第5話 どうか、わたしを忘れて
あの日の事は、まるで昨日の事のように鮮烈に記憶に残っている。
学園に入学した初日、入学式が終わり、教室に向かっている途中だった。
「アデライン・ゲルスター!」
突然背後から名前を呼ばれ、しかも呼び捨てにされて驚いた。隣を歩いていたフィンも眉を顰めて振り返る。
学園には暗黙のルールがいくつかある。例えば自分より爵位の高いものには自分から話しかけてはいけない。名前を聞かれるまで、声を出してはいけない。学園と言ってもここは小さな貴族社会。ルールを守ることは自分のためにも家のためにも、そして自分の国のためにも必要なことなのだ。
「何者だ」
怒気を隠さないフィンは、即座にアデラインを自分の背中に隠した。アデラインが恐る恐る彼の背中から覗くと、そこには華奢な美少女がひとり、立っていた。
(あら、なんて可愛らしい)
思わずアデラインは手で唇を隠す。あまりにもその少女が可憐で、口元が緩んでしまった。
冷たい冬の風に揺れる癖の強い髪は金色。まるでたんぽぽの綿毛のように、ふわふわとしている。くるんと大きな瞳は透き通るような翠玉の色で、その目を縁取るまつ毛はこれまた美しい金色。
すらりと整った鼻梁に、小さな唇はほんのりと紅いが、なんだかへの字になっているような気がする。
身長はアデラインの方が上だろうか。華奢ながら手足はすらりと長く、……スラックスを履いていた。
「……男の……子?」
思わず声が出てしまう。
この場合、相手の爵位がわからない以上、黙っているのが賢明だったかもしれない。だがあまりの可愛らしさに、のんきなアデラインはつい身を乗り出してしまう。
「ぼっ、僕の名前はエミール、エミール・サヴァーラントだ! 女じゃない!」
少年は癇癪でも起こしたように声を上げる。
だがその家名を聞いて、アデラインは目を丸くした。思わずフィンを見上げる。彼も困惑したように、アデラインと少年を見比べていた。
サヴァーラントは帝国十家のうち、最も尊い公爵家だ。なんでもその昔、黄金の女神の娘が降嫁した家系なのだとか。
そのため、黄金の女神の息子たちの末裔とされる皇帝家、シュヴァルツエーデ公爵家、ノーヴァ公爵家に比べると、少し柔らかい印象がある、とアデラインは思っていた。だが、この貴公子を前にするとその自分のイメージも間違いではない気がする。
少年はぐいぐいとアデラインに近づこうとする。フィンが手を伸ばし、少年を制した。
「サヴァーランド様、この者は私の妹のようなものだ。不躾なことはしないでいただきたい」
たしかこの少年……エミール・サヴァーラントは新入生代表で挨拶をしていた。アデラインたちは式典会場の端っこにいたので、その姿を見ることはできなかったが、はきはきとしてとてもわかりやすい挨拶だったと思う。確かあの代表挨拶は入学試験で成績が良かったものがすると聞いたので、この可愛らしい少年もアデラインと同い年のはずだ。
「ノルデンの王子か。申し訳ない……ただ少し、少し悔しかったんだ」
少年は真っ赤な顔で拗ねるようにそう言い、そして顔を上げて二人をまっすぐに見る。
「突然声をかけてすまない、アデライン嬢。その……入学試験で、君の成績が僕より高かったそうだ。僕は自信があったし……、その、誰かに負けるとは思わなかったんだ。なので、どんなやつなんだろうと思って……」
言い訳のようなエミールの言葉は、だんだん小さくなり、最後は聞こえなくなってしまった。
それに比例するように、顔はますます赤くなる。
そんなエミールが可愛らしくて、アデラインは先程から唇が緩みっぱなしだ。アデラインは兄と歳の離れた弟たちしかいない。幼馴染で従兄弟のフィンはこんななりだし、これ程愛らしいエミールは今まで周りにいなかったタイプだ。そしてクレアを可愛がっているアデラインは、かわいい子にはめっぽう弱い。
「サヴァーラント様、声をかけていただき、ありがとうございます」
アデラインはフィンの手をそっと退けると、エミールの前に進み出る。遅ればせながら淑女の礼をした。顔を上げると、ぽかんとした顔でこちらを見ているエミールがいる。
「わたくしも、あなた様と同じ学舎で学ぶことが出来て光栄です」
アデラインがにっこりと微笑むと、エミールははっとしたような顔をした。先程から表情がころころと変わって、ますます愛らしい。
「僕もだ。どうかアデライン嬢、僕の友人になってくれないだろうか」
「まぁ、お友達、ですか?」
アデラインは少し戸惑い、フィンを見上げる。だが表情の薄いフィンの赤い瞳も、戸惑ったような色を浮かべていた。そしてすぐにエミールとアデラインの間に立つ。
「サヴァーラント様、お申し出はありがたいが、我々は北の小国のものです。身に余ることかと」
フィンの言葉は、はっきりと突き放すものだった。だがエミールはきっとフィンを睨み上げる。
「僕はアデライン嬢に聞いている。ノルデン王子フィン殿、君は彼女の婚約者か何かか?」
エミールがフィンの名前を知っているのは驚きだった。だが、可愛らしい顔でしっかり凄んでも、さっぱり怖くない。むしろ可愛い。真っ黒な大型犬に、金色でふわふわな長毛の仔猫が威嚇しているようではないか。
「いえ、違いますが」
「なら君が間に立つ必要はない。兄弟でも親でもないなら、彼女と親しくなるのに君の許可はいらないはずだ。どきたまえ」
だが真っ黒な大型犬は引こうともしない。なんとなく硬くなった雰囲気に思わずアデラインは「あの……」と手を挙げる。
「……異性ですし、お友達、と言うのは少し難しいかもしれませんわ。でもわたくしは一緒にお勉強していただける学友はいつでも歓迎ですの。フィン、あなたもそうよね?」
にっこりと微笑みながら言うと、フィンは「おう……」と低く呟いて身を引く。
「サヴァーラント様、切磋琢磨しあうお勉強仲間として、わたくしやフィンと仲良くしていただけますか?」
そのアデラインの顔をまっすぐに見て、「か、かわいい……」とエミールが蚊の鳴くような声で言った。
驚いて目を丸くするアデラインの手を勝手に握って、「どうか、どうかよろしく頼む!」と叫んだエミールはその時、アデラインと同じ目線の高さだった。
その年の夏にはエミールの目線が少し高くなり、そしてアデラインはエミールから愛の告白を受ける。まさか辺境国の貴族の自分がエミールの恋人になるなんて思いもしなかった。
「決めていたんだ。あの日から。アデラインと一生一緒にいるって」
そう言いながら微笑むエミールは、いつのまにか可愛い少年ではなく、頼りになる一人の男性に姿を変えた。
いつかフィンを負かしてやると剣術も習いはじめ、凄まじい努力の末にわずか数年でフィンから一本を取るようになっていた。いつかの剣術大会で、優勝のフィンの隣に準優勝のエミールが立つのを見た時、アデラインは胸がいっぱいになり、ただぼろぼろと泣いた。
エミールは準優勝の証である花冠を戴いたまま、アデラインに隣に立ち優しく微笑む。
「僕は本物の騎士にはなれないけど、アデラインを一生守り抜く騎士になるよ」
嬉しかった。
もう全身に力が入らなくなるくらい、嬉しかった。嬉し泣きで号泣するみっともないアデラインを愛おしそうに、それでも嬉しそうに見つめていたエミール。
「わたしはあなたの妻になりたかったわ……」
真っ黒な部屋の中、手元の灯りだけでエミールから送られた手紙を何度も読み直し、そのうち涙が止まらなくなったアデラインはそっと呟いた。
今朝受け取った手紙は、エミールからの状況の説明だった。自分が皇女の結婚相手として望まれていること、祖父母も乗り気なため、一度断ったものの話が進もうとしている。だが自分はアデライン以外の妻を迎える気は一切ない、なのでどうか、信じていてほしい。
『いざとなったら、何処かに逃げようか? 身分も、地位も財産も何もかも捨てて』
悪戯な子供のような言葉がそこには綴られている。
「どんなこと、できるわけないじゃない……」
エミールは帝国の南の要所、シュタルツ辺境伯の当主で、自分は北の砦、ノルデンの貴族なのだ。
そもそも貴族の結婚は政略が基本。これまで自由に恋愛ができていた自分たちの方が、特別だった。
声を出せばそれは嗚咽になり、溢れる涙で手紙のインクが滲む。アデラインは慌てて手紙を机の上に置き、そして返事を書くために便箋とインク壷を出す。
別れは自分から告げる、とフィンに宣言した。
彼はこの国の状況も踏まえて自分が説明すると譲らなかったが、最後はアデラインが押し通した。エミールのことだ。自分たちの結婚に皇帝が関与していると知れば、憤然と皇帝に抗議するだろう。彼はそれができる立場にある。だが、そうして変に問題が拗れるのは不本意だ。彼のためにも。
あくまで自分が、フィンとの結婚を選んだようにしなければいけない。アデラインはそう心に決める。
だが、どれだけ泣いても涙が止まらない。
泣きすぎて声は枯れているし、鼻水が詰まって息もまともにできない。
(エミール、エミール……)
それは自分がこれから裏切ろうとしている、愛しい人の名前だ。今からすることは、アデラインを愛して、アデラインだけと誓ってくれた人の、心を踏み躙ることだ。
自分が泣くべきではない。
自分はこれから、彼を失望させ悲しみに突き落とす。それなのに涙を流すなんて、なんて厚かましいのだろう。
(どうか、わたしのことを嫌って……、憎んでくれてもいい……。あなたは優しい人だから、それができないなら……わたしを忘れて)
重苦しい心のまま、アデラインはひたすら、そう祈りながら、便箋に文字を綴る。この手紙を書き終える頃には、アデラインはエミールへの恋心を永遠に封じ込めなければいけない。心の、奥底に。
(あなたの柔らかい心が、温かい気持ちが、どうか少しでも苦しむことがありませんように……)
この手紙を受け取る彼も、アデラインへの気持ちを捨て去ってくれればいい。
そうして彼が彼らしく、変わらぬ清く正しいままでいてくれれば。ただ、彼の心を曇らせることだけはしたくない。それだけを望みながら、必死にペンを走らせる。
『どうか、わたくしのことをを忘れてください』
なんとか綴ったその文字は、ひどく震えた、歪なかたちだった。
お読みいただきありがとうございます。
サヴァーラント家出身のものは、みな細かいくせ毛でふわふわの金髪を持っています。ファントム・ミラーにちろっと出てきたオティーリアも同じ、ふわふわ金髪女子です。彼女から見てエミールは曾祖叔父にあたります。
エミールはお母様そっくりの美人です。
次回もよろしくお願いいたします!