第7話 姉と妹
「砦に温泉を引いたの?」
実はここ数ヶ月、ノルデンの国内は密かな温泉ブームである。
ことの起こりはアデラインがふと新聞で目にした記事だ。
ノルデンより東には、帝国領土最北端、シュヴァルツエーデ公爵領がある。隣国ではあるが二国の間には剣を逆さまに立てたような峻峰を持つ山脈があり、ほとんど交流は無かった。だが、あちら側ではその山脈のあたりで温泉が湧くらしい。
それを知ったアデラインが、皇帝側近の北の大公の父君に手紙を送り、彼が皇帝に『おねだり』をした。こうして皇帝が北峰の北部三カ国に温泉技師を派遣してくれた……という経緯である。
西のシュテレ、中央のベルンシュタインは何個かの温泉しか発見できなかったそうだが、東のノルデンではすでに六つを超える温泉源が発見されている。
そのいくつかは北の城壁に近いこともあり、兵士たちの癒やしの場所になっているらしい。今はまだ簡単な施設しかないが、叔父は温泉地を整備して観光客をがっぽり呼び込む気になっている。強かである。
「ああ、最初にお湯が出た時には歓声が上がったよ。しかも熱湯、ものすごく熱い」
「そんな熱いお湯に入るの?」
「まさか。本当なら冷ましてから使うらしいけど、今はまだ井戸水を足している。でもすごい熱くて、気持ちがいい。みんな毎日使っているよ」
ノルデン城に住んでいると忘れがちだが、北の地には魔物が出没する。また、いくら目を凝らして見張っていても、楚壁と呼ばれる城壁を越えてくる魔物は絶えない。
極北の兵士たちの仕事は多い。そういった魔物の駆逐、村の巡回、さらに最近は城壁の向こう側に砦を築く計画も進んでいる。
そんな北の屈強な兵士らが温泉に毎日浸かっているなんて、なんだかとても微笑ましい。
まだノルデン城の辺りには温泉地はないものの、アデラインもちょっと興味が湧いた。
「いいわね。楽しそうだわ」
「フィンもおっかなびっくり温泉に入っていたよ。……聞いていない?」
ライナーはまるで実の兄のよう。少し伺うような、心配そうな声で問われ、アデラインは言葉を詰まらせる。
実のところ、新年の祭事と大夜会の出席が決まったひと月ほど前から、あまりフィンとは話をしていない。それまでは夕食は必ず一緒だったので、城の使用人たちからも心配そうな視線を送られていた。
一緒の夕食といっても、その日にあったことの報告や、子育てについての相談や確認などが主な話題で、給仕役のルイスによると会議のようだなどと言われるようなものだったが。
「何かあった?」
ライナーに促され、窓の下に設えてある椅子に座った。
「……忙しいだけよ」
苦しい言い訳だと思う。妻であるアデラインが優先すべきなのは、夫であるフィンと子供たちのことだ。仕事を言い訳にするべきではない。
「そうかもしれないけど……」
ライナーはノルデンの男とは思えないほど穏やかだ。北の地は環境が過酷なことから、苛烈な性格のものが多い。そういえばこのところ穏やかだが、フィンも昔はそうだった。
「心配していたよ。君がどこかにいってしまうんじゃないかって」
だれが、とは言わない。
「どこに行けというの? わたしはノルデンの人間よ」
笑い飛ばすようにいうと、ライナーはそうだね、と微かに笑った。
「フィンの母上を覚えている? 僕達の在学中に亡くなったけど」
アデラインは頷く。フィンを産んでからすぐ、皇都の別邸で暮らしていた彼女の記憶は薄い。実の息子のフィンはあからさまに彼女を嫌っていたので、学園に入学した後もほとんど顔を合わせなかった。事故で急に亡くなってしまった時も、ノルデン王妃とは思えないほど質素な葬儀の最中、表情ひとつ崩すことなく淡々としていたのを覚えている。
「彼女のように、君も居なくなってしまうのではと思っているようだよ」
「だからどこにも行かないわ。あなたたち、二人揃って何を言ってるの」
ライナーの言葉が刺々しく感じるのは、体調が悪いせいだろうか。アデラインはひどく苛々としながら答えた。
だがライナーの穏やかな錆色の瞳はアデラインを真っ直ぐに見ている。なぜか、糾弾されているように感じた。
「シュタルツ侯、エミール様を忘れられない?」
ライナーの言葉に、心臓が跳ね上がった。
結婚後、誰もアデラインの前で彼の名前を口にしていない。文字ではなく声で紡がれるその名前は、アデラインの心をひどく揺さぶった。
だがそれを悟られぬように、アデラインは笑う。
「そんなわけないでしょ。もうとっくに終わっているの」
あれはアデラインの初恋。結婚した今、とっくに葬り去っていなければならない感情だ。
「そう」
何か言いたげな顔だったが、結局ライナーも口を噤んだ。アデラインは少しだけほっとしながら、うるさい心臓を宥める。
城のどこからか、子供たちの笑い声が聞こえてきた。カミルは今頃、ラルフに手を引かれ歩いているのだろうか。……あの頃のアデラインたちのように。
懐かしさに目頭が熱くなる
「僕は、フィンの妃は君で良かったと思っているよ」
ライナーがぼそりとそう言った。
「クレアは、誰かのために何かができる人間ではない。だから、王妃なんて滅私の仕事は向いていないと思った。だから僕はずっと前から、王妃に相応しいのはアデラインだと」
「やめて」
全てを言わせず、アデラインはライナーを睨みつけ、きっぱりと言葉を遮る。
「もうあの子はここにいないのに……どうしてどんなことが言えるの?」
「そうだと思ったからだよ、アデライン。だが実際そうだった。君が王妃になって、帝国との交渉ごとを担当してくれて、沢山のことがよくなった」
「それはわたしが陛下とお話ししたことがあったからよ。全部、彼の……」
言いながら、アデラインは言葉を詰まらせる。
苦しい胸を抑えながら、しっかりライナーを睨みつけながら言う。
「ノルデンが良くなったとか、わたしが王妃で良かったって言われるたびに思うわ。わたしは学園で、中央でかけがえのない絆を手に入れた。ただそれだけなのよ。そしてそれを裏切って……その恩恵に浴してる」
「アデライン……」
「クレアが王妃になったとしても、きっと同じだったわ。何も変わらない。むしろフィンは、クレアのそばにいられて、幸せで……」
慈しみと恋慕の温かい目でクレアを見守っていたフィン。それを受け入れて、いつも笑顔でいたクレア。もし二人が結婚していたら、フィンはあんなに切なそうな顔をする事もなかっただろう。
「それを横取りしたの。わたし……あの子の姉なのに……」
まるで誰かがアデラインの胸をぎゅうぎゅうと押しているように苦しい。両手で口元を覆い、苦しい呼吸を繰り返した。
「もう一度、あの頃に戻ってやり直せたらと思うの。でもそんなことは無理だわ。みんなを不幸にして、私は……」
ライナーが背中をさすろうと手を伸ばしたので、アデラインはそれを押し返す。今は誰にも触れてほしくなかった。
「ノルデンにとっては、君が王妃で良かったんだよ……」
申し訳なさそうに、ライナーが言う言葉も、ただ鋭い棘のようにアデラインに突き刺さる。
「ごめんなさい。あなたがフィンと、この国のために言ってるのはわかっているわ。ごめんなさい……」
でもアデラインはクレアの笑顔が脳裏に蘇る。奪い取ってしまった罪の重さに苦悶する。
「違う、違うよ。アデライン」
ライナーがゆっくりと首を振る。
「僕は君に幸せになってほしいんだ」
ライナーの言葉にアデラインは顔を上げた。
「君が何に苦しんでいるのか、僕にはわからない。けれど、僕はアデラインがそんなふうに自分を責めるのは間違えていると思う。君が苦しんでいるのは……クレアとフィンのことかい?」
驚いてライナーの柔らかい錆色の瞳を見つめた僅かな間、アデラインはふと幸せになってと書かれた懐かしい筆跡を思い起こす。
自分の幸せを望んでいる人がいることが、アデラインの心を震わせた。まるで澄んだ鈴の音のように、静かに胸に響いていく。
「……そうね。クレアを……わたしはクレアを裏切ったから……。私さえいなかったら、フィンだってわたしと、結婚しなくて……よかったのに……あんなにクレアを、愛していたのに」
なんとか言葉にできたのはそこまでだった。
(私さえいなかったら、エミールもあんな酷い裏切りに遭うこともなかったのに)
心にあるのはかつての恋慕よりも、激しい懺悔の気持ちだ。それはクレアとフィンに対しても同じ。
王妃としての役割を果たしたなどとよく言えたものだ、と思う。自分さえいなかったら、こんな誰もが不幸になるような事態を避けられたというのに。
アデラインは潸然と涙を流す。胸に突き刺さっていたものを言葉にした途端、何一つ堪えることができなくなっていた。
子供のように泣きじゃくるアデラインの背中に、ライナーのあたたかい手が触れる。
「違う、それは違うよ。アデライン。君がいたから、フィンも僕らも、そしてノルデンの民も救われたんだ」
諭すように言うライナーの声はいつも優しい。
だが一度関を切ってしまった感情は、止まることがない。違うと首を強く振ったところで、がっしりと強い腕に手を引かれる。
「何を話していた」
威圧するような低い声に、アデラインはぎょっとする。涙でぐしゃぐしゃの顔を上げると、アデラインとライナーの間にフィンが立ち、ライナーを睨みつけていた。
だがその視線に怯むことなく、ライナーは穏やかに笑う。
「アデラインと僕は幼馴染だからね。そりゃ踏み込んだ話もするよ」
「たかが踏み込んだ話程度でここまで泣くか。何を話していた」
そう言えば、フィンもだいぶ苛烈な男だった。今も全身から怒りのオーラを放っている。
アデラインはなんとか事態を収めようと背中から出ようとするが、フィンの力は強く、アデラインが押したところでびくともしなかった。
「……君たちはもっとしっかり話をするべきだと思う。フィン、君は言葉が足らないから」
「違うわ、フィンのせいじゃないの」
アデラインは必死に声を上げる。
「わたしが……」
「違うよ。アデライン。君は自分を責めるべきじゃない。これは、フィンが望んだことなんだ」
「ライナー!」
ライナーが微笑みながらきっぱりと言うその言葉は、アデラインの胸を抉る。
「……望んだ?」
「話が見えない。名前を出すくらいなら説明してくれ」
苛立ったフィンの声も、今のアデラインの耳には入らない。
「何も聞きたくないわ」
ふと喉をついて出たのは、拒否の言葉だった。
「大丈夫、どこにも行ったりしないし、新年の儀式もちゃんとノルデン王妃として、するわ。だからもう、許して……お願い」
誰に何の許しを乞うてるのか、アデライン自身にもわからない。呼吸が苦しいせいか、視界も暗い。
だが、一刻も早くここから立ち去りたい。
蹌踉めくように後退り、ふどく不安げな二人の顔を見返す。フィンなど先程の怒りはどこへ行ったのか、酷く困り果てた顔でこちらを見ていた。どうしていつも、彼は迷子の子供のような、寄るべのない孤児のような顔をするのだろう。
躊躇する心を振り払うように、アデラインはその場を去る。背後で心配そうにライナーが自分を呼ぶ声が聞こえたが、振り返らなかった。
お読みいただきありがとうございます。
主人公がネガティブ体質なので、たいへん重いお話にお付き合いいただき、ありがとうございます…。
この世界は入浴の習慣があるので、温泉は大人気です。シュテレでは一個しか掘り当てられず、しかも沸かさなければ使えない温度の温泉だったので、国王代理をしていたバルバラ女史は泣き崩れたそうです。熱い温泉に入りたかった…。
次回から皇都が舞台になります。
次回もよろしくお願いいたします。