「そうだ。稀に現れる、人間に近い手のひらを持つ器用な個体と、圧倒的に高い知能を持つ個体の子供、それがダ・ヴィンチだ。こいつらの特徴はな……。」


栗山の細い指で捲られた次のページには、ダ・ヴィンチが、その人間のような指でボールペンを握り、紙に歪んだ文字を書いている写真が貼り付けてあった。


傍らでは、ブリーダーらしい中年の女性が、笑顔で文字の書き方を指導している。


「ダ・ヴィンチは上手いこと躾をすれば、教えた漢字や文字を指示通りに書くことができる。で、ここからが話のキモなんだが、このダ・ヴィンチを買っている層がなにかわかるか?」


「あー、普通に主婦や中年層じゃ……?」


「ざんねん、不正解。顧客調査によると正解は、野党議員や政治団体の幹部たちだ。奴らはダ・ヴィンチの子犬を大量に買い取っては、どこかで躾をして飼育してる。それがなぜかわかるか?」


栗山は無表情のまま淡々と話を進めていた。


それがなにを目的にしているのか、なぜ自分に対して話しているのかはわからなかった。


が、話を聞くうちに、なにか重大なことの全貌が徐々に見えてきているような気がして、ぎゅっ、と、自然と喉が音を鳴らした。


「人面犬には『基本的人権』がある。だから法では人間と同じように扱われる……蔵内、基本的人権にはどんな権利が含まれてる?」


「ええと、確か。自由権、平等権、社会権____」


「それと?」


「……参政権、です。」


「蔵内、俺がなにを言いたいかもうわかるか?」


「……政治家たちが、人面犬に選挙投票をさせようとしてる、ってことですか。」


「そうだ。」


「い、いやいや、ありえないですよ!参政権は、人面犬に教育や労働の義務を負わせられないように、人権の中でも有名無実化しているものでしょう!第一、投票所に行ったとして、犬が投票用紙に文字を書けるわけ……あ。」


「ようやく気づいたか、バカ。そうだ、頭がよくて文字が書ける人面犬がいれば、好きな候補者にいくらでも票を入れることが可能なんだよ。」


それに気づいたのが今の政治家たちだよ、と栗山は、均整の取れない奇妙な笑いを浮かべながら呟いた。


栗山は一息つくと、再びファイルに手を伸ばし、パタンと乾いた音を立てて閉じる。


「もちろん、犬といえど参政権を得るのは十八歳になってから……だから成人するまで待たなくちゃ、投票はさせられない。現時点で、品種としてのダ・ヴィンチが開発されてから約一年、つまりあと十七年で『その時』がくるってことだ。」


「で、でもそんなの……前例がない。仮に認められたとして、そんなことが起きたら日本の政治の根底が揺らいでしまうでしょう!」


「だから野党が子犬を買い漁ってるんだろ。実質、自分の思うように動いて、思うように殖やせる有権者が増えたようなものだからな……これからは『人面権』の時代がくるぞ、蔵内。」


そう呼びかけられたものの、この一瞬で、致命的かつ重大な事実を突きつけられた蔵内は、整理がつかず、上手く返答することができなかった。


人間の手のひらに肉球が生えたような、ダ・ヴィンチのあの異様な手のひら。


その不気味に長い手指で、拙いながらペンを握って漢字を書く姿。


人の顔をした生き物に、人間が権利で並ばれる時代がくる。


そう考えると、自分でも青ざめているのがわかる顔から、冷や汗が一筋になって流れ落ちるのを感じた。


「だから、さ。辞めるなんていうなよ。ダ・ヴィンチが選挙の要になったら、業界のパイオニアの神田川商事はきっとものすごい厚遇を受ける。いくら仕事が嫌でも、会社に残った方が得だぞ。」


「で、でも、栗山さん……。」


「はは、そんな深刻そうな顔するなよ。ほら、さっきニュースで、今期の衆院選間近って報道してたぞ。」


栗山の差し出したスマホの画面は、薄暗い製品調査室の中で、煌々と光っていた。


「そういう意味では、画家のダ・ヴィンチも、犬のダ・ヴィンチも、大して変わらないさ……なんせ、どっちも人の顔で、同じ権利を持ってるんだからな。」


栗山は、くっくっと堪えるような忍び笑いをしながら、なあ、とこちらに同意を求めた。


男は、それに同意ができず、かといって否定できるでもなく、ただ、冷たい汗を額から流し続けるのみだった。


静まり返った部屋の中で、一際小柄な犬が一匹、じっとその二人を見つめている。

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