無慈悲にして至高の魔法
ころりと手のひらに転がったのは、大豆だ。
大豆なら、先程サイラスに渡された本に神の言葉が載っていた。
一か八か、やってみる価値はあるだろう。
「ナディアさんを止めて。――〈大豆の恩恵〉」
大豆が光って消えると次の瞬間、ナディアの頭に茶色の粘土のような塊がどすんという音を立てて落ちた。
頭に鈍器が降ったのと同じ衝撃に襲われたであろうナディアは、その弾みでナイフを地面に落とす。
「な、何ですか? これは……?」
頭上の塊に手を伸ばそうとすると、今度は黒っぽい液体がナディアの頭上から降り注ぐ。
「キャー! 何、何なの。しょっぱい!」
どうやら黒い液体はしょっぱいらしい。
……もしかして、醤油だろうか。
大豆の豆魔法なので、可能性は高いはず。
となると、あの茶色の塊は味噌か。
あずきが謎の塊と液体の正体を推察していると、今度は豆粒がナディアの頭に大量に降り注いだ。
「いやー! 何なの。臭いです! ねばねばします!」
……今度は納豆だ、間違いない。
頭に味噌の塊を乗せ、頭から醤油をかぶってドレスに醤油染みを作り、更に納豆をかぶって全身ねばついたナディアは、完全に混乱状態だ。
それにしても、何という無慈悲な魔法だ。
美しい公爵令嬢が、あっという間に臭くて汚い、ねばついた女になってしまった。
ある意味、ナディアには刃物の攻撃などよりも恐ろしい魔法かもしれない。
だが味噌、醤油、納豆の三種があれば、和食を楽しめそうだ。
そういう意味では至高の魔法と言えなくもない。
「アズキ。あれは一体……」
「――おや。殿下にアズキ様」
ナディアの惨状に引き気味のクライヴがあずきに質問するのと同時に、背後から呑気な声が耳に届く。
振り返ってみれば、腕まくりをしてバケツをぶら下げたサイラスが不思議そうに首を傾げていた。
「まさか。私が馬車馬のように働く様を覗きにいらしたんですか……!」
サイラスの言動には非難の響きがあるが、表情は歓喜としか言いようがない。
嬉しそうにクライヴに近付いたサイラスは、その背後で騒ぐナディアに気付くと眉を顰めた。
「……何ですか、あの汚くて臭いものは」
「あ、ええと。サイラスのくれた本の魔法が、あれだったの」
あずきとナディアを何度も交互に見比べたサイラスは、眉間の皺を更に深める。
「いや! 取ってください! 汚いです!」
サイラスは叫びながら半分泣いているナディアの元につかつかと歩み寄ると、持っていたバケツの水を勢いよくぶっかけた。
「何するんですか!」
「――黙りなさい! 豆魔法を体で楽しむとは、羨ましい。この果報者!」
サイラスはそう叫ぶと、くるりと振り返ってあずきを見つめた。
「アズキ様。私にもぜひ、豆魔法の聖なる責め苦を!」
「責め苦って何? 嫌よ」
サイラスは蔑まれたい変態だが、そもそも豆大好き豆王国の王子で、豆の神殿の神官だ。
もう、生粋の豆の変態と言ってもいいいだろう。
まさかの変態コラボレーションに、サイラスの紺色の瞳が輝いている。
「ああ。その冷たい言葉もまた、たまりません」
「――サイラス。ピルキントン公爵令嬢を取り押さえてください。アズキと神の豆に刃を向けました。それから、俺の婚約者を騙っています」
言葉を遮るようにクライヴが告げると、みるみるうちにサイラスの表情が曇っていく。
「それは悪質な。しかも汚れている上に、臭くてねばついています。あれを取り押さえろとは、殿下も人が悪い!」
口では嫌がっているようだが、サイラスは嬉々とした表情でナディアの手を掴む。
足元のナイフを蹴って遠ざけると、それをメイナードが拾う。
ナディアは暴れているが、サイラスの手が緩むことはなく、そのまま神の庭の入り口に待機していた衛兵に引き渡している。
「サイラスって、アレね」
容姿も身分も能力も高いのに、妙な変態性が強すぎてどうやっても素敵に見えない。
なんとももったいない人物だ。
「アレですが、有用です。……それで、神の豆は無事でしょうか」
「そうだ。何でナディアさんは神の豆の莢を切らなかったのかな」
「神の豆は、神との契約の証です。それを害しようとする者には、恐らく見えないのでしょう」
そんなことがあるのかとは思ったが、実際にナディアは莢を認識していないようだった。
だいぶ慣れたと思っていたが、やはりここは日本とは違う不思議な豆王国。
クライヴと共に神の豆の木に近付くと、蔓は何本も切られているが、肝心の莢は無傷だった。
「良かった。何ともないみたい……え?」
莢に触れた瞬間に、真っ白な光に包み込まれる。
「――アズキ!」
クライヴの声が聞こえて、手を掴まれたような気がしたが、圧倒的な光に意識が遠のいた。
ようやく眩しい光が収まり始めて目を開けると、何故かクライヴに抱きしめられている。
「ク、クライヴ?」
「ああ、すみません。アズキが連れていかれると思ったら、つい」
そう言うと抱え込んでいた手を緩めてくれたが、あずきの鼓動はうるさく跳ねている。
謎の光に心配してくれただけ。
豆の聖女を守ろうとしただけ。
呪文のように頭の中でそう唱えると、ようやく心が落ち着いてきた。
周囲を見渡せば、地面も天井も壁も何もない真っ白な空間だ。
「何か、見たことあるわね。この光景」
『――ささげよ』
突然、どこからともなく声が響いた。
近くから聞こえている気もするし、はるか遠くから声をかけられているようにも感じる。
「ささげよ? ……ささげる。お供え物ってこと? 〈開け豆〉」
ころりと手のひらに転がったのは、小豆だ。
どうやら今日は空気を読んで出て来てくれたらしい。
「〈小豆のお供え〉」
あずきの声と共に豆は光って消え、手にはずっしりと大量のあんこが乗った。
明日も夕方と夜の2回更新予定です。




