花嫁(2)
イヴァンの兄レギナルトは怒っていた。弟がどこか素性の知れない平民の女に、うつつを抜かして役目を放り出して三日と置かずに通っているからだ。
性悪な女に騙されているに違い無いと思っていた。イヴァンは腹違いの兄弟だが、たった一人の弟ということもあり母親達の確執とは別に彼をとても可愛がっていた。
一歳しか違わないのに責任ある兄の立場のせいなのか精神的にもレギナルトが優っているようで、歳の差がひらいている様に感じられた。一つしか違わないと聞く者は驚くぐらいだ。それは容姿のせいもあるだろう。
イヴァンのフワフワした砂糖菓子のような雰囲気と違い、同じ紫の瞳をしていても視線は鋭く紫水晶のような冷たさを感じる。そして夜を思わせる濃藍色の長い髪が整い過ぎる貌を縁取り、更に冷めたく落ち着いた雰囲気を際立たせているのだ。
いずれにしてもイヴァンを諌めたが珍しく諦めようとしなかった。全く面倒な事だが身内の恥を他に任せる事も出来ず、レギナルトがこの関係を処理する事にした。
そして弟と同じく質素な目立たない格好に身をやつし、イヴァンが熱を上げているという女の元へ馬を駆けさせた。 馬を通りの外れに繋ぎ調べていた女の店へ足早に向かうと店内を覗いた。
奥には若い娘はいない様子で夫婦らしき者達が、こちらに気付く事なく会話をしていた。
「ティアナはまだ帰って来ないのか?もうとっくにあいつは帰っていったんだろう?」
「あいつって、イヴァンさんの事?そう言えば今日は早かったわね。でもティアナはあの神殿跡が大好きだから日が暮れるまで帰って来ませんよ」
レギナルトは会話を訊くと、その場から離れた。
(イヴァンめ!今日も来ていたのか!神殿跡とか言っていたな…)
レギナルトは再び騎乗し神殿跡地へ向かった。そして辺りを見回すと目的のものは直ぐ見つかったが彼が想像していた者とはずいぶん違っていた。
彼は思わず眉根を寄せた。弟をたぶらかす妖艶な美女を思い描いていたが…確かに美しいが女と言うよりまだ少女のようだと思った。無防備に眠る姿は楚々として強烈な保護欲を掻きたてられた…
(保護欲?守ってやりたいだと?馬鹿な!)
一瞬浮かんだ気持ちを打ち消して、これがこの少女の手管だと思う事にした。
ティアナはまどろむ中で人の気配を感じ、ゆっくりと瞳を開いた。そして前に立つ人物に焦点を合わせると声も無く驚いた!
全く知らない人なのに威圧する様な光を放つ紫の瞳が自分の事を憎んでいるようだったからだ。
整った口元は、その冴える容姿に相応しい冷たい声を紡いだ。
「お前がティアナか?」
ティアナは眼の前の圧倒的な存在に、ただ頷くしか出来なかった。
「私は、イヴァンの兄だ」
「えっ、イヴァンのお兄さん」
ティアナは視界いっぱいに立ちはだかる男が、イヴァンの兄と聞いても安心する事は出来なかった。イヴァンより長身で細身に見えても衣服の下は強靭な体躯と全身からみなぎる様な力を感じた。ティアナは自分が獣に追い詰められた小動物のような気持ちになった。
でも勇気を出して恐る恐る立ち上った。
(何をしにきたのだろう?イヴァンを探しに来たのかしら?)
「イヴァンを探しているのかしら?それなら彼は…」
レギナルトは不遜な態度で彼女の言葉を遮ると自分の話を始めた。
その声音は凍てつくように冷たかった。
「弟との別れ話をしに来た。弟はお前のような者と付き合うような身分の者では無い。即刻、別れてもらう」
ティアナは絶望に胸を押しつぶされながら彼の話を聞いた。何時かこんな時が来るような予感はしていた。イヴァンは隠していても貴族のようだったから絶対に家族の人が許す筈が無いとも思っていた。でも、ちゃんとした理由を訊きたかった。
「私が平民だからですか?」
意外と平然な彼女の様子を見たレギナルトは自分が思った通りの女だと思った。だから更にその声音は冷たく彼女の問いに答える事無く話を続けた。
「イヴァンにはアデーレと言う婚約者がいる」
ティアナは大きく息を吸い込み叫んだ。
今度は取り乱し様に「嘘!」と叫ぶ彼女を黙らせるようにレギナルトは低く更に冷たくゆっくりと喋った。
「嘘じゃない。由緒正しい家柄の娘だ。弟とは幼馴染でイヴァンの事をよく分かっているから安心して任せる事が出来る。それに二人は昔から愛し合っていた。今回運悪くアデーレが母親の静養の付き添いで遠方に行ってしまって寂しがりやの弟は落ち込んでいた。そこにお前が付け込んだだけだろう?迷惑な話だ」
「嘘よ。信じないわ…イヴァンは私が好きだと言っていたわ!そんな話、信じない!」
「信じるも信じないも関係無い。弟にアデーレの事を訊いてみるといい。それもイヴァンが今後逢いに来たら、の話だ」
ティアナはレギナルトの次から次へと氷の刃を突き立てられるような話に耳を塞ぎたかった。
イヴァンの許婚の話も愕然としたが初めて会った彼が自分の事を性悪女と決め付けて話すのがとても嘆かわしかった。確かにイヴァンは謎が多かったが本当に愛されていると思って疑った事は無かった。信じたく無いがイヴァンに訊けば直ぐ分かるような嘘をわざわざ言いに来るものでも無い…
(それに彼は何と言っているの?今後逢いに来たら、の話?どう言う事なの?)
ティアナは不安がよぎって意味を読み取ろうとレギナルトを見上げた。
それを感じ取ったレギナルトは、忌々しげに彼女を見下すと更に追い討ちをかけたのだ。
「イヴァンをアデーレのいる所の仕事を言い付けた。今日、そこに向かって出発している頃だろう。直ぐに終わるような内容では無いからこれでアデーレとの時間もたっぷり取れてイヴァンの気持ちは治まって目も覚めるだろう。お前は御用済みと言う訳だ。いい金蔓だと思っていただろうが残念だったな」
(イヴァンは何日か会えないと、それこそ今日言いに来た。本当は別れの挨拶だったの? 私は遊ばれていただけだったの?だけど、この人は私がイヴァンのお金目当てに彼を堕落させたような言い方をしている。まるで私が悪いみたいに…)
レギナルトはティアナを見てはっとし、思わず視線を逸らした。
「泣いたって無駄だ。そんな清純な振りをしても私は騙されない」
いつの間にかティアナの美しい瑠璃色の瞳から、まるで瞳が溶けて流れたかのような涙が落ちていたのだ。大きく見開く瞳にレギナルトが映っていた。
彼女は大きく息を吸うと瞼をきつく閉じて涙を振り切り、小刻みに震えながらも再びレギナルトを静かに見つめ返した。
「彼のお金なんか関係ありません。イヴァンが好きです。これだけはハッキリしています。だからそれが本当に彼の望みなら迷惑もかけるつもりもありません」
レギナルトは吸い込まれるような瑠璃色の瞳から涙がこぼれた時は、先程打消した気持ちが持ち上がってきたが再び心の奥底へ押し込めた。それから殊勝なティアナの言葉に裏が無いかと瞳を細めて聞いた。彼女はどこから見ても清純で可憐な少女だった。まるでイヴァンの方が彼女を弄んでいたかの様な錯覚さえ覚えた。
しかし一度思い込んだ認識は覆ることは無かった。
(見事なものだ!これならイヴァンもひとたまりも無かっただろう。これで決着はつくだろう)
レギナルトは懐から金袋を取り出して彼女の足元へ放り投げた。落下の衝撃で口紐が緩み、中から帝国金貨が輝きながら跳ね上がって散乱した。地面いっぱいに金貨が広がったのだ。
「今までの代価だ。これで十分だろう?」
レギナルトは冷やかに微笑みながらそう言うなり、ティアナの静止も聞かずさっさと去って行った。
ティアナは最後まで商売女のような扱いを受けて悔しくて悲しくて仕方が無かった。こんなに人を憎いと思った事も無かった。お気に入りの場所が忌まわしい金貨で汚されたような気がして、とうとう声をあげて泣き伏してしまったのだった。
ティアナとレギナルトの最初の出逢いです。いやぁ~私、好きなんです!こんなパターン。嫌な女と誤解して冷たくするパターン…定番でしょう?それが良いのですよ。思いませんか?しかも自分の考えが一番正しいと思っている傲慢タイプが後にだんだんと惹かれていくパターンが好きです。