砂漠の村・下
「……オイ、お前!?」
突然跳躍した赤毛の彼女を引き留めることもできずに、俺は呆然としていた。
上を見上げると、一人の女とドラゴンが対峙している。
「正気かよ……!?」
俺は額の傷をさすった。
見下ろすだけで気絶しそうなほど、人間の視力では見えないほど高い場所で、女とドラゴンが動いている。女が宙を蹴って、必死にドラゴンの爪を避けている。
火を扱う魔物の恐ろしさを、俺は誰よりよく知っていた。
俺は叫んでいた。
「クッソ、お前ら、アイツを支援するぞ!」
「でも、どうやってさ!」
村の人からそう言われ、俺は言葉に詰まった。
そうだよ、そんだけ高い場所なんだよ。俺達がどうにかできる領域じゃねぇ。
どうすればいい、どうすればいい?
俺は、どうすればお前の力になれる?
上空から熱を感じ、見上げるとドラゴンが炎を吐いていた。
ずっと離れた空の話なのに、熱だけは伝わってくる。
冷たい夜の空気は熱せられ、俺は汗をかく。
炎、炎か。
グラッと視界が揺らぎ、目をつぶった。顔が下に向く。
俺の脳裏に、嫌な記憶が蘇る。
「ああ、クソ、畜生……」
瞼の裏ではそこかしこに炎がちらついていた。冷や汗にも似た汗がどっと噴き出る。
なんで今、こんなものを見るんだよ。
六年前、魔物襲来のときに俺が見た映像だった。
父さんと母さんの「逃げて」という声をよそに、俺はただ突っ立てるだけ。次第にその声もかすれて小さくなり、一際大きく鮮烈な血が宙を舞った。
歯の根がかみ合わない。
緑色の人に似た気味の悪い魔物が、首をもたげて俺を見ていた。
「……ああああっ!」
俺はようやく奴に背を向けて逃げ出した。走馬燈のはずなのに、地面を踏みしめる感覚まで鮮明だ。
素足に石が食い込み頭から転んだ。視界はぐるりと回る。意識がもうろうとし始める。額を触ると血が流れている。
後ろから近づいてくる魔物の恐怖だけが頭を支配し、俺は這ったまま逃げようとした。
でも、やっぱり体が動かない。首だけが後ろを向き、すぐそこに迫った魔物の姿を捉えた。
「誰か、助けてくれ! 父さん、母さん!」
叫んだが父さんも母さんも来なかった。
どうしてこないんだ、疑問の答えはすぐに浮かぶ。
そうだ二人はついさっき──
──いやだ、俺、死にたくない。
魔物が斧を振り上げたそのとき、魔物が首から血を出して倒れた。
恐怖と困惑が俺の脳内を牛耳る。
「……もう、大丈夫だよ」
そう言って、誰かもわからない人が俺の頭に手を置いた。
人間の手だった。
そして頭に置かれた手は、俺の目まで降りてきて俺の視界を遮った。
その温かさに、俺は安堵した。
俺は顔が熱くなるのを感じた。
クッソ、どうして今、こんなことを思い出すんだよ。無力で何もできなかった子供のころの走馬灯を見たって、何の役にも立ちやしない。
ドラゴンの炎が空にちらつく。
ああほらたったそれだけで足が震え始めた。今でも、歯の根が合わない。
「ちゃんと見な、レオン。打開策は、必ずあるハズさ」
突然、女将が俺の頭に手を置いた。
彼女の力強い声に、少しだけ体の震えが収まった。
彼女は空の戦いを眺めていた。俺を見ずに彼女は諭す。
「アンタ、周りが見えてなさすぎるんだよ。よく見るんだ」
口で言うのは簡単だ。
でも見ろって言われたって、怖くてとてもできそうにない。
自分でも情けないと思い目を逸らそうとしたとき、女将は吠える様に言った。
「あのドラゴンを、そして周りを見るんだ、レオン!」
俺は惨めに舌打ちをした。
「わかってるよ! でもああ、怖いんだよ!! 自分が死んで、何もなくなって、村も消えちまうのが! あんときみたいに……!」
「……」
彼女は俺の眼を見た。
「大切なモンがまた奪われるところを、見たくないんだよ!」
「じゃぁなんで、アンタはこの村をとっとと離れなかったんだい!?」
彼女が、声を張り上げた。
俺は、こんな女将を見たことがなかった。俺が彼女に刃物を向けたときでさえ、彼女は大声を上げていなかった。
「飢えで人が死んだ時、アンタは一人一人きちんと供養した! そうしたのは、アンタが──」
火の粉が降ってきて、女将に当たった。
彼女は呻く。
なのに、一秒後に出てきた言葉は妙にはっきりと耳に残った。
「アンタが、どんんだけ怖くても、歯を食いしばって。両親の遺したこの村を、見ようとしたからだろう?」
……俺は……。
俺は上を見た。
炎に彩られた空で、一人のちっぽけな女と巨大なドラゴンが切り結んでいた。両者共に常人離れした速度で、俺の眼ではとても追えなかった。当然、女将も追えていないだろう。
……いや、一部は追えていた。
「あッ……」
よく見ると、ドラゴンが羽ばたき風を巻き起こす瞬間だけ女は体勢を崩し、速度が遅くなっていた。
もしかして、空中戦だからか?
それに気付いた時、頭の中に『困難も幸せも、分け合うものでしょ?』という言葉が浮かんだ。アイツ一人だけが困難を受け持つんだったら、アイツは死ぬかもしれない。
でも、アイツの困難を俺達が受け持つことができたなら。
刃こぼれしたナイフは鞘に差さっている。
怖い。
怖いけど──
「ドラゴンを落とせ!」
俺はナイフを手に叫んだ。
上からあっという声が鮮明に聞こえた。
そして、二秒。
砂埃が舞った。
俺は走った。
「こっちだ、ドラゴン!」
***
「落とせ!」
その指示が聞こえた時、わたしは正直言ってレオンの正気を疑った。
行動を決めるまで二秒の間があったのは、あまりに意外だったのと、迷いが生じたからである。
……下に落として、どうするっていうの?
わたしは下を見た。
そして、刃こぼれしたナイフを手にまっすぐわたしを『見て』いるレオンを見た。
わたしはレオンに言われた通り、ドラゴンを村のすぐ傍に向かって叩き落とした。ありったけの砂埃が舞い、地面に降り立ったわたしはむせ込んだ。
本当に、落としてしまった。
下手したら、この村に被害が及びかねない。
砂埃で視界が狭まっていたが、ドラゴンの気配は感じ取れていた。数メートル先に、確かにその巨躯は存在している。
わたしは剣を構え、彼に斬りかかった。
「……ッ」
当然、硬い鱗に阻まれていて刃は通らない。しかし、空中で斬った時よりずっと深く切り込まれていた。
斬られた感覚はあるはずなのに、ドラゴンはわたしの方を向かなかった。
ドラゴンは、わたしではなく簡単に殺せる村の人々に狙いを定めているのだ。
グダグダしていたら、村の人々が死んでしまう。
それまでの短い間に、わたしは彼にとどめを刺さなければならない。
できるのか、わたしに?
前にドラゴンと対峙した時は、ライの強さに甘え、彼一人にドラゴンを任せてしまっていた。そんなわたしに、緑色のドラゴンなんて……
わたしは剣を握る手に力を込めた。向こうで村の住民たちが大声を上げ、ドラゴンの気を引こうとしているのが聞こえる。
「やっちまいな!」
「こっちだよ!」
そして、わたしは剣を振るった。
剣は砂埃ごと大気を斬り裂き、そのままドラゴンに迫った。剣がドラゴンに当たる瞬間、わたしは時が止まったように感じる。
剣の当たったところから血がたらりと垂れ始め、剣はドラゴンの胴を一刀両断した。沈黙ののち、支える力を失ったドラゴンの体がわたしの方に倒れた。
その影に入り、周りが暗くなる。わたしは目を瞑り、ドラゴンの死体さえも切り刻んだ。
緑色の返り血を浴びても、手を止めることはない。
そうして遺体をぐしゃぐしゃにしたあと、わたしは深く深く麦わら帽子をかぶった。
***
次の日の朝、わたしはこの村を出ることにした。
ドラゴンなんて強大な魔物を討伐してしまった以上、この村にこれ以上留まったらそのうち誰かしら来るだろう。それは新聞記事の取材者かもしれないし、パーティーの仲間かもしれない。
特に後者は避けたかった。わたしはまだ旅を続けたいのである。
ドラゴンの肉があれば、数十日は持つだろう。その間に畑や家畜を整えれば、この村は存続できる。『ドラゴンの被害を受けた』として、国から資金援助を貰えるかもしれない。
つまり、わたしはもう必要ない。
「……もう行っちゃうのかい? たった数日しか留まんないで……」
わたしは女将の手を握り、「また来ますから」と笑みを見せた。すると彼女は、わたしのことを強く、強く強く抱きしめた。
「……き、気道がふさがって息できな……ギブ、女将さんギブ!」
「ふふ、悪かったねぇ」
女将はわたしを正面から見据えた。
「アンタは、アタシたちの恩人だよ。アンタのお陰で、アタシたちは生きていけるんだ。一生、この恩は忘れないよ」
「ありがとうございます」
村の人たちの手も一人一人握り、そのたび別れの挨拶をした。老人も子供も、今ではわたしのことをちゃんと見てくれるようになっていた。
やがて、最後。
「……」
レオンだけは、プイッとわたしに背を向け、わたしの目を見ようとしなかった。女将からあれだけ「ちゃんと見な」って言われてたのに、もう忘れたのだろうか。
それとも、そんなに怖いのか。
仕方ないな。
わたしは彼の頭に手を置き、それから彼の目を覆った。
彼は微かに震えた。
「……見たくないものは、見なくてもいいんだよ。無理して大人にならなくていい。信用できる人の前では、子供のままでいいんだよ」
レオンの額が、少し熱くなった。
彼は振り返ろうとする。
「……ユイ」
「バイバイ」
私は彼のことばを遮り、背を向けた。
村の出口で一度だけ村を振り返り、「お世話になりました」と頭を下げた。
再び前を向き、駆け出そうとしたときだった。
「……ユイ!」
レオンの声。
わたしは立ち止まり笑みを作りこそしたが、振り返らなかった。
「ありがとう」
***
「王女様!」
「なんだ?」
国の王女・トワはだだっ広い部屋に立って、窓を見ていた。そこからは月明かりに照らされ活き活きとしている城下町が一望でき、民の声が今にも聞こえてきそうだ。
彼女は窓の外を向いていた視線を、扉の方へ傾けた。そこには息を切らした兵士が立っている。
「先刻、国の南西端・砂漠にて緑色のドラゴンが出現しました!」
「なんだと?」
彼女は腰に据えた剣の柄に手をかけた。
「近くに村は?」
「人口二十名程度の、小さな集落があります」
トワが軽く頷き、顎に手を当てた。
彼女の碧眼が閉じる。それが彼女の考えごとをするときの癖と知っているのは、この国で数えるほどしかいないだろう。
トワの眼が開き兵士を見た。
「……勇者パーティーに討伐を依頼しろ。パーティーからの依頼に応じて、兵士も動員するように。必要に応じて僕の力──つまり【転移魔法】を使うから、手配が済んだら報告しろ」
「……はっ!」
王女の命令に、兵は頷いた。彼はトワに背を向け、部屋から出た。
感情に左右されない決断力と思考力こそが、トワを成り立たせる最大の要素だった。ドラゴン、中でも緑色は最悪の魔物と名高く、人間以上に高い知性・鋼の如き肉体を持ち、兵を送り込めば数十万程度の犠牲を覚悟しなければならない。
つまり、犠牲を最小限にするのであれば少数での鎮圧が望ましい。
……しかし、どんな手を取ったとしても、少なくない犠牲が出るだろう。
彼女の視線が再び窓の外に向いた。相変わらず、民は平和に過ごしている。子供は走り回り、大人は商売などに精を出している。もう夜中なのに、騒がしいことだ。
トワは、この光景が好きだった。見ていると気分が良くなる。たとえ民衆が自分の事をどう思っていようとも、自分が民と繋がれる、短い時間だから。
「……王女様!」
十数分経過し、窓からそろそろ目を離そうというとき、さっきと同じ声が響いた。
トワは振り返った。「今度はなんだ」
「つい先ほど、例のドラゴンが討伐されたとの報告が入りました」
「なに、それは本当か!?」
勇者が失踪している状態というのに、勇者パーティーは常識を逸した強さを誇っているようだ……いや、にしても早すぎる。
ともあれ、少ない犠牲で討伐できたことだろう。
彼女はかすかな喜びを感じこそすれど、顔に出さなかった。
「犠牲者は?」
「いません」
……!?
犠牲者がいない、だと!?
トワは愕然とした。緑色のドラゴンを討伐するにあたって犠牲者が出なかった例はない。
まるで嘘みたいだった。
「一つ奇妙な点があります」
彼はおそるおそるトワと眼を合わせた。
「……ドラゴンは、正体不明の旅人に倒されたようなのです」
「旅人に?」
正体不明の旅人……? 全盛期の勇者やその王でさえ、緑色のドラゴンを少人数で無計画に討伐したという話はない。それを一介の旅人が倒すなど……。
「その旅人の特徴は?」と彼女は尋ねた。
「話によるとその旅人は赤髪の女で、鉄の剣を携えていたそうですが……」
「……」
なぜか脳裏に、笑顔の可愛らしい赤髪の女性が浮かんだ。
「ドラゴンを一人で倒すなど、伝説でしか聞いたことがありません。その旅人を追跡させた方が良いと愚考しますが……」
「わかった。しかし、この場で決断はできない。部屋から出てくれ」
彼女が言うと、兵士は深々と礼を残して部屋を去った。
「……ユイ……」
トワは窓の外を見ずに、質素な玉座に腰かけた。
ユイは間違いなく、この国一番の戦力だった。その戦力を失ったことによって国が困惑、あるいは窮していることは火を見るより明らかだ。
彼女は玉座を立ち、青いマントを身にまとった。
勇者が不在の今、魔物たちは我先にと人間を襲撃しに来るだろう。そうなればこの国は不安定になり、どうなるかわからない。今回は運よく『彼女』が討伐してくれたが、幸運は長く続かないと決まっている。
つまり、王女たる僕が民を先導し、耐えなければならないということだ。
窓の外で星が光った。
トワはベルトにささった剣を確認し、謁見室を発った。