第1話 その微笑みは、春の庭のよう
「フィン兄様! アデライン姉様!」
名前を呼ばれ、歩廊を早足で歩いていたアデライン・ゲルスターは驚いて振り返る。おさげにした栗皮色の髪が、その動きの合わせてふわりと冬の冷たい空気の中で揺れた。
見開いた瞳は緑の色が強い榛色、この新年で十六歳になったばかりだが、大きな瞳と柔らかい眉のせいで少しだけ幼く見える顔立ちだ。
清楚な制服の襟元に光る徽章は、黒い獅子の下に星が三つ。北の果ての国、ノルデンの伯爵家のものだという証。
アデラインは駆け寄ってくるその姿を認めて、野の花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
「クレア」
「お姉さま!」
幼馴染のクレアが嬉しそうにアデラインに飛びつく。明るい黄味がかった金髪に、瑠璃色の瞳を持つ誰もが振り返るような美少女のクレアに、真新しい学園の制服はよく似合っている。
アデラインより二つ年下のクレアは、今年十四歳の新入生だ。大人しくしていれば楚々とした美少女なのだが、中身は少々おてんば。久々の再会が嬉しいのはアデラインも同じだが、流石に廊下を走るのはよろしくない。
ここは帝国中の貴族の子供達が在籍する『学園』なのだから。
「こら、クレア。廊下は走っちゃだめでしょ?」
アデラインの言葉に、クレアはちょっとだけ唇を尖らせる。
「だって二人の姿が見えたのだもの。ちゃんと挨拶を言いたくて。なかなか会えなかったから、寂しかったのよ!」
「ふふ、わたしもあなたに会えて嬉しいわ。でもちゃんとしないと。淑女は走ったりしないのよ」
今日もクレアはとても可愛い。アデラインは思わず抱きしめたくなる衝動を抑えながら、彼女に微笑みかけた。
クレアはアデラインにとって妹のような存在で、学園に入学するまでノルデン城の子供部屋でいつも一緒だった。寮生活とはいえ、また彼女と暮らせるのはとても嬉しい。
「のんびり話してる場合か。役員会に遅れるぞアデライン」
実の姉妹のように微笑み合う二人を、数歩進んだ場所から幼馴染のフィンが叱り飛ばす。思わずアデラインはフィンを睨みつけた。
「あら、フィンこそ久しぶりに会う婚約者に挨拶はないの?」
「そんなの後だ。どうせ今夜会うのだろう」
フィンはそう言いながら眉間に皺を寄せ、厳しい視線を二人に送りつける。
このいかつい男の名前はフィン・ノルデン。最北の国ノルデンの王子で、短く切っただけの漆黒の髪に紅い瞳を持ち、いつも怒っているような顔をしている。背も高い上に、日頃から鍛錬を欠かさない体はがっしりとしているので、まだ十六歳だというのに大人のような威圧感があった。
その姿で本気で睨みつけるのだから、気の弱い女子生徒が相手だったら本気で泣いてしまうかもしれない。だが、今ここにいるのは幼馴染のアデラインと婚約者のクレアだけだ。
二人から不満たっぷりの視線を返され、面白くなかったのだろう。フィンは踵を返し、さっさと歩き出してしまった。
「ごめんなさいね、クレア。……叱っておくわ」
フィンとクレアは婚約内定中という微妙な立場だ。帝国法では婚約を結べるのは成人の十五歳になってからなので、まだクレアでは内定止まり。だが、この二人は物心ついた時から遊んでいた幼馴染同士なので、当のクレアはけろりとしている。
「大丈夫よ、アデライン姉様。ちゃんとフィン兄様からもお手紙貰ってるから。早く会いたいって書いてあったのよ!」
悪戯っぽく、大きな目でぱちんとウインクをしてクレアはにっこり笑う。二歳も下なのに、余裕たっぷりという感じだ。
「それよりもアデライン姉様の話が聞きたいわ! 今夜聞かせてね。噂の王子様のお話!」
思わずアデラインは片手で頬を隠した。残念ながら生徒会の資料を持っていたので、空いている左手だけ。真っ赤に染まった右頬はしっかりとクレアの青い瞳に映っている。
「うわぁ、さすがアデライン姉様、本当の王子様を捕まえちゃうなんて……! 素敵よ!
じゃあね、今夜楽しみにしてるわ!」
クレアは言いたいことだけ言ってしまうと、くるりと向きを変えて走っていく。今日は入学式で、新入生は今からオリエンテーションが始まるはずだ。そこを抜け出してきたのだろうから、急ぐべきだとは思うが、また走っているのは困ったものだ。
「もうクレアったら……」
すっかり赤く染まった頬を隠すように、アデラインは俯きながら歩く。視界にちらちらと入り込むのは、自分の栗皮色の髪だ。
アデラインは自分の容姿があまり好きではない。いや、好きではなかった。
ノルデンの伯爵令嬢という立場にありながら、珍しくもない髪と瞳の色。どこにでもいそうな普通の容姿は、美しい幼馴染のクレアや、フィンの姉のシビラと比べるとどうしても見劣りがする。
帝国の支配下では、一国の王族とその配下の貴族は、幼いころから顔を合わせるように推奨されている。そうして絆を深め、将来国の中枢を担う人間として育てるのだ。
アデラインたちは大人の事情で、皆まとめてノルデン王城で育てられた。その子供たちの中で、アデラインはいちばん地味だった。
それは学園に入学してからも変わらない。宗主国ベルンシュタイン率いる北峰五国の生徒たちの間で、定期的に交流会が行われるが、その中でもアデラインの容姿は平凡だ。一度などディーンガードの王女に使用人扱いされた事もある。
(それが、とんでもない大事になっちゃったのよね)
ディーンガードの王女の失礼な態度に、フィンたち姉弟がびっくりするほど怒った。もともと怖い顔つきのフィンがあれほどまで怒りを露わにすることはこれまでなかったし、シビラに至っては、婚約者の帝国の侯爵令息にまでその話を激怒しつつ暴露したらしく、例の王女の縁談が流れたとか。ちょっとだけ同情したけど、それ以上に姉や兄のような二人の存在が心強くありがたかった。
それほど、アデラインの容姿は平凡で、そこに悲しい劣等感がないわけではない。
だが、最近はようやく、アデラインも自分の容姿を受け入れることができた。ちゃんと認めて、『可愛い』と言ってくれる人の言葉を素直に受け入れることができる。それが心の底から、嬉しい。
「アデライン」
ふと顔を上げると、そのきっかけになった人が心配そうな顔でこちらに来るところだった。
その姿を認めて、アデラインの口元が緩む。
「エミール」
愛おしさを込めてその名前を口にするだけで、ほわほわと心が浮き足立つ。
「アディ、役員会に来ないから、何かがあったのかと思って来てみたんだ。だいじょうぶかい?」
エミールの後ろでは仏頂面のフィンもいる。
どうやら考え込んでいた自分を心配してくれていたのだと気がついて、アデラインは歩く速度を早めた。
「ごめんなさい……幼馴染が入学したので、ちょっとお話ししていたのよ」
「例の妹分の彼女かな? そんなに楽しそうな顔されると、ちょっと妬いてしまうよ、アディ」
蕩けそうな微笑みを浮かべて自分の名前を呼ぶ彼の声に、間違いなく特別な温度を感じる。それが途方もなく嬉しい。
伸ばされたエミールの手に自分の手のひらを重ねて歩き出す。交わす視線が、手のひらから感じ取る熱が、自分と同じ気持ちなのだと感じて、アデラインは飛び跳ねたいほど嬉しい。
彼の名はエミール・サヴァーラント。
アデラインと同い年の恋人で、西の公爵と呼ばれる超名門の公爵令息。癖の強いふわふわの金の髪を高い位置で結び、緑柱石のような澄んだ瞳を嬉しそうに細める。
フィンに比べれば幼さが残る顔は、帝国筆頭貴族らしく高貴で美しい。この学園で最も身分が高く、本来ならアデラインが話しかけることすら躊躇する程の高位貴族だ。
だが尊い身分に目が眩みがちだが、実際の彼は清廉で、そして努力家だ。そんな彼をアデラインは心の底から尊敬し、そして大好きだった。
その彼が朗らかな顔で微笑む。
「今夜はノルデンのみんなで晩餐会だね。明日にはどうだったか教えて」
「ええ。いつも子供みたいな話ばかりしているの。あなたが聞いたら笑ってしまうと思うわ、エミール」
アデラインが照れながらそう言うと、エミールはまるで春の庭のような、暖かくてやさしい微笑みを浮かべる。
「それが幼馴染というものだよ。僕も君の幼馴染だったらよかったのに。でも、僕は君の恋人だから、もっと『特別』だよね」
「エミール……」
さらっとそう言うエミールはアデラインと視線を合わせようとせず、あらぬ方向を向いたまま。ただその耳が真っ赤になっている。
それを見ただけでアデラインも沸騰しそうなほど顔が赤くなる。心の中は想いが通じ合っている喜びでいっぱいだ。もう何も言うことができず、ただ黙ってエミールの手を強く握った。
お読みいただき、ありがとうございます。
新連載です!
初めましての方ははじめまして!
もしくはこんにちは!
だいぶ自由に物語を書かせていただいております、ひかりと申します。今作もよろしくお願い致します。
今回はとても気の弱いアデラインが主人公なので、不安でいっぱいです。
もし興味を持っていただけましたら、この物語よりだいぶのちの時代のお話『ファントム・ミラー』も見ていただけたら嬉しいです。
北の人間は気性が荒い、悍馬だと散々言われていますが、このノルデン王族姉弟も同じです。一度頭に血が上ると大変なことになるので、次回登場のライナーが毎回必死に宥めています。
本日は2話公開です!
次回もよろしくお願いいたします!