平穏を求めて
「ひぃぃぃいいい!!」
なるべく目立たずに生きていこうと決めたあの日の誓いは、今日限りで終わった。涙目になりながら、悲鳴を上げながら、汗を垂らしながら、私は逃げた。
最後に全力疾走をしたのは、3年ほど前だった。居酒屋〝お休み処〟に、凶暴で恐ろしい犬がいる。飼い主曰く、青空商店街の守り神(しかしただの犬)のしっぽを誤って踏んでしまった際に、ものすごい形相で追いかけてくる商店街の守り神に、ものすごい形相で逃げたスーパー全力疾走以来の、見事な走りをした。
チキンな私は、見かけによらず足には自身があった。文字通り、逃げ足が早い。だから必死こいて走る私に追いつけはしない、追いつけるのはフユさんくらいのもんだろう。あの人の運動能力は超越しているので、一般女子高生は到底敵わない。
私は後方を確認して、足を止めた。
後方には、あの巨大な不良くんの姿はなかった。よかった、不良くんをうまくまけたみたいだ。
「はぁ…」
乱れた息を整えながら、校舎裏へと移動する。
どうしよう。ものすごく、教室に行きたくない。
そうして、あーだこーだ考えているうちに、チャイムが私をあざ笑うかのように鳴った。
結局私は、その日授業に出ようと思えず、帰ることにした。学校の敷地に居たって、不良くんに見つかる可能性がある。それはものすごく避けたい、だったら帰るのが得策だ。
ただ、私はとてもバカだった。私は、あろうことか周辺をぶらついていた。何故不良くんが授業に真面目に出ているのだと、そう思い込んでいたのだろうか。むしろ、不良くんは授業に真面目に出たことがあまりない。それなのに、学校で別れたからといって、授業に出ているとは限らなかったのだ。
つまり、だ。私の逃走は、とてもつめが甘かった。
「おい」
低い声が背後から聞こえた。と、同時に後ろからにゅっと腕が伸びてきて、私の首に回った。そして、ぐっと後ろに引っ張られる。わけがわからず、引かれるがままに後ろに寄りかかると。
「ぅあ…ッ!!?」
女の子とは違う筋肉質な体が上下しているのが、背中越しに伝わった。頭が真っ白になって、思わず離れようとばたばた暴れると、右手首を、骨ばった大きな手で掴まれた。
「ひッ…」
軽く息を乱しながら、「暴れんな」と私に一言言い放ったのは、私が学校でまいたはずの不良くんだった。不良くんは私を探して、周辺を走っていたようだった。
やばい見つかったやばい怖い助けて―――…
私は血の気が引いて行くのが自分でわかるくらい、焦っていた。しかし、暴れれば暴れるほど、私の首に回った不良くんの腕がしまっていくのがわかり、苦しさに負けて暴れるのをやめた。
ずっと走っていたのだろう、不良くんはとても熱かった。私の後頭部がちょうど不良くんの心臓辺りにあり、不良くんの心臓がどきどきいってるのがわかる。
はたから見れば、後ろから抱きしめられているようなこの状況だが、私はそんなこと考えていられなかった。
「あわわわ…」と、まぁこんな感じに、見事に冷静さを失って、硬直していた。
不幸中の幸いなのは、不良くんの顔が見えていないことなのかもしれない。もし見えていたら、顔が怖くて泣いている可能性もあった。
だらだらと冷や汗をかいて、かたかたと震えていると、頭上から不良くんの声が降ってきた。
「武生涼」
武生くん、同じクラスの人だったのは知ってるけど、名前を聞いたのは初めてだった。確かそんな名前もあった気がする、が、顔が名前と一致しない。
武生くんの、私の右手を掴む大きな手に、力がこもった気がした。
「俺と結婚を前提に付き合ってくれ」
冗談きつい。