第8話 強く、美しいひと
怒涛のような忙しい日々が過ぎて、年始の日を迎えた。
新年の祝祭は皇都の離宮に造られた、女神の祭壇の前で行われる。立ち並ぶ上位貴族たちの中にエミールの姿を見て、アデラインは静かに息を吐いた。
あれほど悩んでいたのに、遠目の後ろ姿を見た時、驚くほど心は静かで安らいでいた。
エミールは昔と変わらぬ姿でまっすぐ前を向いている。強く、美しいひと。
(良かった……)
かつて彼の姿を見ると、心に浮かび上がったのは気恥ずかしさを含んだ愛おしさだ。それを捨てると決めた時に、その心全てが凍てついた、重く苦しい氷の塊のようになった。
今、それが静かに溶けていくような気がする。そうしてその後に残ったのは、微温湯のような穏やかな感謝の気持ちだ。
午前中の祭事を終えると、午後の早い時間から新年の祝いの宴、帝国主催の大夜会が始まる。
フィンにエスコートされ、会場の宮殿に足を踏み入れたアデラインは思わず感嘆の声をあげた。会場があまりにも豪華で、目に入るもの全てがあまりにも美しかったからだ。
(すごい……! 四年前とは何もかもちがう……君主が変わったから?)
アデラインはこの日のためにフィンが用意してくれたドレスを着ていた。紅の生地の上に黒のレースを重ねたデザインで、開いたデコルテには柘榴石のネックレスが光る。これはアデラインやフィン個人のものではなく、ノルデンの国宝のひとつだ。
髪留めから靴に至るまで、全体的に大人の女性らしく落ち着いた色合いで、アデラインはとても嬉しかった。私物のない妃のためにフィンが国宝庫を開けてくれたおかげで、重苦しかった気持ちがずいぶん軽くなったと思う。
尊敬と感謝の気持ちで隣に立つフィンを見上げる。一方のフィンは真っ黒な騎士服の姿で、いつもより少し緊張しているようだ。
「アデライン、俺のそばを離れるなよ」
あの午後以来、さらに顔を合わせないようにしていたアデラインとフィンだったが、今日はいつものように距離が近い。何か覚悟を決めたような彼の横顔は、いつもと変わらずとても頼もしい。隣にフィンがいるだけでほっとするアデラインは、つい気が緩んできょろきょろと周りを見渡す。
「フィン、すごいわ。何がすごいかわからないけど、何もかもがすごいわ!」
つい興奮のあまり、子供のような感想がこぼれた。隣からくつくつと笑う声がして、アデラインはフィンを見上げる。
「カミルが興奮している時にそっくりだ。やっぱりあの子はお前に似ているんだな」
「やだ。笑わなくてもいいじゃない。でもわたし、ちょっとおのぼりさんみたいだわ。……ああ、本当におのぼりさんなのよね」
「こら、ふらふらするな」
フィンの大きな手が伸び、アデラインの二の腕を掴んだ。
「アディはもう何年も引きこもっていたんだ、勘弁してやってくれ」
背後に控えていたアデラインの兄、クレオが笑いを堪えながら言う。アデラインによく似た髪色だが、瞳の色は淡い駱駝色だ。その上三白眼なので、あまりアデラインとは似ていない。
「あら兄様、お兄様だって学園の入学式で、あまりにも挙動不審で先生に注意されたことがあったでしょう? あれと同じよ」
「兄妹で暴露大会をしないでくれ。相変わらず君たちは仲がいいね」
クレオの隣に立つライナーが呆れたように言うが、その様子はとても楽しそうだ。クレオもライナーも結婚しているが、どちらの奥方も今は妊娠しているため今回は不在だ。親世代もだいぶ引退し、ゲルスター子爵を名乗る叔父とその妻君だけが貴族籍に残っていた。
アデラインの弟二人のうち、一人は騎士としてこの会場内の警備についている。こちらはそろそろ合流するだろう。もう一人の弟は在学中なので、今頃学園の生徒たちの夜会を楽しんでいるはずだ。
背後に控える数人の男爵位のものたちも含めて、ノルデンの貴族は十ニ名ほどと少人数だ。おそらく他のどの国よりも少ないだろう。
「そうそう。優しいお兄ちゃんの俺としては、フィンには一言、言いたいことがあるが……」
言いかけたクレオだが、アデラインが強く睨むと口を噤む。何かを察したのか、フィンが視線を落とした。慌ててアデラインは彼の袖を引っ張る。
「ねぇフィン、わたしがせっかく来れたのだもの。今日はめいっぱい楽しみましょう。ね」
アデラインが下からフィンを見上げると、彼は少し驚いたように目を見開いた。
「……どうしたの?」
「いや、今日は久しぶりにお前の笑顔を見れた。さあ行こう、次は北峰の挨拶だ」
「え……」
手を引かれながら、アデラインはその言葉を反芻する。
(……わたし、ここしばらく、フィンに笑いかけたこと、あったかしら……)
宗主国、ベルンシュタイン大公に名前を呼ばれ、アデラインたちは皇帝陛下の前で貴族の礼をする。許されて顔を上げれば、王座に座る皇帝陛下と目があった。
皇帝ヒルデグラント。皇族特有の銀の髪はまったく癖がなく、こちらを見る瞳の色は青みかかった濃い紫。アデライン皇女とは姉妹のはずなのに、その印象はまるで違う。
強い存在感があるが、柳のような細身で女性らしい体のめりはりはほとんどない。すっきりとした目は細く、きりっと釣り上がった意志の強そうな眉。目を引く美人というわけではないが、涼やかで印象に残るその面差し。
胸元には大きな紫水晶のネックレスがあるが、それ以外には王冠がわりのティアラだけ。ドレスも最高級の素材を使っているのだろうが、シンプルなものだった。過度な装飾を嫌う、学生時代と変わらない彼女の姿があった。
ただし、まとっているマントは豪華だ。襟ぐりを白い毛皮で覆われ、臙脂色の生地にも白い毛皮で縁取りされている。この場にいるものの中で最高権力者である事を示す、証。
「遠いところからよく来てくれた、フィン。アデライン、学生時代ぶりだな」
(……覚えていてくださった……!)
アデラインは入学した年、彼女は五年生で最終学年だった。学園にいることよりも、公務で宮殿にいることの方が多く、アデラインと会話したのもたった一度だけ。エミールと一緒の茶会で、彼の恋人として紹介された時だ。
それ以外は、遠くから見ていた。凛としたその姿は、将来政務関係の仕事に就きたいアデラインの憧れだった。
その皇帝陛下が自分の事を記憶にとめていてくれた。
アデラインはそれがとても嬉しくて、胸がいっぱいになる。そのせいで、フィンの挨拶の口上を聞き逃してしまった。
(しまったわ!)
フィンとアデラインが言う挨拶の言葉はあらかじめ決まっている。だが、その場の状況を見てフィンが何か言葉を足したなら自分もそれに応じなけれならない。焦るアデラインが口を開こうとした時、かっかという豪快な笑い声がした。
お読みいただきありがとうございます!
国庫を開けて、自分の妻を飾るための装飾品を持ち出すことはできるのですが、妻に何か贈り物を…という思考がないフィンです。夜会の控室でそのことをライナーに指摘され、フィンはとっても動揺していました。
次回もよろしくお願いいたします!