『──ジャム』
『ブー──』と云った声の主は男のようだった。天使は立ち上がりおれの手を掴んで勢いよく引っ張り上げた。
「いくぞジョー。放送室だ!」
その目は、アリの行列を発見した子供みたいに純真だった。
おれはショックが抜けきっていない頭を乱暴に覚醒させ、頰を打って覚悟を決めた。
こいつを一人だけで行かせてはならない。いまの天使は、ちょっとした気まぐれでアリを踏み潰す、無邪気な子供と変わらないのだから。
おれたちは堂々と廊下を走り、5分もかからず放送室にたどり着いた。
天使は逡巡なしにドアノブをガチャガチャと回した。
「鍵がかかっているな」
どうする? 帰る?
「帰らない。折角の好機を逃してなるものか。気は進まないが扉を壊すしかないな」
天使は手ごろな獲物を探して周囲を見渡したが、至極一般的な高校の廊下である。そんな都合のいいものはなかった。
「消火器か。悪くないな」
あるんかーい!
おれは天使を羽交い締めにして全力で止めた。
「何をするのだ」
学校の設備を破壊すんのを見過ごすわけねえだろ!
「では放送室の前で突っ立っていろというのか。謎が待っているというのに立ち止まることなど私にはできないのだよ」
羽交い締めにされながらも、ブンブンと振られる消火器。
やめろ危ねえ!
「危ないのはジョーが私を拘束するからだ。早急に解放したまえ」
解放した途端に扉壊しにかかるじゃん!
おれたちがやいのやいのと騒いでいると、廊下に足音が響いてくるのに気がついた。
「なんだいこの状況は!?」
「……一夢希。君の出る幕ではない」
完全に希ちゃんの出番だわ!
この体勢で失礼するけど希ちゃんは放送室の鍵持ってないかな?
「すまないけど持っていないな。なるほど鍵がかかっているのか。
つまりは、放送室に入るために扉を壊そうとする天使くんをジョーくんが必死に止めている、と。そんな場面かな?」
完璧に合ってるよ!でも一刻も早く鍵を持ってきてほしいなあ!
今は鍵がかかってるのを確認してる場合じゃないの。捜査は後でもできるでしょ?
おれだってそう長くは持たない。天使を抑えてられるうちにさあ急いで!
希ちゃんは扉を調べていた手を止め、こくりとうなずいた。
「了解したよ。あと少し踏ん張ってくれ!」
希ちゃんは風のように職員室に向かう。そのとき、乱数の神のいたずらか、勢いでスカートが一瞬翻った。慌ててスカートを抑える希ちゃん。
「……見た?」
誰だって下着を他人に見られるのは恥ずかしい。希ちゃんの耳がリンゴみたいに赤くなっている。
ただ、その質問は無意味だ。見えていても見えていなくても、相手から返ってくる答えは常に一つ。
見てないよ。おれは血涙を流して答えた。
「本当だよね?」
見てないって!
あ、やばいそろそろ限界かも。早く職員室へ行ってくれー!
希ちゃんはおれの言葉を信じたのか、スカートを押さえたまま廊下を駆けていった。
……白。
おれの演技力も捨てたものではなかった。
数分後、希ちゃんが鍵を持って戻ってきた。
希ちゃんの走りに合わせて古びたタグがチャラチャラと音を立てる。
「放送室の鍵はなかったからマスターキーを借りて……なんだいこの状況は!?」
抑え込みだよ。知らない?
「限界とか云っておきながら、ものすごく余裕じゃないか……」
「希くん、ちょうどいい。審判を執り行ってくれたたまえ。これは審判の『待て』で一度仕切り直すべきだと思うのだ」
天使は手足をバタバタさせて自らの解放を要求した。
希ちゃんは口をもにょもにょと動かして思考した。
「一本……?」
ビクトリー!
天使は悔しそうに顔を歪め、地団太を踏んだ。
「私はいささか君を過小評価していたようだ。謝罪しよう。だが次は油断しない。もう一戦だジョー」
おおこいよ。だが、何度やっても結果は変わらないぜ。
おれは猛虎の構えを取った。
「君ら目的をすっかり忘れてない? ブージャムを捕まえにきたんだよ。覚えてる?」
いつの間にか床に放置されていた消火器を確認して、希ちゃんはおれたちへ視線を向ける。醤油を買ってくるよう頼んだら駄菓子を頬張って帰ってきた子供を見る目だ。さすが母性が溢れてるね!
「ブージャムが立て籠もっていたときのために一応備えておいて」
おうよ。おれは再度猛虎の構えを取った。
そしてかちゃりと鍵の開く快音が響いた。
希ちゃんが扉を開けたのに合わせて、ハリウッドのアクションスターばりに勢いよくおれは放送室へ飛び込んだ。
──が放送室は無人だった。
通常の放送室がどうなっているのかおれは知らないが、室内に特に荒らされた様子はないように思う。しいていうなら、マイクのある机の椅子が乱暴に机の下から引き出されていることぐらいだ。
扉から見て右手の、マイクの設置された台から数多のコードが絡まって色々なところへ伸びている。
左手の壁際のスチール棚には、整理整頓されてビデオテープやCDが仕舞われていた。正面にはパソコンと窓がある。
ドアは外開きだから隠れる場所もない。窓の鍵は空いているものの、窓自体は閉じられている。そもそも人間が通れる大きさではない。
とまあそんなことはどうでもよかった。一番の問題は、目の前の床に男子の制服一式が落ちていることだった。
「ブージャムはいないか。しかしこれは……」
おれに続いて天使と希ちゃんも入室してきた。
天使が落ちている制服を持ち上げた。制服のボタンはしっかり留められていた。下のカッターシャツも同様である。ズボンのチャックは閉められ、ベルトも巻かれている。下着もそのままだ。
この制服は無造作に脱ぎ捨てられたものではない。
服を着ていた人間だけが消滅すればこのような異様な状況になるだろう。
「ブージャムに出くわしたなら、煙のように消え失せてしまう、か。まるで本当にブージャムが現れたみたいだ」
希ちゃんは感情を込めず呟いた。
『不思議の国のアリス』で歴史に名を残す作家、ルイス・キャロルによって生み出された、摩訶不可思議な生物スナークの中で最も危険な種、ブージャム。
スナークもブージャムもあくまで想像上の生き物だ。点と線からなる二次元から、原子が構成する三次元へ飛び出してくることなど常識的にありえない。
だが、現実問題として持ち主を失った制服だけが残っている。ブージャムはこの学校のどこかにいて、動揺するおれたちを、せせら笑っているように思えてならなかった。
「ジョーよ喜びたまえ。この放送室は密室だった」
密室? 鍵が閉まってたからそりゃあ密室だったんだろうが。
「単純に閉じられた空間も密室と呼ぶ。しかしミステリにおける密室はまた別の意味を持つ。聞いて驚け。この鍵はこの制服のポケットに仕舞われていたものだ」
いつの間に服を漁りやがったんだ。おれは天使の行動の早さに呆れた。で、その鍵は家の鍵か?
「いいや。一緒に付いているタグに注目したまえ。これが放送室の鍵だ」
天使が誇らしげに掲げる鍵には、【放送室】とペンで記入された真新しいタグが付いていた。
冗談はよせよ。鍵が中にあるのに鍵をかけられるわけないだろ。
「そうとは限らない。例えばブージャムが気体又は液体の生物だったならば、鍵をかけた後でも扉の隙間から脱出できる。ああ。透明になって、がら空きになった扉から悠々と出て行ったのかもしれないな」
「真実くん、まさか本気で言ってるのかい?」
「もちろん冗談さ。だがそんな突拍子もない超自然的な方法を用いなければこの密室は作れない。違うかね?」
「違うね。密室なんてものはトリックによって作られた幻想に過ぎないんだ。必ずどこかに穴がある。僕はブージャムに踊らされたりなんてしない」
希ちゃんは天使をキッと睨みつけて放送室の出入り口を調べ始めた。
「ああ密室!なんと素晴らしい響きか!探偵により暴かれてきた密室は数知れず。犯人を守る強固な砦となってきた密室に私が挑めるとは。ブージャム、感謝するぞ!」
人間が一人消えてるんだぞ。面白がってる場合じゃない。万が一ブージャムが本物ならおれたちだって消滅するかも知れないんだぞ。
「それはありえないな」
根拠を説明しろ。
「今はまだそのときではないのだよ」
「ジョーくん、これが探偵の悪い癖なんだ。探偵って生き物はある程度の推理があっても確信を得られるまでまで何も話そうとしないんだ。僕も昔はああだった」
……なんとも面倒くさい生態だな。でも希ちゃんの苦笑いが可愛かったのでよしとしよう。
「鍵はごく一般的なロータリーディスクシリンダー錠だ。そう簡単に複製できる鍵じゃないね。また、ピッキングによって鍵をかけるのも現実的ではなさそうだね。
密室なんてものは大した問題じゃない。こういうのは針と糸を使うのが定番なんだ。ポケットに糸を通して、鍵は扉の下の隙間に通せば……」
天使は無言で鍵を希ちゃんに手渡した。
早速、希ちゃんは受け取った鍵を隙間に通し「通らない」
鍵は扉と床の隙間よりも僅かに分厚かった。
「密室など大した問題ではなかったのではないのかね?」
希ちゃんはギリッと歯がみした。
「真実くんはこの密室が解けているのかい?」
「ああ。だが私は云ったはずだ。捜査協力はしないと。自分だけでやらせてもらう。放送室の鍵は私が返却しておこう」
天使は希ちゃんから放送室の鍵を取り上げ、悠々とこの場を後にした。
「僕は、この放送室に他に穴がないかもう少し調べていくよ。わざわざジョーくんが付き合う必要なんてないんだよ」
いいや。希ちゃんに付き合う。分かってるのに何も話さないのはものすごくむかつくし。あいつ自分のことしか考えてないんだもん。
それに、口には出さないが、希ちゃんに“付き合う”というフレーズが大変素晴らしい響きだったのもあった。
それからしばらくして、やっと我を取り戻した教師も慌てて飛んできた。
その教師も交えて放送室の探索を行なった。
物が出入りできるのは扉と窓のみだ。扉の隙間から鍵を入れることはどう頑張ってもできそうにない。窓の鍵は開いていたが、開いてはいない。
結局、めぼしい成果は得られなかった。
そのまま下校時刻になったので捜査は一度お開きになった。
悔しさを噛みしめながら、希ちゃんがマスターキーで鍵をかける。
下ろした手から、古びたタグの悲しげな音が人気のない廊下に響いた。
おれたちの心に呼応するように、空に暗雲が立ち込めていた。
事件が起こって色々大変だけど、次回はジョーと希ちゃんのデート編。刮目せよ。