新緑の影の上で貴方は言った
新緑の影の上で貴方は言った 神廼 波稲
一章 自然に包まれる場所
二章 光が差す病室
三章 羅稲とはまさしくその木である
あとがき
一章 自然に包まれる場所
ガタンゴトン ガタンゴトン
最初人の多かった街並みが だんだん緑に覆われて来た
ガタンゴトン ガタンゴトン
人があまり乗っていないこの電車に揺られて
僕は一人で祖父母の家に向かっている。
車内はとても涼しくて快適だ。
普段騒がしい日々を送り 疲れた しんどいばかり言って生活して来た僕にとって
ただおっとり電車に揺られているだけの時間はとても充実した休憩時間なのである。
両親は仕事が忙しいようで 一緒に来てはくれなかった
「もう中学二年生なんだから 一人で行って来なさい。」
って
冷たいものだよ 本当に。
この三日間の祖父母家への滞在は 部活を休むには丁度いい理由だ。 存分に堪能させてもらおう。こんなに暑いのに毎日四時間も部活なんてやっていられない。
ペットボトルの麦茶を取り出し、蓋をパキパキと開ける。 買ってから少し時間が経っているが、水滴がまだ付いている。
ゴクゴクと飲み、バッグへとしまう。
「まもなく 中村駅 お降りの際は忘れ物のございませんようご注意下さい。」
ついたようだ。 僕の祖父母の家は 高知県四万十市
自然に包まれる場所にある。
今日は七月二十六日
もういよいよ夏本番といった感じで、電車を出ると
むせ返るような暑さだった。でも一つ言えることは 建物がいっぱい建っている住宅街で感じる暑さより、人知れぬ田舎で感じる暑さの方が余程気持ちが良いという事だ。
駅を出ると 祖母が迎えに来てくれていた
「葵ちゃん! おかえり」
「ただいま!」
祖母が僕を、ちゃん呼びするのはずっと変わっていない。 懐かしい 昨年は来れていなかったから
ここがとても懐かしく感じる。
車で少し走り 四万十川も見えてくる。家はもう近くだ。
見渡す限り緑に覆われる いわゆる田舎。
田舎暮らしは不便という人は多くいるけど、僕はこっちの方が好きだ。 帰って来られるのなら毎年帰ってきたいと、
来るたびにそう思う。
「葵 久しぶり!」
「やっちゃん! どうしてここに? 久しぶり」
やっちゃんは毎年帰省する度によく遊んでいる友達だ。
明るく気さくで 人付き合いが上手くとても優しい。
今日は何故か祖父母の家で待っていた。
「葵ちゃん 私が呼んでおいたの、 ほら 久しぶりだから早く会いたいんじゃ無いかと思ってね。」
なるほど 気をきかせてくれたのか。
「まぁまぁ まずは昼食を取りましょう。 暑いからそうめんにしてみたの。」
「うん こう暑いとね。 やっちゃんも一緒にべていくの?」
「うん 俺も食べる、そうめん大好きだから!」
風鈴のチリンという音が聞こえる瞬間は、田舎の涼しげな夏を感じる。 蝉の音も夏には欠かせない。
僕たちは昼食を食べた後、和室でしばらくやっちゃんと話をした。 彼の話はとても面白いからいつまでの聞いていたくなる。
やっちゃんは家の用事があるようで、また来るからと言って家を出て行ってしまった。
時間はまだまだあるし、散歩にでも行こうかな。
「おばあちゃん ちょっと散歩に行って来るよ。」
「分かった 気をつけて 水分はしっかり取りなさい。」
手提げ袋にタオルと水筒 スマホを入れて準備完了
あっ 帽子も被る。
「はい 行ってきます。」
とても暑いが、緑の多い景色はとても気持ちが良いものだ。 暑さのストレスはあまり感じない。
しばらく歩いていくと川が見えてくる 四万十川
簡単に言うと 物凄く綺麗な川 物凄くね。
これが水の本来あるべき姿なんじゃ無いだろうかと
思ってしまうほどに、その川は澄んでいる。
高知県には 仁淀川という、すごく綺麗な川もある。
二つの川は 示し合わせた様に同じ県に存在する事に
何か不思議な縁を感じる。
川沿いまで降りて行く 水の流れる音が大きくなっていく。
ん... 川沿いの岩の上に少女が座っている。
白いワンピースに麦わら帽子 白いスニーカーを履いた
可愛らしい少女。
この辺りの子 なのかな。 もしくは僕同様、親の故郷に帰省している感じか。とりあえず挨拶をしてみよう。
「こんにちは」
「こんにちは 貴方は?」
「僕の名前は葵。君は?」
「私は 羅稲 まぁ今はこの辺りに住んでいます。」
不思議と柔らかく心地のいい 凛とした口調
「良かったら少し話しませんか? 今日はちょっと暇で..。」
「良いですよ 私も特にする事も無く、ただぼーっと川を眺めていただけですから。」
「葵 両親は一緒に帰っていないの?」
いきなり切り出された話題に 少しドキッとした。
「何故それを?」
「ごめんね さっき道を歩いていたら たまたま聞こえてしまって」
そういや 家に着くまで、やっちゃんと色々話してたな。
「うん 両親は一緒に来てくれなかった。 仕事が忙しいとか 僕は中学二年生だから一人で行けるだとか。」
「そっか でもちゃんと一人で来れたのなら、それはきっと凄い事だよ。少なくとも両親の期待は裏切らなかった。」
「そうかな でもやっぱり僕は皆んなで来たかったかな。来年は受験だし、高校生になればさらに忙しくなる る 今年が終わればしばらく来る機会は無いのに」
「そう 両親思いで良いね。 どう?ここは楽しい?」
「楽しいというか落ち着くというか、日々色々悩んでいたのが不思議なぐらいの気持ちになってる。」
「葵には 悩みがあるの?」
「そうだね 最近自分という存在意義の様な何かが、よく分からなくなって来て、何故僕はこれをしてるんだろう 何故僕はこうしたいんだろうって、自暴自棄に陥ったり。僕一人居なくたって この世界は成立してしまう」
どうしてだろうか こんなに初対面の人に、何故
悩みの芯の様な物を綺麗にうち開けてしまうのだろうか
不思議な感覚だ
「それは辛いね 誰にも必要とされないことって、中々辛いというか 苦しいというか。 でも、それは葵がそう思い込んでしまっているからじゃない?」
「そうかも知れない でもどうやったらこの思い込みが治せるのかも分からない。」
「分かった 明日またここに来てくれない?」
何が分かったのかは、検討は付かない。でも明日ここに再び来れば 何か掴めるような気がする。
この居場所がそう言っている ただひたすらに心地が良い この居場所が
「分かったよ 明日の昼過ぎにここにくる。」
「よし 待っているよ都築葵。」
明日の昼に再びあそこに行く 羅稲との約束は守る
「ただいま」
「あらお帰り どうだったリフレッシュ出来た?」
「そうだね 普段騒がしい所に住んでるから この場所は静かで良いよ。」
「大阪って聞くからに騒がしそうだもんね。夕食まで時間があるから部屋で休んでいなさい。出来たら呼ぶから。」
祖母の家の和室を貸してもらっている 畳の匂いは
泥の匂いというのはよく聞くが 良い匂いと言うことに全く変わりはない。
祖母には羅稲の事は言わなかった。 言えなかったというのが正しいかもしれない、いやそうした方が良いような そんな気がした。
「ただいま」
お爺ちゃんが帰って来た。祖父は林業の仕事を続けている。
「葵 久しぶり 元気だったか?」
「あぁ うんなんとかね」
「ご飯が出来たわよ。」
ご飯を食べてお風呂に入り歯を磨いて
僕は早めに寝ることにした。 朝早起きで交通機関乗りついで帰って来たから、それなりに疲労がたまっている。
朝目が覚めると 祖母が朝食を用意してくれていた。
今日は昼頃までは時間があるのでテレビでも見ながらゆっくりする事にした。ここの地域しかやってない番組とかもあるから テレビを見るのも新鮮な気分だ。
時計は十二時半を示す。そろそろ行くか 約束の時間だ。
「散歩行ってくるよ」
「行ってらっしゃい 水筒は持って行きなさいね。」
「分かった。」
昨日と同じルートを辿り 夏の風に当てられながら、四万十川を目指す。
晴れているが雲が少し多いので、いくらか涼しく感じる。
昨日と同じ場所に彼女は座っていた。
「こんにちは。」
「こんにちは ちゃんと来たんだね。」
「聞きたかったんだけどさ何故、羅稲は僕を呼んだの?
会って間もないような物なのに。」
「葵は悩みを抱えている、せっかくリフレッシュしに来たんだ それを解決してあげないと 私のプライドに傷がつくでしょ。」
「そっか ありがとう。」
「ちょっとついて来て ここじゃないんだ。」
僕は言われるままに羅稲に着いて行った。川から少し離れた所に一本の木があった。
樹齢もそこそこで綺麗な木だった。
「これから葵に私の記憶を見せる。 今から起こることはちょっと現実離れしているかもしれないけど、まぁそこは不問にして欲しい。」
何が起ころうとしているんだろうか 良く分からないけど、少しワクワクした。
羅稲は右手で木にそっと触れる
「よし 葵 君も触れて」
僕はそっと木に触れた その瞬間僕達は全く知らない場所に立っていた。ここがどこなのかも いつなのかも 僕にはその一切が分からない。公園の様な場所だった
「何が起こったの ここは一体」
「落ち着いて これは私の記憶。 私は実は木の精の様な物でね 地中に根を張り日々をおおらかに過ごす
全ての木と私はリンクしているんだ。一心同体というものさ。」
理解しがたい状況であるのは承知だが あまりにも衝撃過ぎる出来事故信じざるおえなかった。人間というものはあまりにも現実味を帯びない事は信じてしまう物なのか。
「ここは いつ?」
「意外と冷静だね、状況理解が早い人は好きだ。
ここは過去だ。詳しい事は言えない。ごめんね」
「過去か ここで何かが起こるの?」
「今日この時間に一人の男性がここにやってくる。 私は君に自信を持って日々を送って欲しい。
だからここに連れてきたんだ。今日ここで体験する事を良く覚えておくんだ。」
公園にただ一本佇む木 暖かい日差しを受け 静かに光合成をする
少しして 一人の男性がこちらに向かって歩いて来た。
その男の顔は暗く 息も忘れている様だった。
男は木にもたれかかって静かに座った。
「私はどうしたら良いんだ。」
聞こえるかどうかの声量だが 霞んだ声で男は言った。
「どうしたの?」
羅稲が話しかけている。羅稲の声は何故か彼に伝わる様だった。
「私は子供を失った。まだ若い 十八才だった。
たった一人の息子だった。私より先に..。」
怒りと憎しみと悲しみに満ちた声で呟いた。
どうやら高齢者の自動車操縦ミスによる交通事故で
息子さんは命を落とされたそうだ。夫婦で一所懸命、十八年間かけて育てた息子さんをたった一日の内に失った。
積み上げて来た塔が 突然崩れ落ちる様に
目の前にあった思い出が突然消えて行ってしまうように。
「私には貴方の気持ちを十割理解する事は出来ない。
でもこれだけは言える、君の息子さんは貴方が悲しむ事を 望んではいないという事...。」
「羅稲 それはちょっと..」
絶望に打ちひしがれて 涙を流す人に 悲しむなというのは酷では無いかと思った。だって悲しいじゃ無いか、
僕でも泣く。有象無象言わず涙が溢れるさ。
「葵」
羅稲の方を振り向くと一人の男性が立っていた。透けている 今の僕のように。
「父さん こんな所にいたんだね。ここは家から離れている公園なのに、僕が良くこの公園で木にもたれかかって休すんでいた事を まるで知っていたみたいじゃ無いか。」
優しく 暖かい口調で男性が話した。後半にかけて悲しげな声を含ませて。
「羅稲 まさかこの人は。」
「えぇ この男性が失ってしまった息子さん」
そんな事があるのか まぁ今の状況自体不思議だが、
亡くなった人が現世に残っているのか。天国に行くんじゃ無いのか?
「不思議だね 君は僕の事が見えるんだ。羅稲がそうしたんだね。 こんにちは僕の名前は春兎」
羅稲の事を知っている様だった。この時代で羅稲は春兎に接触していたのか。
「驚いている と受け取れそうだね。僕が何故君という人間と話が出来るのか。理解が出来ないのは無理もない、それほど羅稲は不思議な存在なんだ。 僕だって最初木に話しかけられた時は それはそれは驚いたさ。」
「ごめんなさい 僕も少し追いつけていないんです。
僕の名前は葵 都築葵です。」
自己紹介もせずに突っ立っていては何も始まらないし、
何も変わらない。少なくとも羅稲は僕に何かを分かってもらえる様にここに呼んだんだ。
「敬語はいらないよ 落ち着いて。」
暖かい落ち着いた声 本当に亡くなってしまった人なのか疑ってしまう。
「仲良くなれたみたいで良かった。私はこの男性を見ているから 春兎は葵の悩みを聞いてあげてくれない?」
人生初めても無理もない
死者と対談をしようとしているんだ 僕は。状況が飲み込めないことなんて百も承知だ。
「あっちのベンチに行かない?ちょうど建物の日陰だ。」
「そうですね。」
僕と春兎は日影が出来ているベンチまで行って座った。
公園は静かだった。まるでここだけ時が止まっている様だった。
「葵には何か悩みがあるの?」
「最近自分という存在意義の様な何かが、よく分からなくなって来て、何故僕はこれをしてるんだろう 何故僕はこうしたいんだろうって、自暴自棄に陥ったり。僕一人居なくたって この世界は成立してしまう」
羅稲に言ったことそのままだが これが一番伝わる。
「色々大変なんだね君も。 自分がいなくなっても世界は成立する か..。 はっきり言うと僕もそう思っていた。僕一人居なくなって この世界の何が変わるのかって考えた時 何も思いつかなかった。」
「そうですか..。」
「でも それは間違いだったと気づいたのは、亡くなってからの事だったんだ。 僕が車で轢かれて病院で命を落とした時、僕の父さんはこれまで見た事ない勢いで病室まで走って来て 僕が亡くなった事を伝えられたんだ。 その時どうなったと思う?」
いきなり振られた質問だが重すぎるのが難点。
「泣き崩れたとか?」
「いや 違った。 表情を失った そんな表情をしていた。 口は開き目も開き、過呼吸の状態で崩れ落ち意識不明となったんだ。 僕はその姿を見ていて思った。
人の感情いうパラメーターには限界値があるんだと。
耐え切れないほどの負荷を負えば、父さんの様になってしまうんだと。意識を回復した父さんはずっとずっと泣いていた。 母さんもずっと泣いていた。 勿論それを見ていた僕も泣いていたさ。 全てをかけて僕を育ててくれた両親にこんな親不孝をしてしまった。
向こうのドライバーのミスと言っても僕が注意していたら防げたものでもあった、青信号だったからあまり注意せずに渡ってしまってね。あの時の感情は悲しいには収まりきらなかった。 なんとも言え無い感情。一生かけても絶対に 味わいたくない様な感情だ。落ち着いた今でもそうやって感じる。」
親不孝だなんて考えないで欲しいけど、あまりに事が大きい話だから言い出せなかった。
「ごめん 少し暗い話になってしまった。とにかく
自分がいなくなっても良いなんて考えないで欲しい。
あの感情を僕は君に味わってほしくは無いな。
君には羅稲が見えたんだろう、それは君が自分を嫌いになりかけていたからだ。まぁ条件は時と場所にもよると思うけど。」
「春兎さんも羅稲が見えたって事は。」
「あぁそうだよ 自分が嫌いだった。もう死んでしまいたいくらいね。でも羅稲が僕を救ってくれた。君は僕よりはましな状況だろうけど、放って置いて良い未来にはならない可能性がある 羅稲がそう思ったんだろう。」
「やる事成すこと全てどうでも良く感じていた。人間関係も上手くいかないし、あらゆることで責められる。
確かに最近、良いことなんて無かった。辛かったし苦しかったし。もうどうでも良いとさえ思ってた。
でも僕がいなくなっても何も変わらないというのは間違い。 それは わかった。」
少し泣いてしまっているのを悟られない様に、下を向いて噛み砕いて話をする。
「僕は羅稲に救って貰ったのに、不意の事故でその恩を返せなかった。君はしっかり返すんだ。明るく前をむいて日々を噛み締めて生きれば良い。羅稲に、そして両親や周りの人たちに恩を返す方法としては、それが最善案だ。 人に何かを与える必要も無いし、誰かのヒーローになる必要も無い。君が生きている事実がある それだけで十分だ。」
僕の背中をさすっている春兎の手は熱く力強かった。
何故僕はこんな事で悩んでいたんだ。何故分からなかったんだ。春兎は続けて言った。
「人間ただ辛い事ばっかりと向き合っていくのは、ちょっと勿体無いと 僕はそう思っている。」
辛いことか..
「僕は貴方の意思を継ごうと思います。最初 僕が羅稲を見つけたものとばかり思っていた、けどそれは違いました。羅稲が僕を見つけてくれた。今度は僕が羅稲に恩を返さないと。今度の夏、羅稲をがっかりはさせない。僕は自信を持って生きていると証明します。」
涙が出ていることなんて気にせずに、僕は春兎の目を見て言った。精一杯の気持ちを込めて
「出来るさ。君なら出来る。 そういえば僕の好きな曲があってね ツバサっていう曲なんだ。いつも見てたアニメで知ったんだんだけど。その曲の歌詞に出てくる 『怖いものなど何も無いよ』ってセリフが好きなんだ。自信が付く感じがするだろ。葵君。」
「はい そうですね。」
次の瞬間 春兎の体が消え始めてしまった。
「おっといけない。実はかなり無理してここに残っていたんだ。もう僕は行かなければならない。皆がいう、あの世という場所にだろうね。」
恐らく現世に残れる時間を使い切ったのだろう。
最後に何か言っておく事は..うん
「貴方の事 いつも忘れない。」
春兎は驚いた様な表情をした後、飛び切りの笑顔でこう言った。
「すぐに会いにくるんじゃ無いぞ。葵。」
春兎の体は見ることも出来なくなった。
僕は重い腰を持ち上げて、羅稲の方に歩いて行く。ただ前を見て。公園の時間ががゆっくり動き出している様な気がする。
羅稲は男の頭をさすっていた。男は寝てしまっていた。
「羅稲 終わったよ。春兎は行ってしまったけど。」
「そっか でも答えは見つかったみたいだね。良かった。じゃ戻ろうか、君はここにいてはいけない存在だ。
まるでアインシュタインを冒涜している。さぁ未来の夏に帰ろう。あと一つ葵に言っておく事がある。私はもう君には会えないんだ。」
衝撃は受けなかった、むしろ会えていた事自体不思議な事だったんだ、仕方ない。
「そっか 分かった。」
「それじゃ葵 木に触れて。」
新緑の影の上で彼女はそう言った。僕は木にそっと手を近づけて行く。
「羅稲 僕を見つけてくれてありがとう。」
僕は木に触れた。そっと優しく。
「君には期待しておこう。」
七月二十七日 十三時
僕は四万十川の河原近くの木の前にただ一人立っていた。そこには羅稲の姿は無い。
僕はそっと木に手を当てて考えた。
羅稲 春兎 ありがとう いくらか気持ちが楽になった。
蝉が鳴き、鳥は囀り 夏の気配が僕を包んでいる。
四万十川は驚くほど澄んでいる。木陰は涼しくて
サワサワという心地のいい音が聞こえる。
まだここでの休暇はあるし、何をしようかな。
宿題をするのは..辞めておくとして、とりあえず家に帰ろう 四万十の家に。
家に帰るとすぐにやっちゃんがやって来た。
「葵聞いてくれよ 昨日親戚の家での集まりがあってさ
その親戚の家にでっかいホワイトボードがあんの
でさ、そのホワイトボードのマーカー置き場に
イタズラで大量のマーカーを親戚の子と一緒に積んだの、 そんでおっちゃんに なんでこんなに
マーカーがあるんだー?って言ったんだよ。そしたらなんて言ったと思う?」
「うーん イタズラすんなーとか?」
「いやさ そのおっちゃん マーカー増えてて
摩訶不思議って言ったの マジで笑えるだろ。」
ただの親父ギャグじゃねーかよ 完全に酔っ払ってんな。思わずプスっと笑い声を出してしまった。
おっちゃんとやらのギャグセンスは中々確かなものらしい。
「面白いだろ その人ほんと。」
「あぁ面白い」
夏は続く 四万十を帰っても続く。
部活を再開しても、暑い限り夏が続く。
秋も冬も春も夏も 人生であと何回経験出来るのだろうか。地球温暖化で夏がもっと伸びるのだろうか。
まぁ生きていかないと分からないや。
生きることの自信は持った、自分へのお土産だ。
迷うなら進んだ方が良い。辛いことばっかり考え無くても良い。壁があるならぶっ壊して直進してやろうじゃないか。見ててよ羅稲。庭にある木がザザッと音をたてて揺れていた。
ここは自然に包まれた場所 終
二章 光が差す病室
「神崎さん 体調はどうですか?」
「はい 特に調子が悪いとかはありません。」
「分かりました。」
この生活にはもう飽き始めている。あまり面白いものでも無い、学校に行っていた方がよっぽど楽しいとさえ思っている。強いていうなら私の病室が個室と言うのが幸いだ。テレビも冷蔵庫も、なんなら洗面台にトイレにシャワー室まで付いている。
まぁ私は浴びられないんだけど。
入院していて大変なのはやはり時間を持て余す事だ。
私の場合いつ退院出来るか分からないから、よほど暇だ。勉強しろと言われるけど、ずっとなんてしていられない。
だから私は小説を書くことにした。今の時代私みたいな、しがない女子高生でも小説を書いて投稿出来る時代だ。元々趣味でたまに書いている程度だったけど、今なら書く時間あるし、書いてみても良いと思ったんだ。
「御影茶屋の日常」という小説。
主人公は若い男の人で、京都で茶屋をやっている。
店に来る色々な人と関わっていくというストーリーだ。
私は小説を書く時必ず大体全部の内容を構成しておく。
そうしないとむやみやたらに書き散らして、やっぱり違うとなった挙句、もう良いやとお手上げ状態になってしまう。
書き上げないと、それは小説とは言えない。
中途半端な産物だ。
私は本を読むのも、書くのも大好きだが国語は全く得意じゃない。 これだけ言っておこう、本をたくさん読んだからって国語の文章読解など出来ない。
私の場合、文を読む力では無く文を書く力に半ば全振りという結果に至った。珍しい事例なんだろうか。
大きな窓から光が差している、正方形の大きな窓
開放感とはこう言う物を言うのだろうか。
「哀無 来たよ。」
友達の琴波と彩美が来てくれたので、私はノートパソコンを閉じる。
「今日は学校でね、難しい数学の範囲を習ったんだよ、哀無」
「琴波 それじゃ伝わりにくいでしょ。正確に言うと微分と積分という分野に入った。微分積分って聞くだけで難しいし、実際良く分からなくてさ。 哀無教えてくれない?」
何故私が教えるんだよ 逆でしょ普通は
「分かった ミルクティーで手を打とうじゃ無いか」
「乗った」
しばらく待っていると二人は本当にミルクティーを調達してきた。仕方ない教えるか。
二人を長時間病院に居させるわけにはいかないので
物凄く分かりやすく解説した。
「ここはこの二乗ってのを前に持ってきて、一を引く
そうすると...」
「なるほどこれで微分が成立するのか。」
「ついでに増減表もやっておこう。」
ミルクティーのお礼と言ってはなんだが、増減表から
極小と極大を求める方法までしっかり教えておいた。
「ありがとう哀無 助かった。また来るよ。」
「うん ばいばい」
私は学校には通えていないが、暇な時間を使って教科書は片っ端から勉強しているし、先生から時折届くプリント、それもやっている。
極端な話、学校行っている人よりも勉強が進んでいるという訳だ。
病院って静かな場所だから、以外と作業環境が整っている。殆ど一人の時間だけど。
親は一週間に四回程度着替え等を届けに来る。
兄は一週間に一度、友達は三度ぐらいきてくれる。
しかしそれでもずっと大半私は一人だ。
面白く無いな。こうも動かずに毎日を過ごしていると、
逆に疲れる。
色々なアニメやテレビを見た。時間を潰すのもそう楽じゃ無い。御影茶屋だってもう八万字を突破している。
正直最初の構成からだいぶん変わってしまった。新メニューだっていっぱい作り足したし、お客さんもずいぶんとふえた。明確なストーリーラインが無いから、終わるに終われない。私は不意にテレビをつけた。
世界の絶景ランキングを見ていく特番のチャンネルが
写った。しばらく見入っていた。
日本からもいくつか乗っていた。京都の神社の景色。
京都伏見稲荷大社、鳥居がいっぱい並んでいて有名な所らしい。この様な場所に御影茶屋があったら風情が出るかな。
京都と言えば神社や寺院という印象がある。
私は清水寺などの有名な観光スポットにはあまり興味は無く、市街地から離れている瑠璃光院や源光庵などと言った比較的マイナーな所が好きだ。
京都という土地が好きだから私は今御影茶屋を執筆している。
以前友達からオープンキャンパスついでにプチ京都旅をしたという話を聞いた。
なんでも嵐山のモンキーパークはオススメ出来ないと言う。どうやら山をひたすら登っていかないといけないらしい。彼はお土産のお菓子を置いて帰って行った。
お土産美味しかったな、おこげはん、と言ったっけ。
米の原型が残った状態のせんべいの様な物で食感はザクザク、食べると香ばしさが口いっぱいに広がる。
もう一度食べたい。
こうやって毎日をすごしていると
皆んなを凄く羨ましく感じる。私はここから動く事が出来ない。その間皆んなは色んな体験をして、色んな出会いがあって、発見があって刺激に満ち満ちた日々を過ごしている。
いつ、ここを出ていけるかも分からない 不安も心配も少しづつ積み重なっていく。
今は大丈夫だけれどいつか耐えきれなくなったりするのかな。
この日々が普通じゃ無いという事は分かっている。
九月二十七日
季節は夏から秋へと変わりいくらか涼しくなって来た
今年の夏はとても暑く猛暑日が続いていたみたいだ。
部屋にある窓は少しだけ開閉が出来る。
勿論転落防止の目的もあってそんな大胆には開かない。
少し空いている窓の隙間から涼しい風が入り込んでくる。
そういえばずっと書いていた小説は遂に完結したので
まとめて小説掲載アプリに載せておいた。
いくらか読んでもらえたみたいで反響があったのは嬉しいけど、次の小説のテーマ探しに翻弄されている。
何が良いのだろうか、転生系とかそう言った類に手を出してみるのも悪く無いのかもしれない。
風が吹き込むのと同時に一枚の葉が私の病室に入って来た。動力源を失った葉は床に落ちていく。
ここは五階、葉っぱがここまで来るのは中々有り得ない事だ。風が吹いただけで辿り着けるものか。
何か不思議そうにそう思っていると
ベットの死角から 少女が一人立ち上がってきた。
人がドアから入ってきていない事は当然分かっていた。
「あ..あの..貴方は誰ですか? どうやってここに..」
少女は身の埃を祓うかの様な仕草をした後にこう言った
「こんにちは 私は羅稲、驚かせてしまってごめんなさい。貴方が少し辛そうだったから。 風の力をちょっと借りました。」
とんでもない事が起こっている事はすぐに分かった。
私そこまで馬鹿じゃ無いから理解出来る。
木の葉が飛んできた、それは少女になった..。
たったそれだけ、たったそれだけなんだ。理解しろ私、飲み込め私。
いや どう言う状況
「え...あ あの えぇ」
もう何て言ったら良いんだよこれ
「困惑するのも仕方ないです。私が勝手に入って来ましたから。そうですね..貴方の名前を聞いても良いですか?」
少女は病室の椅子に座った。
「私は神崎哀無 一応高校二年生です。まぁずっとここにいるんですけどね。」
「私とちょっと話しませんか? 哀無はお喋りとか苦手ですか?」
「いや そんな事は無いよ。敬語も使わなくて良い。ここに人はあまり来ないし。私も話し相手が欲しかった所。」
なんだかよく分からない事になったけど、まぁこれぐらいの事が起きないと、ここはあまりにもつまらない。
その後は羅稲と色々な事を喋った。普段人と全然話す機会が無いからいくらでも喋っていられる。
「哀無 何か悩んでいることとか無い?」
「そうだね 強いて言うならこの生活が楽しく無いし、面白く無いってことかな。最初の最初は悪く無いって思っていたのに、日が経つにつれて段々としんどくなって行って、もう疲れたんだと思う。皆んなが来てくれるのは嬉しいし、ありがたい事だけれどそれでも普段してた暮らしがしたい。」
「それはそうだよね。この部屋は個室。普通の病室に比べたら、幾らかは過ごしやすいのかもしれないけれど、
それでもある程度の期間が過ぎれば私でも辛い。」
「私が普通の暮らしを送っていれば、色々な場所に行って、色々な発見をしてただろうって思うと辛い。」
「よし 分かった。今日は遅くなったし帰るよ。
そして明日の昼頃ここへ来る。哀無の悩み、しっかり晴らしてあげる。好奇心に溢れた貴方が見たいから。」
羅稲は床に落ちていた葉を手に取り、窓の隙間から外に飛ばした。そこに羅稲はもういなかった。
本当に不思議な子だ。そして本当に優しい子。
九月二十八日
昼食をとってしばらく待っていると、窓の隙間から
葉が入って来た。もう慣れた光景
「こんにちは哀無」
「こんにちは、ちゃんと来たんだね」
「私は約束を破らないから。じゃあ早速始めようか。」
「何を?」
「哀無立てる?」
私はベットから降りて、羅稲の前に立った。
「哀無 今から起こる事は、私がここへ来た以上に
信じられないことと思うけれど、心配はしないで。
私がきっと助けるから。 私の手に触れて。」
私は羅稲の小さな手にそっと触れた。
私はまるで異世界の様な場所に羅稲と立っていた。
三百六十度木で囲まれた円形の土地、小さく枝分かれした自然の水路には水が流れていて、円形の土地の真ん中には最も大きい木が御神木のように立っていた。
時間は夕暮れ時 夕日が差すこの場所は、それはもう綺麗な場所だった。
でも時間は止まっている様だった。
「ここは?」
「驚いたりしないんだ、ここまで冷静な人を私は見た事が無いな。良いね 私は好きだ。 ここが何処なのか
いつなのかは残念だけど言えない。 もうすぐ一人の男がここへやってくる。 その人と話してみると良い。」
私は御神木の様な木の下にある岩に座って、羅稲と話をした。
そうやって待っていると、大きな荷物を背負った男性がこちらに歩いてくるのが見えた。
羅稲はその男性に話しかけに行った。少しの間話した後
男性がだけがこちらに歩いて来た。
「こんにちは 私は四宮涼介って言います。好きに呼んでもらって構いませんが」
可愛らしいおじいちゃん、随分しっかりしている人だ。
「こんにちは 私は神崎哀無です。」
四宮さんは私の隣に座って話し始めた。
「聞きましたよ 病院でずっと長い間過ごしているんですよね。」
「はい そうですね。もう高一の頃からずっとです。
最初は良い生活だなんて思っていました。ずっと横になってるだけですけど。でも日が経っていくにつれて何も面白く無くなって行ったんです。病院の中は出会いも発見もありません。つまらないって感じるだけならまだ良かったけど、今は不安や心配も積もっていくばかりで。」
「まぁまぁ落ち着いて深呼吸してください。
ここは落ち着ける場所です。哀無さん 貴方は凄い人です。自分が今どの様な状況にいるかちゃんと把握出来ている。中にはその心配や不安から抜け出そうと足掻いて自暴自棄に陥る人だっているんです。
でも貴方は正面からそれと向き合って、それを素直に伝えてくれました。中々出来る事じゃ無いんですよ。」
とても落ち着いた優しい声だった。
こうやって褒めて貰ったのはいつぶりだろうか。もう思い出せないや。
「実は私にも昔嫌な思い出がありましてね。三七歳頃の時、私は息子を失ってしまったのです。まだ十八歳でした。青信号を歩いていると、高齢者が運転する車が突っ込んで来た様でした。病院で息子の死を知った時私は倒れたみたいですが。」
「それは..なんと言うか。」
「良いんですよ、今はもう気にしていません。私は息子が亡くなった後、息子が子供の頃好きだった公園に行って羅稲に話しかけられて、それがきっかけで旅人になったのです。」
「旅人というのは、世界一周したりする あの?」
「そんな感じです。私はロードバイクで世界一周をしました。かなり時間がかかってしまいましたが、アジアから始まった私の旅は無事に終わりました。」
「ロードバイクで世界一周..凄いですね。私なら絶対出来ないや。」
「私は色々な景色をこの目で見ました。本当に色々な人と出会いました。知らない言語に戸惑ったり、知らない作法に困らせられた事だって何回もありました。
それをちゃんと全部知った上で言います。
哀無さん 貴方も世界の景色を見てみたくありませんか。私はこの世界一周でさっき言ったみたいに困ったことも沢山あったけど、それ以上に何倍も嬉しい事と楽しかった事がありました。」
「私が 世界を見る..ですか。 考えた事も無かったです。」
「私は貴方に好奇心の大切さを知って欲しいんです。好奇心とは一般に、物事を探求しようとする根源的な心の事を言います。世界一周 いや日本一周でも、自分の県の名所を回るのでも良い。まだ見ぬ景色を追い続ける
好奇心を持って見ませんか。視野は広い方が楽しいですよ。」
そういえばそうだった、色んな景色を見て、色んな人と出会って、色んな発見と体験をする。
私が病院にいる間 ここを出ればしたかった事はまさしくそれだ。積もっていく不安と心配がそれを隠していた。心の奥底では一種の限界を迎えていたということか。元々存在しようとしていた好奇心に埃を被せてしまったのは、間違いなく私だ。
「見て見たい... 病室以外の景色。 日本の景色。
世界の景色。 病院から出られたらですけど。好奇心が持続する限り私は色んな経験をしたい。そのためには好奇心に埃が被らない様に気をつけないとですね。」
「貴方ならきっと出来ますよ。自分と向き合う事を辞めなければ、きっと。」
「所で 四宮さんは羅稲と会って旅に出たんですよね。
羅稲には何て言われたんですか?」
「あぁ 息子は貴方が悲しむ所は見たくない。しょぼくれて無いで視野を広くするために旅に出ろってね。ひどい言いようだろ。でも実際そうして大正解だった。あの子が取らせる選択に多分間違いは無いんだろうと今となっては思います。ここへ来るのだって その日羅稲に言われたんですよ。 三十五年後の、この日にここへ来る様に。私は決して忘れなかった。だから今貴方と話をしている。救われた身からアドバイスをする身になるとは思いませんでしたが」
「なんだか羅稲の印象とはだいぶん違いますね。」
私と四宮さんはしばらく談笑をした。
彼の世界の話はとても面白く、いつまでも聴いていられる。 中国で会った日本語の喋れる男性の話。
ペルーでキャンプ中にヤクに囲まれた話。
全て彼自身が体験した事だと思うと、改めてとても凄いと感じる。
「さて私はそろそろ行かないと、この場所は言ってはいけないと言われていますがヒントをあげます。ここは日本ではありません。私の生涯最後の海外旅行ももう終わりという訳です。」
「私の生涯初めての海外旅行ももう終わりますよ。」
彼はにこやかに
「では また何処かで」
と言って去って行った。旅人という肩書きが良く似合っている。
「羅稲 終わったよ。」
「そう じゃあ私達も帰ろうか。 でも一つ君に言っておく事がある 私は病室でもう君に会えない。それと五十年後の九月二十八日 ここへ来て 哀無ならきっと見つけられる。」
「うん 分かった。きっと羅稲に会いにいく。数え切れないぐらいのの土産話を持って。」
私は小さな羅稲の手に触れた。そこは夕暮れ時の病室だった。
涼しい風が窓の隙間から吹き込んでいる。羅稲にまた会いに行ける
いまの私は好奇心に満ちている。
ノートパソコンを開く 小説のタイトルが決まった。
光が差す病室 終
第三章 羅稲とはまさしくその木である
いつからか私は人間という生き物に興味が湧いた。
最初私に意識が生まれた時人間などという生物など存在しなかった。周りは緑に覆われて有象無象と歩く生物しかそこには存在しておらず、ましてや意識を確立する生命体などいる訳もない時代だった。
だが今は違う 世界各地に人がいる。人口は八十億人を突破しており、産業の発展は止まる事を知らない。
最初は本当に憎たらしい奴らだった。
世界各地 私と意識を共有している木はかなり伐採されてしまい、砂漠となった地もある。
人間はとても自分勝手な生き物で、自分たちが良ければ良いと思っている。
でもあの日から、私は救わないといけない人間もいると思った。人間が全員悪だと決めつけた私が悪かったのかも知れない。どうやら人間は、全員が違った感性や思考を持っているようだ。
日本という国にある木に意識を移して人間を観察していた時、ある少女が私に近付いてきた。
白いワンピースに麦わら帽子 白いスニーカーを履いた
可愛らしい少女だった。
その子は、公園で皆んなが遊んでいることになんて目もくれず、端にひっそりと立つ私の元に歩いてきた。
少女は言った。
「貴方は..優しそう」
何を言う人間。
少女は私に優しそうと言った。その時の私には理解出来ない事だった。私の木陰の上で、私の方をしっかり見て、溢れんばかりの笑顔で少女はそう言った。
「私の名前は木下冰里花、貴方の名前は?」
いくら私に害の無い人間とはいえ、話す事は出来ない。
この世界では木は喋らない。
「じゃあ貴方は羅稲 こんにちは羅稲」
私は何百年と意識を繋いできた中で初めて、名前と言うものを付けられた。羅稲 少なくともこのような名前は聞いた事がない。見知らぬ謎の少女にいきなり命名されるとは、日本というのは不思議な所だ。
少女は私の根元に腰掛け、私にもたれた。
「ねぇ羅稲聞いてよ、私ね遠く無いうちに死んでしまうのだって。お医者さんに言われた。私は何か重い病気を患ってしまっている様で、見た目はこれ程元気なのに
長く生きられない。世界の何処でも有効な治療法が見つかっていない極めて稀な病気。それを聞かされたのは
今日の朝。」
可哀想に、見た目からしてまだ小学生低学年と言った所、そんな精神年齢で自分の死を現実的に受け止めるのは不可能に近い事だ。ずっとずっと長い間人間を観察し続けている私には分かる。その様な状況ならば、木に話しかけてしまうのも無理は無い。
少女の顔はどんどん衰弱していた。今にも泣き出してしまいそうな表情は、今まで私が見てきた物のどれとも異なる様な表情だった。
「私が死んじゃったら パパもママも悲しむ。私のせいで色んな人が悲しむ。死にたく無い。ずっと家族と一緒にいたいのに。何で..」
この子は一体どうなっている。自分が長く無い命である事を自覚してなお、他人の事を考えている。
自分が稀な病気を持って生まれてきた事を悔いている。
ただ悲しんでいるのでは無い。
やはりこの様な子供に出会うのは初めてだ。
その少女は私が今まで抱いてきた人間という生物の印象をがらんと変えた。
私は少女をよく見た。確かに生命に何か黒い物が取り巻いている様に見える。
「でも 私思ったんだ。羅稲 ここでずっと下を向いて悲しんで落ち込んで、そんな生活を続けていつか死ぬなんて、それこそ皆んな悲しむよね。
私は今日から残された時間 笑って過ごした方が良いよね。もうあまり時間は無いんだと思うけれど、でもやりたい事いっぱいある。行きたい場所いっぱいある。
そうして私が死んじゃった時 冰里花を産んで良かったってパパとママにそう言ってもらいたい。」
「そうだね 冰里花」
「うん羅稲 私は頑張って生きる。毎日笑顔で
毎日楽しく。そうやって演じるんじゃ無い、本気でそう生きるよ。やっぱり貴方は優しい 羅稲」
私がこの子の為に出来ることなんてたかが知れている。
常識の概念をぶち壊して、声をかけてやる事だけだ。
私は初めてこのような人間を見た。
今まで見てきた人間とは違う物を感じる。死期を目の当たりにしてなお、生きる希望を捨てない。残っている未来をギリギリまで楽しい未来として消化しようとしている。
私が人間として生まれたのなら、これは到底不可能な事だ。この少女を見守る
羅稲としての私の役割なんだろう。
笑っている... 少女は今笑っている。
「よし 気が楽になったよ羅稲。病院に戻らないと。
逃げてきたんだ実は。 またきっと来るよ羅稲。」
冰里花の残りの人生が少しでも良いものになって欲しい
それから数日周期に冰里花は私に会いに来た。
一人で来ている訳では無いけど、私を気づかって両親を少し遠い所に座らせる。
冰里花は私に色々な話をしてくれた。私もたまに返事を返す。それだけで少女は笑っている。
しかし、もう二週間来ていない。そろそろ本体である木に帰ろうとした時
一人の少女がこちらに歩いてきた。
体が透けている。生きている人間では無いことなど一瞬で分かった。
「羅稲 これで来るのは最後になっちゃう。」
「冰里花 残された人生は楽しかったか?」
「うん 今日はお礼を言いにきたんだ。貴方のお陰で私は自信を持って最後まで全力で生きられた。」
「私のお陰...」
「そうだよ羅稲 私はこの一年半 色々な場所に行って
色々な体験をして沢山の思い出を作った。でもね、羅稲といる時が一番楽しかった。この木の下で貴方と笑い合った事が一番楽しかった。 本当に本当にありがとう羅稲。」
「冰里花 私は何も出来ていない。君が頑張ったんだ。君が一生懸命生きたんだ。」
「羅稲は素直じゃ無いんだから。でももしそう思うのだったら、羅稲は私以外の人も救ってくれないかな。
こう言った境遇や、もっと浅い事でも良い、何か悩んでいる人を助けて欲しいんだ。」
「冰里花 私はただの木に過ぎないんだ。助けると言ったってどうやって。」
「私の体を使って。私の声を使って 出来るでしょ?
私はもうここにいられないし。」
「本当に良いの?亡くなったとしても冰里花の体は冰里花の物だよ。」
「えぇ勿論。だって 貴方は優しい木だから。 もう行かないと さようなら羅稲 私は貴方に期待しているよ。ありがとう羅稲。」
新緑の影の上で少女はそう言った。
優しく朗らかな笑顔の少女は優しく暖かい声でそう言った。
冰里花は消えてしまった。でも意識の無い冰里花の透けた体は そっと私に触れていた。
私は意識を集中させる。冰里花が私に託した物を無駄にする訳にはいかないから。
私はその体の取り込みに成功した。やったこやった事なんて勿論ない、完全なアドリブだった。
そこから私は世界にある木を移動しながら、色々な悩みがある人間を見つけて人間として話を聞いた。
冰里花を取り込んだ時何故かタイムスリップの能力が身についた。冰里花が残してくれたものと思っている。
それを使うと、過去の人と対話をさせたり出来て良いから積極的に使っている。
そして冰里花と最後に会った五月二十七日にちなんで
毎月、二十五日から二十八日の間は基本的に日本にいる事にしている。
冰里花、私は今でも元気でやっているよ。今日も悩みを聞いて、少しでも前を向いてもらえる様に心がけている。それが君の望みだろ。
いつか遠い未来で、彼女が生まれ変わる事があれば
私から会いに行こう。
羅稲はゆっくりと息をする。
三百六十度木に囲まれた中にある一つの大きな大きな木。
羅稲とはまさしくその木である。
羅稲とはまさしくその木である 終
あとがき
生きるってどう言う事だ...
幸せとは 嬉しいとは 悲しいとは 苦しいとは。
これには答えがないのである。
この世界には八十億人以上の人が毎日を生きている。
その八十億人がそれぞれ違った考え方を持つ。
些細な事でも幸せに感じる人もいれば、ただの些細な事として考える人もいる。
でも、最も大切な事は 自分の生き方を自分で決める事だろう。
誰かに縛られていては、人生のスタート地点には立てない。
足掻け 醜くても良い
私は生きていて良かったと 最後にそう思える一生を手に入れるために。
勿論 良い様にばかりは行かないですよ。
でも、良い様に行くだけの人生はつまらないじゃないか。ゲームに課金しまくって、強くなり過ぎて飽きた
みたいに。
まぁ 辛い事に相対した時は、木に持たれて一息ついてみてはどうでしょうか?
羅稲はきっと見ています。あの木は冰里花との約束を破ったりはしないでしょうから。
羅稲の本体は一体何処に居るのでしょうね。
貴方も探して見てはどうでしょうか。
あと 羅稲が何故タイムスリップの能力を手に入れる事が出来たのか。
それは冰里花が、羅稲との思い出を強く大切にしていたからです。過去を大切にしていたからです。
新緑の影の上で貴方に伝える
この物語を読んでくれてありがとう。
新緑の影の上で貴方は言った 終