あなたのなみだ
「どうして僕だったの?」
圭祐の問いかけに泰子は質問で答えた。
「ケイは私みたいに派手な女子は苦手だったんじゃない?」
圭祐と泰子の出会いは微妙だった。普通、幼馴染というと小さい頃に一緒に遊んだ間柄を指す。しかし、二人が出会ったのは中学時代だ。中学生の年齢ともなれば「幼」という字はあてはまらない。確かに、同じ中学で同じクラスメートでもあったが、記憶に残っているという程度でしかない。冷めた言い方をするなら「そんな記憶がある」といったくらいのものだ。なぜなら特に親しかったわけでもないし、クラスメートだったのはほんの短い期間に過ぎないからだ。泰子は途中で転校していなくなっていた。
二人が同じ中学だったことを知ったのは新卒で入社した会社の新人研修の歓迎会のときだ。圭祐は、泰子との会話の中で同じ中学名が出たとき本当に驚いた。泰子には申し訳ないが、圭祐は泰子の記憶がほとんどなかったのだ。泰子に言わせると「3ヶ月で転校したから」ということになる。
圭祐と泰子は並んで歩いていた。しかも手をつないで。
どこに向かっているかというと市役所に向かっていた。今日は泰子の誕生日である。誕生日に合わせて二人で婚姻届けを出しに行くのだ。つきあい始めて半年のゴールインだ。けれど、泰子にとっては半年ではなかった。10年越しの思いだった。
入社してから同期でたまに飲みに行くことがあった。やはり新入社員は緊張する場面が多い。慣れないことばかりだから当然失敗をすることもある。ときには先輩から注意されたり上司から叱られたりもする。ストレスが溜まる立ち位置だ。そうなると気分も落ち込む。そうした落ち込んだ気持ちを和らげてくれるのが同期との集まりだ。愚痴を言い合うだけでも気持ちがスッキリするし、情報を交換することが仕事にも役に立つ。簡単に言うならみんなで慰め合うのが同期の集まりだ。
不思議なものでどんな集団でも人が集まると自然に役割というものが決まってくる。同期は7人いて男女の内訳は男4人に女3人である。役割にはみんなを仕切る役とか場を盛り上げる役、愚痴を聞いてあげる役などがある。そんな中でいわゆるリーダー的な役割を果たしていたのは一番身長が高かった清志郎だった。
清志郎は身長が高いだけではなく出身大学ランクでもトップだった。そのうえ顔もイケメンである。いわゆる非の打ち所がない男である。これだけの条件がそろっていると否が応にも先輩や上司から注目されることになる。女性の先輩の間ではファンクラブもできていたようだ。それほど人気者になっていた。
場を盛り上げる役をやっていたのは順一だった。いつもチャラけた雰囲気で笑いをとっていた。芸能界で例えるなら柳沢慎吾みたいな感じだ。そんな順一とは対照的に、真面目で堅物なイメージがあるのが博一だった。博一は清志郎をサポートする立場という役回りだった。博一の気持ちはわからないが、清志郎は博一を子分のように思っていたかもしれない。だからといって博一が清志郎におべっかを使うようなところはなかった。あくまで周りの人間が勝手に想像した関係だ。博一は真面目な性格から相談相手として申し分のない存在になっていた。順一は名前の終りが同じ「一」で終わることをいつも話の「落ち」に使っていた。
女性陣は泰子のほかに景子とさつきがいた。二人は同じ大学から入社してきたこともあっていつも一緒にいた。しかし、大学時代から親しかったわけではない。大学時代は話したこともなく見かけたことがある程度の間柄だった。
入社してから同じ出身大学ということで一緒にいることが多かったが、だからといって仲がいいとか親しいというわけでもなかった。ここが女性特有の微妙な心理なのだが、単に新しい環境に対する不安な気持ちがお互いを近づけさせていただけだった。
最後にこの物語の主人公である圭祐と泰子だが、実は圭祐は物語の主人公になるような男ではない。なぜなら地味で大人しくて、これといった特徴も長所もないごく普通の目立たない男だからである。強いて長所を挙げるなら「前に出ようとしない」ところか…。繰り返すが「強いて」挙げるなら、だ。
それなのに圭祐と泰子は結婚するのだ。人生とはわからないものだ。
泰子は帰国女子である。米国でずっと暮らしていた。つまり、中学校で転校したのは親の都合かなにかで米国に行ったことになる。米国帰りなので、もちろん英語はペラペラだ。しかも外見が魅力的なのだ。簡単な言葉でいうなら「美しい」のである。ただ「美しい」のではない流行りの言い方をするなら「美しすぎる」くらいなのだ。そのうえスタイルも抜群だった。清志郎にファンクラブができたように泰子にもファンクラブのような集まりがあった。ただし男性社員の場合は女性社員が作るアイドル扱いをするような軽いファンクラブではなく恋人関係を意識したマジな気持ちが半分入った集まりである。ズバリ書くと「誰が彼女を落とすか」が焦点となっていた。
泰子の外見が「美しすぎる」のは既に書いた。実は、泰子はそれ以外にも女性として魅力があった。それは性格の明るさだ。米国帰りであることが影響していると思うが物おじしない快活な性格だった。おそらく同性の先輩の中には嫉妬した人もいたはずだ。なにしろ外見が「美しすぎる」うえに性格まで明るいのだから男性からもてて当然である。そのような女性が同性から嫉妬されないはずがない。それはともかく、男性社員が恋人の対象にしたくなるような女性だった。
このように華やかさがある泰子だったので周りは「誰とつきあうか」を注視していた。口にこそ出さないが、誰もが心の中で思っていた。
やはりこれだけ注目を集める女性となるとアタックをする男性もそれなりの格が求められる。外見ももちろんだが、仕事ができて将来出世しそうな男でなければならない。しかし、生来男という生き物は大多数が弱気にできている。これだけ格調高く華やかな女性に対しては尻込みをするのが普通だ。反対に言うなら、泰子のような女性にアタックする男性というのはそれなりに自分に自信を持っている男性ということになる。そして、そのような男性というのはそう多くはない。
泰子と圭祐は並んで歩いていた。しかも手をつないで。
質問に答えない圭祐に代わって泰子が答えた。
「私って一見すると派手に見えるから私に声をかけてくる人って限られてくるんだよね」
「なんとなくわかるというか、僕みたいな男からすると高嶺の花って感じで…」
泰子は圭祐とつないでいる手を大きく振りながらからかいの口ぶりで
「そうだよねぇ」
と大きく笑った。
おそらく多くの人が泰子は清志郎とつきあうと思っていた。同期というつきあうには最適な条件だし、清志郎の格も泰子に決して劣らない素晴らしいものである。誰が見てもお似合いに映る。芸能人と見まがうほどの外見を持った二人なのだから誰しもそう思うものだ。しかし、そんな二人の間に入り込んできたのは景子だった。
景子はお嬢様である。親がお金持ちなのだ。外見も泰子に劣らないくらいに魅力がある。女性としては間違いなく平均より上の部類である。しかし、泰子と一番違うのは「華」である。泰子にあって景子にないのは女性としての「華」なのである。おそらく景子もなにかが自分には足りないと感じていたと思う。しかし、それを認めることは同じ女性として許せなかった。プライドである。だから、意識しないようにしていた。
その景子が自分に足りないなにかを埋めるために行動に出たのが清志郎への接近だった。景子は清志郎と恋人関係になることで、「自分のほうが泰子よりも魅力がある」と周りに認めさせることができると思っていた。
いや、違う。景子の行動は無意識なのだ。無意識に泰子に挑戦していた。
女性の関係というのはなにかのきっかけで簡単に壊れることがある。ちょっとした心の行き違いでそれまで親友だと思っていた関係が崩壊することがある。景子とさつきは典型的なそんな関係になった。
さつきの家庭はごくごく普通のサラリーマンの家庭である。そのような家庭に生まれたのだから、お嬢様などには程遠い平凡な女性である。景子が清志郎に接近しつつある頃、さつきは泰子に愚痴をこぼすようになっていた。さつきのこの行動は単なる愚痴ではない。心の奥には「景子に対する復讐」の意味もある。つまり、泰子に景子の動きをチクっているわけだ。目的はもちろん景子の清志郎への接近が失敗に終わることだ。
しかし、泰子はそのようなことを気にかける性格ではなかった。さつきの目的など意識することなく、また景子の動きも全く気にならなかった。そもそも泰子は清志郎に関心を持っていなかったのだ。
実は、周りの人間は誰も気がついていなかったが、清志郎は泰子に「つきあわないか」と誘っていた。かなり早い段階で告っていた。しかし、その告り方が人間性を表していた。きちんと正直に自分の気持ちを伝えればよかったのに、プライドが邪魔したのだ。
清志郎のような男性にたまにいるのだが、自分から告白することに抵抗感を持つ男がいる。いつもモテてちやほやされていることに慣れてしまい、自分が常に上の立場にいないと気が済まないのだ。そのような男が自分から「つきあってください」などと言えるはずがない。自分から告白しているようでいて、実態は女性の方から「つきあってほしい」と言わせるように仕向けるのだ。自分が頭を下げてつきあうことはプライドが許さないのだ。
泰子は清志郎の心の底にある本心をもちろん見抜いていた。しかし、繰り返すがそんなこととは関係なく清志郎には全く関心がなかったのだ。だから、すぐに「ごめんなさい」と断った。これがまた清志郎の気持ちを不愉快にさせた。自分がフラれるなんてことはあってはならないことだからだ。
このような経緯があった中で清志郎と景子はつきあうことになった。本人同士は自分でも気がついていなかったが、二人とも泰子に仕返しをする気持ちが行動を後押ししていた。
泰子が入社して半年が過ぎた頃、取引先の会社の社員で仕事にも女にもやり手と評判のイケメンが泰子に頻繁に連絡をしてくるようになった。会社は違うが泰子ほどの美形ともなると評判は社外にも広まるものだ。名を隼人と言い、年齢は30才で所属している会社ではエリート社員のようだった。
隼人と清志郎の違いは経験である。清志郎も外見的には十分イケメンだし経歴も申し分ない。だが、まだ年齢が若い分社会経験が足りないのだ。その点隼人は違った。社会人として8年の経験は大きな財産となっていた。
隼人はイケメンだが、イケメンを全面に出すような振る舞いは決して見せなかった。ジョークを適当にちりばめて普段はお笑い芸人ふうな一面を見せておきながら、硬い話題のときにはまじめに語ったりした。この落差で人としての深さをさりげなくほのめかしていた。
泰子のすごいところは隼人のジョークに上手に合わせられることだし、真面目な表情で語りかけるときはそれに見合った表情で見つめるところだった。しかし、そこまでだった。それ以上の距離を求められたときは毅然と断った。こうした関係が数度続いたところで隼人はあっさりと連絡をしなくなった。本当のイケメンというのは引き際も心得ている。
もちろん泰子は隼人のほかに社内の先輩からも声をかけられていた。しかし、社内の場合は仕事に影響が出るのであからさまに近づいてくることはなかった。結局、泰子は恋人と呼べるような男性とつきあうことがないまま1年が過ぎていた。
泰子がいろいろな経験をしている間、圭祐はなにをしていたかというと別段これといった活動をしていなかった。活動とは彼女を作ることを指しているが、特に「彼女がほしい」と思ったこともないし、とりあえずは大好きなプラモデルを作ることが楽しみだった。
泰子と圭祐が言葉を交わす機会といえば最初の頃は同期の飲み会だったが、いつしか飲み会は開かれなくなっていた。そうなると二人が話す機会は、たまに廊下やエレベーターで会うときぐらいになるが、そのときは必ず泰子のほうから話しかけていた。圭祐は基本的に話しかける言葉を見つけることができなかったし、たまたま最初の一言が見つかったとしてもそのあとを続けられるとは思っていなかった。会話で路頭に迷うのはあまりに悲しい。
だから話しかけるのはいつも泰子のほうだった。
圭祐は話しかけはしないが、だからと言って不愛想にするわけではない。笑顔で「どうも」と言う。「どうも」は便利な言葉だ。相手が適当にいろいろな意味にとってくれるからだ。
ある日、仕事が終わりエレベーターから降りて歩いているとうしろから声がした。
「ケイ、、」
振り返ると泰子だった。エレベーターは混んでいたのだがうしろのほうにいたようだ。
「ああヤスちゃん」
同期の飲み会をやっていた頃に同じ中学出身のよしみで泰子はすぐに圭祐を「ケイ」と呼ぶようになった。やはり帰国子女は呼び方がスマートだ。圭祐はどのように呼んでいいか考えあぐねていたが、泰子が「ヤスでいいよ」言ってくれた。しかし、圭祐の性格上、「ヤス」はしっくりこなかった。結局「ヤス」に「ちゃん」をつけて「ヤスちゃん」と呼ぶようになっていた。もちろん、仕事のときは苗字に「さん」をつけて呼んでいた。「ヤスちゃん」はプライベート用の呼び方だ。
「ヘイ、ケイ!帰りにお茶でもしませんか?」
泰子は冗談っぽく日本語を英語風のイントネーションで話した。
「オーッケイ。アイム ケイ」
圭祐の精いっぱいのジョークである。もちろんすぐに思いついたわけではない。それほど器用な男ではない。これまでの経験から一生懸命に考えて考え抜いて出てきたジョークである。実は、心の中では気恥ずかしさでいっぱいだった。それが表情に出るのだろうか。泰子はジョークにではなくジョークを言うときの圭祐の表情がおかしくて笑った。
本当に自然だった。これといったきっかけとか節目があったわけではない。いつの間にか仕事帰りに待ち合わせをしたり、休みの日は一緒に出掛けるようになっていた。これを世間的にはデートという。デートということは二人は恋人関係というわけである。
社内ではもちろん驚きの目で見られたが、誰も文句を言う人はいなかった。圭祐がおとなしく目立たない男性だったことが影響しているようだった。人間というのは自分のほうが勝っていると思う相手には嫉妬はしないものだ。
恋人同士になってから半年が過ぎた頃、いつものように泰子を家まで送っていたときだ。駅から泰子の家への半ばくらいに来たところで泰子は急に真面目な表情をした。
「ケイ、、私と結婚しない?」
「えっ?」
あまりに突然のことで圭祐はほかに言葉が出てこなかった。
「ダメ?」
「えっ、あっ、えっ、う、う、う」
しどろもどろとはこういうことを言うのだろう。言葉にならない言葉しか出てこなかった。
こうして泰子と圭祐は結婚することになったのだが、もちろん圭祐が結婚相手として泰子を選んだのは容姿が美しいからだけではない。
泰子も自分でわかっているが、泰子は外見から誤解されることが多々ある。美しいという外見だけで誤解される要素になるが、そのうえ好んで着る服がどちらかというと派手なものが多いのだ。人によってはセクシーと思うほど体型を強調するような服を着ることもある。また、胸元が大きく開いたシャツを着たりもする。おそらく外国暮らしが長いことが影響しているのだろう。正直に言うなら、圭祐は一緒に歩いていて困ることがなくもなかった。
向かい側から歩いてくる男どもがみんな泰子を上から下まで嘗め回すような視線を向けるのだ。そして圭祐を見てあからさまに「格差!」という表情をするのだ。圭祐はそれが現実だとわってはいるがやはりやるせない気持ちになる。しかし、反面誇らしい気分になるのも確かだ。…男心いうのも難しいものだ。
圭祐が泰子との結婚を決断したのは外見だけからではない。圭祐の性格上、外見と同じくらい内面も大切だ。その意味で圭祐があのときに見た泰子の涙は圭祐にとってとても大きな意味を持っている。
基本的に泰子は楽天的な性格だ。少々のことがあっても悩んだり落ち込んだりはしない。悲しいことがあっても涙を見せることはない。しかし、圭祐は二度だけ泰子の涙を見たことがある。
その日、泰子は先輩からの指示でエクセルで統計を計算していた。正確にいうなら上司の指示を後輩である泰子に振ってきた形になる。もちろん先輩が後輩に仕事を振るのは先輩の立派な仕事の一つである。先輩がどのように後輩に指示を出すかが先輩の評価につながるからだ。
泰子は先輩の指示通りに統計のグラフを作りファイルにして上司に持って行った。上司はその日役員会議で使う予定だったらしく泰子が持参するととても喜んでくれた。しかし、泰子が作ったファイルを見るなりいきなり怒り出した。理由は統計をとる期間が間違っていたからだ。
「おい、これじゃ役員に説明できないじゃないか!」
強い口調だった。時間が迫っていたこともあるのだろう。とにかくすごい権幕だった。上司はすぐに先輩を呼びつけた。先輩は上司の叱責に対して自分のミスではなく、話をきちんと聞かなった泰子に責任があると言い訳をした。
しかし、泰子は先輩の指示が間違っていたことに自信があった。メールに証拠が残っていたのだ。それでも泰子は先輩に対して反論をしなかった。ただひたすら謝罪した。上司の部屋を出るときに先輩はわざわざ上司に聞こえるように「これからは気をつけてね」と言葉をかけた。
泰子が上司の部屋を出てきたとき、圭祐はたまたま泰子を見かけた。いつもの泰子の雰囲気とは違っていた。表情が硬いのが伝わってきた。ほかの人なら気づかないかもしれないが、圭祐にははっきりとわかった。
その日の午後遅く圭祐が廊下を歩いていると泰子と同じ部署にいる男性の先輩が声をかけてきた。この先輩は圭祐のことを気に入っているらしくことあるごとに話しかけてくれる先輩だった。
「圭祐、おまえの彼女の話、聞いてるか?」
圭祐は泰子の顛末をすべて知っているわけではない。たまたま上司の部屋から出てきたときの泰子の様子がおかしいのを見ただけだ。圭祐がそのことを告げると先輩は詳しく教えてくれた。先輩は一部始終を見ていたそうだ。
「あのトラブルは、どう見てもお前の彼女に責任はないぞ。あとで慰めてあげたほうがいいんじゃないか」
言い終わると先輩は足早に立ち去った。
その日、圭祐は泰子を食事に誘った。泰子を慰めるのが目的だったが、圭祐の思いに反して泰子は普段と変わらず明るい泰子だった。仕事で嫌な気分になった素振りなど微塵も感じさせなかった。圭祐は泰子のそういう姿を見ていると居たたまれない気持ちになった。圭祐のほうが我慢できなくなっていた。
「ヤスちゃん…。実は、今日のこと、先輩から聞いたんだ。大変だったね」
圭祐の言葉に泰子は一瞬表情が固まったが、すぐに明るい表情に戻った。
「うん。まぁ、生きているといろいろあるから」
努めて元気を装いながらそう言った。しかし、そのあとは言葉が続かなかった。ただ、瞳から涙がこぼれているのがわかった。圭祐は話したことを後悔した。
圭祐は先輩の悪口を言うでもなく、愚痴を言うでもなく怒りを必死にこらえながら、しかも笑顔を見せながら涙を浮かべている泰子が愛おしくてならなかった。結婚して妻にするなら泰子のような芯の強い女性が理想だと思った。
あと一度見た泰子の涙はたまたま入った写真展でのときだ。その写真展は戦争の悲惨さを訴えることを目的としたもので泰子に誘われて見に行った。
会場内に入場者はあまりいなかったが、展示されている戦争の写真は悲惨さを十分に伝えていた。そして、掲示されている順路に従って歩みを進めて行くと左に直角に曲がるようになっていた。泰子は圭祐の前を歩いていたのだが、左に曲がったところで泰子が突然に立ち止まった。圭祐があとを追うように曲がるとその正面には少女がたった一人で立っている写真が展示されていた。
爆撃を受けた建物を背景にして、汚れ破れた布で身体を覆った3才くらいの少女が立っていた。悲しさや苦しさや怒りをすべてどこかに置いてきたかのように無表情だった。衝撃的だった。
圭祐はゆっくりと泰子の横顔に視線を向けた。泰子はジーっと少女を見つめていた。身じろぎもせずにただ見つめていた。泰子の頬を涙がつたっていた。
圭祐が泰子を将来の妻として意識したのはこのときだ。この物語の最初で泰子が話していたように泰子は派手だ。生まれつきの美しい外見が思わせる部分もあるが、帰国子女特有の「マイ ウェイ」な生き方も影響している。
社内では「不似合いカップル」とか「不釣り合いカップル」とか「格差カップル」などと陰口をたたかれるほど圭祐が醸し出す雰囲気は平凡なものだった。だから、恋の相手としては「あり」でも結婚までは行かないと誰もが思っていた。中には嫉妬心から圭祐に直接「おまえ、遊ばれてるんだよ」などと嫌味を言う先輩までいた。
もちろん圭祐は泰子にそんな話はしない。しかし、派手な女性と一緒に生活できるかは自分でも確信がもてなかった。なにしろ圭祐は地味で目立たない平凡な男性なのだ。だから、結婚相手として意識はしても一抹の不安も感じていた。
しかし、写真展の少女を見つめ涙する泰子の姿が圭祐の気持ちを変えさせた。泰子はただの派手な女性ではないのだ。内面は他人に対する優しさに溢れた素晴らしい女性なのだ。泰子の涙はそれを示していた。それ以来、圭祐は泰子を結婚相手として確信するようになっていた。
そんな圭祐に泰子がプロポーズをしたのである。断るはずがない。人生の伴侶に相応しい女性である。圭祐は「よろしくお願いします」と頭を下げた。普通のカップルとはやることが真逆だが、こういう結婚があってもいい。
確かに「こういう結婚があってもいい」が現実となると話はそれほど簡単ではない。周りの人の反応も重要である。昔から女性にとって「結婚は自分の将来を選ぶこと」と言われている。泰子の親はどのように思うのか。圭祐は、泰子に比べて自分が地味で平凡なことがちょっと不安でもあった。
…泰子の親は反対しないのだろうか。
人間はコンプレックスを感じていることに対して敏感に反応することがある。圭祐は泰子から求婚されたときにすぐに「ヤスちゃんの親は僕で大丈夫なのかな」と尋ねた。すると、答は意外なものだった。
「大丈夫。わたしの両親はケイのことわかってるから」
圭祐の心配はあっさりと解消した。おそらく普段から泰子は両親に圭祐の話をしているのだろう。もちろん好印象を与えるように、だ。まさに泰子「さま、さま」だ。
二人は結婚式を親族だけで行い、披露宴はやならいことに決めていた。圭祐の両親は元々派手なことが苦手なタイプなので披露宴をやらないことに賛成していた。しかし、泰子の親となると簡単ではないように思えた。なにしろ泰子の父親は国際的に活躍しているビジネスマンである。十分にエリートの部類に入るビジネスマンだ。エリートにはエリートの世界のしきたりというのもありそうだ。ある程度の派手な披露宴は避けられないように思えた。
しかし、圭祐のこの不安も杞憂に終わった。圭祐が結婚のあいさつに行ったとき、開口一番こう言ったのだ。
「つまらないことにお金を使うのはもったいない」
圭祐を気遣って言っているのではなく、心の底から思っているようだった。圭祐は安どした。
それはよかったのだが、圭祐は気になることがあった。泰子の母親が言ったこの言葉だ。
「あなたのことは長い間ずっと聞き続けていたのよ」
母親はそう言うと父親のほうに顔を向けた。すると父親も母親の言葉に同意するかのように微笑みながらうなづいた。
圭祐が泰子とつき合いだしてからまだ半年ちょっとしか過ぎていない。たった半年で「ずっと」はどう考えてもおかしい。泰子の家からの帰り道、一人になってからいろいろ考えた。
圭祐は以前泰子から「わたしの両親はケイのことを『わかっているから』」と聞いたことがある。そして今日、母親は「ずっと」と話していた。圭祐は考えれば考えるほど不思議な気持ちになった。しかし、恋愛は常に合理的とは限らない。すべてがはっきりとしているのではなく曖昧な部分が残っているほうがロマンティックに思えることもある。わからないことが多少はあったほうが結婚してから幸せになれる伸びしろが大きいというものだ。
泰子は、圭祐と並んで歩くときは必ず圭祐の右側に立つ。理由はわからないが、最初のデートのときに泰子からお願いされた。だから、これから市役所に婚姻届けを出しにいく今も泰子は右側を歩いていた。
「ケイ。いよいよ私たち夫婦になるのね」
「うん。すごいよね」
「わたし、ず~っと願ってたんだ」
「ずっと?」
「そうよ。ず~っと」
「そう言えば、一度聞こうと思ってたんだけど、ヤスちゃんのお母さんが僕のことを『ずっと』聞いてたって話してたんだけど、『ずっと』のはじまりはいつなの?」
圭祐の質問に泰子は遠くを見るようにしたあと、顔を圭祐に向け瞳を輝かせながら答えた。
「中二のとき」
圭祐には驚きの言葉だった。中二とは二人が同級生だったときだが、わずか3ヶ月しか一緒のクラスメートではなかったはずだ。圭祐が固まった表情をしていると
「ケイは忘れてるよね」
と言いながら泰子は視線を落とした。
「実は…、わたしが転校したのはイジメにあっていたからなの」
圭祐は立ち止った。圭祐につられて泰子も歩くのを止めた。
「ああ、…そういえばそんなことがあったような気がする」
「あの頃のわたしって今のわたしとは正反対の性格だったの。おとなしくて暗くてジメーってしている感じ」
「僕はそこまでの記憶はないな」
「中学生ってホントに微妙な時期だから、そういうおなしい子をイジメのターゲットにしやすいの。わたしはそれにはまっちゃったのね。たぶんそれほど悪気はなかったと思うんだけど段々エスカレートするのが中学生の特徴だから」
「…そんなことがあったんだ」
「わたし、毎日家に帰って泣いてた。そして、ある日イジメが最高潮になって、なぜかわからないけどイジメの中心だった男子がわたしの机を蹴って倒して、わたしを突き倒したの。そのときみんなどうしてたと思う?」
誰もこういう質問に対しては簡単には答えられない。圭祐もしばらく考えたあとに
「…わかんない」
と言うのが精いっぱいだった。圭祐の言葉を聞いて少し間をおいてから泰子がゆっくりと話し始めた。
「あのね、みんな笑ってたの。わたしの辛さや苦しさが全く想像できないみたいで、ただ笑ってたの。たぶん自分がイジメの対象になるのが怖かったのもあると思うけど、それよりもただ単純に私がイジメられている姿が面白かったんだと思う」
圭祐は話を聞いていて苦しくなってきた。そのときの自分がどうしていたか記憶にないからだ。そのときの自分のとった行動が心配でもあった。
泰子は続けた。
「わたしね、家では泣いていたけど学校では絶対に泣かないって決めてたんだ。それがせめてもの抵抗かな。突き倒されても泣かなかったし、起き上がって自分で机を直して散らばった教科書類を引き出しの中に戻した。そのときもみんなわたしを指さして笑ってたの。男子も女子もみんな!」
そこまで話し終わると、今度は顔を圭祐に向けた。
「でもね。そのとき一人だけ笑っていない男子がいたの。笑っていないどころか泣いていた男子がいたの。わたしが机や教科書を元に戻す姿を見てなみだを流していたの」
そう話す泰子の頬を涙がつたっていた。
「それが、…まさか僕…」
「そう。わたしの席の左側の2つうしろの席にいたケイ」
そう話すときの泰子は幸せそうな表情をしていた。
「でも、僕は助けたわけじゃないよね。僕、段々と思い出してきた。あのとき本当はヤスちゃんを助けたかったんだ。でも、勇気がなくて。その自分が許せなくてあのときの記憶にふたをしてたみたい。今、ヤスちゃんに言われて全部思い出したよ」
圭祐は昔の自分を思い出しているようでしばらく黙り込んでいた。少しして二人はまた歩きはじめた。圭祐は昔を思い出せば思い出すほど不安が頭をもたげてきた。
「ねぇヤスちゃん。こんな弱っちぃ僕と結婚してよかったの」
泰子は微笑んだ。
「うん!弱っちぃから結婚するって言ったらいいのかな」
「弱っちぃから結婚するって…」
圭祐は情けなさと寂しさが混じったような表情をするしかなかった。
「ケイ。わたしがケイの右側に立ちたい理由わかった? クラスの席の位置。わたしの席の左側」
泰子は茶目っ気に笑った。それから続けた
「あのね。これはお母さんからの受け売りなんだけど、強さっていうのは味方になってくれるときには心強いけど、敵対する立場に変わったときには恐怖になるの。今DVって問題になってるでしょ。あれなんかその典型よね。暴力で女性を思い通りにしようってことだから」
「そうかぁ。強さって信頼できないね」
「それに比べたら一緒に泣いてくれる人のほうが結婚相手には断然いい!感性が同じなんだから幸せになれるに決まってる」
泰子はそう言うと黙り込んだ。なにかを考えているようだった。
「なんか、久しぶりに昔のこと思い出したらあのときの圭祐のなみだがよみがえってきちゃった」
小さな声だった。
「えっ、あ、うん」
「あのね。たぶん圭祐が思っている以上に圭祐が泣いてくれたことが、わたし本当にうれしかった。ありがとね」
ここまで話すと泰子は涙声になってしまった。圭祐が思っている以上に泰子は感情を高ぶらせているようだった。
「あのとき本当に苦しかったの。逃げる場所がないから地獄だった。そんな中、泣いてくれた圭祐がほんとうにうれしかった」
圭祐は右手を強く握った。
市役所には二人以外に婚姻届けを出す人はいなかった。一通りの手続きを終えると係りの人に「おめでとうございます」と言われた。
市役所からの帰り道、圭祐は考えていた。市役所に行くまでの時間に泰子からいろいろな話を聞いた。まさか中二のときから僕のことをずっと思っていてくれたなんて、まさに驚きだった。
正直に言うと、圭祐は泰子ほどの強い思い入れで結婚を考えていたわけではない。ただ、きれいで明るい泰子と結婚できることがうれしかっただけだ。しかし、今は泰子との結婚に対して覚悟を持ったような気がしていた。これからは二人で力を合わせて一緒に生きていくと強く心に刻み込んだ。そう思うとこみ上げてくるものがあった。
「ヤスちゃん。弱っちぃのもいいけど、これからはヤスちゃんのために少しは強くなれるように、僕頑張るね」
圭祐の言葉に泰子は微笑んだ。
「ケイ、大丈夫。わたしはケイの純粋なところが好きだから。そのままでいいよ」
「そう言われてもなぁ。なんかバカにされてるみたいな気がしないでもないし…」
アハハハ…。泰子は笑った。
「だって、ケイには無理だって」
「なんで?」
「だって、ほら、また泣いてる」
おわり。
♪BGM 森田童子 “男のくせに泣いてくれた ”