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Take 1 A new moon

始まりはなんだったのか…今ではもう思い出すことすらできない。

それでもその長い廊下を歩む事を止めようとはしなかった。それは自身の意図ではなく…意識とは別に体だけが動いている感覚…

――殺せ

頭に響く言葉の意味が理解できずに、小さく脳髄が痛む。それでも足は止まらない。

一定のリズムを崩さない足音を響かせながら、その体は廊下の奥へと進んでいく。

――殺せ

それが自分ではない自分だと気がついたのはいつだったか…

多分気がついたときには遅かったのだ…もっと早く…もっと確かにその存在を感じ取っていれば…

――何も変わりはしない

そう…それに抗う術をもたないのだから、その存在を知っていた所でどうにも出来なかっただろう。

それでも思ってしまった…犯した罪を目にした時…

―キガツイテイレバト―

掌にこびり付く嫌な温かさと滑りを持った液体……赤く…紅く…アカク……それは網膜を侵していく…


この日、少女は……忘れられない夢を見た。




バシッと目が覚めた。珍しい事だと頭を捻りながらも、偶然とはいえ折角にも手に入れた気持ちのいい目覚めを手放す気などない。

「ぅ…うあ」

ぐぐっと腕を伸ばして伸びをしながら、意識とは違って寝起きの体を起こす。辺りを一度見渡してから一度だけ大きな欠伸をついた。暫くそうしていたが、ずっとそんな風に寝ぼけていては学校に遅れてしまうと、立ち上がる。


一人暮らしを始めたのは今年の春。過保護とも言える両親の反対を押し切り、高校二年に上がった今年ようやく許しを得た。

まぁ、こうして暮らし始めてみるとわかる苦労も耐えないわけだが…とりわけ苦手なのは、この朝食の用意…実を言うとちゃんとフライパンを持ったのさえ今年に入ってからという俺が、そう簡単に料理が出来るわけもなく……

「あぁ…仕方がない……今日もわびしく食パンだ」

自分以外誰もいないと言うのに、知らず言葉が口をついて出た。一人暮らしをすると独り言が多くなるというのは、あながち間違いではないのかもしれない…

朝食の為にだけ購入したトースターにパンを挟みながら、俺はテレビの電源を入れた。朝ということもあって定番と言って問題ないであろうニュースが流れている。これと言って興味があるわけではないが、それとなく情報収集にでもなるだろうと方耳を向けたまま、焼きあがった食パンを口に運ぶ。


嵯峨野京右…知らぬ人間が見れば何の暗号だと思いたくなるこれが、俺の名前だった。ちなみに嵯峨野でさがの、京右できょうすけと読む。もっとテストの時に書きやすい名前にしてくれと文句の一つや二つ言いたくなるが、今更なので口にはしない。

「ちょっと早いけど行くか…」

食パンの残りの一切れを口に放り込み、時計を横目で見てから立ち上がる。

家でボーっとしているよりは学校の机に突っ伏して眠っていた方がいいという、何とも変な考えが頭を掠めながらも、俺は家をいつもの様に後にした。


今となってはもう見慣れた町の風景。実家から通う時とは違うこの景色が実は気に入っていたりする。同じ町なのだから、なんの代わり映えもしないといってしまえばお仕舞いだが、まぁそれはそれ…ようは気分の問題だ。

学校までの道のりはゆっくり歩いても二十分弱。どこかへ寄り道しても全く問題はない時間ではあるのだが、まだ朝の九時も回っていない事もあり、開いている店なんてコンビニかパン屋…ファーストフード店ぐらいのものだ。

俺はそのまま真っ直ぐと学校へと向かう。同じ事の繰り返しで毎日が進んでいく。それを良しとするか悪しとするかは人それぞれだが、少なくとも今の俺はそれも悪くないと思っている。


だらだらと歩いていても、結局は学校へと無事にたどり着く。そのまま校門を潜り抜け、教室の自分の席へと腰を落ち着け、俺は机に突っ伏した。

今日も何事もない平和な日。欠伸が出るのはご愛嬌。おやすみなさい平穏な日々よ……

一人自己完結し、俺は授業中も睡眠を貪ることを決め込み眠りについた。



目が覚めると、時間はもう昼休みになっていた。教室を見渡すと、ちらほらと食堂へ向かっている生徒の姿が目に入る。そこで俺もやっと思い出したかのように、重い腰を上げた。

それにしても学校の食堂とはどうしてこうも混みあうものなのか…ざわざわと人混みにもまれながら、食料の調達を終える。もちろんのこと座る場所などない食堂を後にするのも、いつもの事だ。

「あ、嵯峨野!」

さっさと教室にでも戻ろうとした所を、知った声に呼び止められた。

振り返った先にいたのは、一人の男子生徒。茶色というよりは金髪に近い髪の色の癖毛、見間違えることは少ないだろうと思われる友人、東上修斗だった。

「よう、何してんだ?」

同じクラスだというのに見かけなかったから、サボりかと思ったのだが、よく考えてみれば今の今まで寝ていたのだから気がつかなくても無理はない。

「昼食べてたに決まってるだろ、学校来たらお前寝てるしさ?」

「あー悪ぃ、今日は目が覚めるの早くてな…眠かったんだよ」

ため息混じりにいわれた言葉に、俺は適当に返す。修斗とはこの学校に入学して以来の友人で、まぁそれなりに仲良くはやっているはずだ。とは言っても、別に学校の外でまで遊ぶような仲ではないが……

「じゃあまだ知らないだろうね」

「ん?何かあったのか?」

もったいぶったようなその態度に首をかしげると、修斗は黙ったまま辺りを見渡し、その目をある場所で留めた。つられるようにして俺もその方向に目を向ける。

「……」

図らずとも一瞬その目を疑った。目を向けたその先にいたのは、否が応でも目立つ男の姿。同じ学生服を着ているということで、学生なのはわかったが、あんな目立つ奴がいれば今まで耳に入ってこないはずがない。

「フェルデナント・ルーシェ…海を渡った向こうから来た留学生だってさ…」

いつの間にか目を別の方向へと向けていた修斗が呟く様に言う。見るからに染めたものとは違う青銀の髪に、緑の瞳。留学生だというのだから、それは不思議な姿ではないのだが……見慣れないせいか、嫌に違和感が残った。

「あーぁ、嫌だよねぇ…ああいうタイプ」

その言葉に俺は何も言わない。修斗が性格上、無駄に目立つ人間が嫌いなのはもう今更のことだし、それをどうこう咎めるつもりもないからだ。

「まぁ、僕達には一生関わらないだろうし…どうでもいいんだけどさぁ」

どうでもいい割には嫌に突っかかるな、などとは思っても口にしない。修斗はそういう性格なのだ。その上嫌に根に持つタイプなので、こういう時には何も言わないのが一番の得策。

その後に俺達に目立った会話はなく、そのまま予鈴がなった。



今日の最後の授業の終わりを告げる鐘に、俺は伸びをする。今日も特に変わったことなく平和に一日が終わったわけだ。

そんな事を思いながら帰り支度をしていると、見知った顔に声をかけられる。

「嵯峨野くん、ちょっといいかな?」

控えめに問いかけてきた彼女は、折原百々撫。このクラスの委員長でもあり、かなりの優等生で通っている。そんな折原が俺に用があるといえば、教員からの伝言か何かと相場が決まっていた。

「何か用か?」

「うん、これ…先生からなんだけど……」

そう言って手渡されたのは一枚のプリント、内容も見ずに俺はそれを鞄の中へと押し込んだ。一応その様子を見届け、折原は俺の席に背を向ける。帰り支度も整い、俺はそのまま教室を後にした。



学校が終わった後、俺はそのままの足でバイト先へと向かう。一人暮らしをするようになってからというもの、親からの仕送りはあるものの、それだけでは少しばかり足りない事に気がついた。これ以上親に求めることだけは避けたかった俺は、どうにかこうにかバイトを始めたわけだ。

「おはようございます」

裏口から店に入り、俺は見知った顔に挨拶をする。

「おはよう」

返事を返してくれたのは、この店に俺より前から勤めている須川菜月さん。名前だけを聞くとどうしても女の人を想像してしまうのだが、れっきとした男の人。実際に聞いてはないが年齢も多分二十代後半だと思う。ちょっと長めの黒い髪を後ろで一つに束ねていて、昔に事故で見えなくなったという左目は、今も傷が残っていた。俺はさっさと従業員の制服に着替え、開店準備をしている菜月さんを手伝いはじめる。

店は「Deity」という名のどこにでもあるような、バー…とは言っても若者が好むような少しはしゃれた店だ。そう大きくはない店なので、従業員は三人もいれば大丈夫だろうという程度。

「今日も店長は留守ですか?」

その問いかけに、菜月さんは困ったように頷いた。「今日も」というのはそれが毎日の様に続くから…この店は店長が趣味で持っているようなもので、経営はほとんど菜月さん任せらしい。店長は別にデザイナーという仕事を持っているため、店に顔を出すのはまれだった。

「さて、準備はこれぐらいでいいだろ」

その言葉を皮切りに、今日も店が開店される。


客の流れは少しずつだが、それなりにあった。見知った顔馴染みの客から、始めてくるであろう客まで、その姿はさまざまだが、ゆっくりと時間が流れていく。落ち着いた店の雰囲気が俺はそれなりに気に入っており、仕事も一つも苦ではなかった。

「いらっしゃいませ」

カランと店の扉が開かれ、反射的に声を返した俺はその客の姿を見て一瞬止まってしまう。男二人に女一人…それ自体は大して珍しくもない組み合わせだが、思わず息を呑んでしまった。

一人目の男はかなりの長身でがたいもよく、身長はおそらく百八十は軽く超えている。二人目の男は身長こそ高くはないが、線の細い落ち着いた雰囲気。最後の女は、長い髪をふわふわと揺らし身長も低く外見だけを見れば幼いというのに、それを感じさせない凛々しさがあった。何よりもその三人は、髪が綺麗な銀や金…それと同じように透き通るような青い目をしていた。

「…席に案内してもらえますか?出来れば…あまり邪魔されないところがいい」

そう顔に見合った綺麗な声で丁寧な日本語を発したのは、銀の髪をした二人目の男。長い髪の毛は後ろで三つ編みにされている。

俺はその声に急かされるように、三人を一番端の席へと案内した。

「ご注文は…」

とりあえずできる限りの平静を装いながら、俺はいつも通りそう口にする。

「うーん…お二人ともどうします?」

「俺は何でもいい、お前が決めろ」

メニューさえ手に取らずに、濃茶の髪の一人目の男が口にする。その言葉に呆れながらも、二人目の男は金髪の女に目を向けた。

「私もシルアに任せるわ…ただアルコールは止めて」

それだけ口にして、女は黙ってしまった。その反応を聞き届け、二人目の男…シルアは俺に目を向けてくる。目の前で異国の人間が流暢な日本語で会話をしている事だけでも目が回りそうだというのに、急にその一人と目が合って、俺は目を丸くしてしまう。

「じゃあ、僕はベリーニを…そこの男にはソノラを、そこの女性にはアルコールじゃないものを頂けますか?」

「かしこまりました、少々お待ちください」

にっこりと微笑んだシルアに、俺は頭を下げて戻っていく。その注文内容を菜月さんに伝えると、すぐに菜月さんがグラスを用意する。それを手伝いながら、俺は三人の方へと目を向けた。

「…珍しいか?」

「え、あ…はい」

それに気がついていたのか、目を向けずに菜月さんが声をかけてくる。少しばかり気が引けたものの、俺は素直に頷いた。

「そうか、まぁ…変な偏見は捨てるに越したことはないぞ」

少しだけ笑みを零しながらそう言った菜月さんの意図がよくわからず、俺は少しだけ首をかしげる。そうこうしているうちに準備をし終えたのか、菜月さんが三つのグラスを渡してきた。そのグラスを持って、俺は再びそのテーブルへと足を向ける。

「お待たせしました」

そういい、俺は男二人にカクテルグラスを、女にジュースの入ったグラスを差し出した。軽く頭を下げて立ち去ろうとした俺を、思わぬ声が止める。振り向くと女がジッと俺に視線を向けていた。

「これは…何?」

そう言った女に他意は見受けられない。ただ純粋に差し出された飲み物が何なのかを聞いているのだろう。

「え…っと、ただのアップルジュースです…」

だからそう答えるほかになかった。ただのとは言ったものの、この店だけの工夫はしている。ただそれを説明しろという事ではないだろうと、俺はそう答えた。

「…アップル……そう、ありがとう」

そう言って女は飲み物を飲み始める。それを見届け、こんどこそ俺はテーブルを後にした。


その姿も他の客と同様に暫くして店を後にし、それからは至って変わった様子もなく、店は閉店の時間を迎えた。趣味で運営している店ということもあり、営業時間は夕方五時から十二時の五時間だけだった。

だからこそ、ここをバイト先に選んだというのもあるのだが…

「お疲れ様、先に上がっていいぞ」

片づけを続けながら、そう言った菜月さんの言葉に俺は頭を下げて帰り支度を始めた。もう日付は変わり辺りは真っ暗。慣れた事とはいえ、早く家に帰って眠りたいと思うのも本音なわけで…

「お疲れ様でした、また明日」

「あぁ、お疲れ様」

店を後にして、外に出ると冷たい空気が顔をかすめる。時季はもう十一月半ば、そろそろコートが恋しくなってくる季節ではある。これからどんどんバイト帰りが辛くなると思うと億劫ではあるが、仕方がないかと俺は帰路を急いだ。




「はぁ、はぁ…はぁ、はぁ、はぁ…」

吐く息は徐々に苦しいものへと変わっていく。けれどその足を止めるわけにはいかなかった。足を止めれば彼女を待っているのは確実な『死』だけだったのだから…いや、もしかするとその逆なのかもしれない。

死を与えられる側になるか、死を与える側になるか……そのどちらも彼女は認めたくはなかった。だから今もこうして足を止めることなく走り続けている。

ずっと逃げてきた…街を渉り、山を越え、海をも渡った。そうして何も知らぬ土地へ来て……それでもまだ逃げ続けていた。

終わりなどないのかもしれない…安息などありはしない、平穏など迎えることはできない。それでも逃げ続ける。何を求めているのか、それはもう彼女自身が見失ってしまった答えだった。

「…っは、はぁ…」

息が詰まる。汗が頬を伝った。すぐ背後に感じた気配は、ずっと執着に自分を追ってきたものだった。

「やっと止まったな…」

一人の男がそう高らかに笑った。嘲笑っているのだろうか…逃げ続ける彼女をやっと追い詰めて嬉しくなったのだろうか…

「これ以上無駄な旅は続けたくないですからね」

もう一人の男が呟いた。『無駄』だというその言葉が胸に突き刺さる。彼女一人の命などどうでもいいかのように…

「諦めて…神の御心に従いなさい」

小さな影が彼女を冷たく見つめた。生まれてくるべきではなかったモノを見るような冷たい瞳で……

そうして彼女は思う、神様など迷信極まりないと…そんなものはイナイノダト……

「…Saving to the Satan!」

だから願った、神ではない何かに…聞き届けられないであろうその願いを声にした。助けてくれと…その手をとって欲しいと…

救いを求めた。

「Amen」

小さな影が手を上げ、彼女の目の前が真っ暗になる。


――何かが切れる音がした




目が覚めた。昨日と同じように気持ちのいい目覚めが出来るとは思っても見なかったためか、暫くボーっとしてしまう。窓の外を見ると、気持ちのいい青空が広がっている。

「……朝か」

呟くようにそう言った後、やっとの思いで俺はベッドから抜け出した。昨日と同じ繰り返しで朝食のパンを食べながらニュースに目をやり、身支度を整える。そうしてまた家を後にした。

そうしてその日も昨日と変わらず、少しばかりの偶然と出会いながら一日を迎えるのだと思っていた。

その姿を見つけるまで……


いつもの通学路、行きかう人々の間をすり抜けながら学校へと向かう。二十分足らずで終わってしまう通学時間、けれど俺は目の端に入ったソレに気をとられてしまった。それはどこにでもあるような小さな公園のゴミ捨て場。いつもならば気にも留めないその場所が何故だか妙に気にかかった。

俺は何かに引き寄せられるようにして通学路から抜け、そちらに足を向ける。よりにもよって朝からそんな場所に行きたくはないと思うものの、どうしてか足は止まらなかった。

「……」

ゴミ捨て場の前まで来て足を止める。腐臭を防ぐために、いつもは扉が堅く閉じられ鍵がかけられているはずなのだが、今日は鍵がはずされていた。いや、外されたのではなく壊されたのだ…足元に壊れた錠をみつけ、俺はそう頭の中で切り替えた。

ゆっくりとその扉に手をかける。音もなく開いたその奥からはゴミが発するような異臭はしなかった。けれどその代わりに……きつい血の臭いが鼻をつく。

「……っ」

息を呑んだ。足が動かなくなった。目の前に…自分の足元に…あったのは血塗れの人だった。頭の中の思考が止まる。この場から逃げ出したい衝動、動揺、恐怖、頭の片隅にそんな感情が生まれては、混ざり合って止まっていく。

そうしてやっと逃げ出そうとした足を……その血塗れの人につかまれた。

「――!?」

バランスを崩すようにその場に尻餅をつき、引きつった顔でその人間に目を向ける。目が会ったのは、幼い少女だった。

グレイに近い長い髪、それとは対照的なほどに白い肌、無垢な少女のような顔立ち……そして紫色の瞳。

「…あ、ぁ」

まるで生まれたての子供のように、言葉にならない声を漏らした。死をイメージさせる出血量…弱々しさ、その体には血がこびり付いている。

恐ろしさからか…無垢な少女への同情か……それとも…その救いを求める瞳のせいか……俺は動けないでいた。

「……助、けて…」

泣きそうな声だった。あまりにも辛そうな声だった。伸ばされた手…俺は自分の意思とは反してその手をとる。

その瞬間、彼女は目を見開いて驚く…まるで今まで誰もそうしてくれなかったかのように、初めて手を握ってもらったかのように、そうしてゆっくり…痛々しい体を起こして俺に近づいた。

「……Contract」

消え入りそうな声で呟き、彼女は俺に触れるような口付けをした。ゆっくりと顔を離し、彼女は小さく笑う。

間近で見た彼女のその顔は…驚くほど綺麗だった。

「…ぁ」

声が出ない。会ったばかりの少女、しかも見るからに命に危険がありそうな少女にキスをされるとは思っても見なかった。警察なり病院なりに連絡しなければならないと思うはずなのに、体は一向に動こうとはしない。

「…ありがとう」

そう口にした彼女の声は先ほどに比べて、かなりはっきりとしていた。そういえば、先ほどに比べ顔も青白さがなくなっている。

「……あ、病院に」

やっとの思いで体を動かせるようになった俺は、ズボンのポケットに入れていた携帯に手をかけようとする。が、それは目の前の少女によって止められた。

「必要ないから…大丈夫」

そう小さく声にする。どこをどう見れば必要ないというのだろうか、今まで血だらけだった人間がどうして……

そこまで考えて思考が停止した。ずっと彼女自身から流れていたと思っていた血は、彼女の体から流れているものではなかった。その体には一つとして傷はなく、その血もすでに乾いている。

「……どういう」

まさか目の前の少女は人殺しだとでもいうのだろうか……そう思っては見るものの、目の前の少女を見て、その考えはすぐに打ち消される。その真っ直ぐな目は純粋そのものだった。

「……謝らなきゃ、私…このままだと貴方を巻き込んでしまう」

自分に言い聞かせるようにそう言葉にした彼女。俺はその意図するところが分からず首を傾げてしまう。

「…信じてもらえない……それは分かってる。でも言わないと…」

ぎゅっと胸の前で手を握り締めて彼女は前を向く。俺と目が合い一度だけ目を閉じた後、真剣なまなざしを向けた。

「…私は、ある人達に追われています……命を狙われてるんです…。信じてもらえないのは分かってます…でも、正直に…私が分かることだけを話します」

命を狙われているという言葉に、俺は息を呑む。何でもない少女に言われれば冗談だと思ったに違いない言葉は、彼女の体にこびり付いた血が信じさせた。

「私は…人ではないんです」

目を見開いた。目の前にいる…自分と同じ姿をしたモノが人ではないと…そう彼女は口にしたのだ。

「…悪魔というものをご存知ですか?…私の中にはその悪魔と呼ばれるものがいます」

「……悪魔って、そんなの迷信だろ?」

そう口にするしかなかった。そんなものはありはしないと…昔の人間が作り出した創造の産物だと…教徒でもなんでもない人間ならばそう思っているはずだ。

「そう…思うのが普通です。でも違う…悪魔はいる……貴方達が目にしないのは、それを狩る側の人間がいるから…私は、その人達に追われているんです」

その目は嘘を述べているようなものではなかった。それでも信じられるわけがない。

「……信じなくても構いません…ただ一つだけ、お願いがあります」

「願い…?」

ジッと押し黙った彼女に目を向けたまま、俺はその言葉を待った。

「…今日一日は、外に出ないでください……あの人達に見つかれば、あなたも危険な目にあうことになる」

胸の前で硬く手を握り彼女は真剣にそう口にする。今日一日外に出るなといわれても、そういうわけには行かない…学校はもう今更間に合わないだろうし、休んでもいいだろうが、バイトを休んでしまっては生活費にかかわる。

そんな嘘か本当かもわからない言葉に従うわけにはいかなかった。

「……分かった」

けれど、目の前の少女がそれで引き下がらないだろうと、俺は口だけでそう約束する。ほっとしたような笑みを漏らし、彼女は立ち上がった。

「……ありがとう、本当に…」

静かにそう微笑んだ彼女はどこか寂しげにそう口にして、俺の横を通り抜けていく。彼女の気配が完全になくなった後も、俺は暫くその場から動けずじっと座り込んでいた。



結局学校はサボったものの、俺は夕方には家を後にし「Deity」に向かった。いつも通り何事もなくたどり着き、彼女の言葉は冗談だったのかと俺は小さくため息をつく。

「どうかしたのか?」

そう声をかけられ、俺はパッと顔を上げる。そこには不思議そうな表情を浮かべた菜月さんがいた。

「いや、何でもないです…なんか今日変なことあったもんで…」

「変なこと?」

さらっと流そうと思った言葉に、間髪要れず菜月さんが問い返してくる。それで俺は思わず頭を掻くようにして目をそらす。別にその事をいうのが憚られるわけではなく、少しでも心配した自分自身を悟られるのが嫌だった。

「…あー…実はですね……」

それでもこのまま誤魔化しているといつかボロが出るだろうと、俺は今朝の事を掻い摘んで話し始めた。


話を聞き終えた後、菜月さんは黙って考え込み始めた。まさか話を真に受けたのではなかろうかと、俺は苦笑いを零す。

「……その話、嘘じゃないんだな?」

問いかけられた言葉は予想もしなかったほど、深刻めいた声だった。俺は思わず目を丸くして顔を向けるが、菜月さんは相変わらず真剣な顔をしている。

「…嘘では、ないですけど……どうかしたんですか?」

その様子があまりにも普通ではなかったからだろうか、俺はそれを打ち消すように笑いながらそう返事をする。すると菜月さんは何を思ったか、開店準備をしていたにも関わらず、白い紙にclosedと書き殴り、その紙を店の扉に貼り付けた。

「あの…菜月さん?」

その突然の行動にしどろもどろになっている俺に、真剣な目が向けられる。

「…今日は店は開かない、明日は学校も休みだったな……明日の朝、自宅に帰らせるほうが無難だろうな」

何を言っているのか分からない。あんな話を信じたというのだろうか…あんな冗談だとしか思えない話を…

「あの…菜月さん?」

だからこそ、俺はその事を問いかけようとする。けれどその前に……来客がやってきた。

「……」

ドンドンと激しく扉がたたかれる。店の定休日は日曜日だけだ…だからこそ開いていると思って来た常連客か何かが扉を叩いているのだろう。鳴り止むことのない音に、菜月さんに目を向けるがジッと扉を見つめたまま開けにいこうとはしない。だから、俺がその方向へと足を向けようとした。

「止めろ」

小さく、静かにとめられる。それは聞いたこともない様な冷たい声だった。睨み付ける様に扉に目を向けたまま、菜月さんは動こうとはしない。その間も音は鳴り止まない。

「でも…」

「……感づいたか…つけてきたのか…どちらにせよこのままここにはいれないか…」

俺に対する言葉ではなかった。独り言のように呟いたその声に、俺は言葉を失う。何がどうしたというのか、激しく扉を叩き続ける客に何かあるというのか……俺には分からなかった。

「…囮が必要だな」

ソレだけを口にして菜月さんは自分の携帯に手をかけ、どこかへと電話をかけ始める。

「…俺だ、悪いが困ったことになった……あぁそう、大丈夫か?……そうだな、任せる。撒けたら店に…そうだ、あぁ…頼んだ」

相手の声は聞こえないため、何を話しているのかは分からない。それでもそれが平穏な事でないのぐらいは理解できた。

「……あの」

「…すぐにいなくなる」

そう言った声とほぼ同時だっただろうか、扉を叩く音は止み、そこにいたであろう人の気配も去っていく。菜月さんに目を向けると、ジッと視線を返された。

「……京右、お前…入っちゃいけない世界に入り込んだみたいだな…」

俺がその言葉の意味が理解できたのは…もう少し後のこと。


その日は、月が見える事のない新月の夜だった。





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