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廻る線路、巡る想い

作者: 蒼原悠


この物語はフィクションです。









 今日も、昨日も、二年前も、十年前も。

 山手線は無表情のまま、当たり前のように東京の街を廻り続けてきた。

 たくさんの人と、記憶を、その十一両の車体に乗せて。











 前向きの力が、ふいに身体にかかる。




 腹の底に溜まる静かなモーター音の響きに、浮間(うきま)秋斗(あきと)は目を覚ました。

 床の角度が変わるたびに、微かな引力に身体が引かれ押されて傾く。カタンカタンと小刻みな音が耳に小気味いい。幼い頃、きっと誰もが理由もなく憧れ続けた、線路の継ぎ目を踏み歩く車輪の音。

 中吊り広告が一掃され、ディスプレイで埋め尽くされた天井。視認性を重視した派手な内装のカラーリング。【6号車】と書かれた壁面。

 そこは、いつもの通勤で使っているはずの、馴染みのあるE235系0番台──山手線の車内の風景だ。


(おかしいな……。僕、もっと早くに電車に乗ったような気がしたんだけど)


 腕時計を睨み、秋斗は首を傾げた。今日も普段通りに、品川の高層ビルに入る証券会社を十一時頃に退社したはずだ。けれども、視界の下でぼやけ滲んだ文字盤は今、零時過ぎを示している。

 窓の外の風景を見る限り、どうやら電車は品川駅を出て北に向かっているらしい。「ふぁあ」と思わず口をついた欠伸を噛み砕きながら、秋斗は自分の置かれた現状を思案した。

 山手線で都心を一周するには、ちょうど一時間ほどの時間を要する。品川から東京方面の電車に乗ったはずだから、今の向きも間違ってはいない。

 とすると、導かれる答えは自ずと一つに絞られる。

 くたびれて車内で眠りこけているうちに、内回りで一周してしまったようだ。


(しまった。こんなの罰金ものじゃないか)


 慌てた拍子にすっかり意識も身体も覚醒した。車掌の車内巡回を警戒して秋斗は身を起こしたが、そんなものがあるはずがないと経験則で知ってもいた。深夜の車内を歩いて乗客の行動を監視するほど、彼らだって暇を持て余してはいまい。

 消し飛んだ眠気は帰ってくる気配がなかった。帰ったら仕事の続きにでも手が付けられそうだ。

 秋斗の住むマンションは上板橋という街にある。池袋駅で東武東上線に乗り換え、少し先まで行ったところだ。山手線に乗り続けても池袋には出られるが、東京駅で丸ノ内線に乗り換えて池袋駅まで向かう方が速いので、定期券もその区間しか購入していない。しかしこの期に及んで乗り換えるのも億劫で、ディスプレイに表示された丸ノ内線のアイコンを見ても身体の重みは取れなかった。

 どうせ大回りしてしまったのである。

 たまにはのんびり、山手線でぐるっと池袋まで回って行ってみるのも悪くはないか──。

 決め込むと心の重みが身体に染み込んで、秋斗はふたたび硬い座席に深々と沈み込んだ。




 品川・池袋間、所要時間は約三十五分。


 小さな小さな都心の旅は、その瞬間、まるで引き摺られるようにして始まった。






 港区、泉岳寺。

 超高層ビルの林立する風景の中を、山手線は疾走する。

 周辺では車両基地跡地などの空き地を使用した再開発が進行していて、今もなおビル街化の一途を辿る最中だ。ゆくゆくはリニア中央新幹線の開通が見込まれ、開発はさらに加速すると言われている。

 秋斗は長さ二十メートルほどの車内を見渡した。自分の他には、見るからにカップル然とした若年の男女しか座ってはいない。彼らは隣り合った席で肩を並べ、静かに何事かを語らっている。日付を回ろうという時間帯だが、見たところ中高生のようだ。

 秋斗は思わず笑みを漏らした。

 いま、あのカップルと秋斗は、都心の代表を名乗る一大路線に貸し切りで乗っている。


(零時台でこんなに空いてるなんて珍しいな)


 神様の気まぐれでこんな日もあるのだろう。のんびり帰るには、かえって都合がいい。

 とはいえ、がらんどうの車内で何かに取り組みたいわけでもなかった。

 暇だ。秋斗は斜め後ろを振り返ると、窓の外の景色に目を向けた。高級住宅地、白金に突っ立つタワーマンションの群れが、家々の屋根の向こうで輝いていた。

 あの街に秋斗の住む未来は想像しにくい。少し自嘲を深めたが、そもそも特に憧れの気持ちを持ち合わせているわけでもなかった。地名が地名だからか、住所の欄に「白金」などと書くのは気恥ずかしい。


『間もなく、田町、田町。お出口は──』


 天井からアナウンスが流れ出す。

 山手線は並ぶ建物を掠めながら、次の駅のホームに滑り込んだ。




「え、そんな訳ないよ!」


 唐突に高めの声が上がった。

 反応した秋斗が視線を戻すと、カップルの少女の方がびっくりしたように相手の少年を見つめている。正面に見据えたことで、小声で交わされる会話が聞き取れるようになった。


「実際言ってたんだからしょうがないじゃん」

「うそ! あの先生もっと優しいよ。そんな厳しい言い方しないと思うけどな」


 なんの話をしているのだろう。さりげない体を装って、二人の様子を秋斗は窺った。おそらくは高校生だろう。あどけなさのいくらか残る顔がネオン色に染まり、闇に沈んではまた輝く。年相応と言うべきか、服装もそれほど大人びてはいない。

 秋斗の胸はほっこりと温もった。いいじゃないか。高一の秋斗など、異性には全く相手にもされていなかったものだ。


加賀(かが)先生は確かにピアノ上手いし、指導に力入っちゃうかもしれないけど、それでもトウマにそんな物言いしないと思うよ? うちの部内で一番上手いんだし」


 少女は後ろの窓に身体を預けながら膝に楽譜を広げ、少年を諭しにかかった。トウマと呼ばれた少年は、それでも少し納得がゆかないらしい。


「でもなー。俺、そもそもあの先生に好かれてない気がするんだよな……。それこそ一年で一番って評判の、ヴァイオリンのアスカと違ってさ」

「私なんてまだまだだよ。先輩たちにはぜんぜん敵わないもん」

「……まぁ、まだ高一だもんな。俺たち」


 うん、と返事をすると、アスカと呼ばれた少女はそっと隣の肩にもたれ掛かる。田町駅を出発した山手線の動きはなだらかで、車内に流れ込む音も、揺れも、大人しい。

 楽譜が閉じられた拍子に表の名前が見え、『紀尾井(きおい)冬馬(とうま)』『(みなと)明日夏(あすか)』の文字が目に飛び込んできた。ヴァイオリンという単語が出てきたのを見ると、二人は同じ高校に通う一年生で、恐らくは管弦楽部か何かに所属しているのだろう。


(ヴァイオリンか……)


 天を仰ぎ、秋斗は嘆息した。

 実は秋斗も高校時代、管弦楽を嗜んでいたことがあるのだった。懐かしさも一入だ。


(社会人になってからやめてしまったけど、思えば今までで一番長く続いた趣味だったな)


 今でも押入の奥の段ボールの中で光っているヴァイオリンのことを思い出し、運指の感覚を思い返してみる。まだ弾けるだろうか。案外、いけるかもしれない。

 帰ったら久しぶりに手に取ってみよう。

 心に決め、念のためを思ってメモ帳にも同じ旨を記しておいた。こんなところにも社会人として身につけた癖が反映される。すでに学生の身分を羽ばたいてしまった我が身の窮屈さを感じながら、秋斗は再び、ゆったりと座席に腰掛けて耳を傾けた。


 ……ヴァイオリンをやめた理由は、あまり思い出したくなかった。




 街並みはどんどん変化する。


 田町の次の街、浜松町は、都心のビジネス街の入口だ。駅前にそびえ立つ世界貿易センタービルは、近々リニューアルで巨大なツインタワーに化ける予定がある。遠くには虎ノ門や赤坂の摩天楼が霞み、その手前に東京タワーが根を生やしている。

 秋斗も、この駅で正月に山手線を降りた事がある。あの日の目的地は確か、この先にある浄土宗の大本山・増上寺だった。初詣の客による大混雑の有名な寺院だ。


「あれ、何だろ?」


 明日夏(あすか)の尋ねる声が、小さくなった。

 彼女は背後の窓から外を指差している。意識の先にあるのは、頭上らしい。


「東京モノレールじゃない?」

「なに、それ」

「羽田空港に行く電車(やつ)だよ。俺も何回か乗ったことある」

「へぇ……」


 高架線路が見えているのだろうか。明日夏は子どもみたいに身を乗り出して、きらきらと無邪気な視線を車窓に投げ掛けている。

 東京モノレールを知らないのか。秋斗は無言のうちに彼女の無知を案じたが、じきに無理もないと思い直した。新幹線や高速道路の至便になった今時、国内旅行における飛行機の存在理由は小さくなっていても不思議ではない。


「あんまり旅行とか行かないんだっけ」

「近場には行くよ。でも、飛行機とか新幹線とか、速すぎるのはちょっと怖いんだ」


 なんか浮いてるみたいだし、と明日夏は続ける。高速移動に独特の浮遊感が同じく苦手だった秋斗は、思わず、小さく身をよじった。


「あ、でも、冬馬(とうま)が一緒に乗ってくれるなら怖くないかもしれない」

「そうだなぁ。一緒に乗ってどっか行きたいな、俺ら」

「えへへ」


 口ではずいぶんデレているが、寄り添う以上のことを二人はしようとしない。

 もしや秋斗のことを意識しているのか。申し訳ない心持ちになりかけて、その上に秋斗は否定を塗り重ねた。秋斗は何も悪いことなどしていない。

 むしろ、彼らのマナーの良さに自分でも驚かされる。

 電車内のカップルといえば、人目が少ないほどに我が物顔でいちゃつくものだと相場が決まっているとばかり思っていた。

 通勤電車で遭遇するバカップルの愚痴は同僚にも頻繁に聞かせられるし、秋斗だって何度も目の当たりにさせられてきた。周りを時に苛々と、時に悶々とさせる迷惑極まりない彼らと違い、この二人は声も落とし、大人しくしている。他人からすれば大変に行儀がいい。

 お互い気分よく乗車できるのが一番だ。

 もっとも、向こうが同じ居心地の良さを感じているかは分からないので、秋斗だって気を配らねばならないが。




 静かな車内に流れるのは、ドアの開閉音や発車ベル、そして微かなモーター音だけ。

 排気混じりの都会の空気をまた積み込んで、山手線は浜松町駅を出発する。次は新橋だ。


「ねぇ」


 ふいに明日夏が、冬馬の顔を覗き込んだ。


「冬馬、どんな仕事に就きたいんだっけ」

「俺?」

「うん。あんまりちゃんと聞いたこと、なかったなーって」


 冬馬は少し悩むように、窓へと視線を流した。東側に向いている窓からは、新橋駅前の貨物駅跡地に完成した近代ビル街・汐留シオサイトが見えているはずだ。


「……芸術系だけど、地味な仕事がやってみたいな。テレビ局だったら裏方のスタッフとか、ディレクターとか。劇団にもそういうのは要るだろ」

「へぇ……」

「明日夏は?」


 よもや問いかけが返ってくるとは考えていなかったのか、明日夏は戸惑いの目を方々に移ろわせた。

 むしろ、彼らの年代で未来への針路を明確に決めている人間など多くはいない。秋斗の場合は何だっただろうか。大人の世界の黒さを知らない幼気な会話に耳を澄ませながら、遠くなり行く昔のことを秋斗は思い返す。


「うーん、せっかくヴァイオリンやってるんだから、これで生きていけたら楽しいのにな」

「そしたら俺がマネージャーだな」

「違うよ、冬馬は伴奏のピアノ」

「そんな上手くないよ」

「これから上手くなればいいんだよ」


 二人は楽しげに肩をゆすった。

 ヴァイオリンとピアノ、相性は悪くない。それどころか並のデュエットよりずっと優れている。秋斗は心の中で明日夏に賛同を送った。

 笑い終わると、明日夏は足をぴんと伸ばして天井を見上げた。


「ね。大人になったら私たち、色んなことしようね。旅行とかお買い物とか」

「あぁ」


 やや面食らったように、しかし冬馬ははっきりと頷いた。


「色んな所に行きたいな。東京から直接行ける場所、ぜんぶ冬馬と回りたい」

「山のようにあるな」

「だからいいんじゃない、東京(ここ)は」


 私たちの町は赤羽だから外れだけど、と明日夏は笑ってみせた。つられて笑う冬馬の姿は作り物のように穏やかだった。

 この子たちは赤羽まで行くのか。すると、山手線に乗り続ける秋斗とは、田端辺りで道を違うことになる。ほのかに芽生えた寂静を秋斗はそっと摘んだ。

 二人の会話からは満たされた心の内が伝わってくる。それは、都会の濁った息を吸い込んで心を腐らせてしまった秋斗には、ずいぶんと懐かしい感覚だった。

 もしも自分が冬馬の立場だったら、いったいどんな反応を返していたのだろう。

 目の前の二人を自分の知っている顔に置き換えながら、秋斗は昔日の思い出の蓋を、ほんの少しだけこじ開けた。




 秋斗にも、いたのである。


 かつて、秋斗と寝食を共にした人。

 仲良く並んで、一緒に未来図を描いた人。

 たった一人、秋斗の事を愛してくれた人が。






 彼女の名前は、長崎(ながさき)春乃(はるの)と言った。

 歳は秋斗と同じ。今は二六歳のはずだ。

 当時通っていた豊島区の私立大・鈴懸(すずかけ)学院大学の音楽サークルで、一年生の時に出会ったのが始まりだった。以来、同じ授業にも出席し、少しずつ時間をかけて二人は近づいていった。勉強も趣味も方向性が合い、最終的には入った会社の業種までもが同じだった。

 何ひとつ文句のなかったはずの関係を手放してから、早くも二年の月日が経とうとしている。秋斗がブラジルの支社へ出向になる直前のことだった。

 別れを告げた日の事を、秋斗はあまり思い出せない。忘れよう忘れようと、この二年間ずっと意識してきたからだ。




 かつて「汽笛一声新橋を~」と唱われたそのホームを、山手線は発車ベルに押されて発進した。

 次は、有楽町。東側には銀座、西側には永田町を控え、平日も休日も多くの人で賑わう駅だ。駅前にも再開発で巨大なデパートやコンベンションセンターが完成し、大きな駅に挟まれているにも関わらずその存在は決して劣らない。


 (銀座か……)


 秋斗はぼんやりと遠くを見ていた。

 目の前のカップルも、その向こうに立ち塞がる有楽町|

ITOCiA(イトシア)も透過して。


 (最後に行ったのはいつだったかな。今の僕にはもうすっかり、縁のない場所になってしまったけど)


 そうは言うが、元から縁があった訳でもない。金融業に勤めていると言ったって、昔はずいぶん稼ぎも少なくて、貧乏だったものだ。池袋からなら足を伸ばすのは簡単だけれど、あの街は一人では入りにくい。

 それでも昔は、いやあの頃はいたのだ。手をつないでくれ、共に歩いてくれる相手が。


 (あの時も今もずっと、僕は山手線に世話になりっぱなしなんだなぁ……)


 座席に深く腰掛け直しながら、秋斗はふいに懐かしくなった。ちょうど一年前、オリンピックを機に置き換えの行われたこのE235系の座席はふかふかと柔らかく、疲れた秋斗の身体を優しく受け止めてくれた。


 目の前の二人は、黙っている。

 否、話してはいるのだが声が聞こえない。さっきよりもずっと声量を落としてしまっている。

 二人とも顔が赤いところを見ると、きっと他人に聞かれるのは恥ずかしいような話でもしているのだろう。

 今は何となくその光景を見たくなくて、秋斗はまた窓へと目を移していた。有楽町駅は、あっという間にやって来た。




 山手線は1885年、品川・赤羽間に開通したのが始まりだ。


 今のように環状運転ではなく、18年後には池袋・田端間が分岐して誕生した。その後、東京と上野が線路で結ばれるとともに環状運転が始まり、さらに1972年には赤羽・池袋間が埼京線となって、今の形に至っている。初めて環状鉄道の代名詞となったのは、実は遠く戦前の事なのだ。

 以来、間東中から集まる人々を都心の各所に送り届ける役目を負い続けながら、この電車は走っている。それは例えば新宿、渋谷、池袋といった三大副都心や文教地区たる上野、国際化の拠点である品川。そして交通の結節点であり、「現代の日本橋」とも言える、あの駅。

 そう、首都の名を冠した、あの駅である。


 『間もなく、東京、東京。お出口は左側です』


 お決まりのフレーズの後に、乗り換え路線が延々と読み上げられる。新宿も相当だが、こちらはJR線の多さが圧倒的だ。


 (どうするかな。丸ノ内線に乗り換えるなら、ここで降りなきゃいけないんだけど)


 少し、秋斗は悩んだ。このままここに座っていたら、辛い思いをしなければならないような気がしてしまうのだ。根拠は、ないけれど。


 (でももう、腰も上げたくないな……。こんな時間になってしまっている訳だし、池袋に着くのが多少遅くなったって構いやしないだろう)


 結局、このまま乗り続けることを選択することにした。

 地下鉄である丸ノ内線と違い、こちらは景色もいい。せっかくのほぼ貸し切り状態を手放すのも、勿体ないと思ったのだった。


 深夜の東京駅三番線ホームには人影がそこそこ見受けられたが、みな並んでいるのは他所の車両のようだ。また空気を積み替えただけで、山手線は再び出発する。

 ホームを抜けると、日本橋や大手町に立ち並ぶ巨大なビル群の夜景が窓の外を埋めた。駅周辺の再整備で八重洲口には超高層タワーがキノコのように生え、つい数十年前と比べても見違えるくらいだ。


「きれい……」


 向かいの席で、冬馬が呟いている。相槌を打つように明日夏が続けた。


「なんかさ、星みたいだよね」


「星?」


「うん。ビルの窓から漏れてる光とか」


 言われて秋斗は大手町の天を見上げた。

 なるほど、この時間にもなるとビルの照明はずいぶん疎らだ。不規則に瞬く星たちに喩えるのは、案外悪くない発想かもしれない。


「あの星の一つ一つに、人が住んでるんだね。きっと」


「そうだなぁ。みんな、何かの目的を持って、集まってるんだよな」


「じゃあ、私たちが一緒の家に住むようになったら、同じ星の中にいるように見えるかな?」


 それには答えないで、冬馬はそっと明日夏の肩を抱いた。

 きっと、見えるよ。君たちなら。

 そう声を掛けられたら、どんなにいいだろう。そんな勇気は秋斗にはないし、不審者視されそうな気もするのだが。

 人の築いた星屑の中を潜り抜けるように、山手線は暗い線路の上を疾走した。



 一段高いところにホームのあった中央線が同じ高さに下りてきて、代わりに東北縦貫線が新幹線の上に上ったところで、次の駅が見えてくる。神田だ。

 有名な古本屋街でもある神田は、都心オフィスから一歩離れた所にある繁華街として飲食や宿泊、娯楽などが集積している。



「ぐぅー……」


 突然、車内に間抜けな音が響き渡った。


 (何だ?)


 自分ではない。前を見た秋斗は、一瞬にして事情を悟った。目を丸くする冬馬の横で、真っ赤になりながら明日夏がお腹を押さえている。


「……明日夏、腹減ってんの?」


 ストレートな尋ね方をされて、彼女はさらに赤面した。「だって……線路際に美味しそうな看板があるから……」


 秋斗は思わずちらっと後ろを盗み見た。レストランの広告がライトに照らされて、闇夜に輝いている。素晴らしい夜食テロ攻撃という他ない。

 こんな時間だし、若者ならば自然なことだろう。苦笑いしながらも、秋斗は内心少し焦った。ここで何かサポートが出来なければ、冬馬の男が立たなくなってしまう気がしたのだ。


 (彼氏らしいとこ見せてやれよ、冬馬くん……?)


 果たして、冬馬はふと閃いたように鞄をゴソゴソと漁ると、板チョコを取り出した。


「なんか入ってたけど、いる?」


「いいの?」


 冬馬は笑った。


「俺も食べたいから、半分こしよう」


「……ありがとう」


 明日夏は小さく頷くと、半分に割られたそれを受け取る。

 鞄の奥底で眠っていたであろうチョコレートを、簡単に口にしてしまって大丈夫なのだろうか──とは思わないでもなかったが、秋斗も一先ずホッとした。チョコレートの非常食としての能力は絶大だ。


「やっぱり、お腹空いたよ……」


 チョコレートが口の中へと溶けて消えた後、ぽつりと明日夏は溢した。


「俺もだよ。よく考えたら俺たち晩飯、ちゃんとなんて食べてないし」


「新宿のマックでアップルパイ齧っただけだもんね」


「それなー……」


 いったい何をしていたのだろう。

 気になるが、二人はまだ高校一年だ。よもや危険なお店に出入りなどしてはいまい。新宿であれば精々が、ショッピングや映画くらいのものであろう。


 (それにしても、清々しいくらい何も持ってないな)


 秋斗は二人を改めて眺めた。

 明日夏の可愛らしいミニスカートの上には、小さな肩掛け鞄がかかっている。ジャケット姿の冬馬の横にどんと置かれた鞄も、通学鞄ほどの大きさはない。持ち物と言えばそのくらいのものだ。デートと言うよりはむしろ、余所行きのと表現する方がいいかもしれない。


「いま家に帰ったら、怒られるよな……」


「うん。少なくとも私のところは、ぜったい怒られる」


「明日夏は、どんな口実で家を出てきた?」


「横浜で今夜やってるクラシックのコンサートに、友達と行くって言ったんだ。そしたら、帰るのが少しくらい遅くなっても大丈夫かなって」


「零時回っちゃったけどな」


「うん。やばい」


 口調は軽いが、言っていることはさりげなく恐ろしい。本当に大丈夫なのだろうか。

 しかし、抜け出すのにそれだけ苦労しなければならないとは。秋斗は驚いていた。デート行ってくる、とでも言えば許可は下りそうなものだが……。




 秋斗が最初に春乃との出会いを両親に報告したのは、大学三年の時だったと思う。

 春乃は「どうしても行きたい」と行って聞かず、まさかの本人も臨席しての付き合い報告となる。それまで彼女の「か」の字とも縁のなかった秋斗に相思相愛の相手が出来てくれた事を、両親はあの時とても喜んでくれた。母など、「もうそのまま学生結婚しちゃいなさいよ」なんて口走ったくらいだ。

 あれから、はや七年が経つ。付き合い始めた報告は遅かったのに、別れた事への報告は早かった。秋斗自身、早く忘れてしまいたいと思っていたのかもしれない。報告は至極簡潔で、両親は何も言わずにただ頷いてくれただけだった。

 付き合っていた時はよく二人でセッションして楽しんでいたヴァイオリンは、あの日以来ずっと仕舞い込まれたまま。巣鴨にある春乃の家に寄るために遠回りしていた定期券は、研修から帰ってきてすぐに破棄し、東京駅で乗り換える今のルートを取るようになった。意図せずして巣鴨を避ける形になってしまったが、山手線自体も車両の置き換えで当時走っていたE231系は姿を消し、帯の色以外には面影はどこにもなくなってしまったのだった。


 結局、付き合っていた期間は四年間であった。

 十分長い間ではあるが、だからこそ二人の関係もダレてしまったのかもしれない。

 今はもう、よく思い出す事も出来ない。春乃が秋斗のどんな所を好いてくれていたのかも、秋斗が春乃に恋慕の情を抱いた理由も。

 そして、別れを告げたあの日……春乃が秋斗を引き留めた言葉たちも。

 たった一つ今でもはっきりと記憶に残っていることがあるとすれば、それは春乃と別れようと思った動機だけだ。



 神田を出た山手線は中央線と別れ、外濠を橋で越える。その先に見えるのは、秋葉原駅だ。

 総武線各駅停車との十字クロスを形成するこの駅の周辺は通称「秋葉原(アキバ)電気街」と呼ばれ、電気製品や部品、趣味用品やサブカルチャー関連店舗などが文字通り空を埋める。その規模は紛れもなく、日本最大級だ。

 ここで生まれ、拠点をこの街に置くアイドルグループも多い。秋斗の同僚にも、休日返上でライブに行くという人はそれなりにいる。


 (懐かしいな。高校卒業までの間はずっと、僕も二次元に傾倒していたっけ)


 秋斗は内心苦笑いした。本当は大学に入っても見続けていたのだが、覗いてきた春乃に「それ、私よりかわいい?」と聞かれてしまい、罪悪感から何となく見るのを止めてしまったのだった。


 気になるのは、誰しも同じらしい。


「……ねえ、冬馬」


 ビルの向こうにちらつくアニメキャラの巨大広告に目を遣りながら、明日夏が口を開いた。


「ん?」


「私、あの子よりも可愛く見えるかなぁ」


 どうやら、いま巷で話題の恋愛アニメの主人公が比較対象らしい。呆れたように冬馬は明日夏を見ている。


「本気で言ってる?」


「うん、ちょっと」


「明日夏の方が可愛いに決まってるだろ。容姿も、性格もさ」


 とたん、パッと明日夏の顔が輝いた。

 好きな人に「可愛い」と言ってもらえるというのは、きっとそれだけ嬉しい事なのだろう。僕には分からないな、と秋斗は肩を竦める。

 実際、明日夏は可愛らしい。この二人は容姿にはずいぶん恵まれていると、秋斗は感じていた。


「ねぇねぇ、どんな所が?具体的に」


「えー……目、とか」


「口は?」


「うん、口も」


「髪は?」


「……髪もだよ」


 もう明日夏は大満足の様子だ。はにかむように笑いながら、冬馬に寄りかかる。


「──私はね、冬馬の顔も好きだけど性格が一番好き。ちゃんと私に気持ちを伝えてくれる。不満も不安も溜め込まないで、私に流してくれる。だから、好きなの」


「そっか……」


 冬馬も、明日夏に身体を少しもたげた。本人は恐らく抑えているつもりだろうが、満更でもないという心境が表情から滲み出ている。

 幸せそうな絵の向こうで、秋葉原駅のホームが流れてゆく。



 ふと、

 秋斗は強い既視感に目の奥が痛むのを感じた。


 (何だろ。この空気、この風景、この会話……どこかで目の当たりにしたことがあるような気がする)


 過ぎ行く秋葉原のビルの明かりに横顔を照らされながら、秋斗はその源を記憶の中に見出だそうとする。その時ふいに、目の前で穏やかな表情を浮かべる明日夏の顔に、何かが重なった。

 確信めいた思いが、心臓を貫いた。


 (……あの時か!)




 山手線の車両は、御徒町駅に到達しようとしていた。

 秋葉原の北に位置する、商業地だ。「アメ横」の通称で知られる線路際の商店街アメヤ横丁や松坂屋等のデパートが立ち並び、また宝石問屋や宝石店が多い地域でもある。


 秋斗の予想はもはや、間違っているとは到底思えなかった。

 山手線(ここ)は、春乃との日々の中でずっと通勤に使っていた路線だ。巣鴨に住んでいた春乃と朝、巣鴨駅で一緒になって都心へと向かう。二人とも職場は品川にあったから、特別な用事がなければ帰るのもいつも二人でだった。

 大学を卒業して会社に就職してから、別れるまでの二年間。同じ電車の中で同じカーブに揺られながら、語り合い、じゃれ合い、笑い合ったものだった。この二人と似たような会話も、何度も交わしたことがあった。


 そして、別れを告げたのも山手線(ここ)だ。

 二年間過ごした電車内の記憶が、少しずつ、戻ってきている。



 (思えば、御徒町にも山手線に乗って来たことがあったっけ。確かあの時は、僕一人だけで)


 静かに流れる車窓の光を、焦点を失った目で眺めながら、その目を秋斗は細めた。


 (指輪……だったかな。何の記念だか忘れたけれど、一度、今日みたいな深夜の山手線の中で、春乃に手渡したんだ。喜んでたなぁ、春乃(あいつ))


 今はもう見えないその笑顔が、向かいの窓ガラスの手前で微笑んでいる気がする。夜遅くになっても賑やかな御徒町に溢れる光がガラスに反射して、春乃の残像の後ろを彩っていた。

 儚い、けれど……いつか秋斗が恋した、その優しい顔が。


 口を開いた。


「次、上野だってよ。冬馬」


 冬馬?

 ふっと秋斗は現実に引き戻された。さっきまで春乃に見えていたのは、愛しい彼氏にそっと身体を預けていた明日夏だった。

 さっきまでの穏やかな笑顔はもう、そこにはない。夢から醒めたように、秋斗は虚空を見詰めた。明日夏と春乃は、そこまで似てはいないのに。

 明日夏は隣の彼氏に、そっと話しかける。


「前にデートで行ったね、上野。お金が無かったから動物園には入れなかったけど、あの大きな池の周りを二人で歩いただけだったけど、楽しかったなぁ」


「ああ。俺も、すっごく楽しかった」


「あの時、行きたかったね。時間なんてぜんぜん取れないのに」


 ずらりと並んだ上野駅のホームが、視界に入る。はぁとため息をついた明日夏の頭を、冬馬はぽんと叩いた。


 「俺は……明日夏がいればそれで十分楽しいよ。いつだって、何だって。動物園なんて大人になれば何度でも行けるだろ。今はとにかく──明日夏との時間を、大切にしたい」


 こくん、と明日夏は頷いた。

 だが、それは妥協の意思表示ではない。一時的な納得を、彼氏に知らせただけだ。


「もう、上野か……」


 寂しげに冬馬が応えると、明日夏は身体を起こす。そして、ドアの上に取り付けられたディスプレイを見上げた。御徒町駅をたった今出発した車内のそれには、次の駅である上野、そして数駅先までの見通しが表示されている。五駅先の田端が、二人の乗り換え駅のはずだ。


「もう、終わりなんだね……」


「やっぱり、新宿から直接赤羽まで行かなくて良かったよな。少しでも、俺たち一緒でいられる時間が増やせたもん」


「うん。本当」


 そう言って頷きあう二人の背中を、上野駅のホームに灯った蛍光灯の白い光が照らし出している。

 かつての自分と誰かを見ているような心持ちで、秋斗はそんな二人を見詰めた。がらんどうの構内が、窓の向こうに宏漠と広がっていた。

 古より北のターミナルとして発展してきた上野駅は、下町の代表格たる浅草を東に見る街だ。西側には国立科学博物館や西洋美術館、そして上野動物園などを備える東京最大の文教地区、上野公園がある。

 都外からの多くの来訪者の目的地であるだけでなく、都民にとっても学習や観光、デートなどで重宝されている。目の前の二人はきっと、公園の南部にある不忍池を訪れたのだろう。

 電車は静かにホームに止まると、ドアを開けた。新たな来訪者も、帰途を辿る者もいないのを確認すると、新幹線のような懐かしいメロディの発車ベルが、冷えたその扉をそっと閉じた。


 繁華街を過ぎた電車の車窓からは一気に光が減り、走行音だけが長い車内に響いている。

 ふいに、明日夏が言った。


「ねぇ、冬馬。抱きしめて」


 その言葉が来るのが分かっていたように、冬馬は身体を捻って、無言で彼女を抱きしめる。

 温かそうなその腕の中で、明日夏はそっと目を閉じた。


「次、いつ会えるのかな……」


「……分かんないや。平日は部活があるし、日曜日は塾とか模試で埋まっちゃうんだよな……」


「だよね。私もだよ……」


「また、一ヶ月も二ヶ月も、間が空いちゃうんだろうな……」


 抱きしめあったまま、二人ははぁと息をする。まとわる冷たい空気が、その形を真っ白にして車内に蘇らせた。


 (変だな。同じ学校なら、毎日一緒に顔合わせたりぐらいは出来るだろうに)


 秋斗は少し不思議に思った。何か、特別な事情があるのだろうか。


「──どうして、私たちってついてないんだろう」


 冬馬を離すと、明日夏はぽつりと呟いた。冬馬はやはり、何も言おうとはしない。


「お金も時間もない代わりに、あるのは距離だけなんて。それもすごく、近くて遠いなんて」


 膝に押し当てた両の手のひらが、つらそうに見える。


「クラスでも部活でも会えるのに、こんな風には出来ないなんて──」


「止めろ」


 その時初めて、冬馬は明日夏を遮った。「仕方ない事だろ。考えないようにしようって、前に決めたじゃん」


「嫌」


「嫌、って明日夏……」


「言いたいの。吐き出したいの。溜め込むのなんて、嫌だよ」


 明日夏は袖を顔に宛行った。

 窓に映ったその影に、春乃の幻が少しずつ重なり始める。容姿の問題ではない、彼女もこんな風に、溜め込んだ気持ちを吐き出す人だった。

 広大な上野寛永寺の境内が、かつて江戸を守り戦った彰義隊と共に夜の眠りにつく、鶯谷の町。電車は丁寧な運転でゆっくりと進入し、静溢な空気に包まれたホームに停車する。


「ねぇ。私たち、出会わない方がよかったのかな……」


 静かな空気に投じられたその疑問に、冬馬は少し、表情を変えた。


「本気で言ってるの?」


「そんな訳、ないじゃん」


 そう言うと明日夏は、冬馬の手を取った。


「だけど、後悔しちゃうの。もっと早くに知っていたら私たち、こんな苦しい恋なんてしなかったのかな……。私たちの部活が、恋愛禁止だなんて」



 (何だって?)


 秋斗は思わず、浮かんだその語を口の中だけで反芻した。


 (って言うことは……部内恋愛、禁止……?)



「家だって同じだよ。私の両親が、あんなに頭の固い人たちだなんて知らなかった。お父さんもお母さんも勉強勉強って言うばっかりで、許してなんてくれそうにない。言い出せないよ……」


 明日夏は今や膝をぎゅっと握りしめていた。耐えきれなくなったのか、冬馬も口を開く。


 「俺もこの前、母さんに話してみようとしたよ」


 その後にどんな接続詞が続くのか、想像するのは容易だった。「けど駄目だった。匂わせるような発言しただけでもう、『バカな事言ってないで勉強しなさい』だ」


 電車が駅を出発し、ぐらりと二人は揺れる。顔を上げた明日夏はもうすっかり、鼻声だった。


「どうして、恋しちゃダメなんだろ……。どうして、私たちにはこんなに自由がないんだろう……」


 薄暗い車内に、その声はあまりに悲しげに反響する。


「特別な事なんて望まない……。ただ、いつでも一緒に隣にいて、一緒に笑っていられれば、それで十分なのに。触れられなくても、声が聞けなくても、構わないよ。それでも、存在を感じていられるだけで……」


 ぐすっ、と鼻を鳴らす音が二人ぶん聞こえる。その音に、次の停車駅を告げるアナウンスが重なった。日暮里だ。

 かつて「新堀(にっぽり)」があった事に由来するその地名は、言い換えれば「日暮らしの里」だ。今の二人にとって、それはどれだけ皮肉に満ちた名前だろう。


「日暮里、かぁ……」


 涙にくれる明日夏の顔を優しく拭きながら、冬馬も自分の顔を拭った。直視するのが何だか気不味くて、申し訳なくて、秋斗は目線を下に落としていた。


「明日夏と日暮らし一緒にいられるようになるまで、何年掛かるんだろ……」


 はは、と冬馬は乾いた笑い声を上げる。


「いつか叶うんじゃ、遅すぎるよな。今すぐ叶ってくれなきゃ、いけないのに……」



 それきり、二人はもう喋らなくなった。

 ただ黙ってしゃくり上げながら、互いを(いたわ)っていた。

 静けさの増した車内に、日暮里駅のホームの光が差し込む。成田空港へ向かう京成電鉄の分岐点であるこの駅には普段、多くの乗り換え客が行き交っているはずだ。だがこんな時間となった今では、高崎線の通過する線路がホームの向こうに冷たく輝いているばかりだった。


 (……そういう事だったんだな)


 秋斗は、呆けたように目の前の少年少女を見ながら、そう思った。

 彼らの高校の音楽部は本来、部内恋愛が禁止されている。しかし結果的に二人は出会い、そして相手に惹かれてしまったのだ。だから、部活で顔を合わせている間は秘密にするしかなかった。話を聞く限りに於いては、そういう事情だったのだろう。

 しかも不幸な事には、二人とも両親にそうした事への理解がない。平日も休日も(ことごと)く日程で埋まり、会えるのは双方に予定のない僅かな日のみ。距離がないようで、実は二人は……とても遠い。

 だから、会える日はせめて精一杯時間を割き、その存在を感じていたい……。


 (可哀想にな……)


 本心から、秋斗はそう思った。

 考えてみれば、自分は恵まれていた方ではなかったか。春乃と会えるのは確かに通勤時やデートの時だけだったが、それはほぼ毎日確実に保証された邂逅だったはずだ。


 (この子たちは、こんなに苦労しているのに。僕はあんなにもあっさりと、春乃との関係を失ってしまったんだ)


 そう思うと何だか無性に、二人に申し訳ない事をしているような罪悪感が湧き上がって来るのだった。




 車輪を軋ませながら、大きなカーブをひとつ曲がったその先。

 日暮里駅を出た山手線は、数百メートルも走らずに次の駅に着く。

 西日暮里駅だ。日暮里・西日暮里の駅間の短さは山手線でも最短で、本当に一瞬にして到着してしまう。地下を走る千代田線が駅を先に造ったため、JRが乗り換え用に急遽用意したのが、この駅だった。喧騒の都心を出てからずいぶん経ち、すぐ横には日暮里辺りから地上に出てきていた新幹線が並走している以外には、目立つ建物は見えない。

 ここから先は、ずっと住宅街が続くのだ。そう──、かつて秋斗が何度も立ち寄り夜を過ごした春乃の家の周りのような、穏やかな北区の街並みが。



 (あの頃、僕と春乃はどんな事を考えていたんだろう)


 秋斗はスマホを点けると、メールの履歴をずっと昔まで遡った。二年前、春乃と別れたあの頃まで。

 意外と簡単に辿れてしまって、苦笑いが口を突く。


 (春乃との会話が途絶えて以来、まともにメールする相手も僕にはいなかったんだな……)


 高校までの間、人見知りが酷くて他人との関わり合いを避け続けた時の痕跡が、こんなところにも表れているように思えた。事実、毎日毎週のようにメールを交わしていた相手など、春乃が最初で最後だったのだ。

 あの時、春乃が伝えたかった事。伝えようとした事。

 秋斗には、どうしても思い出せない。それは記憶の彼方で、ひっそりと息を潜めている。



 長崎春乃は、大学で出会った友達だった。

 同じ大学の経済学部に所属し、それまでも講義で一緒になることは多かった。音楽サークルで出会った時、先に話しかけて来たのも彼女の方で、話も合った二人はすぐに意気投合したのだった。

 互いに恋愛感情を抱くようになったのは、いつの事だっただろうか。いつしか距離は縮まり、触れ合う事が楽しみに感じるようになった。恋愛経験のなかった二人は初めこそ戸惑ったが、やがてそれが何たるかを知る事になる。どちらから先に告白したのかは、覚えていない。

 春乃は背が高くすらりとしていて、ハイヒールでも履こうものなら高身長の秋斗でも抜くのがやっとだった。頭がよく、生真面目な秋斗の話にもちゃんとついて来てくれていた。

 そして何より、秋斗に向けてくれる愛情の深さは──言葉には著せなかった。


 そんな優しかった彼女だからこそ……、秋斗は振ってしまわなければならなかった。

 海外の支社での研修は、実に一年近くに及ぶ。その間、連絡もまるで取れず、会えもしない状況が続くことは、明白だった。お互いに苦しい思いをすることがないように、と秋斗は考えたのだった。


[また職場の友達が、結婚したんだって。ねえ。私たちもそろそろ本気で、結婚考えてみようよ。まだ……ダメかな?]


[さっきは、ありがとう。私のカバンから財布抜き取ろうとする人に気がつくなんて、秋斗はやっぱりすごいよ!]


 ある程度まで遡った秋斗は、そこから少しずつメールを未来へと進めた。直接最後のメールを見るのには、さすがに抵抗があったのだ。


 春乃のしたためたメールが、画面に次々と現れては消えていった。

 遡ってゆくにつれ、幸せな会話が、記憶が、秋斗の胸を痛める。


 (そうか。そういえば、あんな事もあったなぁ)


 そう思うたび、流れ込んだ夜半の西日暮里の凍てつく空気で、スマホを打つ指が震えた。

 かつて何度も、通勤のために乗り降りしていた山手線。カーブやポイントレールから伝わる揺れや振動さえもが、今は懐かしかった。混んでいたあの日の車内の景色が、脳裏を飛び出して目の前に広がってくるようだった。


 『次は、田端、田端。お出口は左側です』



 (田端?)


 その名前にふと、秋斗は反応した。

 見れば、もう田端駅のホームは目の前だ。メールを見返すのに夢中で、西日暮里を出たのに気が付かなかったのか。

 視線を下ろせば、向かいの二人はまだ黙ったまま、寄り添っていた。この二人とももう、お別れだ。立ち上がるかと思って秋斗は何となく身構えていた。

 が、冬馬も明日夏も立ち上がろうとはしない。


 (あれ、この駅じゃなかったっけ。赤羽に向かうなら、京浜東北線に乗り換えなきゃいけないはずだけど)


 乗り換え路線には確かに、京浜東北線の名前がある。山手線と別れたこの路線は北区内を縦断すると荒川を真っ直ぐ渡り切り、埼玉県の大宮まで駆けて行くのだ。

 秋斗はもう少しよく、様子を窺った。肩が上下に、ゆっくりと揺れ動いている。

 ……眠っているではないか。


 (なぁんだ)


 安心しかけて、ふと秋斗は我に返る。いや、むしろこれはまずいのではないか。

 この時間にもなると、終電を気にしなければならない。赤羽まで行く電車がこの先もう無くなるとしたら……?



 (……いや、起こすのはやめよう)


 秋斗は、差し伸べようとしていた手を収めた。

 怪しまれるからというのもある。だがそれを差し引いても、この二人を起こす事はどうしても出来なかった。幸せな夢を引き裂く事は、──例え、いつかは醒める夢だったとしても──、出来なかった。

 乗降客の一切ないまま、山手線のドアはまた静かに閉まった。電子音が鳴り止めば、電車は再び発車する。不意の慣性で転ばないように、秋斗は後ろの座席に腰掛けようとした。








──『珍しいね。君なら、起こしてあげるかなって思ったよ』





 座れなかった。

 エンジン音と共に電車は滑り出し、慌てて秋斗は吊革を掴んだ。ぎしい、と苦しむ声が響いた。

 ぶれた視界に映ったのは、秋斗のすぐ前に立って優しく微笑んでいる、若い女性だった。



『何となく、だよ。二人もいるし、どうやったって怪しまれるだろ』


 どこか聞き覚えのある声が、その問いに答える。


 (これは、僕の声だ……)


 ぐらぐらと揺れる身体を足で踏ん張って支えながら、秋斗は確信した。

 それだけではない。“秋斗”の声に微かに口を歪めるこの女性が誰なのかも、もう分かっているつもりだった。彼女が着ているそのスーツは、ちょうど二年前のあの日にも着られていたものだ。



 長崎春乃。

 全ての状況証拠が、その答えを声高に叫んでいた。

 そんなの有り得ないと主張する理性は、とうの昔に秋斗から蹴り出されていた。



『もー、この子たちが路頭に迷っても知らないよ?これだけ大人が乗ってるのに、誰も見向きもしないんだから……』


 “春乃”がそう言うのと同時に、静かなざわめきが秋斗を囲んだ。衣擦れの音、新聞を捲る音、ひそひそと話す声。まるで混雑する電車の中のような音たちが。

 そう言えばあの日はもっと、車内は混んでいたような気がする。電車の走行するモーターの音まで違うその徹底さに、秋斗は何故か無性に不安になってきた。

 この先の展開が、分かっていたからかもしれない。


『その時は、タクシー代くらいはプレゼントしてあげるよ』


『太っ腹だねぇ』


 “秋斗”の声に春乃は吐息を漏らすと、斜め後ろで眠る二人にそっと手を伸ばす。その目が、ふっと細くなった。


『幸せになって欲しいな、この子たちには』


『うん。そうだね』


 上の空で返されたような“秋斗”の言葉。

 秋斗は握った吊革に、少し力を込めた。田端駅を出た山手線は京浜東北線を乗り越えるため、少し登ると急カーブする。傾いた床に摩擦音が痛々しく響き渡り、吊革が無ければ立っているのも難しい。



『……ねえ。考え直してはくれないんだよね、あの話』



 けたたましい音の波の中に、春乃の声は妙にはっきりと聞こえた。



『僕も何日も考えたけれど、やっぱり僕たちは……こうするしか、ないんだと思う』


『……うん』


『八ヵ月もの間、会うどころか連絡もまともに取れないような状況で「付き合ってる」だなんて、とても言えないよ。気持ちを、今のままで保てる自信がないんだ。どうしても……』


 自分の声がどこかから響くのを、秋斗は黙って聞いていた。かつて確かに、そんな風に考えていた時期があった。その記憶を、辿っていた。いやそもそも、口など挟めないのではないだろうか?


『君ならそう言うと思ってた』


 もう何もかも諦めたように、“春乃”はふふっと嘆息した。


『私も、よく考えたら無理だなぁって思ってたんだ。会えない間もメールすればいいって簡単に考えてたけど、出向先、ブラジルだもんね。研修なら君もメールしてる暇なんてないかもしれないし、そもそもケータイなんて使えないし。お互いにやりにくいだけかなって』


『……ごめん』


『いいの、気にしないで。向こうで大変な、苦しい思いをしなきゃならないのは君の方なのに、我儘を言った私が悪いの。ごめん……ね』


 駒込駅が迫り、電車は減速を始めた。がくんと揺れる音に並ぶ吊革が一斉に踊り、“春乃”の顔から何かがはらりと落ちるのが──確かに見えた。



 (違う)


 秋斗は心の中で叫んだ。


 (春乃は、何も分かってない。考えが足りないのは僕の方だった──)


 だが、目の前の彼女にはそれが届いていない。

 “春乃”は腕を拭いながら、何度も『ごめん』と謝った。背後で開いたドアから風が舞い込み髪を掻き上げて、その表情を秋斗に見せた。あの日も、見たはずだった顔だった。


『ごめん。ごめんね。泣くつもりなんてなかったのに。涙、止まらないよ……』


 “秋斗”は、答えない。

 “春乃”の懺悔を止める者は、ここには誰もいなかった。


『私が仕事を続ける選択なんてしなかったら、結婚していたら、こんなことにはならなかったんだよね……。そしたら、地球のどこへでもついて行ったのに。引き裂かれたりなんて、きっとしなかったのに……っ』


『…………』


『ごめんね、ごめんね……』



 その時、自分がどんな事を思い、どんな行動を取ったのか。秋斗はもう思い出していた。

 そしてその記憶は、間違っていなかった。


『……泣かないで』


 辛そうな声が、春乃に投げ掛けられる。顔を上げた春乃に対する“秋斗”の口調は、穏やかだった。


『永遠の別れって訳じゃない。いつか僕がこの東京(まち)に帰ってきたら、また会えるんだ。だから、今は僕の事は忘れてよ。君は君の幸せを、探すといいよ』


 それは当時の秋斗なりに、考えて考え抜いた末の結論だった。嫌いになって別れたのではない、むしろ秋斗は春乃に幸福な生活を見つけて欲しいと考えたのだ。自分が傍に居なくても、笑って暮らしてゆけるだけの幸せを。

 そしてそれこそが、あの日の秋斗が犯した最大の過ちだった。

 春乃は赤く腫らした目を斜め上へと向けていたが、やがて小さく首を振る。

 違う、違うよ。そう言いたいかのようだった。


『私の幸せは……君でしか、成り立たないのに……。君がいる、この世の中にいてくれるだけで、私は幸せなのに……』


 か細い声を、“秋斗”は真っ向から否定する。


『何も僕だけが、君を幸せに出来るんじゃないよ。君は可愛いし、ここにはたくさんの男性がいるさ。君ならきっと、理想の人に出会えるよ』


 それを聞いた“春乃”の顔に、もうこれ以上何かを言おうとする意思は感じられなかった。

 ただ、無理矢理に口を曲げて笑顔を繕った。そして言った。


『──最後の最後まで、冷たくて優しいんだね。君は……』



 (春乃が言いたかった事を、僕は思い込みで跳ね返してしまったんだ)


 足元から崩れ落ちたくなるのを、秋斗は掴まった吊革で何とか耐えていた。

 悔しい。それ以上に、今の心境を表現できる言葉が見つからなかった。

 あの時、春乃が秋斗に伝えたかった気持ち。その答えはさっき、目の前で眠る二人の若き哲学者が口にしていた事だと秋斗は思った。


──“特別な事なんて望まない……。ただ、いつでも一緒に隣にいて、一緒に笑っていられれば、それで十分なのに。触れられなくても、声が聞けなくても、構わないよ。それでも、存在を感じていられるだけで……”


 (春乃が別れたくないと訴えていたのは、こういうことだったんだろうな)


 気持ちさえ繋がっていると思えれば、時間も距離も乗り越えて恋は続いていく。春乃はそう信じていたし、秋斗はそれを信じられなかったのだ。

 秋斗は嘲るように笑った。


 (はは……もう、遅いけどさ……)



『──でも、やっぱり君だなって思った』


 自身も吊革をぎゅっと握ると、これ以上表情を見られたくないと言わんとするように“春乃”はくるりと向こうを向いた。

 もうその窓の先には、駒込駅のホームは見えない。


『君は昔から、真面目だったもん。君ならそう考えるかなって感じてはいたし、そういう所が私は好きだったの。だから、私の事は引き摺らないで。君は君のまま、頑張ってね』


『うん……』


『でないと、東京(こっち)に戻ってきた時にまた、好きになれなくなっちゃうからさ』


 どきりとしたのだろう。“秋斗”の返事は、いつまでも発せられなかった。

 俯く“春乃”と、茫然と車内に突っ立つ秋斗。二人の耳にその時、別れを告げるアナウンスが聞こえてきた。次の停車駅が巣鴨である事を淡々と伝える、車内放送が。

 もっと、顔を見ていたかった。

 残像だと分かっていても、もっと一緒にいたかった。

 けれどこれがもう、最後。


『今まで、ありがとう』


 背中を向けたまま、“春乃”は静かにそう言った。『君と居られて幸せだった。本当に、ほんとうに、幸せだったよ』


 (……!、……)


 言いたい言葉が、口から出ない。

 “春乃”は、少し笑った。


『私は、待ってるよ。君がここへ帰ってきてくれるのを、いつまでも待ってるから。君が何て言おうが絶対に、忘れたりなんかしないから』


 あの日も、同じことを言われたのだろうか。ただ確実に言えるのは、秋斗はこのあと自分から春乃に「さよなら」と告げたこと。それだけだった。

 山手線はその加減速性能を武器に、勢いよく巣鴨駅に入線した。線路の間隔が広がり、間に置かれた機械の箱が流れるように視界を通過し、プラットホームが目の前に現れ、



 流れ、、




 流れ、、、





 秋斗は、抱きしめていた。


 ドアの開く側を向いたままの春乃の背中を、力一杯その腕で抱きしめていた。


 ほんの少し力を入れ過ぎただけで潰れてしまいそうな、その華奢な身体を。



 突然のそれに、さぞびっくりしたのだろう。

 春乃は肩を震わせ、秋斗を目の端で捉えた。口が開いて白い歯が覗いたのが、正面の窓ガラスに克明に映っていた。


「嬉しいな」


 彼女は笑った。今度こそ、本当に。


「あの日は、こんなことしてくれなかったもん」



 キイイイイ……。

 ブレーキ音が消え、電車は完全に停止した。ドアが開く。

 秋斗の腕を解くと、春乃はぱっと駆け出した。一番近くのドア目指して床を蹴った彼女は、そのまま一目散にホームへと抜けて行った。


「あ……!」


 止めようと伸ばした腕が、空気を虚しく掴んだ。

 何事もなかったようにドアは閉まり、ガシャンという音がホームと車内を隔絶した。深夜零時を回った巣鴨駅のホームには、人影はちらほらと見受けられたが、春乃の格好はどこにもなかった。

 音も光景も、今は全てが元に戻っている。秋斗はさっきまで“春乃”がいたその空間に、もう一度手を伸ばし目を凝らした。何も、不思議な事など起こりはしない。

 電車は緩やかに加速を始め、一歩、また一歩と巣鴨駅から遠ざかってゆく。ついに秋斗の見える範囲からも、ホームの西端が消えた。




 埼玉から出てきて東京のどこが何かも分からず、『どの街だったら住みやすいかなぁ?』と聞いてきた、大学四年の時の春乃。

 便利だからと山手線沿線を紹介すると、巣鴨か駒込かでずいぶん悩んでいた春乃。

 回遊式庭園として知られる六義園を傍らに有し、緑豊かな駒込と。とげぬき地蔵が立地し繁華街へのアクセスが良く、高齢者に優しい街である巣鴨と。良さを平等に説明すると、迷いもなく巣鴨を選んだ春乃。

「君の住んでる板橋に近いし、おばあちゃんになるまで住んでいられるから!」と、胸を張って言った春乃。だからそのくらいになるまで一緒に暮らしていたいな、と小さく付け加えた春乃。

 朝会うときは太陽のように明るく微笑み、夜に別れる時は月のように淋しそうな表情を漂わせていた、あの頃の春乃。

 家に遊びに行く度に顔を綻ばせ、手料理を振る舞って出迎えてくれた春乃。玄関の外まで見送りに出てきて、最後まで手を握っていてくれた春乃。


──もう二年も前に失われてしまった記憶の中の春乃が、フラッシュバックした。




「ごめん、春乃」


 秋斗は床を強く見つめていた。


「僕は春乃の気持ちに、全く近づけていなかったんだね……」


 押し寄せる後悔の津波に小刻みに震えていた身体は、やがて襲ってきた横向きのベクトルには耐えられなかった。巣鴨から大塚に至る間、山手線は大きくカーブしてその進路を変えるのだ。

 ぎいぎいと悲鳴を上げながら、電車は右へと曲がる。秋斗はどさっと背後の椅子に崩れ込むと、春乃のいたその空間を放心したように見つめ続けた。


 あの時、引き止める事が出来たなら。

 いや、そんな事は出来たのだろうか?





「ふぁ」


 自分以外の声が唐突に聞こえてきて、秋斗は一瞬焦った。


 (人!? まさか、さっきの僕を見られ──)


 が、その期待はあっさりと裏切られる。ちょうど真正面に座って眠っていたあの二人が、ぴったり同時に目を醒ましたのだった。


「あれ……ここ、どこ……?」


 寝惚け眼で二人は顔を見合わせる。風景では見当がつかないらしく、冬馬は斜め前のディスプレイを見上げて駅名を見た。

 その顔が、驚きと絶望に変わった。


「やば……! 俺たち、田端をだいぶ過ぎちゃってるよ!」


「ええ!?」


 問い返した明日夏も、ディスプレイにはっきりと書かれた『大塚』の文字に気づいたのだろう。思わず、冬馬の腕に抱き着く。


「どうしよう……! 私たち、帰れなくなっちゃう……!」


──ほら、だから言ったのに。


 見えない誰かが、耳元でそう囁いたような気がした。

 が、冬馬はまだ諦めたりしない。明日夏の姿を横目に見るやスマホを取り出し、何やら画面を動かしてゆく。乗り換え検索か、時刻表でも見ているに違いない。

 果たして、冬馬はほっとしたように力を抜いた。


「……助かったよ、俺たち。このあと零時四十一分に、池袋始発赤羽行きの埼京線の最終列車があった」


「何それ、小説みたいに都合いい……」


「ほんとにあるんだってば。この電車が池袋に着くのはその五分前だから、乗り換え時間も十分にあるよ」


 明日夏もようやく理解したようだ。よかったぁ、と笑う。


 (池袋には、いつぐらいに着くんだろう)


 真っ暗な中にぽっかりと浮かび上がった大塚駅前の光を眺めながら、秋斗はこの先の風景を記憶の中に探った。もうここからは、二、三分で着く距離だったはずだ。

 東京最後の路面電車である都電荒川線の通過するここ大塚は、大学や高校の集まる文化的な地区だ。池袋まではすぐであり、街並みの向こうには既に池袋のシンボルとなる超高層ビル群が顔を見せている。

 長かった山手線の旅も、あそこで終わりだ。財布から時刻表を取り出すと、秋斗は自分の乗る東武東上線の時間を確かめた。良かった、こちらもぎりぎり終電に間に合いそうだ。



「あのね」


 ふいに、明日夏が切り出した。


「夢を見たの。冬馬と私が、初めて会った時の夢だった」


「マジかよ、俺もだよ」


「冬馬もだったの?」


「うん。あれだろ?部活に入ってばっかりでまだ上手くヴァイオリンが弾けなかった明日夏の練習に、放課後に俺が付き合った時」


「うん、あの時」


 ほんのりと頬を染めながら、明日夏は微笑んでいた。


「なんか、初心を思い出したよ。こうやって少しずつでいいから、毎日なんて会えなくていいから、私なりのスピードで距離を縮めていけたらいいなって思ったんだ。両想いになれるなんて思ってなかったから、あの頃は今みたいに、焦ってなかった」


「……そうだな」


 頭の後ろで腕を組むと、冬馬も微笑む。「俺たち、焦ってたんだね。まだまだお互いの事は知らないし、もっともっと知りたいもん。たまにはゆっくり振り返ってみたいし、ゆっくりこれからの事も考えたい」


「多少会えないくらいで諦めたり腐ったりしちゃ、ダメだよね」


「うん」


 二人はまた、そっと互いの身体を寄せあった。しかしその表情はもう、少し前の悲しげだったそれではなかった。



 (彼らの言ってる事の方が、僕より何倍も大人っぽいや)


 苦笑いすると、秋斗は縦長の車内をぐるりと見渡した。山手線に乗ること、実に半周。結局この車両には、まるで防御結界でも存在しているかのように、誰も乗って来なかった。

 大塚駅を出た山手線は高速道路の下を潜り、埼京線や東武東上線と並んで池袋駅に入線する。地下鉄を跨いで越え、西武池袋線に越えられれば、その先には新宿や渋谷、恵比須や五反田のような都会がまだまだ連鎖的に続いてゆくのだ。この電車には、終わりはどこにもない。


 (いつか、春乃が言ってたっけ)


 ぶらぶらとのんびり揺れる吊革を目で追いながら、秋斗は懐かしい声を思い出した。


 (山手線はぐるぐる回るから、どこにいるのか分からなくなっても必ず元来た場所に帰って来られる。どうしたらいいのか分からなくなった時、山手線に乗って考えていれば何だか解決するような気がするの。だから、好き。──確かそう言っていたかな)


 きっと春乃なりに、想うところがあったのだ。意味が分からないと当時は笑ったものだったが、今考えればどうだろう。

 現に、今…………。




『池袋ー、池袋ー。ご乗車、ありがとうございます』


 開いたドアから、冷気と共にアナウンスが流れ込む。


「行こう、乗り遅れたらヤバいよ」


「うん!」


 冬馬と明日夏は口々に言いながら、電車を降りて行った。仲好さげに手を繋いだまま、階段を駆け下りて見えなくなったそのシルエットに、秋斗は心の中でエールを送る。


 (頑張れよ、君たち)


 きっとあの二人なら、この先どんな困難も乗り越えて、幸せを築いてゆくに違いない。我が身を振り返るのは後にして、秋斗も電車を降りた。背後でドアが閉まり、山手線は音も静かに動き出す。

 最後尾が通過してゆくまで、秋斗はそこで山手線を見送っていた。ホームドアの途切れたその向こう、真っ暗な東京の闇の中へ、車内灯や尾灯を煌々と点しながらE235系電車は消えていった。

 ただ、静寂だけがそこには残されていた。



「電車の中は、通話は禁止だしな」


 当たり前の事を口に出すと、改札を出た秋斗は東上線へは向かわずに、駅を出る通路を歩いて行った。

 手にしたスマホの画面には、かつて何度も電話をしたあの番号を表示してある。


 歩きながら帰れば、ゆっくり時間が取れるはずだ。今は何も気にしないで済む、時間がほしい。












 今日も明日も、二年後も十年後も。

 ボディが変わってもホームドアがついても、駅が増えたとしても。

 山手線は何食わぬ顔をしながら、東京の街を廻り続けるのだろう。

 たくさんの人と記憶を、何度も生まれ変わったその車体に乗せて。










……「短」編とは名ばかりの恋愛小説は、いかがでしたでしょうか。

作者にとって実に半年以来となる恋愛は、描くのがとても楽しかったです(笑) もっといちゃいちゃさせてあげたらよかった。←


本作執筆にあたり、現地取材と称して山手線を一周してしまいました事、JR東日本様には深くお詫び申し上げます。

おかげで風景描写が進みました(笑)

ちなみに、作中で冬馬くんが探し当てた「小説みたいな電車」は、実在します。平日でも土曜日にも走っているそうなので、ぜひ探してみてはいかがでしょう。もっとも現在の埼京線/東武東上線のダイヤが、いつ変わってしまうかも分かりませんが……。



二人──いえ、四人の人生に、一層の幸せがありますように。

作者としても、そう願わずにはいられません。


感想、レビュー、ポイント評価、お待ちしています。

ぜひによろしくです!↓↓↓



蒼旗悠

2014/10/26

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― 新着の感想 ―
[良い点] 山手線という新しい舞台での恋愛もの……!すごく珍しく良かったです。 [一言] はじめまして。 タイトルに惹かれ読ませて頂きました。 読了宣言ともに感想を書かせて頂きます。 部内恋愛禁止…
[一言] 初めまして、青山柊と申します。 この作品のレビューを偶然見つけ、拝読する機会を頂きました。 一言で言って、本当に素晴らしい作品だと思いました。 大人も顔負けの文章力と、文学的な描写に心を…
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