サンタクロースの匂いを忘れない
※この作品はノベルアップ+にも「ねこぴよ」名義で投稿しています。
あたしはサンタクロースの匂いを忘れない。
サンタクロースの記憶といえば、多くの場合父親の記憶と重なるのだろうか。
実の父親の顔も声もあたしは憶えていない。
そちらはただ、おぼろげなイメージが残るのみだ。
色として残るイメージは黒。いつも大きな声とともに現れ、怒りをまとっていて、ひどく怖い存在だった。
その存在が消えたころから、今度は優しかった母がその黒いイメージをまとうようになった。
当時のあたしは叱られるたびに繰り返す「ごめんなさい」が口癖だったように思う。
まだ、小学校に上がる前の頃の話だ。
「ひな、いい子にしてるのよ」
良い匂いのする香水をつけた母が、そういい含めるように何度も何度も繰り返した日。
我が家に見知らぬ男性がやってきた。
「ほら、あいさつしなさい」
その日に限って、いつもと違って妙に優しい母に異質なものを感じた。
艶のある猫なで声で、でもその内には静かな怒りを含んで。
そんな内と外とで矛盾するものを笑顔の下に両方抱えている母が嫌だった。
嗅ぎなれない匂いのする男性も嫌だった。
男性は少し太っていて、小綺麗なグレイのスーツを着ている。今までこの家で嗅いだことのない何か別の――別の世界の匂いをまとっていた。
ちょっと怖い。大人の男性は怖い。知らない匂いは怖い。
「ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃないでしょ。あいさつよあいさつ。できるでしょ」
母のいら立ちが密かに増大するのを感じて気があせる。でもどうするのが最善の行動であるのか判断できなかった。恐怖は人間を委縮させる。
「もう、この子ったら。普段は挨拶ぐらいできるんですけど。きっと恥ずかしがってるのね」
「いやあ、このぐらいの子はみんなそうですよ。さあ、ひなちゃん、クリスマスには遅いけど、ほらケーキ買ってきたから。一緒に食べよう」
男性は大きな白い紙箱を持参していた。
それはケーキの箱であったのか。
「……食べる」
即答した。
怒られるのかな、と一瞬ひるんだけど別に怒られることはなかった。
見ればもう母は上機嫌でお茶の用意などをしている。あいさつでしくじったことは許されたのだろうか。
ならば。
ケーキ。
実際のところ、ケーキなんてもうずいぶん食べてなかった。半年ぐらい前、母の職場仲間だという女性がお土産に持ってきてくれたものを食べたのが最後だったろう。その職場仲間という女性もそれきり来なくなってしまった。
それはともかくケーキである。ややちいさいけれど畏れ多いことに一ラウンドである。心が躍る。
――つまるところ、この男性はサンタクロースであろう、とあたしは考えた。
未知の男性ではあったが物腰は優しく、夢のようなプレゼント、ケーキを持って現れる。それはつまり……たぶんサンタクロースなのだ。
クリスマスも過ぎて数日経っていたはずだけど、子供心にサンタさんだって少し遅配することもあるだろうと納得していた。
「僕はけいすけ。峰木惠介だ。ひなちゃん、惠介、呼んでごらん」
「……けーすけ?」
「そう、けーすけだ。よくいえたね」
「さん、をつけなさい、惠介さん、でしょう、ひな」
「けーすけさん」
そう呼ぶと、サンタさんは大きな丸い顔をくしゃくしゃにして笑った。
名前を呼ばれることがそんなに喜ばしいことなのか。
「けーすけさん」
「うーん、やっぱりけーすけ、でいいよ」
「けーすけ。ふふっ」
名前を呼ぶたびに笑うその顔が何か面白かった。
「ひーなちゃん」
「ひなでいいよ」
「ありがとう、ひな。これからよろしくね」
今まで未知だった人物、サンタさんの顔をそこで初めて「けーすけ」という存在の顔として認識した。
「けーすけ」
「あら、もう仲良いのね」
切り分けられたケーキが到着する。
そこであたしの興味はそちらに引き寄せられてしまった。
あとは母と「けーすけ」がなにやら難しい大人の話をしている間、あたしはおいしいケーキを存分に満喫したのだった。
なんの話をしているのだろうなどとは考えなかった。大人というのはいつも理解できない会話をしているものだ。
「ひな、惠介さんお帰りになるから。あいさつしなさい」
「え?……うん」
大人たちの用事は終わったらしい。
ケーキを食べ終えて、確か人形遊びか何をしているうちに声がかかった。
いつのまにかグレイの上着を着た「けーすけ」が立っている。
忙しいのかな。
きっと次の場所へと移動するのだ。サンタさんが受け持つ家庭の数は多いのだろう。
「じゃあ、またね、ひな」
「さよなら、けーすけ。またきてね」
「ケーキありがとう、でしょ、ひな」
「ごめんなさい。ケーキありがとう」
しかし、なんだかんだで母の機嫌は悪くないようだ。
「あら? 地震……?」
その時、ビビビ、と細かな振動があった。
すぐにそれは大きな波となって世界全体を大きく揺さぶるようになる。
「あ。大きいな。気をつけて」
「けーすけ」がいう間に揺れはさらに大きくなっていく。
今にして思えばその揺れは、せいぜい震度四といったところだったのだろう。
だが、あたしはその時までそのような大きな地震を経験したことがなかった。
どう対処すればいいのかわからない自分がその時どんな顔して立っていたのかと思うと、ちょっとばかり恥ずかしい。
突然、大きな手があたしを引き寄せた。
見れば母とあたしは中腰になって立つ「けーすけ」に引き寄せられていたのだった。
ぎゅうっと締め付ける力に驚く。
それが暴力ではなく、あたしたちを守ろうとしているのだということは幼いあたしにも理解できた。
このままこのマンションは倒壊するのだろうか。三人をとりこんだまま。
そんな恐怖は、大きな手が、締め付ける長い腕が、柔らかい胴体が包み込んで中和していく。
嗅ぎ慣れないサンタクロースの匂い。「けーすけ」の匂い。それがたぶん恐慌からあたしを守っていた。
怖いのに心地が良い。
あたしは、その時までこんなに強く誰かに抱きしめられたことはなかった。
母もここまで強くあたしを抱きしめてくれることなんかなかった。
だから、その感触は地震以上にあたしに衝撃を与えた。人はこんなにも暖かいのだと。強く抱きしめられるということはこんなにも安心できるものなのだと。
あの時、母と「けーすけ」は何を思っていたのだろうか。そういえば結局聞くこともなかった。
続く揺れの中で、一塊となった三人は何か本能的なものに従ってただ黙っている。
最後に思い出したように棚から転げ落ちた人形をもって大きな揺れは収まっていった。
「ああ、びっくりした。俺、地震嫌いなんだよね」
「大きな地震。怖かったわ」
揺れも収まってくると、ようやくあたしは解放される。
あたたかな身体が離れていくのが少し残念だった。
なぜか少し恥ずかしそうな顔をした「けーすけ」。
何ごとか母と話している。
そうだった。さよならなのだ。
「けーすけ」
「なんだい、ひな」
「また来てくれる?」
あの大きな丸い顔がくしゃ、となった。
「ひなが良い子にしてたらまた来るよ」
あれから二十年。
結局「けーすけ」はすぐにあたしの父になった。なのであたしの名前も「峰木ひな」となった。
一緒に生活することによって本当はサンタさんでないことはすぐにわかって、幼いあたしをやや失望させた。理想の男性と崇めていた時期もあったが、中学の頃にはそういう幻想も消えた。お父さんだって等身の人間なのだ。
今年もクリスマスがやってくる。
――やっぱり途中でケーキ買っていくかな。
帰省途中の電車の中でそう思った。昔ほど甘いものを食べなくなった両親に、でもクリスマスぐらいは許されるだろうと思って。
実家に戻るのは盆休み以来。そんなに離れているわけでもないけれど、この年になるとかえって遠くなることもあるのだ。
自分の人生の記憶も新しいものからどんどん上に降り積もっていって、昔の記憶はあいまいな部分が多くなってきた。
良い記憶も悪い記憶も降り積もっていく。
でも。
今でも忘れないことはある。
あの時は嗅ぎなれなかったあの匂い。今はいろんな思い出が詰まったあの匂い。
あの日、あたしを抱きしめてくれたサンタクロースの匂いをあたしは忘れない。たぶんこれからも、ずっと。