ナイトフィッシング
あの晩、父さんがいなくなっているのに気がついたのは私で、数分後に屋上からぶら下がっているのを見つけたのは母さんだった。
屋上が少しせり出している一角で、手摺りから延びたそのロープは風もないのにやけにゆっくりゆれていた。
私の位置から先端の様子は見えなかったけれど、見えない分、却って鮮明に想像できてしまった。
私が状況を把握するのとほぼ同時に、それまで声を失っていた母さんが叫び声を上げてロープに取り付いた。必死に引っ張り揚げようとする母さんに私も続いたが、父さんの体は太ってもいないくせに酷く重くて、どうしても引っ張りあげることができなかった。
二人とも手の皮が擦り切れた後で、私はふいに思いついて階下に走った。懐中電灯を頼りにテーブルの周辺を探し、転がっていた大振りのカッターナイフを掴み再び屋上に駆け上がる。そのまま母さんの前に割り込んで、父さんにつながったロープに垂直に刃を当てた。
ロープは思ったよりも丈夫だったが、それでも数秒後には切断され、一瞬の後に階下から重い水音が聞こえてきた。その音を聞いた私が父さんのところへ行こうと振り向いた瞬間。
「父さんに何てことするのっ」
という母さんの絶叫と同時に左の頬に衝撃が走った。一瞬遅れてジンとした痛みも。母さんに叩かれたのは生まれて初めてだった。
はっきりいって何が起こったのか分からなかったが、完全に普通じゃない母さんの表情に、自分がとんでもないことをしてしまったような気分と「ああ、次は母さんかもな。」というような予感めいた感想が湧き上がった。
当の母さんは私を叩いた直後に我に帰ったのか、おびえた表情で立ち尽くしていた。その母さんに、
「早く父さんのところに行かなきゃ」
と声を掛け、二人で階段を駆け下りて海に入った。
父さんはうつ伏せのまま波に揺れていた。その姿を見た瞬間、「もう駄目じゃないか」と思ったが口には出来なかった。その代わりに母さんと二人で父さんを仰向けにしロープをはずし、名前を呼んだ。そして父さんの体を必死で階段のほうへ引っ張った。
私も母さんも服を着たまま飛び込んでしまっていたので、濡れた服が体に纏わりついてすごく動きにくかった。実際、父さんを引き上げたときには二人ともほとんど溺れているような様子だったと思う。
結論から言うと、やっぱり父さんは助からなかった。
私も母さんも思いつく限りのこと(人工呼吸に心臓マッサージなど)を行ったけれど朝日が昇る頃には流石に疲れ果てて諦めるほかなくなっていた。
その頃にはもう二人とも無言で、海水なのか汗なのか涙なのか分からない液体でベタベタになりながら、ただ荒い息を吐いていた。
展望台の三階で毛布に包まったまま私は寝返りを打つ。寝てはいないし、眠れないのは分かっているのだが、それでも目を閉じて息を殺している。
あの夜以来、私は夜に眠れなくなった。暗闇の中で眠ると夢の中で繰り返し、屋上からぶら下がった父さんを見つけてしまうから。
寝なかったからといって思い出から開放されるわけではなかった。あの夜の光景は私の網膜から視神経、そして脳に至るまでことごとくに焼き付いたかのように、暗闇の中でいやおうなく浮かび上がってくるのだ。
それでも眠りの中で強制的に上映されるよりは、長い夜を毛布の中で震えているほうがまだマシだった。
そして、それは母さんがここから出て行ってしまってからも同じだった。
一体、何が起こったのか。それを一言で説明するのであれば、つまりは母に叩かれた時の私の予感が思ったよりも早く実現したということだ。
母さんの中で何がどうなってしまったのか。私には分からない。
全体的に母さんは気丈に振舞っていた。ただ、日ごとに募る疲労の影は隠しようもなかったし、精神的に追い詰められているのも明白だった。
ささいなことで感情を爆発させるようになったし、理不尽な理由で怒るようにもなった。それまでは一度もなかった「手を上げる」ということもたびたびあった。
中でも一番の問題は彼女が父さんの死を全く受け入れることができなかったことだった。
父さんは海から引き上げられてからずっと屋上のベンチに座らされていて、そして、母さんはその父さんに水を飲ませようとしてみたり、非常食を食べさせようとしていた。
腐り始めて酷い悪臭も発しても、母さんは
「父さんは少し体調が悪いので休んでいるだけだ。」
と言って頑として譲ることがなく、悪臭もめくれた皮膚も全然気にならないようだった。
もしも世界がこんな風に様変わりしていなくて、私にもっともっと余裕があれば、そんな風になってしまった母さんとも何とかバランスをとって生きられたかもしれない。
けれど、世界がこんな風になっていなければそもそも父さんは死ななかったはずだし、こんな風になってしまった以上、私には母さんを受け止めきるほどの包容力は既になかった。
「母さん、いい加減に父さんを片付けよう。もう、十分でしょう。」
私がそう切り出したのは、父さんが死んでから二十日近く経った頃の夕方だった。前日に酷く叩かれたせいで口の中が切れていて、しゃべりにくかったのを覚えている。
父さんは芯まで腐っていて、既に父さんかどうかの判別も難しい状態だった。
「何を言ってるの。悪ふざけだとしても言って良いことと、悪いことがあるのよ。」
そう応じた母さんは心底父さんが生きていることを信じているように見えた。
「母さんこそ、何を言っているの。本当は分かっているんでしょ。父さんはもう死んでん」
言葉の途中で左頬に衝撃が走った。覚悟はしていたが流石に痛い。前日と同じ場所を叩かれて口の中に再び血の味が広がったが、それでも私は怯まなかった。
間髪を入れずに母さんの頬を張り返した。そのまま口を開くと喚くような大声があふれてきた。
「よく見ろ。もう死んでんだよ。腐ってんだ!!臭いし、グツグツになってるし、虫だって湧いてて誰だかもわかんない。いい加減認めろよ。耐え切れないからって目そらして、娘殴るんじゃねえ!!」
何も考えてはいなかったと思う。言葉は後から後から湧き出てくるようだった。母さんは私が叫んでいる間、怯えた表情でこちらを見ていた。
「もういないんだよ。父さんは。私たちを放り出して自殺したんだ。」
そこまで言って、言いきって、私は急に怖くなった。私も父さんの死をはっきり口にしたのは初めてだった。口にしたとたん、それは急に質量を増したように感じられた。私はその場から逃げ出したくなった。
母さんは先ほどの怯えた表情から呆けたようになっていた。私は恐怖に抗いきれず踵を返し、屋上を後にした。そのとき、母の口がかすかに動いたように見えたが、言葉は聞き取れなかった。
三階のベンチ、いつもの寝床に戻った私は屋上でのやり取りに疲れて横になったものの、眠れるわけもなく体を硬くして息をつめていた。
母さんは降りてこなかった。そのまま何時間経ったのか。とうの昔に日は沈み、夜も更けようとしている。母さんがあの後どうしたのか、気になってはいたが見に行く気にはなれず、ただ入り口のガラス戸から見える暗い海を眺めていた。
不意に静けさは破られた。
ずっ、じゅぅっ、ずじゅっ、ずっ。波の音の合間、僅かに湿った擦過音が途切れ、途切れに降ってきた。
だめだ。そう直感した。楽観的な予想をするにはその音はあまりに不穏に過ぎた。腐りきった父さんを、母さんが必死になって引きずっている光景が目に浮かんだ。
あの頃、私はどうすればよかったのだろうか。間違えたことは確実なのに、正解どころか、どこで間違えたのかそれさえも判らない。
私は身じろぎも出来ず、ただベンチの上で小さくなっていた。階上からの物音はいつの間にか単純な擦過音の連続から、ぐじゅっ、ダン、ずっ、ドッ、という擦過音と鈍い落下音が交互に響くものへと変わっていた。二人は階段を降り始めたらしかった。
音が響くたびに少しずつ階上の気配が近づいてくる。私の視線は入り口のガラス戸のさらに向こう。階段の踊り場に括り付けられた。
やがて、その瞬間はあまりにあっけなく訪れた。真っ暗な海と空を背景に、二人のシルエットは踊り場の上に淡く浮き出していた。
これが、きっと私が母さんたちの姿を見る最後になる。その予感に震えながら、それでも私は動けなかった。口を動かそうと思い、声を振り絞ろうと思った。なのに私の口は凍りついたように動かず、喉は焼け付いたように擦れた音を出しただけだった。
そして、ただひたすらに怖かった。
母さんはこちらを一度も振りかえることなく、そのまま階段を降りていった。しばらくして階下から波の音よりもざわついた水音が聞こえた後で、展望台は再び静寂に包まれた。
それは、二度と失われることない静寂だった。
きっと、二人は家に帰ったのだ。
次の朝、私はまず母さんが引きずった跡を掃除した。父さんが座らされていたベンチから階段の下まで続く赤茶けた筋を雑巾で拭きながら、ここにたった一人になってしまったことを確認していた。意外にも涙は出なかった。
一人になった日のことを思い出していたせいで、いつも以上に最悪の気分で私は起きだした。
とても何か食べる気にはなれず。手ぶらのままで屋上に上がり、グラスに水を入れてチビチビと舐めつつベンチに腰掛けた。
どこまでも海の水は澄んでいたが、空の色を映してどんよりとしている。
と、突然凶暴な感情が襲ってきた。気がつくとグラスを屋上の手摺りに向けて力任せに投げつけていた。
グラスは控えめな音を立ててあっけなく無数のガラス片へと姿を変え、そのうち少しが海へ、残りが足元に散らばった。
私の手の中に残ったのは、締め付けるようなやるせなさと吐き出したいような苦さだけ。何故今頃こんな感情がわきあがってくるのか。判らないまま、私はベンチの上でうなだれて目を閉じた。
ああ、消えてしまいたい。
そのまま、数分経った時、動けずにいた私の左手に微かな感触があった。目を開けると、いつの間に来ていたのか。ニーナが私の左手から十センチほどのところにとまっていた。
こんなに近づいてきたなんて今までになかったことだった。私は驚きのままに彼女の顔を凝視した。
手に触れたのは彼女の羽かそれとも黄色を帯びた爪先なのか。こちらを見つめる瞳に吸い込まれるように私は思わず手を伸ばす。
一瞬、ニーナはそのまま受け止めてくれるのでないかと思ったが、後五センチほどに近づいたところで腰を浮かせて僅かに前傾した。
ニーナが飛び立つその瞬間。私の口から、
「待って」
という呟きがこぼれた。当然待ってくれるはずもなく、伸ばした指先にニーナの柔らかくてしなやかな羽毛の感触がかすかに残っただけだった。
そのまま彼女の行く末を眺めていた私の頬を何かが伝っていった。何気なく手をやると人差し指に湿った感触。涙が、ほんの一筋こぼれていた。
あの時も、その次も、今みたいに言えていたら。そうしたら、何か変わっていたのだろうか。流した涙が、無視していた「もしも」に目を向けさせる。
父さんのときは、気付いてあげることも出来なかった。
母さんのときは、怖くて止めることが出来なかった。
気付いて、声に出して、抱きしめてみたら、二人はまだここにいたのだろうか。それは悲しい仮定だったし、虚しい空想だった。それでもどこか優しくて、私はそのままそこにいた。
次がエピローグになります。。