プロローグ
よろしくお願いします。
「わたし、ちょっと旅行してきてもいい?」
小鳥のさえずりが心地よいある日の朝、わたしは何の脈略もなく、仲間に尋ねた。日差しが窓から差し込んでいる。その眩しさに片目を細め、しかしもう片方の目は開けたままにする。仲間の、コーヒーを飲んでいた手が止まり、マグカップの割れる音がした。
それっきり、沈黙。
わたしは真顔で彼らを見つめた。
「お前、そんなことが許されると思ってんのか?」
ライが誰よりも早く立ち上がり、わたしを脅すように見た。小鳥のさえずりは止まっていた。
わたしは彼を見返した。
「なんでダメなの~?」
「……」
彼は黙った。
なんでだめなのと言ったのは、自分がこの中で最も使い勝手が悪く、戦力外であるとの自覚があったからである。そして、ライも同じように思っているのは自明の理だろう。
今日の彼は、迷っているようだ。
いつも「役立たず」だのなんだの、わたしの悪口ばかり言っているのに。こんな日に限って迷うのが彼の弱さだ。
窓から差し込んでいた光が雲に隠れて、暗くなった。
ライの肩を、セルマが叩いた。
「……これは、彼女を追放するいい機会では?」
小声で言っているから、聞こえていないとでも思っているのだろうか。
その声は、わたしには十分届いていた。自分が嫌われているのは意識していたけれど、面と向かって言われると、少しだけ心に来るものがあった。
けど、もう決めたから。
わたしはもう一度、「旅行してきてもいい?」。わたしは笑顔で彼らを見つめた。
再び尋ねた瞬間、いつもは温和なリアムが立ち上がり声を荒げた。襟首を掴まれた。
「自分の身分、わかってるんですか⁉ 勇者ですよ! アナタ以外に、誰が勇者を務められるんですか!?」
「……でも、少なくともこのパーティにいる人たちにとっては、わたしはお荷物だよね~」
リアムは声を詰まらせた。
彼が刹那、眼を逸らした。二秒後には既に、再びわたしとリアムの視線が交差していた。
彼は、わたしを見据えている。彼の瞼は、すこし震えていた。やがて、リアムは青い顔をして座った。彼にライの唾が飛んだ。
「ドラゴンを倒した時のこと覚えてるか? あのとき、こいつは勇者のくせにドラゴンに近づけなかった。死ぬ気でドラゴンのブレスをかいくぐってドラゴンにトドメを刺したのは、こいつじゃなくてこの俺だ!」
わたしは顔を下に向けた。
顔を下に向けると、麦わら帽子のせいで周りにわたしの表情が伝わりにくくなると知っての上だ。ただ、そのせいで少し、私の視界は暗くなる。
「お前は大層な勇者の剣を持ってるよな。その剣で殺した魔物の数と、俺が殺した魔物の数、どっちが多い!」
彼はわたしの襟首を乱暴に突き放した。
間髪入れずにリアムが顔を上げた。青かったはずの顔が赤くなっていた。
「ユイさんだって頑張ってるんですよ!?」
「だからなんだ? 頑張ってるなら、どれだけ成果が薄くても許されるのか? その結果何万人もの命が消えても許されるのか?」
「それは……」
彼は答えられない。
「もう、いいよ」わたしは笑った。
「わたしは追放。勇者の剣はライに譲る。それで十分でしょ? わたしは旅行できて、君達は足手纏いがいなくなって、『利害の一致』だよ~」
「……帰る場所はなくなりますよ?」
リアムが呟いたときにはもう、わたしは彼らに背中を向けていた。
「他に方法、ある?」
勇者の剣を鞘ごと外し、ぞんざいに投げ捨てた。麦わら帽子を、深くかぶる。
ドアノブを回すと、鳥のさえずりが聞こえるような気がした。
***
こうして、『旅行』が始まった。
手始めにわたしは、数十時間、目的地もなにもないまま、矢の如く走り続けた。万一王都から兵士などが追ってきた場合、腰を据えての旅行は難しい。だから、まずはひたすら王都から離れた場所へ行く必要があったのだ。
勇者時代の名残か、空腹や疲労などは感じない。【移動速度上昇魔法】のおかげで、馬車なしでもかなり快適に移動できた。まわりの景色は平原だったり、森だったり、砂漠だったりした。
景色に注目できるほどの余裕がなかったから、感想などは言えない。ただ、ぼんやりと「自然って綺麗だ」と感じた。
所々にポツポツ立っている家は、冒険者向けに作られた、雨風をしのげる無料の小屋だ。使おうとは思えなかった。
夜、ふと立ち止まり、近くに食料がないか漁った。立ち止まった場所は砂漠だったが、勇者はどんな場所でも自給自足できるよう訓練されている。食料になるサソリを簡単に手に入れられた。
そのサソリはわたしに摘み上げられ、身をくねらせてもがいた。
わたしはそれを殺した。
砂を被ったサソリの皮膚が、星の光を受けている。火を通して食べると、なんだかしょっぱい味がした。
わたしは帽子を外し、月を見上げた。
そうして、貼りつけていた笑みを緩めた。
頬が、自分でも驚くほどに下がった。
もう少しちゃんと、みんなと話し合えばよかったかもしれない。
どうせ一人で行くにしても、互いに納得できるような別れ方があったはず。
隠れていた月が雲から姿を表し、わたしを照らした。
でも、ライから「勇者失格」などと罵られるのには、もうこれ以上耐えられなかった。セルマは、わたしのことを邪魔な物として見ている。リアムも、声には出さないけれどわたしが使い物にならないことは感じている。
だから、最善の手だった。
それに、パーティー以外の友達とは話し込んだから、決して独断専行ではない。
「でも、なんだか、悔しいなぁ……」
無理なく顔を引きつらせると、笑ったようになる。
わたしは、砂漠の向こうに、手を伸ばした。
その時、砂漠の闇の先に、ほのかな明かりを見つけた。
村だった。
わたしは考えるのをやめ立ち上がった。熱くなった頬は夜の空気に冷やされていた。
麦わら帽を深くかぶる。
走った。
これまでいくつもの村を無視してきた。
その中で選んだのがこの名前も知らない村だ。
そして、村に入ったと同時に膝から崩れ落ちた。
情けないことだが、たった三日三晩走っただけで慢性的疲労が溜まったようである。息が上がっていた。烏の鳴き声が遠くに響いている。
「……おや、大丈夫かい、アンタ⁈」
頭上から、女の人の声が聞こえた。かと思えば、わたしの体が持ち上がっている。
視界の下の方に緑色の布が映った。この布の感じからするに、着物だろうか。白い肌と、わたしと同じ赤髪が目に付く。
耳のすぐ近くで、また声がした。
「はー、ずいぶん元気がないねェ……」
力強い、女性の声。
はきはきと聞き取りやすい話し方だ。
「……これくらい、だいじょうぶで」
「あ、コラ、勝手に喋るんじゃないよ。アンタ相当息切れしているんだから」
わたしはその声を無視して、一人で立ち上がろうとした。
「いや、立ち上がるのもダメだよ。もう遅いし、今日は泊ってきな」
「えっ、でも……」
彼女は言うが早いか、わたしのことを軽々と持ち上げた。
彼女は緑色の着物を着ていて動きにくそうに見えるが、相当力持ちのようだ。
「わたし、お金持ってないです……」
運ばれる中で苦し紛れにわたしが声を絞ると、彼女はしばし黙り込んだ。数秒後、思わず噴き出したように「あっはっは」と笑いだした。
彼女が立ち止まり、いつまでたっても笑うのをやめないので、わたしは不安になる。
どうして、笑うのだろう。
『泊まっていきな』って言われたなら、宿泊代金を払うのが当然だ。金を持っていないなら、泊まれない。
やがて、彼女は口を開いた。
「……怪我人が、細かいこと気にするんじゃないよ! アタシは、アンタみたいなののために生きてんだからさ!」
「ありがとう」と言葉を出すころにはもう、彼女は再び足を進めはじめた。
わたしは、守られるべき赤子にでもなったような気分で運ばれた。
悪い感覚ではなかった。