最終話 かけがえのない、たからもの
ノルデンの別邸の窓から見上げる空は、雲ひとつない。鼻から吸い込む空気はひやりとしているが、本国の刺すような冷たさとは違う。過ごしやすい皇都はこの冬の時期も、とても気持ちがいい。
開け放した窓からは庭で遊ぶ子供達の声が聞こえてくる。本格的な冬の前、子供たちは今しかないとばかりに遊び回っている。
片手に書類を抱えたまま、アデラインは窓から身を乗り出す。庭で従者の子供たちと遊び回っていた孫のヴォルフがそのアデラインに気がつき、笑顔で手を振った。それに返しながら、アデラインも柔らかい微笑みを浮かべる。
今年五歳になったヴォルフは、フィンとアデライン夫婦の長男カミルの息子だ。ノルデンの民らしい漆黒の髪に真紅の瞳を持つが、面影はエミールによく似ている。時々しか会えないこともあり、いまだにヴォルフの顔を見るたびに少し不思議な気持ちになった。
すぐに遊びに戻ってしまったヴォルフの後ろ姿を見送り、アデラインはそっと窓を閉める。そのまま国王執務室に向かった。
ノルデン別邸は数代前のベルンシュタイン大公が建てたので、本城に比べるとだいぶ洒落ている。黒く塗られた重厚な扉を開けると、なぜか執務室のソファの上に、顔色の悪い長男のカミルが転がっていた。
「あら、カミル。ごきげんよう」
「……この僕の状態を見て、どうしてそんなに呑気なんですか」
カミルは今年二十七歳になった。フィンによく似た面差しだが、フィンほど厳つい印象はない。どちらかといえば中性的な青年だが、アデラインにとってはいつまでも小さな子供のように思える。
だが、息子がこれほど大きくなったのだから、自分が歳をとったと感じるのも仕方のないことなのだろう。
「だいぶお疲れのようだけど、確か今は休暇中でしょう? お仕事で疲れたわけではないようだし……」
アデラインはそっと首を傾げる。
「夫婦喧嘩でもした?」
カミルは今、帝国の軍部で働いているので、アデラインたちと滅多に会えない。新年の祭事のために皇都に来たノルデン王族に合わせて、この屋敷で一緒に過ごしていたのだが。
「父上と母上は夫婦喧嘩なんて、したことがないのでしょうね」
拗ねたように言う姿が楽しくて、アデラインはくすくすと笑う。
「あら、いつでも仲良しだったわけじゃないわ。アルヴェルトが生まれてすぐに別居騒動したの、覚えていないのね」
「あれは喧嘩だったのですか……城のものはみんな、政策論争だと思っていましたよ」
カミルは深くため息をつきながら、体を起こす。漆黒の髪は長いが、結えていない。フィンや次男のアルヴェルトは面倒だといつも短髪なので、この長男はそんなところも父や弟と違うらしい。
「で、喧嘩の理由は?」
机の上に書類を置き、ようやく息子の向かい側に座る。息子の端正な顔を見つめた。
「ヨハンが生まれてから、なんだかヴォルフがとても我儘になってしまって。ここ数日、俺たちの寝室に来ては明け方までずっと大騒ぎです。妻もヨハンとヨアヒムの世話で手一杯ですし……乳母を雇うように言ったのですが」
「まぁ」
「どうしてもひとりでやりたいの一点張りで。……ディアナもだいぶ限界のようなので、なんとかしたいのですが」
はぁ、と深いため息と一緒に吐き出された愚痴を聞きながら、アデラインは首を傾ける。
大変耳の痛い話だったからだ。
実のところ、アデラインは子供達にほとんど手をかけていない。フィンとの間には五人子供がいるが、とにかく忙しかったので、子育てを担ってくれたのは実母のウタと乳母たちだ。授乳ですら王城の執務室で書類片手にして、周りを呆れさせた。四男のアルヴェルトを産んだ時は陣痛が始まるまで予算の書類を睨みつけていたし、彼が生まれて一ヶ月で公務に復帰している。その産休と言っていいかわからない間も、ほとんどお手伝い程度の乳幼児の世話しかしていないのだ。
義娘のディアナは貴族としては珍しく、子育ては自分でやると宣言し、カミルもそれに同調していた。二人とも親が忙しくほとんど親子の時間がないまま成長したので、自分たちと同じような寂しさは子供に経験させたくないという気持ちなのだろうが。
「確かにそれは、困ったわねぇ」
アデラインのように実母が近くにいれば違ったかもしれないが、残念ながらディアナの実母はすでに他界している。そして義母のアデラインもこと子育てに関しては全く役立たずだ。
「……ディアナの乳母の方は今も健在なの?」
「ええ。シュタルツの屋敷にいます。彼女からも何とかディアナを説得するように言われています」
「あら、適任者がそばにいるのね?」
義娘は小さい頃から知っているが、なかなか気が強くて頑固だ。確かに、説得するのは骨が折れるかもしれない。
「私が話してみようかしら?」
「そうしてもらえると助かります。彼女は昔から、母上の言うことだけはしっかり聞いていたので」
「そうなの?」
「そうですよ。気がついていらっしゃらないのですか?」
呆れたように息子に笑われ、アデラインは驚いた。確かにディアナには慕われている。娘の一人だと思っていたのも確かなのだが。
「やだ私、子育てに関しては完全に反面教師じゃない」
「まぁ良いんですよ。そういう生き方もあるのですから」
やけに達観した様子の息子が言う。
幼いところもあるが、皇帝の側近である義父、シュタルツ侯ことエミールの側で働くカミルは堅実で真面目な青年だ。多少は親の贔屓目もあるかもしれないが。
少し開いた窓からは庭にいる子供達の声が響いている。今日は二女のリーナも子供を引き連れて遊びに来ているので、皆で夢中になって遊んでいるのだろう。
(とても、穏やかな時間……)
すでに嫁いでいた三女のエミリアも今日の夕方に来ることになっている。学生の五女フィーネはおそらく皇都で友人たちと会っているのだろうが、晩餐会までには帰ってくるだろう。今夜は一年振りに家族が揃うと思うと、アデラインの胸が踊った。
ノルデンはいま、自分たちが子供の頃以上に賑やかになっている。国も豊かになり、問題や頭を悩ませる事柄は変わらず絶えないが、それでもいまや宗主国ベルンシュタインと肩を並べるほど確固とした国家になった。
そしてそれ以上に喜ばしいのは、この家族の存在だ。多少の衝突はありつつも、子供達やその家族たちとの時間はアデラインにとって至福のものになっている。
この平和な時間をもたらしてくれたのは間違いなく、アデラインの夫のフィンだ。彼には感謝しかない。
「……子供の頃、夕食の後の時間は皆で過ごす決まりがありましたよね。談話室で」
カミルが突然呟くように語り出したので、アデラインは首を傾げた。
「父上と母上はいつも……それこそ食事の席でも政務のお話をされていたので、僕らは皆、少し寂しいと感じていました。たぶん、リーナもそうだったんじゃないかな」
「そうよね……本当に申し訳ないわ」
後ろめたい気持ちがあるアデラインは目を伏せる。
あの頃から、せめて食事の場では仕事の話をしない決まり事を設けたりしていた。だがそれが守られることはほとんどなかった。
談話室で両親が政務の話を始めると、末の娘二人は早々に飽きて人形遊びに夢中になったものだ。拗ねた表情をしながらもリーナはアデラインの隣から動かず、カミルとアルヴェルトもその場にいた。
「もっとあなたたちのために時間を割くべきだったのよね。それは本当に……」
「確かにあの頃はすごく不満でした。もっと親に甘えたいと思ったこともありました。でも、最近思うのです。あのに時に見聞きした事柄が、僕を育てたのだな、と」
息子の言葉の意味が掴めない。
ぱちぱちと瞬くアデラインを、カミルは父親によく似た優しい眼差しでそっと見返す。
「悩む時、重要な決断を下さなければならない時、ふと、あの時のお二人ならどうするのだろう、と考えるのです。そうしてああ、そういえばあんな事を言っていたな、と思い出す。一番重要なものが何なのか、ふっと気がつくんです」
カミルは笑う。
「かと言って、自分も同じ事をしようとは思いませんよ。我が家では食事の席では仕事の話は禁止されています。でも、僕にとってあの時間は、自身を築き上げるために重要な時間だった」
「カミル……」
アデラインはじんわりと胸に温かいものが広がるのを感じる。
決してそのような意図の話ではないのだろうが、必死になって生きてきた、子育てというほどのことは出来なかったが、とにかくノルデンのために生きてきたこの三十年近い時間が肯定されたような、そんな気がしたのだ。
胸に満ちた温かいものは、そのまま涙になってこぼれ落ちる。
「母上は泣き虫だなぁ。でも、多分リーナも同じなんですよね。あいつ、陰では鉄の女とか言われているけど、僕と一緒の時はいつも泣いていますよ」
「あら……あなたたちは相変わらず仲良しねぇ」
「よく言われます。異性の兄妹にしては仲がいいね、とか」
僕たちにとってはこれが普通なのですけどね、と言う息子の顔はとても晴れやかだ。
ちょうど会議を終えたところなのだろう、フィンとアルヴェルトが入室する。フィンは向かい合う二人を見て、皺が増えた目元を少し緩ませた。
「カミル、ディアナが探していたぞ」
「あー、じゃあ僕は行きますね。では父上、母上。夕食の席で」
妻に全く頭の上がらないカミルはそう言い、苦笑いして立ち上がる。幼馴染のまま夫婦になった二人は、子供の頃からディアナがカミルを振り回していた。ちょっと情けないその後ろ姿を、アデラインはくすくすと笑いながら見送る。今は子育てや仕事で大変だろうが、きっとカミルはとても幸せなのだろう。その姿はとても頼もしい。
「じゃあ俺も夕飯までこの書類を纏めていますね」
兄とひとことふたこと交わした後、アルヴェルトも部屋を出る。下の息子はフィンの後継と決まっているので、今は見習い王子だ。来年からは留学と称して帝国で数年働くつもりらしいので、フィンの引退はまだしばらく先になりそう。
ひらひらと片手を振りながら退室した息子の背中を見送り、フィンはどさりとソファに腰を下ろす。アデラインと向かい合うのではなく、彼女の隣に。
「今夜はディーンも来るそうだ。騒がしくなるな」
「あら。そうしたらお兄様も来るわね。絶対」
エミリアが嫁いだのは、アデラインの兄クレオのひとり息子、甥のディーンだ。ゲルスター家の別邸はここから馬車で二十分も離れていないので、おそらく今夜はあの騒がしい兄と義姉も来ることになる。冬至を控えた年末の慌ただしい時期だというのに、相変わらずノルデンの屋敷は賑やかで騒がしい。
「賑やかなことは良いことだ。そうだろう」
そう言いながら、フィンはアデラインに微笑みかける。この夫は、最近ようやく微笑む方法を知ったらしい。近頃では後継者が決まったこともあり、安心したのか表情を緩ませることも増えた。
「そうね」
アデラインはそっと彼の肩に体を委ねた。
「賑やかなのも良いけど。最近はすぐに疲れちゃうから、こういう静かな時間もいいわ」
「そうだな。実は少しだけ来年で引退するクレオが羨ましい。俺達はまだまだ先だからな」
フィンの手が伸びて、優しくアデラインの体を引き寄せる。目を瞑れば、フィンの大きくて強い存在の中に包まれる。それだけで、泣き出してしまいそうなほど安堵した。
胸を焦がしていた、かつての恋とは違う。
意固地になって、凍てついた心とも違う。
手探りで探し求めるようにして、彼とのすべてを築き上げてきた。迷いながら、泣きながら。
そうして得たものは、かけがえのない、アデラインの宝物だ。
「だが俺たちはもう少し頑張らねばな。アルヴェルトが王になるなで」
「ええ、そうね」
アデラインは彼の腕の中で頷く。
そうして再び、窓の外から聞こえる声に耳を澄ませる。この幸せを噛み締めながら。
どうか、この時間が永遠に続きますように。
あなたと離れることなく、ずっと一緒にいられますように。
お読みいただきありがとうございます。
『わたしを忘れないで』はこれにて完結とさせて頂きます。
アデラインの生き方はこうなりました。
フィンと共に生きる道も、別な道を選ぶこともできたと思うのですが。
大変湿っぽいお話で、でもお付き合いいただきありがとうございました!
ほんとうに、感謝です。もう少し上手な文章を書けるようにひたすら勉強中ですので、これからもどうかよろしくお願いいたします!
本日は次の【登場人物紹介】もありますので、良ければご覧下さいませ。
そのあと、【異想譚】2話が続きます。そのあと、アデラインの娘フィーネのお話も書きたいなぁと思っています。
次回もよろしくお願いいたします。