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第6話 勿忘草の花冠

 ふわふわとした、酩酊感にも似た心地よい感覚の中で、アデラインは夢と現の間を彷徨っている。見ているのは、懐かしく甘い夢だ。


 そっと誰かの手が、現のアデラインの頬に触れる。優しく撫でるその温もりが心地よくもくすぐったくて、ふふっと笑いながらアデラインはその手に頬を擦り寄せた。


「夢を見ているのか?」

 記憶にあるより幾分か低い声で優しく問われ、アデラインは微笑む。

「……一緒に歩いた、あの、学園の庭……」

 アデラインの頬を包んでいた大きな手が小さく震える。

「いろいろな花が綺麗で……びっくりしたの。あんな大きな薔薇の花は見たことがなくて……」


「だがお前は、大きな花より小さな花の方が好きだろう」


 優しく落とされる声は静かだ。


「そうなの……だから、連れて行ってくれた……。あの花園」


 手を繋いで、見事に整えられた庭園を後にする。使用人宿舎の横を駆け抜けて、半分崩れた石垣を超えた。

 初夏の太陽の光を受けてきらきら光る、揺れる金の髪。それを目で追いながら、楽しく笑い合いながら歩いた小径。やがて目の前に広がった光景に、アデラインは息を呑んだ。


「……とてもきれいな、秘密の庭……」


 小高い丘一面に咲く小さな白い花。元々は学園の農地だったが、第一皇女がここに好きな花を植えたのが始まり。そこから花が増えて、ここは小さな第一皇女の秘密の花園。


 いとこの特権で教えてもらったのだと、エミールは笑う。そしてそれを引き継いで、いろいろな花を育てているのだという。彼はその花で花冠(はなかんむり)を作って、アデラインの頭にのせた。これ以上ないほど、優しい笑顔で。

 最近はぐんと背も伸びて青年らしさが増したというのに、時折見せる悪戯小僧の顔が愛しくてたまらない。


「白い勿忘草のお花……とても綺麗……楽しかったわね」


 あの日、花園のまんなかで、初めてのキスをした。

 唇が触れるだけの、幼い口付け。だが二人とも真っ赤になって、恥ずかしくて嬉しくてたくさん笑った。とても幸せだった。幸せすぎて、将来に何ひとつ不安などなかったあの頃。


「そうか。……すまない」


 夢の中のエミールとは明らかに違う、低く響く声音を聞いて、アデラインは急激に覚醒した。

 びくりと体を震わせると、それまで頬に触れていた大きな手が即座に離れる。


 ベッドの横に立つフィンが、心配そうな瞳でアデラインを覗き込んでいた。


「起きたか、体調はどうだ?」

 まだ頭がしっかりと冴えていない。目覚めの倦怠感と、痛み止めの薬の影響でぼんやりとする。その中でアデラインは必死に、先ほどの自分の発言を思い出そうとしていた。


(名前を、彼の名前を口走っていないかしら……)


 心臓がばくばくとうるさい。

 フィンと結婚して三年とすこし、一度もエミールの名前を彼の前で口にしたことはない。寝室も別なため、寝言を聞かれる心配はなかったが、今日は失敗した。


 アデラインの月のものは重い。

 どうしても毎月一日か二日は寝込むことになってしまうが、王妃と政務官を兼任している現状ではそれはなかなか厳しい。医師から痛み止めを処方されていたが、これを飲むと時々、まるで酒に酔ったような状態になる。毎回ではないので油断していたが、どうやら今回は仕事中に倒れてしまったらしい。


 自分は王城の執務室にいたはず、誰かが部屋まで運んでくれたらしい。もしかしてフィンだろうか。彼もこの所とても忙しくしていたのに……とアデラインは申し訳なく思う。


「ごめんなさい。迷惑をかけたわ」


「いや大丈夫だ。無理をしていないか?」

 心配そうに覗き込むフィンに、アデラインは心配ないと目を逸らす。あんな夢を見てしまい、後ろめたさを感じたからだ。

「ここのところ忙しかったから……」


 最近のアデラインは、国王となったフィンや政務総監のおじの補佐のような仕事をしている。加えて王妃としての公務に加え、プライベートでは二児の母だ。つい数ヶ月前に娘を出産したばかりで、最近ようやく仕事に復帰したばかりだった。


「やはりもう少し仕事を控えた方がいい」


 フィンの言葉にアデラインはただ首を振る。


「大きな山は越したの。あとは年始の準備だけ……皇都に行く前に終わらせておきたいことだけだから」

「いや、これ以上は無理をさせられない。アデライン、今年も国に残っていた方がいい」


 心配そうに言い募るフィンを振り払うように、アデラインはベッドから出た。大丈夫と言いながら、少し寂しそうな彼の顔を見ないふりをしてさっさと部屋を後にする。


 ずっしりとのしかかるのは罪悪感だ。もうだいぶ、エミールの夢を見る事などなくなっていたのに、よりによってフィンと一緒の時に。


 かつて裏切った恋人の夢を見る自分、心配して寄り添う夫を突き放すことしかできない自分。エミールを忘れることなく、フィンの優しさに甘えながら生きている。


 なんて情けなく、図々しいのだろう。


 アデラインは重苦しい心で長い王城の廊下を歩いた。





 ノルデン城は数週間後に控えた新年の祭りに向けて浮き足立っている。その中でも変わらず、執務室でアデラインは書類を片付けていた。

 自分には確かに休息が必要だと思うのだが、やりたいことが沢山ありすぎてどうにも気持ちが休まらない。


 帝国では王族、貴族は新年の祭事の席では必ず皇帝陛下に挨拶をしなければいけない。約半月(30日)ほど国を空けるので、その間国を守るのは現役から退いた親世代だ。子守もお願いしなければならない立場上、迷惑がかからないようにしっかりと準備をしておきたい。


 その出発を三日後に控え、アデラインの中にも浮つく気持ちがちょっとはある。


(考えてみれば、もう何年もノルデンを出ていないのよね)


 アデラインは結婚後、一度も皇都に行っていない。

 あの初夏の日から時を置かず、秋の初めにはフィンとの結婚式を迎えた。できるだけ早くに後継を儲けたいと、渋るフィンを説得し次の年の夏には可愛らしい男の子を産んだ。

 フィンによく似た赤い目に、黒い髪の男の子。


 フィンは息子にカミルと名付け、とても可愛がっている。今年生まれた娘、リーナも黒い髪に薔薇色の瞳だ。これから成長するにつれ色は変わるかもしれないが、ノルデンらしいその色にアデラインはほっとした。これで王妃としての責務を一つ果たしたことになる。


 妊娠や出産を理由に避けていた皇都だが、これからはフィンの妻として、帝国関連の公務に顔を出したい。

 結婚してからずっと一人だったフィンは、さぞや肩身が狭かっただろう。それを思うと居た堪れなくなり、やはり何がなんでも来年の新年の祭事と、そのあとに開催される大夜会には出席せねばという気持ちになる。


(今の皇帝はあの皇女様だから、お会いしたい……)


 帝国では、数年前に行方不明だった第一皇女がひょっこり戻ってきて、今は皇帝位を継いでいる。

 まだ即位間もない皇帝は辣腕らしい。最近では規模が小さいものの海軍を編成し直し、大陸周辺の海に蔓延る海賊を制圧したのだとか。

 学生時代から知っている彼女に、是非とも挨拶をしたい。


 そしてもう一つ、密かな望みがあった。


 新聞や雑誌を読めば、かつての恋人エミールの目覚ましい活躍ぶりを知ることができる。あの後すぐに彼も第二皇女と結婚し、廃されたユッタ侯爵領を引き取りシュタルツ侯という名前も得た。現在は皇帝の側近として働いているらしい。


 そんな彼のことを思い出すたび、アデラインの胸は誰かに強く押されたような、そんな息苦しさを覚える。


(……彼に会いたい)


 なんのために? と問いかけるが、自分でもそれはわからなかった。ただ、会いたいという強い気持ちが、残火のように心の中に燻っている。


 だが今のアデラインはフィンの妻だ。身分は辺境国の王族と帝国十家の侯爵家、大きな隔たりがある。

 人混みの間から、ちらりと見る姿でもいい。横顔だけでもいい。その姿を見ることができれば。

 あの穏やかな翠玉の瞳に、自分は映り込む価値はないと思う。


(だけど……)


 泣きながら書いた、彼に別れを告げた手紙。その返信として最後に彼から届いた手紙を、アデラインは何度も何度も読み返した。


『どうか幸せに』

 短い言葉に添えられた、勿忘草のドライフラワーの栞。


 エミールは道端の花をよく摘んで、ハンカチに包んで大切に懐にしまっていた。聞けば、なんとお花で栞を作る趣味があるのだという。彼の母君はすでに亡くなっていたが、その彼女が最後に彼に教えてくれたのがその栞の作り方だった。


『兄上にも姉上にも、女の子みたいだって笑われるんだ』

 拗ねたように言いながら、いろいろな花の栞を贈ってくれた。


 自分を裏切った恋人に、そんな栞を贈るなんて。しかも、秘密の花園で一緒に摘んだ勿忘草。

 勿忘草は甘い記憶が詰まった花だ。


 ひとり自分の部屋に閉じこもり、声を殺して泣いた記憶は、まだアデラインの中で生々しく残っている。それを忘れることができない自分は惨めで、そしてフィンに対してもエミールに対しても不誠実だ。

 そうは思うものの。


(……こんなこと、考えても仕方ないのに)


 書類をぼんやりと眺めながら、アデラインはひっそりとため息をついた。鎮痛薬のせいか、今日はどうにも集中力がない。

 だらだらと作業をしていても仕方ないので、叔父に挨拶をして執務室を後にした。庭園の隅っこで少し頭を冷やすか、子供部屋に行ってカミルとリーナの様子でもみようかしらと、廊下の真ん中でうんうんと悩んでいると。


「おうひさま!」

 子鹿のように元気よく、小さな男の子が駆け寄ってきた。

「まぁラルフ! 王城に来てたの?」

「はい、ちちうえとといっしょです! カミルとあそんでもいいですか?」

「もちろんよ。よろしくね、ラルフ」


 ラルフはライナーの長男で、来年で五歳になる。ふわふわの猫っ毛は母親譲りだが、顔は幼い頃のライナーによく似ていた。あまりの愛らしさに、アデラインは思わず破顔する。


「じゃあいってきます!」

 両手をぶんぶんと振りながら、お目付け役の少年と一緒に駆けて行く。アデラインの子供の時と違い、今子供部屋にはカミルとリーナしかいないので、ラルフが行けばカミルは喜ぶだろう。


「あ……置いて行かれてしまった」

 情けない声を出しながら、ライナーが階段を登ってきた。アデラインと顔を合わせると、にこりと微笑む。彼は今、軍務関係の仕事をしているというのに、相変わらず和かな雰囲気だ。


「ライナー、久しぶりね」

 アデラインが声をかけると、彼は情けなさそうに頭を掻く。息子に置いて行かれたことが気恥ずかしいらしい。


「久しぶり、アデライン」

 既に息子が二人おり、現在夫人が妊娠中のライナーも忙しく過ごしている。今月もフィンの北部視察に同行していたはずだ。


「北はどう?」

「ああ、新しい砦が完成した。温泉、あれはいいね」


 アデラインは目を丸くする。

「砦に温泉を引いたの?」




お読みいただきありがとうございます。


アデラインは子供の世話を全くしていません。

二人子供がいますが、いまだにおしめもまともに替えることができません。子供の世話は実母のウタと乳母たちがしてくれています。だからこそ政務に集中できているのですが。

ちょっと情けないので頑張ろうと思うのですが、人には向き不向きがあるのだなぁと思い知っただけでした。

それでもできるだけ毎日、夫婦で子供と過ごす時間を設けています。この時期はそれも疎かにしているので、城の人たちはみな心配していますが……。


次回もよろしくお願いいたします!

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