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第10話 夜の片隅で

 冬の日没は早い。徐々に暗くなっていく庭を、緊張した足取りでアデラインは歩いていた。


 アデラインの前を進む女性は、シンプルな紺色のドレスを纏っている。だが、その動きはきびきびとしていて隙がない。おそらく軍人なのだろう。案内役でありながら、ボディーガードも兼任しているのだろうか。


 祝祭と大夜会の時にしか使用されない宮殿の、見事に整えられた庭を通り抜けた。やがて庭園は観るための庭から、何かを育てるための庭に変わる。剥き出しの地面の箇所もあり、中途半端に植えられた植物もある不思議な様相を呈した庭に出た。


 そのまるで畑のような庭園の片隅に、質素な東屋があった。そこに座る人影を認めて、アデラインの心臓が大きく跳ね上がる。


 変わらず美しい金の髪がふわふわと夜風の中で揺れている。それをきっちり高い位置で結え、少し残した前髪の間から見える瞳は、柔らかい翠玉の色。人の良さそうな、優しい顔は今も昔も変わらない。だがそれはもう少年ではなく、威風堂々とした青年のものだ。高位貴族らしい洋服は純白に金の刺繍を施したもの。夜の闇の中で、東屋にある小さな蝋燭や、その周りにあるランタンに照らされて幻想的に浮かび上がる。

 その彼がこちらを見ながら、ゆったりと笑う。


「アディ」


 その名前を呼ばれて、その穏やかで暖かな声音に、アデラインは耐えきれなかった。


(ああ、エミール、エミール……!)


 大好きだった彼だ。想いあって支え合って、ずっと一緒にいようと誓ったのに、アデラインが裏切ったひと。ひっそりと名前を呼ぶ事しかできない、決して許されることはないと思っていた、かつての愛しいひと。


「……シュタルツ侯……」


 震える唇が読んだ名前は、掠れて聞き取りづらかった。


 ぼろぼろ涙をこぼしながら自分の名前を呼ぶ女を、彼はどんな思いで見ているのだろう。

 呆れているだろうか。それとも。


「ごめんね。本当はノルデン妃って呼ばなきゃいけないんだけど。今だけはアディって呼ばせてくれないかな」

 そう言いながら彼はゆっくりとアデラインに歩み寄ってくる。

 アデラインはただ無言で頷いた。


「よかった。ずっと会いたかったけど、あんな手紙を送ってしまったから、会いにくくなってしまったよね」

「てがみ……」

 しゃくりあげながら、アデラインは彼の言葉を鸚鵡返しする。

「そう、勿忘草の。後になってあんな手紙を送るべきじゃなかったと思ったんだけど、あの時は僕もいっぱいいっぱいだったんだ。本当にすまない」


 そう言いながら衒いなく彼は謝罪する。

 アデラインは大きく首を振った。

「……いえ、わたしも、あ……の手紙には……救われたの……で……」

 しゃくりあげながらながら紡いだ言葉は酷いものだった。だが、どうしても言わなければならない。

 喘ぐように息を整えながら、アデラインは真っ直ぐにエミールを見つめる。


 真っ白な勿忘草をいくつも重ねて貼られた、花畑のような栞。それに触れながら、何度も何度も泣いた。

 胸が張り裂けるほど悲しくて、もう二度と立ち上がれないと思った夜も。


「ありがとう……ございました……。あなたにはたくさん、謝らなきゃいけないのに。あの栞には、あの手紙には、本当にたくさん……勇気を貰いました……」


 そして、『幸せになって』。

 ただそれだけの短い手紙。


 だが、何度読み返したかわからない。それは確かに、他人を慮ることができるエミールの心の底からの言葉だ。それが確信できたからこそ、膿んだ生傷のような痛みを心に抱えながら、必死になって前に進んだのだ。

 そうして生傷が渇いて、痛々しい傷痕を残しながらも癒えてきた。やがていつかは、この傷痕さえも愛おしく思える時が来るだろう。それはまだ先の未来だとしても。


「そう、よかった」

 エミールの微笑みは穏やかだ。だがその瞳には、昔のような熱を孕んだような色はない。不思議と、それが心地よかった。


「僕も、君に救われていた。君が王妃として頑張っている話を聞いて、凄いって思ってた。スヴェン卿からいつも聞いていたよ。ジークフリードの奥方にしたいって、あまりにも絶賛するものだから、フィンの顔色が変わっていたよ」


 くすくすとエミールは楽しそうに笑う。


「でもアディは正しく戦える人だから。ノルデンから離れることはないって言ったんだ。スヴェン卿はがっかりしてたな」


「……戦う?」

 初めて聞く話で驚くばかりだが、それ以上にエミールの言葉を不思議に感じアデラインはそっと首を傾げた。


「そう。アディは何よりまずノルデンを優先して生きてるから。それが素晴らしいと思う。ノルデンを守るために戦える人だ。だから君以上にノルデンの王妃として相応しい人はいない。フィンにそう言ったら、すごく複雑な顔されてしまったけど。でも彼が……」


 楽しそうに話していたエミールが、少し言葉を詰まらせる。


「絶対に護るって、君を護ると誓ってくれたんだ」


 目を細めながらそう言うエミールは、そっと庭の片隅を見ている。なのでその表情から、アデラインは何かを読み取ることはできなかった。そんな彼の気遣いが、心から嬉しい。


「護ってくれています。彼はちょっと不器用なので、とてもわかりにくいけど」


「そう? それならいいけど。アディ、痩せた? 去年赤ちゃんを産んだから?」

 エミールが怪訝そうに言うので、アデラインは慌てて首を振った。

「違うの。ちょっとここのところ忙しくて……大丈夫、わたくしは健康ですし、子供達も元気ですわ」

「そう、それならよかった。もし君が何か苦しんでたら、僕はフィンを殴り倒さなきゃならない。……本気で喧嘩したら、勝てる気はしないけど」

 エミールがおちゃらけたように言う。アデラインも楽しくなって、くすくすと声を上げて笑った。


「あなたこそ、大変な事が多かったのでは?」

 アデラインの問いに、エミールは少し首を傾けて苦笑する。

「まぁ、大変なこともあったけど、素晴らしいこともたくさんあったよ。まだ二十数年しか生きてないけど、実り多くて、豊かな人生だったと思う。それに、娘もすごく可愛い」


 アデラインは思わず目を見開いた。

「まさかあんなに可愛いとは思わなかった。まだ二歳ちょっとだけど、最近ようやく人間っぽくなってきたよ。びっくりするくらいお転婆で元気がいい。本当に僕の子供かなって思ったりするけど、顔がそっくりなんだよね」


 アデラインはその言葉の中に、彼がどれほどの葛藤を抱いていたのかを知った。

 だがその全てを、彼が彼自身の強さで超えてきたのだろう。

 エミールはそう言う人だ。


「あなたの子供なら、きっととても可愛いでしょうね。いつかお会いしたいですわ」

「そうそう、君たち夫婦の長男、カミル君と同い年なんだ。だからどうか、大きくなって学園に入学したら……。君達のカミル君が、僕の娘ディアナの勉強友達になってくれたら嬉しいな」


「喜んで。その時はどうぞよろしくお願い致しますわ」

 悪戯っぽいその口調に、アデラインは満面の笑みで応える。

 つられたようにエミールも柔らかく微笑む。何一つ変わっていない、春の庭のようなあたたかい微笑みだった。






 宮殿からの帰り道、馬車の中でフィンは一言も喋らなかった。

 妙な気まずさを感じて、アデラインも黙って外の流れる景色を見ている。


 朝にノルデンの屋敷を出た時には陰鬱に見えた景色が、今は少し違って見える。街は魔導具のほのかな灯りに照らされ、夜だというのに歩く人の姿は多い。色とりどりの煉瓦造りの建物が並ぶ様は、まるで絵本の世界から飛び出してきたように可愛らしい。

 こころに痞えていた何かが消えたからか、見るものすべてが真新しく感じる。この感動を伝えたいとフィンを見るが、いつもより一層険しい顔で反対側の窓を睨み据えている。なんとなく声をかけ辛く、アデラインは上げかけた手をそっと下ろした。


 ノルデンの屋敷についても、フィンは黙って自分の部屋に向かってしまった。ずっと無口なままの後ろ姿を見ながら、アデラインは彼が振り向いてくれるのを期待していた自分に気がつく。

 いつもは夫婦間で何があったのかを逐一報告する。なのに今はエミールと何を話したのかも聞かれなかった。こんなにも彼がアデラインを無視するは初めてかもしれない。


(そいえば……ずっと私たち、一緒だったわね)


 幼馴染で同級生だったからか、お互いに恋人がいても、並んで歩くことの方が多かった。フィンはアデラインと歩幅を合わせて歩いていたし、少し距離が空けば無言で立ち止まって待っていた。

 学んだことを語り合い、将来について語り合った。フィンはアデラインといる時はいつもより一層無愛想だったが、ちゃんとアデラインの話に耳を傾けてくれていた。


 結婚後はその内容がノルデンの国のことや、家族のことに変わっただけ。


 クレアの事で思い悩み、どうしても歩み寄れないアデラインが俯く時は、フィンは少し先で彼女の様子を見守りながら立っていた。


 それなのに、この大夜会へ出る事を告げた日から、彼を避けていたのは自分だ。エミールに会いたいと思った後ろめたさから。


(……これが、私が彼にしてきた事なのね……)


 ならば、寂しいと感じるのはなんと身勝手な事なのだろう。アデラインはつくつくと痛む心を抱え一人自分の部屋に戻って行った。今夜は寝れそうにないな、とぼんやりとそう思いながら。




お読みいただきありがとうございます。

【異想譚Ⅱ】はこの直後のエミール目線のお話です。柔らかい笑顔の向こう側のお話です。


次回もよろしくお願いいたします。

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