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Take 2 Satan

イライラしていた。あの日あの時ようやくこの旅が終わると思っていたのだ。それにも関わらず今もまだその存在は彼女の前に立ちはだかっていた。

「姫、厄介なことになったみたいです」

部屋の扉を空け、入ってきたのは線の細い男だった。彼女、アーシェラ・シルバニアの護衛として日本にやってきた青年でその名をシルア・ヴァゼリアという。シルアがアーシェラを姫と呼ぶのは愛称を込めているだけで他意はない。

そう、例え彼女がシルアや他の使徒の上に立つものであろうとも…そこに他意はないのだ。


アーシェラ・シルバニア…その名はこの『世界』に関わりのある人物ならば誰もが知る名前であった。『世界』というのはこの世を表す言葉ではなく、この限られた彼女たちの世界の事。神を信仰し、神の手足となって悪魔に鉄槌を下す「教会」と呼ばれる組織……アーシェラはその教会総帥。悪を最も嫌い、神を最も敬愛する聖乙女。


悪魔や吸血鬼と呼ばれる存在があった…それは迷信ではなく、彼女たちの生きる世界においては極当然に存在する…赦しがたいものだった。それを神に代わり始末していくのが、教会に所属する「使徒」と呼ばれる信者達の使命。

最近では態々ハンターだと名乗る者も少なくない。アーシェラにとってはそれすらも下賤極まりない事だった。


「どうかしたの…?」

問いかけるとシルアはその場にひざまずいて小さく頭を下げた。

「…カルネラが…契約者を見つけたようです…」

その言葉にアーシェラは返事を返さず顔を歪める。赦しがたい…神に仇なす存在が未だこの世に息づいていることが……

「契約者と思われる人物については、目星がつきましたが…」

「そう…」

ゆっくりと立ち上がったアーシェラは部屋に掲げられた天使のレリーフに手を合わせる。

「全ては神の御心のままに……Amen」

アーシェラのすべては敬愛する神の為に…それに仇なすものは何者であろうと排除する…それが彼女の誓いだった。



暗い世界…日は落ち黒い空が町を覆っていた。

「姫さん!」

ビルの屋上にてその姿を待っていたアーシェラとシルアは、声に振り返る。そこにいたのはシルアと同様に使徒であり、護衛の一人、ヴィグル・ルグラント。百八十をゆうに超える大男で、その姿はどこか威圧的だった。

「…参った参った……例の契約者をつけてたんだが、邪魔が入ってな」

ふざけた様子でそう口にするヴィグルに、アーシェラは静かに顔を向ける。言葉を聴かずともその意図する所が分かってか、ヴィグルはそのまま言葉を続けた。

「ヴァンパイアだ…しかもそこらの雑魚じゃねぇ……夜の姫君さんだ」

「…姫…君」

ヴィグルの漏らした言葉に、あからさまにアーシェラの顔がゆがむ。そこでハッとしたようにヴィグルが口を押さえた。

「すまん、このあだ名は厳禁だったな……フィルネスだ」

そう正確な名を口にする。それでもアーシェラの表情は戻ることなく、歪んだままだった。

「…フィルネス……ずっと姿を見せないと思ったら、こんな島国にいましたか……どうします?姫」

呆れたようにシルアは漏らす。そうしてアーシェラへと指示を仰いだ。シルアやヴィグルにとってはアーシェラの指示が全てなのだ。彼女が殺せと言えば殺し、彼女が生かせといえば生かす。

「…どうするもこうするもないわ……神に仇名すものは何者であろうと排除する…」

「んじゃ、フィルネスを追いますか…」

冷たく言い放ったアーシェラの言葉に、ヴィグルはそっとアーシェラを肩に担ぎ上げ、シルアと共にそのままビルの上を飛び降りるように後にした。その姿を追って……



人のいない夜道を全速力で走りぬける。かすかに覗くその背中だけを追い続けた。

「使徒」と呼ばれる信者達は信じられない身体能力を持つものが多い、それは決して生まれ持ったものではなく、教会によってそうされたものが殆どだった。しかしそれは悪魔や吸血鬼といった者達に対抗しうる唯一の手段でもある。

「使徒」になるという事は、その力を受け入れるということに他ならなかった。それでも限界はある…元々人間の体である器にそれ以上の力を押し込むわけにはいかない。

「ちっ、追いつけやしねぇ…」

だからこそ、今現在もその姿を見失わないように追いかけることしか出来ずにいた。

「…Amen」

アーシェラがその背中に向かって、手に宝石を持って掲げ小さく呟く。声と同時にアーシェラの手から宝石が弾丸のように放たれた。気がついたようにその背中は、目も向けずに弾丸と化した宝石を難なく避けきる。

「……変です」

そんな様子にシルアが呟くように声を漏らす。

「どうしたよ?」

「おかしいと思いませんか?どう考えても彼女の力は今の我々を超越している…それなのに差を引き離せないんです……いや、引き離そうとしてないんですよ…」

視線は真っ直ぐその背中に注いだままシルアがそう告げる。少しの間だけアーシェラが黙って考え込むが、すぐに目を向けた。

「…囮だとでも言うの?」

「…おそらくは……噂に聞く彼女がそんな性格とも思えませんが…」

噂に聞く彼女…フィルネスというヴァンパイアは残酷無慈悲、誰一人としてその心を許さないようなものだと聞く。だからこそその考えに至ったのが今更だった。

「…分かった、追うのは止めて」

アーシェラのその声に二人は同時に足を止める。そのまますぐに追っていたその背中は見えなくなってしまった。

「…姫、どうします?」

黙ったままのアーシェラに、シルアが問いかける。ヴィグルも黙ってその言葉を待つが、暫くアーシェラは言葉を発しようとしなかった。

「…当初の目的を優先させるわ……ただあのヴァンパイアが関わっているとなると、予定を見直す事が必要でしょうけど…」

「了解…じゃあ今日はおとなしく引き上げるか…」

仕方がないという風にヴィグルは息をついた。アーシェラは黙って空を見上げる。月の無い真っ暗な…嫌な夜だと思った。




あれからどれ程の時間がたっただろうか、菜月さんはずっと押し黙ったままで、俺達の間には目立った会話はなかった。体を動かしていないせいでいつもより長く感じる時間の流れを、俺は持て余す。

「……きたか」

誰に言うでもなく菜月さんが立ち上がった。店の入り口の方に目を向けるとそこには確かに人影のようなものが見える。ゆっくりとその扉が開かれ、俺は信じられない姿を目にした。

透き通るような銀色の癖のついた長い髪、雪のような白い肌…血のような深い真紅の瞳。その姿は…この世のものじゃなかった。

「…お待たせ、一応撒いておいたわ……私にかかれば造作もないし」

綺麗に微笑んで見せたその雰囲気は年場もいかぬ少女のようだった。

「悪いな…で、厄介な事なんだけどな……」

その女性の頭を撫でる様に笑った後、菜月さんの視線がこちらに向けられる。もちろんの事、話をしていた女性もこちらに目を向けた。目が合ってドキッとする。

「ふぅん…君が……」

ゆっくりと近づいてきた女性は品定めでもするように俺に視線を投げかけた。居心地が悪いのではなく、これはそう…きっと恐怖だった。小さく細い女性らしい体…けれどその目の前の女性が恐ろしくてたまらない。

「フィルネス…あんまり脅すなよ、可哀想だろ」

「あはっ、なんだか昔の夏樹見てるみたいで楽しくって」

呆れた様な菜月さんの声で、フィルネスと呼ばれた女性の雰囲気が一変する。年相応のふんわりとした雰囲気に変わった。

「自己紹介するわ、私はフィルネス……よろしくね坊や」

そう年も変わらなく見える女性に、坊やと呼ばれる違和感にさいなまれながらも、俺は頭を下げる。にっこりと微笑んだフィルネスさんはそのまま近くの椅子へと腰掛けた。

「ねぇ夏樹…どこから話すの?全部?」

「……そうだな、とりあえず教会のこと……その後に俺達の事を話した方がいいだろ」

フィルネスさんの近くの椅子に腰を下ろしながら菜月さんが呟く。理解したようにフィルネスさんが俺に向き直った。

「じゃあ…話してあげましょう…先に言っておくわ、信じる信じないは貴方の自由よ……信じなかったせいで命を落としても私は知らないから」

笑顔だった。まるでどうでもいいというかのような綺麗な笑顔…背筋が寒くなるのを感じずにはいられない。

「この世にはね…貴方が知らない事なんて沢山あるのよ……そう、ずっとずっと昔から…それは続いてきたんだもの…」

すっと目を伏せ、何かを思い出すように口を開いた。




昔…それは気が遠くなるほど昔の事…神を敬愛する一人の少女がいた。

その少女は神に祈りを捧げ、様々な奇跡を起こし、いつしか聖乙女と呼ばれるようになっていた。彼女は深く神を敬愛していた…それ故、神と対峙する存在を許せずにいた。

それは悪魔と呼ばれる存在達。創造の産物でもなく、迷信でもなく…それは確かに存在していた。悪魔は人を騙し、貶め、呪い、殺した。聖乙女は神に祈り続ける。『神の裁きをお与え下さい』と…『愚かなる者に鉄槌を』と…しかし聖乙女は気がついていた。

神は直接裁きを与える事は出来ぬだと…だからこそ…我々が神の使徒として悪を討たねばならぬのだと……

聖乙女は剣を手に取った。神に仇名すものは我々が討つのだと……同じ精神を持つ信者を集め…聖乙女は『教会』と呼ばれる組織を作り上げる。ただ悪を討つために…聖乙女はその全てを神に捧げたのだ。


教会と悪魔の間で行われた戦争は長く続いた。人々は祈りを捧げ聖乙女の勝利を願い、悪魔達の敗北を願った。

悪魔達の持つ圧倒的な力の前に、教会は幾度も破れる。窮地に陥った聖乙女は、ある時一つの魔術書を見つけた。その魔術書にはこの世のものではない魔術が記されていた。聖乙女は神に感謝する…これで悪を討つ事が出来るのだと…そうして聖乙女は魔術を使い、『使徒』と呼ばれる対悪魔戦闘員を作り始める。

それから戦いは一転した。

圧倒的だと思われていた悪魔達は撤退を余儀なくされ、教会から送り込まれていった使徒達はことごとく悪魔を蹴散らしていった。数年の後、戦は終わりを告げていた。結果は圧倒的な教会側の勝利。人々は喜び、聖乙女を崇め、神を崇拝した。

けれど…聖乙女は喜びを見せなかった。聖乙女は言う。

『悪はまだ滅びていない…その全てが潰えるまで……私はこの身を戦いに捧げよう』

聖乙女は言う…

『神に仇名すものは何者であろうと、排除する……それが私に与えられた使命だ』

聖乙女は言う……

『その全ての悪が途絶えるまで…私は剣を置くことはない』

聖乙女の戦いに…終わりがくる事はなかったのだ。この世の全ての悪を討つ…それは不可能だった。けれど聖乙女は神にそう使命を託された。それは……残酷な使命だった。


いつしか……人々は姿を現さなくなった悪魔を忘れ、教会の存在さえもその記憶から消していった。数少なくなった悪魔は教会の手を逃れ、思うままに各地へと散っていく。残った『使徒』達は、その姿を追い戦い続ける。


今も尚……その悪が生き続ける限り…剣を置くことは許されていない。




時計の音が響いた。聞かされた話は昔々のおとぎ話のような短いもの…

「…まぁ人間がそう長く生きるわけはないから、聖乙女っていうのは代々教会の総帥に与えられるあだ名だと思うけどね」

あっけらかんとそう言い放ったフィルネスさんは菜月さんが用意したカクテルを、ちびちびと口に含む。

「その…正直信じられませんけど、それが本当の話だったとします。もしそうなら…俺が出会った少女は本当に悪魔で、教会っていう組織に本気で狙われてるっていうんですか?」

「そうよ、ちなみ私達も狙われてるわ」

間髪いれずに返事が返ってきた。それは予想外の言葉も乗せて…

「菜月さん達…も?」

「…話してないのよね?」

そう、俺ではなくフィルネスさんは菜月さんに問いかけるように顔を向けた。それに無言で頷く。

「…そう、じゃあ教えてあげる。私はね、教会が悪とするものの一つ、ヴァンパイアよ」

背筋が寒くなった。頭の片隅では冗談や嘘だと思っている自分がいる。けれどそれとは別にそれを真に受けている自分もいた。

「貴方たちがどんなイメージを持ってるか知らないけど、きっと少しばかり違うでしょうね…私達だって進化しないわけじゃないもの……日の光も十字架もにんにくも、なんの効果もないわよ」

くすくすと笑う。頭の芯がひりひりした。悪い夢でもみてるんだと自分自身を言い聞かせたかった。

「夏樹もね…私と一緒。今から四十年ぐらい前かしら?……私の血を分けてヴァンパイアになったわ」

「四十…年?」

耳を疑うしかなかった。どう見ても二人ともそんな年齢には見えない…けれどフィルネスさんは、迷うことなくそう告げた。だからもう…それが本当なんだと信じるしかなくなる。

「私達の詳しい話はいいの、それよりも…今の問題は坊やよ」

そう話を切り替えられて息が詰まった。少女は言った…巻き込んでしまうと……それが何を示すのか…今の俺にはわからない。けれどそう言った少女の目が切実なもので、それが只事でない事だけは理解できた。

「坊やが出会ったって言う子、その子は多分本当に悪魔でしょうね…一時的ではあるけれど、坊やはその悪魔と契約したことになってる」

「契約?」

鸚鵡返しに聞くとフィルネスさんが小さくため息を漏らして、暫く考え込んだ。

「どうかしたのか?」

「んー…ちょっとね、その子普通の悪魔じゃないわ……本来の悪魔との契約は、もっと手順が必要だもの…私は悪魔達の契約なんてそう詳しくないけど……それに悪魔はもっと利己的よ…契約者には利益しか教えないわ」

菜月さんに問いかけられ、悩みながらもフィルネスさんはそう口にする。自分自身で言いながらも納得できない様に頭をかしげた。

「まぁ、悩んでても仕方ないし…行きましょうか」

「へ?」

急に立ち上がったフィルネスさんに、俺は目を丸くする。ジッと俺を見下ろしたまま小さくため息をついた。そしてそのまま店の入り口まですたすた歩いていってしまう。

「その子を探しに行くわよ坊や、自分の事ぐらい自分で出来るでしょ?」

その言葉は、俺の拒否権などないと最初から訴えていた。




ずるずると足を引きずる。胸が苦しい…足が重い……立ち止まってしまいそうだった。

「……っ」

空を見上げるが、月は見えない…新月の夜だった。一体いつまでこんな事を続ければいいのだろうか…一体どこまで行こうというのだろうか…気がついたときにはもう教会の追っ手から逃げていた。彼女にはそれ以前の記憶が曖昧でわからない。

ただ逃げなければならないという事だけはわかった。だからこそ逃げ続けている。安心して眠った事などここ数年なかった。彼女の手をとってくれる人間など……今まで出会ったことはなかったのだ。

「……はぁ」

足を止めた。思い出す…この手を初めてとってくれた人の事を……はじめて知った他人の手の温もりを……

初めてのはずなのに…それはどこか懐かしく、泣きそうになるほど悲しかった。今もそう、思いだすだけで胸が苦しくなる。眉を顰めてその場に蹲る。行きかう人々の姿はもうなく、そんな彼女を気に留める人はいない。

「……」

自分自身の手を見つめる。もうその温もりはとっくに消え去り、指先は冷たく凍えていた。それでも忘れられずにいる。その一瞬の優しさに縋ってしまったからこそ、彼女は契約をしてしまったのだろう。


彼女の名はカルネラ。教会に追われる前の記憶は曖昧で分からない。ただ自分自身で理解しているのは、己が悪魔だという事と、曖昧な過去だけ…。気が遠くなるほどの長い旅と、使徒との戦闘により疲労したカルネラは無意識に『契約者』を求めていた。

カルネラ自身、自分が普通の悪魔でない事は理解できていた。言うなれば不完全なモノだった。人を陵駕した身体能力や魔術を使うだけで、カルネラの体は恐ろしく衰弱する。自分自身の体が支えきれなくなるほどに…

カルネラにとっての契約者とは、その疲労や反動を契約者に受け流す事で軽減するものだった。しかし今のカルネラと契約者との契約は完全なものではなく、カルネラの衰弱はとどまってはいなかった。

「……っ」

衰弱をとめるには完全な契約が必要な事はカルネラ自身理解している。無理矢理にでも契約を完了させるべきだった。けれど…

「…だめ…そんなの……」

カルネラは自らそれを拒否した。契約者が背負うであろう苦しみを重々承知していたからこそ、手をとってくれたあの人物とだけは契約を完了させたくはなかった。不完全な契約はいつか自然に切れるから……




冷たい風がほほを撫でた。悪魔と名乗った少女を探す…言うは容易く行うは難し、まさにその言葉通りだった。この町がそう大きな都市出ないことは理解しているが、だからといってたった三人で探すには無理がありすぎる。

「坊や、その子の特徴は?覚えてない?」

その問いかけに俺は記憶をたどった。出会った少女は灰色の髪に紫の瞳…そして漆黒の服を身にまとっていた。けれど覚えているのはただそれだけ…手がかりとしては余りに頼りない。

「…灰色の髪に紫の目、黒の服です」

思い出したまま口にしてみるが、自分でため息をつきそうになった。けれどフィルネスさんは文句一つも言わずにあたりを見渡し、そのまま俺に目を向ける。

「いいわ、見つけてあげる…どうするかは貴方が決めなさい」

一言、それだけを言ってフィルネスさんは一瞬で目の前から姿を消した。それはまさに消えるという表現が当てはまるほどの早さ。そう…自分の目を疑うほかなかった。彼女はたった一蹴りで宙を舞い上がるようにビルの屋上へと飛躍したのだ。

「…っな」

「驚いてる暇はないぞ…俺達も探そう」

腰が抜けそうになる俺を奮い立たせるように、菜月さんが背中を叩く。その姿に驚いた様子は微塵も感じられなかった。信じられない状況に眩暈を覚える。

「一人先走るなよ…今はお前も狙われる可能性があるんだ」

そう言う菜月さんの後を追うように、俺はその場を駆け出す。今はただその後ろについていくしかなかった。


暫く走り続けるがそれらしき姿は一向に見つからない。見つからないだろうと落胆しかけていたところ、菜月さんが足を止めた。どうやら携帯がなっているらしく、ポケットから取り出した携帯で会話をはじめる。

「…フィルネスか?あぁ…まだだが……って、京右に?あ、あぁ…」

何を話しているのかは全く理解できなかったが、不意に菜月さんから携帯を手渡される。どうやら俺に出ろという事らしい。俺はそのまま受け取り、電話に出た。

『もしもし、坊や?』

耳に入ってきたのはフィルネスさんの声。俺は曖昧に返事を返す。

『見つけたわよ……どうも大変みたい』

「大変?」

もったいぶった言い方に俺は頭を悩ませる。

『教会の人間に襲われてるみたいね…どうするの?』

悠長な声だった。自分自身は関係のない事だとでも言うような冷たい声。

「どうするって…!そんなの――」

『助けに行くって事は、契約するって事?もし契約破棄するつもりなら、放っておきなさい…悪魔が死ねば契約は自動的に破棄されるから』

俺の言葉をさえぎるように続けられたフィルネスさんの言葉に、俺は押し黙った。彼女が死ねば契約は破棄される。それはきっと俺がこの物事と一切関わりをなくすという事……そうすれば俺には平穏が戻ってくるのだ。

『一度でも彼女を助ければ、坊やは教会に敵としてみなされるわよ』

突き刺さった。言葉が出なくなる。敵とみなされる…その言葉は俺も危険に巻き込まれるという事をしめしていた。いや、そんな生易しいものじゃなくて…俺も殺されると言ったのだろう。

『坊や……一時の感情は身を滅ぼすわ…ジッとしてなさい』

その声は一転して優しいものだった。フィルネスさんの言うとおり、このまま放っておくのが一番いい選択なのだと思う。だから俺は…そのまま返事を……

――助…けて

小さく頭の奥で声が響いた。それは俺が手をとった彼女の声……命を狙われているにも関わらず、俺の心配をしていた少女の言葉。

「…どこですか?」

分かりましたと言うはずだった口は、そう言葉にしていた。何も言わずにフィルネスさんは場所を教えてくれる。そのまま電話を菜月さんに渡し、掛けられた声にも振り向かず、俺は彼女のいるであろう場所へと駆け出した。



駆け出した京右を追うような真似を菜月はしなかった。渡された電話がまだつながっている事を確かめ、耳に当てる。

「フィルネス……お前冗談すぎるぞ」

『坊やさ、夏樹の昔にそっくりよね』

電話越しに聞き取れる声はどこか楽しげだった。フィルネスは須川菜月の事を夏樹と呼ぶ、それは彼の本当の名が夏樹というから…とうに捨てた名ではあったが、夏樹自身もフィルネスにだけはその名で呼ぶ事をよしとしていた。

「大丈夫なのか?」

『うん、平気よ……教会の人間も一人だし、契約者を得た彼女はきっと強いから』

その声はどこか確信めいていた。だから夏樹もそれ以上は問い詰めない。こういう場合のフィルネスの判断はいつでも正しいと確信していたから……



走り抜ける。人のいない町をただ目的に向かってがむしゃらに走った。どうしてと自問自答したくなった。利益などないのに…この先にあるのは自分に対する不利益だけだというのに……足は止まらなかった。

どうしてかは分からない。出会った少女があまりにも無垢な目をしていたからか…それとも手をとった時の少女の笑みが泣きそうな程に悲しそうだったからか…どちらにせよ自分には関係ないはずだった。

でも足は一向に止まらない。出来ないのだ…放っておけば殺されると分かっている少女を見捨てるなど……出来るわけがなかった。


「…っは、はぁ」

走り抜けた先に見つけたのは地面に蹲った少女と…一人の男。

その男と目が合って、俺は息を呑んだ。見た事がある。その青銀の髪も…緑の瞳も…見覚えがあった。

「…邪魔が、入ったな」

呟いた言葉に弾かれる様に俺は我に返って、少女に駆け寄る。目を見開く少女をよそにその手を引いて駆け出した。フラフラになりながらも少女は懸命に俺の後をついてくる。握った手は……信じられないぐらい小さかった。

「…っ、あ!」

足が縺れたのか、少女がその場に倒れこむ。急いで駆け寄って体を起こす。目が合った少女は不思議そうな顔をしていた。

「…て……どうして?」

そう聞かれた。その答えを俺は持っていない。だからそのまま黙り込んでしまう。けれどずっとこうしているわけにはいかないと、俺はもう一度彼女の手をとる。

「逃げられるわけないだろ…」

すぐそこに男がいた。目が合って体が凍りつく…そうして冷めた頭でフィルネスさんの話を思い出す。『使徒』は普通の人間ではないのだと……走ってなど逃げ切れるわけがないのだと…だから言ったのだ。フィルネスさんは……

『助けに行くって事は、契約するって事?』

反響するその言葉に俺は息を呑む。握った少女の手から微かな温もりが感じられた。

『一度でも彼女を助ければ、坊やは教会に敵としてみなされるわよ』

そう分かっていて、忠告されてここに来たのだ。だったらその答えはもう決まっている。俺は少女に目を移す。まだ不思議そうな表情をしている少女の手を強く握り締めた。

「……戦ってくれ」

「…え?」

独り言のような言葉に彼女は目を見開く。俺はその手だけを握り締めて少女から目を離し、男を見据える。

「助けに来たんだ…契約が必要なら構わない……戦ってくれ」

まるで男に宣言するかのように俺はそうハッキリと口にした。その言葉で男の顔が歪んだ。俺の事をハッキリと敵だと確信したかのように…

「でも……」

「このままだったら二人とも殺されるんだろ!」

少女の言葉を遮る様に声を荒げた。そうだ…目の前の男は俺の事をハッキリと敵だと認識した…俺を殺す対称だと決定したのだ。だからこそ、そうさせまいと男は俺達の方へと駆け出した。

「私の名はカルネラ……呼んで下さい!」

少女が俺の手を取って叫ぶ。

「カルネラ!俺はお前と…契約する!!」

秒速…数メートルはあった間合いがすぐそこまで詰められていた。俺はカルネラに言われるまま少女の名を叫ぶ、それと同時にカルネラが触れるだけの口付けをした。

「…Contract」

男は目の前。振り下ろされる拳が閃光の様に目を覆い、俺はそのまま硬く目を閉じる。

「……」

衝撃は来ない。ゆっくりと目を開けると、俺の前にはカルネラが立ち塞がり、その細い小さな片腕で明らかに強そうな男の拳を受け止めていた。

「…契約……完了しました」

「…ちっ、運がよかったな」

対峙する二人。カルネラに先ほどまでの弱弱しさは一切感じられず、真っ直ぐと男を見据えている。

「手は抜きません…三手で終わらせます」

そう…カルネラは男に宣言した。




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