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第11話 わたしから離れないで

 真夜中、そろそろ寝台に潜り込もうかかという時間、部屋の扉を叩く音がした。

「俺だ。まだ起きていたか」

 いつもより緊張しているような、フィンの硬い声。


「ええ、……どうしたの?」

 ドアを開けると、仏頂面のフィンがそこに立っていた。

 アデラインは迷わず彼を部屋に招き入れる。フィンは立ったまま、数枚の書類をアデラインに突き出した。


「離縁の申立て書だ。これにお前が署名し、提出すれば、俺との離婚が成立する」

「……え?」


 アデラインは意味がわからず、フィンの顔と書類を交互に見つめる。フィンは目を伏せたままで続けた。


「エミールは、シュタルツ侯爵は近々離婚することになるだろう。すぐにの再婚は難しいかもしれないが、皇帝陛下に上申すれば必ず良いように取り計ってくれる。だから安心していい」


 そう言うフィンの顔は、怖いほど表情が抜け落ちていた。赤い瞳だけが、クレアとの決別を告白した時のような、否、あの時以上に昏い光を灯している。


「どうして……?」

 アデラインは凍ったように動けないまま、フィンを見上げる。


「どうしても何もない。お前は本来ならあいつと結婚するはずだった。それを俺が、掠め取った。本来あるべき位置に戻る、それだけだ」


 元々声音の低いフィンだが、今はさらに低い。地の底から響くようなその声に震えながら、アデラインは震える手で唇を覆い隠す。ひどく歪んだ顔を見られたくないと思った。


 離婚の書類は、そう簡単には準備できないものだ。第一、王と王妃の離婚など、国の基幹を揺るがす大問題に発展しかねない。なので、普通はどれほど不仲でも離婚はしない。それぞれ愛人を持ったり、他に家庭を作ることも、決して誉められる事ではないが容認されている。フィンの両親がそうだったように。


 その彼が手にしている書類は厚い。決して今さっき思いついたものではないことを示していた。つまり何日も前から、もしかしたら何年も前からこの書類を準備していたのかもしれない。


(わたし……わたしのせいだわ……)


 どんな思いだったのだろう。どんなに不安で心細かったろう。家族との関係が希薄だったフィンが、ようやく手に入れた妻の自分を、手放す覚悟をしていたなんて。

 彼がどれほど妻を大切に思っているか、ちゃんとわかっていたのに。


(わたしが、ちゃんと彼に向き合わなかったから……)


 怖かった。


 もうだいぶ前から、フィンの自分を見つめる瞳が、優しくも強い熱を持っている事に気がついていた。

 だが、それを認めてしまうことが、怖かった。

 だから、これは前に進むことができなかったアデラインの罪だ。こんなふうに夫を追い詰めていたなんて。

 離婚を言い渡されるのは、ちゃんと彼の心に向き合わずに、逃げ続けていた罰だ。


 ふと、アデラインはエミールの言葉を思い出す。


 自分は戦ってなどこなかった。いつも逃げてばかり。エミールを裏切った時も、クレアの居場所を奪った時も、そしてこれまで自分を求めていたフィンからも。


 そう、逃げるのではなく戦わなくてはいけなかったのだ。

 罪悪感に押しつぶされそうな自分の心に。過去ばかり見て俯く心に。

 大切な人たち裏切って得た場所だ。決して自分で望んだわけではなかったが、ノルデンを守るためにフィンの妻になると自分で決めた。だが、この三年半ほどの間、ただの義務で彼の隣にいたのだろうか。


(違う。そうじゃない)


 鼻の奥がつんとする。だが泣きそうになるのを必死に堪える。今は心の中の奔流のような感情を、彼に伝えねばならない。


「わたしにどこへ行けと言うの? ……わたしは、あなたの、妻なのに」


 アデラインがそう言うと、フィンが大きく目を見開いた。

 彼の手元から書類が滑り落ちる。床に散らばったそれを、二人とも一顧だにしなかった。


「ごめんなさい……、わたしが、立ち止まっていたから。つらい思いをさせてしまったわ。いっぱい間違えたけど……でもどうか……呆れて手放したりしないで。生涯一緒にいて、幸せにしてくれるって、約束してくれたでしょう?」


「……アデライン」

 枯れた声で名前を呼ばれた。

「フィン。あなたがとても大切なの。だからどうか、わたしと離れようとは思わないで」


 突然、強い掌が背中を押した。一瞬の混乱の後、アデラインは自分がフィンに強く抱きしめられていることに気がつく。


「アデライン……、ああ……アデライン」

 フィンはアデラインを抱きしめたまま、譫語のように彼女の名前を繰り返す。アデラインも彼の背に手を回した。鍛えられた身体の奥、心臓が強く鼓動している音がした。


 フィンはどれほど緊張してこの部屋を訪ねたのだろうか。アデラインは目を瞑る。今頃になってようやく、涙が溢れた。


「すまない……。お前を守るべきだったのは俺なのに、その俺がお前に犠牲を強いた。本当に、すまない」


 フィンもアデラインと同じような事を言う。アデラインは強く首を振った。


 そっと体が離され、見上げるとフィンの両目が潤んでいた。もう二十年以上一緒にいたが、彼の涙はとても珍しい。

 長い間、迷子のように彷徨っていた彼が、ようやく安住の地を手にしたのだ。それは間違いなく、アデラインにしか与えられない場所。


 突如体の中で激しく、フィンへの愛おしさが湧き立ち、渦を作るように激しく魂を揺さぶる。どうして今まで、この感情を見ないふりできていたのだろう。


「辛いことなんて……なかったわけじゃないけど。でも素敵なこともたくさんあったわ」


 エミールの言葉を、あの笑顔を思い出す。

 傷付きながら、静かに彼との別離を受け入れていった。


 その間、フィンは何も言わずにそばで見守っていた。急かすことなく、アデラインに寄り添って。いつか自分の元を去るのではないか、という恐怖を抱えたまま。


 それはどれほど苦しい時間だったろう。


「遠回りして、ごめんなさい。時間が必要だったの……って、ただの言い訳ね。でも、無駄な時間じゃなかったと思うのよ? こんなふうに、ちゃんとあなたに好きって、言えるから……」


「俺もだ、アデライン。……愛している。……触れてもいいだろうか?」


 もうしっかりと抱きしめているのに、何かを恐れるように彼が尋ねる。アデラインが頷くと、すぐにフィンの片手が頬に触れた。彼の指がそっと、アデラインの唇を戸惑うように撫でる。何を求められているのか察して、アデラインの体が少し震えた。


 結婚してからこれまで、アデラインはフィンとのキスができなかった。求められた時もあったが、そのたびにあの夜の記憶が脳裏に蘇る。クレアの居場所を奪った事実を突きつけられるようで、どうしても無理だった。

 アデラインが嫌がれば、フィンは彼女の頰や額にそっと唇を当てていたのだが。


(ごめんなさい……どうか、)


 誰に何を祈っているのだろう。

 それもわからないまま、アデラインは頷く。


 性急に唇を塞がれた。初めてのキスに少したじろぐアデラインの口内に、フィンの舌が侵入する。驚きながらもそれを受け入れるアデラインだが、あまりの激しさに食べられてしまうのではないかと錯覚を起こしかけた。だが、体の奥に激しく熱い何かが目覚めた気がする。ぞくぞくとその感覚が強くなったところで、恐ろしくなり思わずフィンの背中を軽く叩いた。

 ようやく顔が離れ、フィンの腕の中でアデラインは息を整える。

「すまない……あの」

「大丈夫、だいじょうぶよ」


 腰が砕けたように力が入らない。彼の胸にもたれながらその胸にすり寄ると、ふわりと彼の匂いが鼻腔を満たした。全身が溶けて流れ出てしまうのではないかと思うほど、幸せが満ち溢れる。


(……どうか、許して)


 どんなに自分を責めても、過去は変わらない。


 例え大切な妹の場所を奪ったとしても、大切だった人を裏切った結果だとしても、ここが今のアデラインの居場所なのだ。


 フィンを愛して、彼のために生きると決めたのだ。この魂の続く限り、彼を守り支えると。それは厳格な誓い、それを無かったことにすれば、自分の魂は死後、漆黒の女神の黒い炎で焼き尽くされて灰になるのだろう。


 いや、そんな事はどうでもいい。今、二人は命あるものなのだから。


 まっすぐにフィンを見つめたまま、アデラインはそっと囁く。


「あなたが愛しいの」


 フィンの気持ちもおそらく同じなのだろう。

 見上げた彼の顔はとても優しい。ただその真紅の瞳は燃え上がるように熱い。


 そうしてフィンとアデラインは、もう一度唇を重ねた。




お読みいただきありがとうございます。


この世界には六人の女神がおります。

女神たちは姉妹神とされており、帝国が奉っているのは黄金の女神、北峰五国が信仰しているのは琥珀の女神(翠の女神)です。ほかに朱の女神、蒼の女神を崇拝している民もいますが、少数だったりすでに滅びたりしています。

漆黒の女神(黒の女神)は死者の女神です。冥界の門を護っているといわれています。

もう一柱、銀の女神がいますが、彼女の伝承はほとんど残されていません。


帝国では女神を基準にしていることが多く、暦や時間もすべて女神の名前で定められています。

新年のこの時期は『翠の月』にあたります。


次回もよろしくお願いいたします。

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