第3話 灰色の空(上)
本日も2話更新です!
ノルデン城の窓から見上げた空は、灰色で重い。
遥か彼方にある天まで届くほど高い山脈には、既に重い雲がかかっている。あの雲がこちらまで流れてきたら、ひどい雨になるかもしれない、とアデラインは鬱々とした気持ちで窓から外を眺めた。
このノルデン城は学園のある帝国の皇都エルデンと比べ標高はかなり高く、さらに王都のすぐ横を大きな黒河が流れているためか、空気はいつも冷たい。初夏のこの時期でもまだ上着は手放せず、開け放した窓から吹き込む風もひんやりとしていた。
学園の卒業後、ノルデンに帰国してから二年と少し。生まれ故郷のこの場所より、皇都の方が過ごしやすかったとつくづく思う。
(学園の花園は、もうそろそろ夏の花が咲くわね)
色とりどりの花が咲き乱れていた学園の庭には、名前を冠した花園がいくつもあった。恋人のエミールと並んで、他愛もない会話をしながら歩いていた日々が懐かしい。
そんなふうに学園にいた頃のことばかり思い出すのは、今の状況がなかなかに厳しいものだからだ。
どんどん暗くなっていく気持ちを奮い立たせることもできないまま、アデラインは深いため息をつく。
本来ならクレアとフィンの結婚式がこの夏に行われるはずだった。そしてそれを見届けてから、帝国内で伯爵位を継いだエミールの元へと、アデラインが嫁ぐ事になっていたのだが。
手を伸ばして、窓を閉じる。
ノルデン城はもともと巨大な砦だった場所だ。『忘れ去られた地』と呼ばれる北から、人を襲うために侵入してくる魔物と戦うために作られた城砦。なので窓も重々しく、アデラインが両手を使っても閉じるのに苦労するほどだ。
(もっと単純だったらいいのに)
この城も、自分たちの抱える問題も。
「アデライン」
突然名前を呼ばれて、アデラインは飛び跳ねるほど驚いた。
「フィン、帰っていたのね」
振り向くと仏頂面のフィンが廊下に立っていたので、アデラインは慌てて彼の元に駆け寄る。
学生時代、並んで歩いていた彼は今ではこの国の王位継承者。政務官として働くアデラインにとっては上司だ。
今月の初め、フィンは帝都からの呼び出しに応じて慌ててノルデンを出立した。まだそれから三十日程しか経っていないので、おそらく大急ぎで帰国したのだろう。流石にこの旅程は厳しかったのか、普段壮健な彼の顔にも疲労の色が濃い。
「アデライン、話がある。悪いが俺の執務室に来てくれ」
いつもよりフィンの声にはりがない。
アデラインは不安になり、すぐそばに立ち彼の顔を見上げた。顔色も悪く、目の下にはくまもある。今すぐに休みたいだろうに、そんなに急ぎの用事なのだろうか。
「フィン、わたしは今日は一日お城にいるわ。まずは少し休んだほうがいいんじゃない?」
アデラインの提案に、フィンは困ったように目を細める。
「大丈夫だ。むしろこの話をさっさと済ませてしまいたい」
幼馴染だ。無表情なフィン相手でも、多少の感情の機微くらいは読み取ることができた。今の彼は本当に疲れきって、落胆しているように見える。
フィンの執務室に入ると、付人のカティがお茶を出してくれた。だがすぐに下がる。どうやらこの話は他の人には聞かれたくないのだろうと察して、アデラインは落ち着かなくなる。
そういう話はよくないものの方が多い。
まずひとつ、フィンは深いため息をついた。
「俺と父上の仕事を肩代わりしてくれたことに感謝している。国王代行は大変だったろう」
「いえ、おじさまもいましたし。大きな問題も起きずに済んだので」
「ありがとう。モルトカ家の処遇が決まった」
フィンの絞り出すような言葉を聞いて、アデラインは思わず息を呑んだ。
ノルデン国王であるフィンの父は、去年の年末から帰国していない。帝国で起きた大きな事件、皇太子暗殺未遂事件にこの国の貴族のひとつ、モルトカ伯が関わっていることが判明したからだ。
ことの起こりは去年の夏至の祭事のさなか、皇帝陛下が倒れた。すぐに祭事が中断され、その翌日には皇太子である第一皇女の計画した皇帝陛下暗殺計画であると発表された。
皇帝・皇太子に代わりその発表をしたのは皇妃のヨゼフィーヌ。それまで滅多に表舞台に出たことのない、第二皇女の母親だ。
第一皇女はアデラインのニつ年上、学園に入学した時ちょうど生徒会総会長を務めていた。しゃんと伸びた背筋に、張りのある声。堂々としてまさに皇太子として相応しい人だった。その彼女が、皇帝陛下を暗殺?
誰もが首を傾げるような事態の中、皇帝陛下が目を覚ます前に事は進められる。祭事の翌日の午後には第一皇女の廃嫡が決まり、さらにその次の日には処刑が発表された。
ようやく状況の異常さに騒ぎ出した貴族達だったが、素早く動いたのは帝国貴族筆頭、西の公爵だった。
即日、西の公爵家当主が私軍を率いて宮殿を制圧、囚われていた姪の第一皇女の救出に向かったが、すでに牢に彼女の姿はなかったという。忽然と消えた第一皇女は、いまだに行方不明のままだ。
西の公爵のもと、皇帝の暗殺そのものがジョセフィーヌ妃の実家ユッタ侯爵家の策謀だと判明する。即座にもう一つの筆頭貴族、北の公爵によってユッタは制圧され、この陰謀に関係している貴族が炙り出された。その中に、ノルデン王国のモルトカ伯爵家の名前もあったのだ。
それが約半年ほど前のこと。
「現在の伯爵夫人、クレアたちの母親はユッタの傍流だ。ユッタに同調していたらしく、今回の計画には帝国軍にいたエドも関わっていたらしい。伯爵と伯爵夫人、エドは実行犯として処刑される」
「処刑……! そんな!」
アデラインの喉が引き攣る。
三人とも、よく知っている。エドは性格が悪いが、幼馴染には違いない。
愕然としているアデラインに構わず、フィンは淡々と話す。
「ユッタ侯爵家は大人は処刑、成人前の子供は許されるとのことだが、地方の神殿に封じられ、一生外に出ることはできないそうだ。侯爵家は断絶、他にもいくつかの貴族が断絶されるらしい。モルトカもその一つだ」
「そう……クレアは? クレアはどうなるの?」
学園にいたクレアは即座に拘束された。だが、彼女はことの次第を全く知らず、学園という特殊な環境にいたこともあり、この事件には加担していないとされたらしい。ただし、身分は平民に落ちる。命は救われたが、それ以外の全てを失ったと言っても過言ではないだろう。苦々しい顔でフィンがそう話す。
「そんな……」
クレアは天真爛漫で、問題行動も起こすが根はまっすぐで良い子だ。そんな陰謀に加担するはずがない。ジョセフィーヌ妃の娘、第二皇女ともそれほど仲は良くない。むしろ、高慢で人格的に問題があると嫌っていたほどだ。
そのクレアがどうしてそんな目に遭うのか。
鼻の奥がつんとして、涙が溢れる。
誰よりも元気いっぱいで笑顔が絶えないクレアが、今は何を思っているのだろう。どんなにか心細く感じている事だろうと思うと、胸が締め付けられるように悲しい。
アデラインがぼろぼろと涙をこぼして泣き出したのので、フィンはため息ひとつ吐く。そしておもむろに何かを差し出した。受け取り、まじまじとそれを見てアデラインは苦笑いをする。ハンカチではなく手拭い。これで涙を拭けというのか。なんともフィンらしい。
そこでアデラインははっとした。
クレアはアデラインには妹だが、フィンにとっては婚約者だ。彼もアデライン以上に、彼女のことを心配しているに違いない。そう思うと、ぐずぐずと泣く自分がとても情けなく思えた。
「ごめんなさい……続けて」
「ああ。クレアは釈放される。だが、こちらに帰って来れるかはわからない。おそらく難しいだろうというのが刑務官の話だ」
「そんな……! だってあなたたちの結婚もあるのに!」
「その話はとっくに消えている。まぁ当然だな。一国の王妃が罪人の娘であるのは許されない。帝国に叛意があるととらえられても仕方がない」
まるで他人事のようにフィンは言うが、アデラインには全く初耳だ。
この瞬間まで、フィンとクレアの結婚にひとかけらの疑問を持っていなかったアデラインは、目を見開いてフィンを見る。
「……なんですって?」
「ノルデンはモルトカを切り捨てる。新しい領主を任命し、統治に当たらせる。そのために一旦領内の監査を行わねばならない。悪いがお前にその仕事をしてほしい」
「そうじゃなくて!」
淡々と語るフィンに怒りを覚えた。
「だって……、あなたクレアを愛していたでしょう? あのこに罪はないのに、どうして……」
そんなに簡単に切り捨てることができるのだ。
「仕方がないな」
フィンの言葉はまるで吐き捨てるよう。
「俺はこの国の王子だ」
この時、ようやくアデラインは気がついた。
フィンの眉間による皺に。いつもより多い口数に。何よりどんよりとした、何かを諦めるようなその瞳に。
「ごめんなさい……わたし」
誰よりもクレアを愛していたフィンが、現状を受け入れるのにどれほどの葛藤があったろう。
二人がどれだけ想い合っていたか、アデラインは知っている。
「あなたが一番辛いのに、無神経だったわ……ごめんなさい……」
「いい、お前も動揺している。だが、まだ重要な話がある。心して聞いてくれ」
フィンは言いづらそうに唇を噛む。疲れきって乾いた唇が痛々しい。
その微妙な空気に、アデラインは涙ぐんだままそっと首を傾げた。なぜかひどく胸騒ぎがしたのだ。
お読みいただきありがとうございます。
アデラインが弱気で泣き虫なので、湿っぽくてすいません……。フィンはため息をついていますが馴れています。
次回は二人の会話後半です。湿っぽいお話が続きます。
次回もよろしくお願いいたします。