表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/18

第4話 灰色の空(下)

 酷く気まずそうな顔のまま、フィンは話し出す。


「少し話は逸れるが。最近、シュタルツ伯爵から何か連絡はあったか?」

 シュタルツとは、エミールが受け継いだ爵位の名前だ。アデラインは首を傾げる。

「今朝届いたわ。夜に読もうと思ってまだ部屋に置いたままだけど……」


 恋人からの手紙だ。本当は今すぐにでも読みたかったが、正直、勇気がなかった。


 本来ならもっと進んでいいはずのアデラインたちの結婚話も、エミールの祖父や祖母たちの反対で遅々と進まない。帝国貴族の彼らが、田舎国の伯爵家の自分との結婚を認めてくれないのは仕方がない。ただ、必ず説得するから待っていてくれというその言葉以外、今のアデラインには信じられるものは何もないのだ。

 その状況は、正直に言ってとてもつらい。


 フィンはひとつ頷く。


「そうか。ジョセフィーヌ妃の娘、第二皇女のアデライン様は、今回の事件に一切関与していないことが証明された。だが皇籍からは除籍される。学園は卒業されたが、その先には寄る辺がない。今も皇城で軟禁状態だそうだ」


 アデラインは嫌な予感がした。記憶をたどりながら、そっと眉を寄せる。


 学園時代、年に一度豊穣祭の前に開かれる学園内の武術大会。見事な戦いをしたものや優勝者に花冠を授けるのは、学園で最も高貴な身分の者だった。

 皇女が入学した最初の年に、エミールに花冠を被せたのはアデライン皇女。その時ほんのりと上気した頬を、アデラインは生徒会の実行委員の仕事をしながら間近で見ている。


 そしてその後も、アデラインという恋人がいるのにも関わらず、皇女はエミールに積極的に近付いてきた。最後の年、卒業の式典の後のダンスパーティでは、アデラインに嫌がらせの足止めをして、自分がエミールのパートナーになろうとした程。


 じんわりと、フィンの手拭いを握る手が汗ばむ。


「こんな……たいそうな事を、当の皇女様が無関係なんてことがあるかしら……」

「わからない。学園にいる以上、外部との接触は限られる。『知らない』で通るかもしれないが。だがこれは皇帝陛下の温情だろう。実の娘まで処刑できなかったのではないか?」


 フィンの声はどこか刺々しい。同じ学園内にいても、許された皇女と許されなかったクレア。


「そこでご本人の意向を確認したところ、シュタルツ伯爵の元で暮らしたいと希望したそうだ。あそこはヴァルドフェス公爵家の分家でありながら、サヴァーラント公爵家とも縁が深い。だが王国内ではそれほど立場が確立しているわけでもない。陛下は『ちょうどいい』と判断されたそうだ」

「ちょうどいい?」

「そうだ。帝国の四公爵のうち二つが重しになり、監視の目も行き届く。現伯爵のエミールは人格者として名高い。皇女ではなく娘の嫁ぎ先としても問題はないと。皇帝陛下はそう判断されたそうだ」


「なに……それ……」

 唇が震える。声も酷く震えた。


 エミールの恋人は自分だ。

 いまだに婚約すら交わすことが出来ないでいたが、年始の大夜は必ず一緒に踊る。彼の祖父母に嫌な顔をされても、エミールはアデラインの手を離す事はなかった。永遠を誓い、彼が私財で買った見事な翠玉の指輪も贈られた。そこに他に誰かが入り込む余地はないはずだ。


「言葉のままだ。シュタルツ伯爵は皇帝陛下からその話をされた時、自分には将来を誓い合った相手がいるのでと断ったらしい。なので、今回俺が呼び出された」

 フィンは深く息を吐く。

「俺はお前との結婚を命じらた。お前が俺の妻となり、お前の方からシュタルツ伯爵との話を辞退して貰うようになる」


 彼の言葉が理解できない。問い直そうにも、喉が引き攣って言葉が出ない。


「お前には本当に申し訳ないと思うが、ノルデンとしてはこの話を断る理由がない。本当にすまない」


 フィンが深々と頭を下げる。

 一方のアデラインは激しく混乱していた。フィンの言葉を反芻しつつも、頭の中は真っ白だった。


(フィンと、わたしの結婚?)


 何もかもが現実味がない。フィンの言葉も、水の中のようにぐわんぐわんと響いてよく聞き取れない。呼吸すらままならないことに気がついて、アデラインは大きく息を吐いた。


「無理よ……あなたはクレアがいるのに!」

 思ったより大きな声が出た。

 普段声を荒げる事のないアデラインの声に、さすがに驚いたようにフィンは目を見開く。そして穏やかに笑った。


「それはもう、終わっている。終わっているんだ、アデライン」

「終わっ、て……?」

「そうだ。俺とクレアにはもう未来がない。なすべき事は、過去にしがみつくことではない。未来を見据えて動くことだ。だが、その未来には、お前の力が必要になってくる」


 いつも無骨な彼らしくない、穏やかな話し方だった。もうすでにフィンの心が決まっている、と言う事だろうか。だがアデラインはひどい混乱状態から抜け出せずにいる。


「この結婚が成立すれば、皇帝はノルデンへの援助を増額すると約束してくれた。少ない金額ではない。これで、飛地(とびち)の整備や北の砦の設備を増やせる。兵士たちの救いになるんだ」


 ノルデンは大陸最北端の国、ここよりさらに北には、見捨てられた大地とかつて存在していた亡国の廃墟しかない。そしてそこには、なぜか夥しい数の魔物が存在する。


 魔物がどこから来て、なぜ人を襲うのか、その理由は全く知られていない。ただ人を襲い、喰らう。


 かつて帝国の守護者である金の女神が強い結界を張り、魔物たちを退けた。魔物たちは人の世界から離れ、はるか北にある漆黒の大地に根付いたという。

 だが、その結界は完璧なものではなかった。時に大量の魔物たちが結界の綻びから入り込み、人の世界を蹂躙した。

 嘆いた黄金の女神は、妹神である琥珀の女神を北の大国に降嫁させ、琥珀の女神の守護獣『涅色の獅子』を二つの強力な武器へと転じさせた。

 北の大国、今では北の大公国と呼ばれるベルンシュタイン大公国を挟んで西のシュテレ、東のノルデン。この二カ国は涅色の獅子の武器を携え、北の大公国守護の双翼と呼ばれている。


 この三カ国は共に長い城壁を築き、そこを境に魔物が人の世界に踏み入れることがないように守ってきた。そして帝国も、その三カ国には長らく援助の手を差し伸べていたのだ。

 だが中央の宮殿にしたら、魔物の脅威などいつのまにか書類上のことだけになっていたのだろう。長い月日の間に、帝国からの資金援助は僅かな金額になった。

 特にこの十数年、魔物たちの大規模な襲来もない。だが、それでも魔物たちは北の大地から現れるし、実際城壁を超える事も度々ある。毎年、三カ国を合わせればそれなりの犠牲者も出ていた。


 その被害を食い止めるための軍事費は、ノルデンが喉から手が出るほど欲しいものだ。


「こんな言い方は卑怯だと、重々承知している。だが俺は、これ以上ノルデンの民を犠牲に強いたくない。さらに言えば、この事で皇帝の不況を買って、窮地に立つ事は避けたい」


 それはまさしく、国主としての正しい言葉だろう。だがアデラインは、いまだ痺れたように動けないでいる。ただただ、呼吸を整える事で精一杯だった。

 それを切なそうに見ながら、フィンは改めてアデラインの顔をしっかり見つめた。戦士らしい屈強な体で背筋を伸ばし、そして何よりもまっすぐな瞳でアデラインに向き直る。


「どうか、アデライン。俺の妻になってくれ。お前が他の男を愛していても構わない。俺の事を憎んでくれても構わない。だがこの求婚に応じてくれたら、生涯守り抜いて、決して不幸にさせないと誓う」


 ここまでの話を聞いて、それ以上拒否することなどアデラインにはできない。


(いや……嫌だって、叫びたい……)


 頭の中でぐるぐると巡る感情は、こんなことは嫌だと叫んでいる。だが、もし自分が拒否したら、どうなるのだろう。


 ノルデンの北方地域は過酷だ。凍てつく寒さに、溢れる魔物たち。大地の実りも少なく、代わりになる産業も魔鉱石や宝石が僅かに取れる鉱山だけ。

 これ以上帝国の援助が減ったら、北の砦の兵士たちには過酷な未来しかない。あの地に住む民の未来は、さらに酷いものになるだろう。

 そうなると知っていて、皇帝の命に背く事などできるだろうか。


(……わたしは、ノルデンの貴族の娘なんだ……)


 フィンの赤い瞳が、貫くようにまっすぐアデラインを見つめている。その目を見返すのは怖かった。はくはくと浅い呼吸を繰り返しながら、なんとか震える唇で言葉を紡ぐ。


「……かしこまりました。アデライン・ゲルスターは、あなたの妻になります……」


 その言葉を口にするだけで、いろいろな感情が胸を締め付ける。笑顔のクレア、彼女を愛おしげに見つめるフィン。はにかむように微笑みながら、アデラインの額にそっと口付けを落とした最愛の人、エミール……。


(エミール、エミール……!)


 もうその名前を、呼ぶことはできない。

 アデラインは全く違う男の妻になるのだから。心が切り裂かれるように苦しい。滔々と流れる涙を拭うこともできず、アデラインはフィンの手拭いを握りしめて嗚咽した。


「すまない、アデライン」


 ため息のようなフィンの声が響く。


 二人だけの静かな室内、屋外では訓練をしている兵士達がいるはずなのに、その掛け声の一つも聞こえてこない。


「不甲斐ない国主ですまない。君の幸せを妨げてすまない。こんなありきたりな言葉しか出てこないが。本当に、君の将来を奪って、申し訳ない」

 懊悩の末に発せられたような、低く静かな声だった。


 アデラインは思わず彼を見つめる。

 フィンは眉間に皺を寄せたまま、酷く苦しそうな顔でそこにいた。

 いまだに涙は止まらないが、フィンの弱音を初めて聞いた衝撃は大きい。アデラインは慌てて首を振る。


「そんなこと、ないわ。フィン」

 涙のせいで酷く聞きづらい声だったからか、フィンはふと視線を逸らした。その視線をこちらに向けて欲しいのに、その方法がわからない。アデラインはただ言葉を重ねた。


「あなたの決断は正しいわ。だから、自信を持って……フィン。どうか、この国のために……」

 そこで言葉が詰まる。そして、ようやく気がついたのだ。


 この国のために、フィンは望まぬ結婚をする。その相手が、自分だ。

 クレアのような華やかな容姿は持っていない。いつも微笑みを欠かさない、大輪の薔薇のような明るさもない。そんな自分との結婚を皇帝に命じられたなんて、彼にとってなんて不幸なことなのだろう。


 胸の内側を細く鋭い短剣で切り開かれたように、ひどい痛みが走った。そこに氷のような冷たい杭が突き刺されたような気がして、アデラインは息を止める。


 だがフィンはまるで放心したように、静かに息を吐く。絞り出すような声は静かで、そして少しだけ震えていた。


「ありがとう。アデライン。ありがとう」



お読みいただきありがとうございます。


筆頭公爵家はふたつ、西の公爵サヴァーラントと北の公爵シュヴァルツエーデです。あとの二公爵(ノーヴァ、ヴァルドフェス)は方位を付けません。

大公は三家、北のベルンシュタイン、東のワルド、南のエルフェンバインです。北が二つあるのでたいへん紛らわしいです。

エミールが受け継いだ爵位シュタルツは辺境伯とも呼ばれます。


趣味全開のお話ですが、次回もよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ