第13話 何より守るべきもの
皇都から北の最果てノルデンへは、ゆっくりと馬車で帰る。
行きは黒河を下る船旅だったので兄やライナーも一緒だったが、帰りはフィンとふたりきり。どうせならしっかり話し合えと兄に背中を押され、アデラインは馬車の中でフィンとたくさん話をした。
将来の話や、幼い子供の頃の話。学生の頃の話に、物心つたばかりの頃の話。
フィンはあまり自分のことを話す子供ではなかったが、そもそも幼少期から一緒にいたので、アデラインの知らないことは特に無いと思っていたのだが、驚かされることが沢山あった。
幼少学校に入学するまで、つまり五歳まで自分の母親は世話をしているゲルスター伯爵夫人だと思っていたらしい。なんとクレオとアデラインを実の兄妹だと信じて疑わなかったという。
ノルデン王城の子供部屋で皆で丸くなり、かたまって寝ていた頃が懐かしい。アデライン兄妹とフィンたち姉弟は乳飲児の頃から一緒にいた。
やがてそこにライナーやクレアとエドが加わり、アデラインの弟達も生まれて……賑やかだった。毎日わちゃわちゃと揉み合って成長して、喧嘩をして、仲直りをして。
「今思えば、世話をしてくれた母はてんやわんやだったでしょうね」
「そうだな。今もカミルとリーナの世話をかってくれているが。あの人は子供が好きなのだろう。手の空いた時は城下の幼児院に手伝いに行っている」
フィンの言葉に、アデラインは目を丸くする。実の母のことなのに、全く知らなかった。
「自分が夫人の実の子供でないと知った時は悲しかったな。布団の中で丸くなっていたら、いつの間にかお前とクレアが入り込んでいて、三人で手を繋いで眠ったんだ。覚えていないだろうが」
くつくつと笑いながらフィンが言う。
もちろんアデラインは全く覚えていない。
「そんなことあったかしら? でも、わたしたちいつも一緒に寝てたから……」
「お前たち家族はいつも仲が良くて、成長するにつれ自分がその一員でないことが悲しくて、本気で落ち込んでいたな。だが、お前は変わらず俺の事を兄のように接してくれたので、あれでだいぶ救われた」
「そう……」
自分たちの子供時代は恵まれていた。兄弟のように皆で支え合いながら、大切に世話をされてきたのだから。
「エドも、クレアもそうだったんだろう。二人とも素直にはなれなかったかもしれないが、お前たちに救われていたと思う。クレアとどんな話をした?」
「お別れの挨拶をしたわ。わたしたち、顔も合わせられないままだったから」
そうか、と目を細めたフィンが呟く。
遠い誰かのことを思っているのだろうか。
「子供がいるんですって。会ってみたかったわね。旦那さんはポイって捨てたって言ってた。びっくりしちゃった」
「ああ、あいつらしいな。俺のことも何か言っていたか?」
一番言いづらいと思っていたことを聞かれて、アデラインは口籠る。その様子を見てフィンが苦笑いした。
「俺のことも捨てたって話をしたか? 婚約者に内定した時から、いつかは捨てられるだろうと思っていたが、あの時は流石に落ち込んだな」
フィンの口調は軽い。だがアデラインは驚きを隠せなかった。
クレアはいつも自分とフィンのそばにいた。フィンは慈しみのこもった眼差しをクレアに向けていたし、クレアもそれを受け入れていた。
あの時の二人がそんな危うい関係にあったなんて、とてもじゃないが信じられない。
「そうなの?」
「ああ。あいつは昔から俺に興味がなかったからな。自分がノルデンに留まるためには俺の妻になるしかないと考えていたんだろう。今思えば子供の頃に俺に向けていた好意も、俺と婚約するためだったのだろうが。
だが婚約者がクレアに決まった時、正直嬉しかった。これで俺も誰かに愛されるのだと」
アデラインは思わず息を呑む。
フィンは眉を寄せながら、少しつらそうに続けた。
「正直、これまでの人生で俺はもう誰にも愛されることはないだろうと思っていた。父親は俺のことを大切にしたが、微笑みかけられた記憶もないし、母親に至っては俺を抱いたこともなかったからな。
クレアと婚約が内定したとき、お前の両親みたいな夫婦になりたいと努力したが……あの年の夏、クレアに結婚式の日取りが決まった事を伝えた時に、わかった。クレアは俺との結婚は本心から望んでいなかった。あいつが本当に欲しいものは、俺ではないと」
アデラインは思わず手を伸ばし、苦しそうに話すフィンの手に触れた。
平均より体が大きく、がっりりとした体格のフィンが一瞬、泣く幼い子供のように思えた。
「それでも良いと思ったんだ。今更後戻りはできないし俺も彼女を好いていた。
結婚後、皇都に住みたいと言われた時には心の底から落胆したが、仕方ないと思った。確かにノルデンより皇都の方が華やかで楽しいだろう。ただ、クレアにとって俺は、何より優先するべきものではなかったのだと思い知った」
語り出したら止まらなくなったのだろう。滔々と語る彼の姿に、アデラインは胸が苦しくなった。
『わたしに相談してくれればよかったのに』
言いかけたその言葉を、アデラインは飲み込む。
あの時、フィンのそばにいたのは自分だ。
だが、アデラインはフィンからもクレアからも、そんな印象を受けなかった。二人は愛し合っているものだと、ずっとそう思っていた。フィンの苦悩を全く察することができなかった自分が、彼にかける言葉などあるはずがない。
「だから、あんな事件があってクレアとの結婚話が流れた時、情けない事に俺はほっとしたんだ。もう裏切られることも、何気ない仕草に落胆することもなくなる」
「……フィン」
「情けない男ですまない。皇帝からお前との結婚を命じられた時も、心底戦おうと思えばできた。だが俺は……」
アデラインは彼を抱きしめる。
もし彼があの時皇帝に抵抗していたとしたら……。
何かが変わったとは思えない。先代の皇帝はノルデンに厳しく当たっただろうし、それに血気盛んなスヴェン卿が対抗し、ますます事態は悪くなっていたに違いないのだ。
アデラインはあの時のフィンの決断が間違っているとは思っていない。
ただそんな苦悩を抱きつつ、アデラインさえも彼を受け入れない状況は、どれほどフィンを苦しめたのだろうかと思う。
「ごめんなさい……、ごめんなさい」
繰り返し謝りながら、アデラインはフィンを抱きしめる。フィンの強い手がアデラインの背中に回り、壊れ物を扱うかのように触れた。
「怖かった。俺は国を継ぐために存在していたから、国を失うのが一番怖かった。だからお前を犠牲にする道を選んだが……時々、わからなくなる」
胸が張り裂けるほど苦しい。アデラインは痛みに耐えながら、必死になってフィンを掻き抱く。
「お前を、失いたくなかっただけなのではないかと……この世界には俺の事を愛してくれる人は誰もいない。だから、お前は……俺の事を兄のように慕ってくれているお前だけは、繋ぎ止めたかった。手放せなかった。ライナーの言う通り、これは俺が望んだことだったんだ」
フィンの潸然とした告白を聞きながら、アデラインも涙が溢れた。
(たとえそうだとしても……)
あの時もし、フィンから罪の告白のようにこの話をされたとしても。
(私はきっと、今と同じ道を選んだわ)
それだけははっきりと確信できる。
通る道が違ったとしても、たどり着いたのは変わらない、ここだ。
何より守るべきものが、フィンとアデラインは同じだったのだから。
「アデライン……」
苦しげに自分の名を繰り返すフィンを、アデラインはただ抱きしめた。彼を満たしていた孤独が、少しでも薄まるように。
「あなたのことが好きよ、フィン」
アデラインはフィンの耳元で囁く。
「あなたの弱さも、強さも好きよ。尊敬してるし、愛している。だからどうか、自分を責めないで」
これ以上、彼が苦しむ姿は見たくなかった。
その苦しみをもたらすのが自分自身だとしたら。アデラインはそんな自分を許す事ができないだろう。
「私たちの人生は、これからの方がずっと長いの。一人で背負い込まないで、ちゃんと分かち合っていきましょう。苦しみも悲しみも。……わたしはここにいるわ」
フィンからなんの返答もなかったが、ただ自分を抱きしめる腕に力がこもる。
それに安堵しながら、アデラインは目を閉じた。
そして彼が落ち着くまでずっと、フィンを狂おしいほどの愛おしさを込めて、抱きしめていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
本編は残すところあと一話、次回最終話です。
最後は少し長めのお話ですが、どうぞよろしくお願いいたします。