こいこく! 第四話 「こいこく!」
作品名:こいこく! 第四話 「こいこく!」
作者名:戦国熱気バサラ
※読み方によっては一部文字化けをする部分があります。ご了承ください。
挿絵有 絵を見たい方は横書き表示でご覧ください。
昨夜、結局うちは實原とデートの約束を取り付けられなかつた。詰んでた宿題終つて氣が拔けてたとか、お酒で我を忘れてたとか、さういふのは全部言ひ訣。うちが弱蟲なのがいけないんだ。
(そして、泣き寢入り。全く、慰むる方の身にもなつて欲しい)
本當御免、メアベル。これからは、魂の世話をきちんとするよ。その爲にも、今日で決著をつける。折角實原の方から誘つてくれたんだ、こんな千載一遇の機會、逃す手なんかないもんね。
――そんなこんなで、落ち合ひ處の諏訪神社が近くなつてきた。緑の多い町の中で、あそこの鎭守の森の楢の樹は特に背が髙くて、割と遠くからでもそれと判る。こんな風にすぐに見附けて貰へる點では、うちの巨軀も一槪に惡いとは言へないんだけどさ……。
(いゝ加減、文句は聞き厭きた。他者と較べず、八千代は八千代の良い所をアツピルする、然う言ふことで結論した筈)
と、言はれても、やつぱりさう〳〵納得なんて出來ないよ。
(しかし、時閒は不斷に流れて行く。もう著いて仕舞ふのだから、無駄な惱みを巡らすよりかは、覺悟を極むる樣に努むる可き)
――げ、鳥居見えちやつてる。どうしよう、まだ心の準備が!
取り敢へず足を停めて、近くの茂みに身を隱す。お風呂入つたり著る服に迷つたりしてた所爲で、時閒はぎり〴〵。眞面目な實原のことだから、絶對先に來て待つてるよね……。
恐る〳〵葉つぱの閒から覗くと、矢つ張りゐる。でも、それはうちの考へてゐた景色とは違つてゝ、實原の近くには、二人の女の人の姿があつた。吃驚して、思はず肌がぴりつとしちやふ。
(八坂刀賣神樣と理生゠テスラ樣、何方も旣に配偶者が居られる)
さ、さうだけど……。諏訪呼さんは綺麗で優しさうだし、テスラさんには底知れないミステリアスさがあるし、そんな二人と實原が一緒だなんて不安にもなるよ。うち、ガサツで不噐用だからさ。
(無い物強請りも其處まで。待ち合はせに遲れたら、只(たゞ)でさへのその心証も餘計に惡くなる。然うなる前に速やかに出て行く可き)
澁〻(しぶしぶ)メアの意見を受け容れたうちは、劇部の顏面體操を一通(ゝほ)り。そしてそろり〳〵と立ち上がると、自然を裝つて轉がり込んだ。
「ごめ~ん實原、待つた~??」
――あれ、自然つて何だつけ。でも、實原は氣にならなかつたみたいで、よおと右手を上げるだけだつた。
「待つたつちやア、二十分くらゐはな。だが、氣にするこたあねエぜ。寧ろ、少しばかり遲刻してくれた方が都合が――」
「こゝは、『俺も今來た所だ』つて言ふべき場面ぢやないかしら?」
「いエ姐さん、さういふ氣遣ひこそ、不誠實になるんぢやねエかつて思ふんですわ。そんな嘘を吐かれても、反應に困るだけつふか」
うん、實原だ。まあその通りだと、うちも思ふよ。でもさ……
「それより實原確か、今日は二人で出掛けようつて言つたよね? だのに何でテスラさんが一緒にゐるの、此處の神樣の諏訪呼さんはいゝとして。ひよつとしてそつちの方が噓になるんぢやないかな」
そこはかとなく不滿を表明すると、テスラさんがくす〳〵笑ひだす。そして霞みたいに姿を消したと思つたら、次の瞬閒、うちの右腕を抱き締めて、脇腹を人差し指の先でぐり〳〵してゐた。
「警戒させちやつたみたいね。安心して、今日の私は單なる交通手段、目的地に送り屆(とゞ)け次第任務に戾るわ」さう言ふと今度は左に。「後、私は『彼』と女の子にしか興味ないから、そつちも問題ないわよ」
ん? それだと、流れ的に本當にヤバいのは――
「さ、白河くん。八千代ちやんの身體に觸れて頂戴」
危機感を募らせるより早く、指示を受けた實原が、歩み寄つて右手を差し出して來る。どき、と心臓が跳ねるんだけど、それからのどぎまぎの閒に、どうして握手をするのかつて方に考へが向く。
(多分、例の〈空閒轉移〉。その效果を他者に及ばす爲の條件だと)
あー、さういや特訓の時にも、そんなこと言つてたつけ。
「どオかしたのか八千代、いきなり固まつちまつてからに」
「うん……」心配してくれる實原の手を、うちはまだ握れない。「ねえテスラさん、それつて安全なの? ミスつて死んだりしない?」
「失敗はないわ。但し、死ぬかと言はれゝば、確實に死ぬわね」
「えゝ!?」うちは思はずテスラさんを突き離す。二囘りくらゐ小さいその躰は、驚く程簡単に傾いて、地面にぶつかる――前に消えた。
「別に、さう怖がることはないわよ」振り返ると、變はらない、見透かす樣な微笑(ほゝゑ)みがそこに。
「私のテレポートは、物質を靈に還元、目的地まで運んだ後で再構築するつて仕組みなの。その閒平均コンマ〇一秒、痛みを感じる暇も無いわ。でも、肉體だけを見た場合、今この場面だけで、私は三囘も死んでる訣。ね、平氣でせう」
「そんな、神樣でもないのに人の命をどうかう出來ちやふなんて!」
「いえ、理生は歷とした神よ。それも、私よりも髙位に當たる」どこか不滿げに語る諏訪呼さん。噓をなんて吐く訣ない、よね……。
「人として生きてる時點で、八千代ちやん逹だつて、竝の自然神よりは格上なの。小さく脆い生命、力ある神がそこに身を落とすからこそ、尊いのよ。そしてこの力は、それを輕んずるものぢやないわ」
「さういふこつたぜ。俺も何度か世話になつてるから、安心しな」實原のお墨附きなら――うちは覺悟を極めて、大きな手を取つた。
「樂しんで來なさい。實原、八千代」
「ぢや諏訪呼、すぐに戾るわ。具體的には三〇秒位で。惠たん逹も準備終つてる頃だと思ふもの、ついでに聯れて來るわね」そんな臺詞が聞こえたと思つたら、實原のシルエツトの後ろには幻想染みた風景が廣がつてゝ、テスラさんの影は何處にもなかつた。
「……ねえ實原、どこ、こゝ?」呆然と景色を眺めながら訊ねる。
「地下都市《月寄御》――姐さんの生まれ故郷で、トム逹が今暮らしてる處だ。俺も來るのは今囘が初めてだが、ムー=レムリア帝國の末裔・日本地下コロニー群の話は愽物舘でもしたよな?」
色〻あつて記憶は大分薄れてるけど、話半分に聞いてたのは慥かだと思ふ。それだけ先史文明の街竝みは新鮮で衝撃的だつた。
片方には山があつて、反對側には海が見える。その閒、幾つもの人工太陽に照らされて、色とり〴〵に煌めく寶石の家。矢鱈と木が生えてるのは東京と似てるけど、そのどれも、見たことない葉の色や形だつたり不思議な花や奇妙な實を附けてたり。最後に振り返ると、天蓋まで續く結晶の塔が、これでもかと聳えてゐた。
「うわ……人類つて、こゝまで行くんだ……」
「それも、一万二千年も前にな。だからこそ、ムー本國は滅んだらしいが」實原は、いつもよりも複雜な表情で、また周りを見渡す。
「うーん、過ぎた力が云々つてヤツ? よくあるよね」適當に相槌を打つて、樣子を窺ふ。何だか、同じ二人きりの狀況でも、昨日までとは雰圍氣が少し違ふかも。ちやんとしたデートだからかな。
「……で、さ、實原。どうして今日は、うちと二人でこゝに來ようつて氣になつたの?」思ひ切つて、直截に訊いてみる。
「ん、あゝ、それはだな……ほら、宿題終はつた手前へのボーナスだ。折角一日空いたんだ、水城の件の禮がてら、一つ息拔きをよ」
ヌくどころか、亂れない樣に細心の注意しなきやな位だけどね!
「ぢやあ、水城ちやん聯れて來なかつたのは、何でなの?」實原が出掛けるつて言つたら、先づあの子は一緒に行きたがると思ふのに。
「親父とお袋と、華屋敷だとよ。二人共餘程娘が欲しかつたらしい、年甲斐もなく燥いで、俺なんか眼中にねエでやんの。兎に角水城と遊びに行きたい風だつたから、それを尊重したまでのこつた」
「さう、なんだ……」心で溜息を吐く。運が良かつたゞけ、かあ。
「と、ざつと見て、氣になる場所とかはあつたか? 一應、姐サンから幾つか見所は聞いてあるんだが、如何せん役に立たなさうでよ」
神社で話してたのは、それだつたんだ。「へえ、例へばどんな?」
「……惡イが、こればかりは拒否權を發動させて貰ふぜ」
「え、何それ?! 滅茶苦茶氣になつちやふんだけど!」
「いや、絶對言はねエ。――それよりだ、特に思ひ附かねえなら、このまゝ當てずつぽうに歩くぜ。いゝのかそんなんで、本當に」
話題逸らして、實原たらそこまでして隱したいの。この先長いのに空氣惡くしてもアレだし、どうやら今は黙つてた方が良ささう。
「いゝよ〳〵。こんな尖つた所で退屈なんて、考へられないから」
「違ひねエや。そんぢヤ、氣儘なユートピア觀光と洒落込むか」
進路を定めた實原の背中が、一歩〳〵遠ざかつてく。二人で歩ける、それだけでも大收穫……な筈なんだけど。それでもうちは、妙な心寂しさに驅られる。と同時に、さつき握つた手の感觸も蘇つた。
「――あのさ、實原」思はず呼び止めちやふ。鋭い鼻の目立つ橫顏、無言の裡に續きを促す隻眼に、たじろがずにはゐられない。どうしよう、もう逃げられないよね……でも、言つていゝのかな、これ。いゝよね?
「こんな所ではぐれたら大變だし、手、繋がない?」
實原は一度息を呑むと、少しの閒黙つてた。そして「まア、一理あるか」つて、リレーのバトン貰ふみたいなポーズを取る。
まさかこんなに簡單にOK貰へるとは思つてなくて、逆にうちのが隨分か戸惑つちやふことだよ。一體、どういふ風の吹き囘しなんだらう。
(實原とて發逹途上、經驗に應じ意識が變容するも當然のこと)
えつと詰り、今、流れはうちの方を向いてるつて思つていゝの?
「……おい、どオした」怪訝な聲の實原。ぐず〴〵してちや始まらないつて分かつてはゐる、んだけどさ。――えい、この際自棄だ!
驅け寄つたうちは、その圓太みたいな腕つ節を捉まへた。
「な……」驚いて筋肉を強張らせるのが分かる。ついでに、振り拂はうとする氣持がないのも。斜に見上げてみたら、實原の顏はまさかの眞赤。初めて見る表情にどき〴〵して、うちの頭にも血が上る。
一寸して、沈黙に耐へかねて言ふ。「ひよつとして、怒つてる?」
「いンや、よもやさう來るとは考へてなかつたからよ。あヽ、慥かにそこも廣義の『手』だし、『繋いで』もゐるつて寸法だぜ」
「日本語の妙だよね。つて、やつぱり良からず思つてるんぢやん」
「……さうだな。罰として、手前、今日はずつとこれで通しやがれ」
「バツ、罰なら仕方ない、よね、うん。氣合入れて贖罪し(つなが)ないと」
うちが腕を絡め直せば、實原はほんのりぎこちなく歩き始めた。
***
運動場《自在転》、資料館《虚空蔵》、修験所《釈迦掌》――労働を超克した地下人達が人間らしい生活を送る為の施設群に一頻り舌を巻いた俺達は、休息と昼飯を求めて植物園《木花宮》を訪ねた。
「何というか、ここも極まってるね。地球じゃないみたい」
成程、目の前に鎮座する植物は、どれもこれも馬鹿げた形質をしてやがる。単に植わつてゐるだけなら外も大概だが、こいつらは特にアレだ。生態系のどんなニツチに入り込まうとしたらこんな進化を遂げることになんのか、皆目見当も付かねえや。
「でさ、ここでどうやって食事するの?」
「さァな。姐サンにチラッと紹介されたきりだ、どうとも言えん」
あゝだかうだで、俺と八千代は今も腕を組んだマヽな訣だが……愈〻以て辛くなつてきやがつた。何につけても、この密着具合が駄目だ。肌の滑らかさ血の温かさ肉の柔らかさが無駄によく感じ取れちまふし、凄え近さで顔の隅〻まで観察出来りやあ、髪に残つた花の石鹸の匂ひで考へが散りまくつて大童つてこつたよ。
冗談序でに少し困らせてみる心算が、どう考へても俺の方が追ひ詰められてゐる。これは不味い。――かといつて離れてみれば、今度は昨夜のあの不足感が襲つて来んだな。どうしようもねえぜ、恋。
しかしこいつもこいつで、明らかに恥づかしがつてる所がありながら、一向この格好を続けやがるときた。そこ〳〵の意地つ張りなのは分かつてたが、こゝまですると、嫌でも「こいつ俺に気があるんぢやねえか」つて思へて来る、ん、だけどよ……。俺の弱い心では、まだ一つの確信だつて得られてねえんだ、これが。
「誰か、そこら辺にいる人に聞いてみよっか。日本語通じるんだし」
辺りを見渡した八千代は、ビクつと体を震はせた後、注意深くもう一周。そして悩ましい溜息を漏らし、その影に向けて声を投げた。
近寄つて見れば、付下げを着た黒のシヨートヘアの女で、瞳と同じ翠玉色のタブレツトを携へてゐる。俺達と較べると随分小さいが、背丈は然程低くない。恐らくは、趣味の植物研究者だな。……それにしても、明らかに初対面の筈なのに、この既視感は何なんだ。
「どうか致しました?」首を傾げ、人懐こい声で訊ね返す。一昨日までだつたらどうか分からんが、今の俺には一つも響かねえや。
「うちら、食べ物が手に入るって聞いてこの園に来たんですけど、初めてで何をどうやって良いのか分からなくって……」
「園の設備でしたら、日本中何処の地下都市でも同じですよ」
「いンや、違うんス。実は俺達、地上から見学に来てやして」
「あら珍しい。とすると、あなた方も理生のお友達なのですね。私は開耶゠テスラ、理生の母です。娘がご迷惑をかけております」
こゝで、あゝ姐サンに似てゐたんだと納得する。この間の蒲田のアニキの兄貴といひ、血の繋がりつてのは結構分かんだな。近くにゐると魂が同調するつてのもあるんだらうが。しかし、不思議なのは、この想起が水城についても言へることだ。……と、また頭痛か。
「いェ、姐さんにはこの所世話になりっ放しで。俺は白河実原、こっちが海山八千代でさァ」さう言つて隣を見ると、狐に抓まれた様な顔をしてやがる。大方、開耶サンの齢恰好に驚いてんだらうぜ。
「母さんが、幾らなんでも若過ぎるって? ああ、次元上昇隊は、抗エントロピー場生成デヴァイスで老化を免れてんだよ」これは俺ぢやない、何処からか飛んで来た四枚羽の小天使、理世サンだ。
「エントロピーって、化け学のあれ? 何か増大するんだっけ」
「開闢以来の物質宇宙の基本法則、『一定空間において万物は拡散・平均化する』つうこった。星氣体は、幼い頃は固体に近いんだが、徐々に魂の霊的干渉波に融かされて、やがて蒸発するみたいに次第に散ってっちまう。それに従って肉体への影響力が下がり、老化が進む訣だ。父さんのAEPDは、星氣体と魂の間に、霊的真空を作り出すのさ」理世サンは、開耶サンのチヨーカーを指し示す。八千代はマジ〴〵それを眺めてみるが、何か分かるとも思へねえな。
「ひょっとして、ここの人って、皆それで不老長寿なんですか?」
「違いますよ。こんなことをしているのは、我が家くらいのものですね。地下世界においては、長寿は寧ろ忌避されますから」
どうして、問ひ掛けかけた八千代だつたが、そこで腹が鳴く。続きは食事しながらつふことで、俺達は食堂に向かふことになつた。
食糧合成装置は、実際園の到る所に置かれてゐるらしい。途中にある一箇所、見慣れつゝある鉱物柱の前で、開耶サンは足を停めた。
「この装置に触れて、料理を選んで下さい。それで済みます」
言はれるがマヽ手を掛けると、視界に画面が現れる。驚きなのは、星系からして選ぶ仕組みだ。選択肢が多すぎるのが面倒で、無難に太陽系、地球、日本、心持ち冒険して伊勢海老の天丼に決めた。
選択して確定すれば、近くの台の上で、もう湯気を上げてゐる。察するに、トムや姐サンの〈物質創造〉と同じ原理なんだな。
「こいつは、俺らの魂を物質化してるんで?」
「使うのは植物霊ですね。己の魂を削って肉体を育てては、本末転倒ですから。無論、一方的に奪い取るものではありません。食事や観賞に際して私達に励起した感情エネルギーが伝播することによって、欠けた分を補って余りある霊的成長を返せるのです」
誰も損をしない機構。悪い言ひ方かも知らんが、家畜の完成形か。
「そこらの植物が矢鱈に荒ぶってるのは、その関係からなんスね」
「半分正解って所だ。ここは、遺伝子改造の実験場でもあるのさ」理世サンは、こともなげに言ふ。考へてみれば、神霊と雖も生物体を持つて動いてる以上、DNAは必要不可欠だ。確か人工生命つふ話だから、多分こゝの設備でヾザインして貰つたんだな。
「下手に遺伝子を弄ったら、危険なのが出て来やしねェスか?」
「それについては、事前にシミュレートしてあります。安全なものに限り創造・育成しているので、心配の必要はないでしょう」
改めて植生を眺める。――と、八千代の奴、やけに手間取つてんな。
「おい、まだ献立に迷ってんのか、手前ときたら」
「だって、食べてみたいのがあり過ぎてさ……」
見れば、俺の天丼を取り囲む様に、もう何皿も具現化されてやがんの。
「こんなに食えんのかよ? 残しても勿体ないたァ言えないのかも知れねェが、俺の精神衛生的にそォいうのは勘弁願いたいぜ」
「だったら実原も食べてよ。他の星の料理なんて、そうそうお目にかかれないし。それにさ、伝説のべちご焼きだってあったんだよ」
八千代が指差すのは、ゑぐい色合のカルメ焼き風の物体。それこそ、まさに超銀河的なニユウ・フロンテイアの類と思つてたんだが。
「本当に食えるのかよ、そんなモン……」さう言ふが早いか、腕を離れた八千代はべちご焼きを回収し、俺の口に捻ぢ込んだ。
カリつとして且つモチ〳〵した食感。甘いのか酸つぱいのかほろ苦いのか、絶妙といふんだらう塩梅。いかにも駄菓子らしいチープな香料の風味。美味いとか不味いとかいふ以前に、謎の郷愁に駆られる。……だが、そこから失はれた時を求めるマドレーヌ体験へと続くこともなく、後にはをかしな胸のモヤ〳〵が残された丈けだつた。何なんだよ。
「ど?」定位置に戻つた八千代に見上げられりや、それも消えた。
「何とも、判断し難ェな。まァ、水城や学部長への土産に、幾つか包んで行くか」
持帰り設定で物質化して、リユツクに詰めさせる。
「それでは、行きましょうか。冷めない様に少し急ぎますよ」
密林の様な園内だが、中央部分は開けてゐて、大噴水の周りに水晶の卓と椅子が並べてある。千ばかりの席の半分はどうやら埋まつてゐる様で、喰ふ、話す、端末弄る、昼寝する――やつてることは地上人とさして変はらん。この景色だけ写真に撮つて見せてやれば、地上の何処かと言ひ張つても不思議がられはしねえだらうよ。
「それで開耶さん、何で長生きは敬遠されるんですか?」鱈腹食つてぼんやり俺に寄り掛かつてゐた八千代が、思ひ出した風に言ふ。
「円熟した地下世界には、承知の通り労働や富といった観念が殆ど存在せず、その代り人間らしく生き、魂を成長させることが求められます。地上の人間が執着するものには価値がなく、また学びや交流は死後も可能ですから、肉体は最早魂の牢獄に過ぎませんね。故に数多くの者が、一刻も早い解放を心待ちにしているのです」
「因みに自殺した場合、魂は星氣体を離れられず、本来の寿命が尽きるまで無感覚の内に過ごすことになる。一応、気を付けとけよ」
衣食足りて礼節、栄辱を知る。競争の必要がなく、悪意が損にしか繋がらないとすれば、嫌でも平穏な社会になるつふこつた。
「月寄御、俺にとっちゃ、随分住み良さそうな所っスね」
「うーん……、うち的には、何か窮屈そうに感じちゃうな」
「だがさ、ここの連中の表情を見てみな」理世サンの軌跡を目でゆつくりなぞる。談笑する数名が手を振つてきた。物思ひに耽つてる様なのも、苦しんでるとは見えねえ。携帯の奴はにやけてるし、午睡は言はずもがな。「楽しそうだろ? あいつらは皆死にたがりだが、どうしようもない事実を受け止めて、せめて幸福に生きようと肝を据えてんだ。そしてそれこそが、魂の精強さに繋がるって寸法よ」
「じゃあ、どうして開耶さんは、進んで苦しむ様な真似なんか?」
「不老長寿を善しとするのは、偏に良人、ニコラの為です」
姐さんの口から何度か出た名前だが、八千代にとつてはさうでもない。「ニコラ゠テスラさん? どっかで聞いたことあるような」
「父さんは科学者で発明家だ。発展しすぎて継承侭ならずロストテクノロジーと化した霊理学を、一人で再興してのけた傑物なんだぜ。さっきのリゲル第五惑星料理なんかは、父さんの作った霊波通信施設《世界システム》があったればこその代物さ」
まるで自分のことであるかの様に誇らしげに語る。本来の理世サンは、諏訪呼サンの所で見た狐神らしい。だのにこれだけだつふことは、もうすつかりテスラ家の一員なんだな。……水城にも、さうあつて欲しいぜ。
と、俺がそんなことを考へてゐる間、八千代はまだ拘つてゐた。「そうだ、世界史の授業で聞いたんだよ。その人とは無関係なの?」
「同一人物、と言えば語弊があるやも知れませんが、少なくとも同じ魂の持ち主ですよ。――前世で電気技師だったあの人は、二代目木花之佐久夜毘売である私が、富士山様の御指示により分霊として生み出しました。電磁気力と重力から霊の実在を導き出した彼は、私とのコンタクトを果たし、それから数度の挫折を経て、烈しい愛情を向けてくる様になります。私はそれに心を打たれ、『君の様な女性と添い遂げたかった』という願いを聞き入れて、死後肉体を離れた彼の魂をそのまま月寄御の赤子として生まれさせ、己も地下都市《天之逆鉾》の人間として生を受けました。その代償として救世の使命を帯び、その他紆余曲折を経て、今に至るということです」
「『地球の次元上昇は、地球人の手で為されるからこそ意味がある』それが銀河連邦の基本方針だからよ、父さんも母さんも、あくまで肉体を持った人間であり続けなければならない訣さ」
開耶サン達がどんな生涯を送つてきたのか、俺には想像もつかないこつた。だが、おいそれと流れに逆らへるもんぢやねえつてこと位は、身を以て知つてゐる。たか〴〵一七の俺でこれなんだ、主観時間で百数十年生き続けるニコラサンに関しては、そら相当なアレなんだらうぜ。そして、その苦を乗り越える為の力つてのは――
「いやはや、その愛の力にャ感服します。俺、憧れちまいますわ」
「何も、難しいことではありません。最愛からその周辺、ひいては宇宙全体まで愛する対象を広げてゆけば良いのです。嘆きが蔓延る中よりも、幸福な世界で睦み合う方が素敵でしょう? そんな明日を目指し、手と手を取りつつ現在の困難を選択するのですよ」
「全く、その通りでさァ」さう頻りに頷く。
月寄御の様子を見て回つて、俺の正義は固まつた。グル〴〵廻つて、結局元の所に戻つたゞけになるんだが、悩んだ甲斐あつて覚悟の程は段違ひだ。
これで八千代に専心出来る、さう思つて隣を見ると、いやに神妙な顔で首を捻つてゐた。眺めてる内に、やがてそれを形にする。
「あの、うち思うんですけど……さっきの食べ物出す機械やフリーエネルギーを世界中にばら撒けば、ここみたいに出来るんじゃ?」
聞いたテスラ家の二人は、横目を合はせて悲しげに笑ふ。「だったら、良かったんだがな。生憎と今の地球には、地球連合(BASC)上層を筆頭に、富と権力への欲望に取り憑かれた連中が溢れ返ってやがんのさ。ある分以上に求め続け、他人を見下して支配せずにはいられねえ、そんなんだから物質世界では力を持つだろ? 地下式生活は、そいつらの立場の維持の為に握り潰されて、おじゃんってことなのよ」
「それだけではありません。次元上昇とは思考の相転移。個々人の内面の問題で、与えられるのではなく自ら到ってこそのもの。よって私達が行うのは、あくまで『支援』に留まる必要があるのです」
「そう、なんだ……」呟いた八千代の裡に、以前の『自分が楽を出来れば良い』つふのとは異なる意識が芽吹いてゐるのを感じる。俺はそれが無性に愛しくて、抱き締めて撫で回してやりたい衝動に駆られた。
……いや、昨日の今日でこれは、いゝ加減ヤバいんぢやねえか。そんなにも俺は、切羽詰まつてゐたつてのかよ。
「(しかし実原、歩みを戻すなんて気はさらさらないのだろう?)」
当たり前だぜ、ミヒロ。この想ひばかりは、絶対に譲れねえ。
「だったら、当事者の俺達が、出来る限りを尽くすまでだ。――理世サン、俺も次元上昇隊で戦わせてくれねェスか」
俺が言ふと、傍らの八千代がビクつと竦む。丁度良い、この勢ひで、いつまでもいゝ様に殴られてばかりの男ぢやねえつてことを見せ付けてやらう。
「本当にいいのか。トムみたいに落ち零れた訣でも、恵みたいに惚れた奴に続く訣でもないだろ? それにあたしにゃ、あんたが傷付くことで悲しむ連中が、少なからずいる様に思えるんだが」
心当たりのある顔を並べてみる。両親、水城、眞理学部……それと、八千代。こいつにさう思つて貰へるなら、寧ろ本望だ。
「そォなるにしても、その人達の未来にゃ変えられねェっスよ」
「それを出されると弱いぜ。……じゃあ、戦闘の時だけ駆り出す洸方式で良いか。それなら、身内に危険はねえ筈だからさ」
「へィ、異存はありやせん」武者震ひしつゝ頷く。だがそこで、隣から裏返り気味の声が上がつた。「う、うちもやるよ、それ!」
俺は動転する。守る対象の八千代が、戦場に立つて良いものか。
「(昨晩の話、忘れた訣でもあるまい。敵の動きは未知数だ、彼女の強さならば、威力を持って機動防御を行う方が、却って生存の可能性は高まろう。それに君としても、大層護り甲斐があることさ)」
まあ、ミヒロが言ふなら、その通りなんだらうが……。
「では今からでも、ニコラの研究所に案内しましょうか。一通り機材の用意がありますし、あの人の話も聞けるでしょうから」
「それはいいんだがな、母さん……もっと気を利かせてやりなよ」
「そういう事だから、地図を渡しとくわね。今行くかどうかは、二人で決めて頂戴」
意見を表す間もなく、紙切れを押し付けた姐サンは消え、開耶サンと理世サンも去つて行つた。残された俺と八千代は、顔を見合はせ、取り敢へず進路をテスラ研に定めたんだとさ。
研究所でのガイダンスと適性検査を終へて、最後に来たのが浜辺だ。地下都市と雖も生物時計に変はりはない様で、辺りはとつぷり、黄昏色に調整された光線で照らし尽くされてゐる。流石に『水平線に沈む夕陽』つふ訣にはいかないが、緩やかな波間に柔らかい光が漂つてキラ〳〵して、八千代を引き立てゝゐるのは実に良くやつた。
「綺麗だね、ここの海は」
潮風の弄ぶ巻き毛を撫で付け、物憂げに言ふ。「手前だつて負けてねえよ」とか返したら、どうなんのかね。
「あァ、ゴミ一つ落ちてねェのは、流石つゥべき所だろうぜ」
「あは、実原らしいや」
それだけ応へて、また海を見る。チラ〳〵目線を送つて来る辺り、俺から何か言ふ必要があるんだな。しかし、かういふ時に限り何も湧いて来ねえし、ミヒロもダンマリときた。
「なあ、どうしたって手前まで、戦いたいだなんて言い出したんだ?」
結局、こんな問ひ掛けに終はる。これが俺の限界つふ奴か。
八千代の口はすぐには動かず、腕を抱く力を強め、一つ深呼吸してから答へる。「……何ていうかさ、置いてかれたくなかったんだ」
聞いたきりのその言葉が意識の中で色付き始めるのと同時に、俺は心臓を雷に撃ち抜かれたかの様な衝撃を覚えた。そんな内面を知つてか知らずか、返事を待たず、八千代の言葉は続いてゆく。
「実原が何とかしたいのは、国とか地球とか、そういう大きいものなんだよね。その中にうちも入ってるってのも、分かるよ。……でも、それじゃ嫌なんだ。名前も顔も知らない人達の為に実原が傷付くのが嫌、それを知りながらじっとしてるのも嫌。だからせめて、実原の気の済む所までうちも付いて行っちゃおう、って話」
顔の熱さは自前のか、それとも八千代から伝はつてくるものか。いや、そんなのはどうだつて良い。こみ上げる感情は嘘ぢやねえ。
「あンがとよ、八千代。俺は……俺は、そんな手前が――」をかしなことにならない様、一杯に息を吸つて調子を整へる。そして、肺に溜まつた空気を逃がさうとした、まさにその時――携帯が鳴つた。
いきなり懐から飛び出した『鋼鐵騎兵ヴオトムス』の主題歌に、俺は大いに噎せ返る。八千代に背中を摩られながらどうにか体勢を立て直し、空気を読まない着信の主を見れば、こともあらうに親父だと。何だ、よもや、帰りの遅さを心配する電話でもあるめえ。
「いいよ、出てあげて」顔で察したのか、八千代は声のトーンを上げ、眉尻を下げてにこやかに言ふ。その気遣ひに癒されつゝ通話ボタンを押したものゝ、安堵はすぐさま、鼓膜諸共叩きのめされた。
『遅エぞサネ! 大変だ、ミィの奴がいなくなっちまった!』
「ハ……?」
視界がグワ〴〵揺らぐ。血の気が引くたあ、まさにこのことだ。惚れた女の腕に支へられて、惨めにも震へが止まらない。
水城の幼さは十全理解してゐた。だが俺は、両親が目を付けてゐるのを良いことに、八千代と二人きりの遠出を選んだ。確かに、こゝに来て得られた物はバカにならない。が、気恥づかしさを呑んで八千代を家族行事に呼び、今日みたいにしないでも一緒に行動してゐたなら、少なくともこんなことにはならなかつたんぢやないか。
恋は、極端を言へば何時だつて出来る。しかし教育は、生存に係はる以上、速やかに為されるべきだ。普通に考へてゐれば、どつちを優先すべきかは明白だつた筈。畜生、俺ときたら……
「――実原、実原ってば!」気付くと身体を揺さぶられ、何度も名前を呼ばれてゐる。間もなくして目が合ふ。だが気後れを感じた俺は、反射的に逸らしちまつた。その後の八千代の表情は知れないが、息を詰まらせた様なのが聞こえて、こつちでも胸が痛む。
「ねえ、一体何があったの? 本気で怒るよ、言ってくれなきゃ」
「水城が、行方不明だと……ッ」胃袋を絞り出す心地で口にする。
「畜生……俺がしっかりしてりャア、こんなことには……」
復た、後悔が目の前を覆ふ。……だがそれは、八千代によつて阻まれた。
「行方不明って、いつ頃、どの辺りで? 早く行かなきゃでしょ!」
「あ、いヤ、まだ、いなくなったって聞いただけなんだが……」
「ちょっと、何やってんの!? もう、それ貸してよっ」俺の手からPCを奪ひ取ると、直ぐ耳を当てゝもし〳〵。通信が切れてゐると見るや親父達の連絡先を探し始めて、その途中で電文に気付いたらしく読み上げる。
「新多摩駅から帰る途中、大体一時間前、ね。自力で探したけど見付からなくて、お父さん達、今は警察だってさ」
「そ、そォか……」どうにも事態は、冗談では済まなささうだ。
「もしもし理生さん――――うん、それもなんだけど、実は水城ちゃんが行方不明に――――ん、了解、すぐに向かうよ」
手早く姐サンへの連絡を済ませた八千代は、端末を返すと共に、反対側の手首を掴んでくる。「急ご、実原。テスラ研までフルブーストだよ!」
矢庭に走り出すのに合はせ、筋肉に緊急指令。長い脚の為せる風の様な道中で、ふと、俺は何をしてゐたのかと考へた。今の八千代はやけに頼もしい。だが本来そこは、俺が以て任ずるべき立ち位置ぢやないのか。それが、何しに水城そつちのけで、執拗に自分を責める? 俺の根幹には、恋以前に重大な問題があるんぢや……
「(もう、有りし日を掘り返すなとは言わないよ。ただ、乗り越えるんだ)」沈黙を決め込んでゐたミヒロが、こゝに来て想念を降す。だが、その意図を汲まうと試みた所で、八千代が急に足を止めた。
「来たのね。それでは、早速分析を始めましょう」
いつになく緊迫した諏訪呼サンの声に、神経が痺れる。既に景色は移り変はり、雪洞の光の照らす石畳の上には、姐サンの他に真部両人も立つてゐた。
「誠に申し訣ねえですわ、俺の不甲斐ないバカりに……」
「あなただけの責任ではないわ、実原。私と理生、あなたの両親、そして水城自身にも、夫々問題があったのだから」
ぴしやりと言はれて、我に返る。この厳格さと公正さに憧れて、俺は諏訪呼サンを信仰してたんだ。背を追ふからには、俺も前を向かなきやなんねえ。
「分かりやした。――それで、水城の行きそうな所何処やって話スか」
蝶々(てふてふ)を追ひ掛けて見えなくなる奴だ、校舎から大分規模がデカくなつたものゝ、今回もそんな感じで行けるんぢやねえか。さう思つてゐた所、諏訪呼サンの口から出たのは、予想外の言葉だつた。
「いいえ、居場所自体は既に掴めているのよ。厄介なのが、そこが新日野の南方邸だということ。四日前にあなた達の訪なった、ね」
「何でそんな遠くに――ま、まさか、掠取!?」深刻な声を上げる八千代。如何せん短絡に過ぎるとも感じたが、水城が好んであすこに行くとは考へ難い。更に、あの爺さんの蒐集物の数〻を鑑みれば、神の化身たるあいつを手に入れたいと欲した所で、何の不思議もねえことだ。多少引つ掛かる所はあれ、諏訪呼サンは首を縦にする。
「確証はないものの、そう考えて差し支えはないでしょう」
「……因みに、どうやって水城を探し当てたんで?」
「最初にあの子を連れて来た時、情報を渡していたのを憶えているかしら。その時繋いでおいた霊ラインを手繰って行って、南方邸に辿り着いたのよ。結界で、中の様子は知れなかったのだけれど」
諏訪呼サンは端整な眉を歪め、肩を竦む。一寸待て、結界だ?
俺の驚いた顔を見るに付け、トムが事情を話し出す。
「諏訪呼さんからの依頼で、今日俺達は、南方を調べていたんだ。何でも、そこで地脈が堰き止められて、流れるべき所に流れてないってことでな。調査の結果、連中が結界を作った所為だってことが分かった」
「その結界は、地脈のエネルギーを第五階層の霊に変換して、溜め込む仕組みみたい。五〇度のお湯の入ったプールを思い浮かべてみて。理生や諏訪呼様の霊魂――今の喩えだと体温は七〇度とか八〇度の辺りだから、熱を奪われちゃってとても入ってられないんだよ。もう一つ、トム君みたいな物質創造系の超能力は、そのお湯の中で氷を作り出す様なもので、殆ど行使不可能なの。水城ちゃんの〈水生〉と海山さんの〈劇雷〉にしても、作った氷を冷水の紐で振り回すのをイメージしたら、すぐに無理だって分かるよね…?」
「うん、呆れるほどに有効な説明だったよ……」
八千代は、感心つふより寧ろ項垂れ気味に頷く。俺の失恋相手の賢さに――と思へば可愛さも一入だ。が、安心しろ、手前に求めるのはそれぢやねえ。
「あの芝居の後だ、追加の神罰を防ぐのが目的だろうと最初は考えたんだが……その実は、神を囲う為の鳥籠だったつうこったね」
「でもさ理世さん、寅次って神様のこと全然信じてないみたいだったよ。それなのに、水城ちゃんの正体見破った挙句、そんな結界までこさえちゃうなんて、かなりおかしいと思うんだけど」
どうやらこいつもまた、同じ違和感を覚えてゐたらしい。何かヒントはないかとあの禿頭を思ひ出した所で、俺はある考へに至つた。
「……向こうも、俺達に対して演技していたんじゃねェのか。平塚社長達とは確実に年季が違うんだ、そら世間ずれもしてる筈。財閥の情報力で、霊にまつわる諸事情にも割かし明るそォだしな」
「妥当な線だと思うわ」
姐サンが肯けば、八千代は唸り声を上げる。「つまり、うちの脚本と拙い演技の所為で、水城ちゃんは攫われちゃったんだ……」
肩を落とすその姿が、いつもの俺と重なつた。確かにこれは、見てゐて気持ちの良いもんぢやねえや。
「いや、相手を普通の人間と想定した状況では、あれは最善の策だったぜ。先ず、超能力で威嚇することで、これ以上神界に迷惑をかけるのを防げんだろ。それに見えない世界を肯定させれば、意識だって変わって、そいつや周りの霊的向上ッつう最大目標にも貢献出来る。おまけに金も三倍返し。向こうにゃ良いこと尽くめだ」
「ありがと、実原……。罪滅ぼしに、救出作戦で頑張るね」さう、申し訣なさげに拳を握る。そんで間もなく首を捻る。「――って、あれ。流石に今回は、警察に任せておくべきだったりしない?」
「ところがどっこい、相手は周到だ。踏み込む口実が何かないか半日調べたが、噂ばかりで清々しい程に何も出てこなかった。水城ちゃんの掠取にしても、証拠らしい証拠を残しているとは思えない」
「傘下の警備会社セキュリティ・スパイダーネットが怪しいって言っても、財閥の報復を恐れて、警察も検察も裁判所も動きたがらないの。どころか、進んで揉み消しに掛かってる部分もあるんじゃないかな…。それをどうにかするには、厖大な時間と手間が必要だよ」
「駄目だ、そんなん待ってたら、水城の心がどうなったモンか……」
「そこで、これよ」姐サンが指し示すのは、軍帽に輝く菊の御紋だ。
「次元上昇支援隊は、任務の性質上、天皇陛下から特別警察権を頂いているわ。それを行使して、直接殴り込んで奪還しましょう」
「尤も、理生は中に入れねえから、外で各種の手続きだ。その間にあたし、トム、恵、それからあんたら二人で突撃をかます訣だが」
人間サイズの理世サンの、キレのある視線が俺達に注がれる。
「下手すると相当痛い思いをすることになる。覚悟はあんな?」
「当たり前だよ!!」八千代はまた、俺より早く啖呵を切つた。傷付いて欲しくねえ気持ちはまだあるが、目を合はせたのが運の尽きだ。
「えェ、何があろうと、水城は必ず取り戻してやりやすぜッ!」
「頼んだわね、実原、皆……くれぐれも気を付けなさい」
葉月晦日(月) 一九時〇〇分
新日野市 南方邸
「必殺パワー、サンダー☆クラぁ――ッシュ!!」残照と月明かりの空を、八千代の轟雷が撃ち抜いた。八千GWの電流が、屋敷の警備装置を根こそぎ焼く。一日分の成長量を遥かに上回る霊力を電子へ変換したものゝ、彼女の表情には、一片の翳る所も見えはせぬ。
「よし、突入だ」理世の指示で、〈幻影〉によつて地中に投影されてゐた五人の姿が顕になる。先づ重装で身を固めた勉が、恵を抱へ、肩と足裏の霊波感応ロケツトを噴かして塀を越ゆ。続いて天使が羽撃き、彼神の下ろした縄梯子で、残る二人も侵入を果たせり。
理世が霊ラインを遡つて得た情報によると、水城は、先に実原達の目にした施設の地下に囚はれてゐるらしい。暫し其処を目掛けて行軍すれば、スリーマンセルの警備員と遭遇する。あからさまな装備で身を包んだ一行を、当然プロが見逃す訣もなく。一人が上に連絡する間に、長い警杖を竹刀よろしく構へた二名の吶喊。
「許せよッ!」すかさずホバーしたトムが、右腕の特大鉄拳で以て片方の黒服を迎へ打つ。他方は実原が推進器付き手甲で受け、その隙に、同装備の八千代が得意のハンマーパンチで叩き伏せたり。
「六時、十秒後にランデヴーだ! 十一、十二時にも備えろ!」打ち上げられた信号弾を背に、空中から理世が注意を促す。
成程、後方から迫り来る三人を認め、実原と八千代は構へを作る。接近と同時に八千代の打撃、加速した拳で一人を吹き飛ばすものゝ、直後の左右からの剣撃を左脇腹に、庇つた実原は右二の腕に喰らつた。
「ちょっ、傷モノになったらどうしてくれん――のっ!」慣れぬ痛みに若干戸惑ひつゝも、即座に回し蹴りを放ち、相手の脇腹に返す。そして体勢を崩した所、正拳による追撃で見事ノツクダウン哉。
一歩下がつて敵と向ひ合つてゐた実原は、彼女の無駄な強さに口笛を吹く。そしてにやりと笑ふと、肩のジエツトで勢ひを付け「まァ、その心配は、要らねェと思う、ぜェット!」と突進をかます。敵も黙らず、脇に跳ぶ。されど半身には貰ひ、回つて散つた。
「やるうっ! それでさ実原、さっき言ったのの意味って――」似合はぬ小難しい顔で八千代は問ひ掛けかけたが、それは空からの声に阻(はゞ)まれる。
「気を抜くな、三十秒後、向かって十時から来るぜ!」
「トム――いや、タンゴの方は、大丈夫なのかよッ?」言ひつゝ振り返れば、七人を相手取つた勉は、巨腕と大盾とブースターとを駆使して器用に立ち回つてゐる様子。軽装の恵に迫る敵を盾で突き飛ばし、裏拳で一気に薙ぎ払ふ。それでも対処しきれぬ者に関しては、一瞬だけ使へる彼女の〈念動力〉でズボン裾を強く引いて転ばす。豪快な夫と繊細な妻の、いとも綺麗な共同作業である。
「流石は軍人……なのかな? とにかく、任せといて良さそうだね」
「あァ。倒したのが起きてくる前に、さっさと数を減らすぜ」
実原が直ると、間もなく二小隊が目に飛び込む。三倍の物量に思はず顎が笑ふ二人だつたが、どちらも、想ひ人との共闘であちらの組に遅れを取る心算はない。息を整へ、鬼神の如き面持ちで立ち向かふ。
「「うぅぅゥおおおぉぉぉォォォォっ!!」」溶け合つた二つの声は、途中で左右に分かれ、両翼から一団を攻める。見様見真似の乱打乱蹴、命中率こそ低かれども、接近を許さず。退がり続けて密集したガードマン達に、こゝぞとばかりに加速した拳が叩き込まれた。
「はっ、はあ、はぁ……意外と、何とか、なるんだね……っ」
「そォだな――待て、後ろだ!」ほえ、と八千代が首を捻る頃には、既に相手の間合。構へも全からず、激烈な一撃の予感から、彼女は目を瞑る。……而して、到達せしは間の抜けた男の呻きなりけり。
「よくやったな二人共。もう増援はねえ、残りはあたしらに任せて、一足先に助けに行ってやりな」黒服の腹を踏ん付けた理世は、最初に進んでゐた方向を指差す。その道の途中を見れば、先程殴り捨てた警備員達が、だん〳〵と息を吹き返し始めてゐるではないか。
「うへェ、やっぱ装備で上回るだけじゃ、簡単にャ勝てねェんスね」
「ちょっと、これ以上大人数を相手にするのはキツいよ。行こう、シーエアラ。――そうだ、ロメオさん、助けてくれてありがとう!」
「いや、上から見てばっかで戦えなかった分を返したと思ってくれりゃいい。つーか、そんなん言うよりだったらとっとと行っちまえ」
「へいへい。待ってろよウォーターキャッスル、今行くからな!」
「そのコード名、うちはどうかと思うよ……」然様な軽口で緊張を解しながら、シーエアラとヤンキーは目標地点へと走るのであつた。
そして、見えてくる生物館。警備力が向かうへと流れ、人気のないのを良いことに、入口の硝子戸に向け猛進する。――しかし到達目前、脇から飛び出した何者かの一撃が、二人まとめて弾き飛ばした。幸ひにして池にこそ落ちねど、墜落の衝撃は馬鹿にならぬ。
「がッ、ハ……な、何だ……?」
咳き込みつゝも身体を起こす実原。扉の前に立ち塞がつたるは、お馴染みの黒服が一人きり。だがその背格好には、慥かな見覚えがあつた。
「蒲田のアニキ、の兄貴……」
「あ?」柄の悪い声を上げた明弘は、侵入者達の顔をまじ〳〵と見、何秒かして気付く。
「おうおう、オメーら、あのシャッチョさんの取り巻きじゃんかよ。何でそれが押し入り強盗なんてやってんの?」
「強盗は寅次の方だよ! 水城ちゃん、その中にいるんでしょ!?」
八千代が声を張り上げるものゝ、彼はあくまで首を捻る。
「さあ? 残念だが、末端の俺には、何も知らされてないんでね。ただ一つ分かんのが、ここを守るのが俺の仕事だっつうことですよ」
歯を剥き出した明弘は、実原の一九五センチの体躯が小さく見える程の巨大な刺叉を構へ直し、通さぬ意志を明確に示す。
「待った、明弘サン、無駄な争いは止しましょうや。何せ寅次は、人を攫ったんですぜ? 思い出して下せェ、あの日俺達と一緒にいた、小さい女の子。俺達ャ、そいつを取り返しに来たんスよ」
「ホー、そうかそうか」分かつた風に応へても、武器は下ろさない。
「いや、そこは、事情を察して通してくれるとこじゃないの?!」
「俺の方も後がねえのさ。ここでミスりゃ、首が飛ぶ。血反吐が出る思いで就職したこの優良灰色企業、簡単に追い出されて堪るか」
「そんな理由で、子供を見捨てるなんて……この人でなし!」
「何とでも言いやがれ。俺はここでお前らを防いで、俺の命を守る。誰だって社会に出る時、どっかの他人の機会を奪って結果的に殺すこともある、それと同じだ。分かったら、怪我する前に家に帰んな」
さう言つて憚らない。しかもおいそれと否定出来ないのが困り所。
「話し合いで解決出来ない以上、物を言うのは武力だよね……」
「どんな行動も結果的には宇宙の成長に繋がるから、本来、善悪なんてのは存在しねェそォだ。けどな……自分だけの利益の為に他人を平気で犠牲にするアンタは、あの日のトムとは違う、人間一般にとっての悪だぜッ! 明弘サン、ここは力尽くでも通して貰う!!」
実原と八千代は視線を交はし、呼吸を合はせての突撃。長物の取り回し難い懐まで、素早く距離を詰めてしまはうといふ作戦だ。
「それが甘めぇっつうんだわ!」
明弘は飛び退き、同時にバツトの如く刺叉を振るつた。腰を取られた二人は、遠心力で竿の先に集まり、叉の外縁に鎌よろしく引つ掛かる。更には、間髪入れず戻したものを再度突き出され、重なつたまゝ押さへ付けられてしまふ。
「カクゴしな、こんクソガキ共!」
制圧のついで、棒高跳びの要領柄にしがみ付いてゐた明弘は、上になつた実原の胸を狙つて落ち蹴りをかます。咄嗟に腕を交差させ、肋骨を折らるゝ様なことはなかりせど、大男二人分の体重を受けた八千代は無事では済まぬ。
「うげ、ギ、ギヴぅ……」と、彼との密着を喜ぶ余裕もなかつた。
「大丈夫か、八千代!」
実原すぐさま退かむと試みるが、隙を逃すまいと柄による殴打が続き、存外手間取る。
「ぐッ、強ェ……」
平和な日本において、実戦の機会などは無きに等しい。幾ら訓練を積まうが、実体が伴はないのだから、気合で引つ繰り返せる部分はあるものだ。この場にゐる三人も、初めての戦ひなのは皆同じ。
実原と八千代は、趣味の範囲の基礎体力を付け焼刃の戦闘指導と特製の武装で鍍金し、至らぬ面を覚悟の強さで補つて勝つてきた。……だがこの男明弘は、然るべき訓練と装備とに加へ、並〻ならぬ金銭への執着心を持つてゐるのだ。思ひの強さが拮抗した今、勝負は素の戦闘能力が決す。勝機の有無は、どうやら微妙な所か。
「オラ、オラ! 観念しやがれッ」
刺叉の連撃は、実原八千代の乱打の比ではない。無駄な動きが排されたそれは、距離を詰めることを阻み、且つ的確に敵を打ちのめす。
――明弘の役目は要所の防衛であるから、埒が明かぬ二人は、一旦離れ体勢を立て直すことに。
「ど、どうしよっ、実原っ。あの人、やけに、強い、んだけどっ」
「おゥ、取り敢えず、正面切って、挑むのは、止めとくか。あの、武器を、何とか、しねェ限り、勝ち目は、なさそォだ……」息の上がつた実原達に対して、相手方にはまだ余裕が見える。事前の戦闘の名残もあるが、スタミナ面での向かうの優位も無視出来まい。
「ん、そ、そっか」と、八千代が一人で頷く。殴られて脳がをかしくなつたのではなく、ハイヤーセルフ・メアベルとの対話である。
「メアの、話だと、〈劇雷〉さ、百ボルトで、一秒、位までなら、何とか、出せるってさ。効果範囲、たったの十センチらしいけど」
「つゥことは、また、ネックは接近……いや、俺が、囮になるか」
「んー、じゃ、お願い、しちゃおっかな」〈幻影〉を使へぬ実原の内心を理解してゐる。故に、八千代は、甘んじて頼るが得策と考へた。
「――おっしゃ、GO」
意気込み、単身走り出す。満を持して備へる明弘は、自分からは動かず、相手の体力を浪費させる態勢。さてしも実原が間合に入るや否や、刺叉による素早い槍撃が始まつた。
「相変わらず重い……だがッ!」
手甲で弾くと見せかけて、先端をグワシと掴む。さうすれば、少なくとも打撃を受けることはない。
「バカめ、それ位誰だって思い付くわ! 対策してないとでも思ったか、あ?」
明弘は柄を思ひ切り引き、施設入口に続くスロープ上まで退がる。そして高低差を利用し、勢ひを付けて飛び出した。
大柄な実原も、それだけの運動エネルギーを受けては吹き飛ぶ。自由の利かぬ状態とは、何とも気分が悪いもの。そこを、衝撃波で相殺したい所をぐつと堪へ、背中から地面に叩き付けられた。
「ザマぁカンカンカッパの屁。てか、そのメカは単なる飾りかよ?」
勝ち誇り、嘲笑ふ明弘。その一方で、実原もまた笑んでゐる。何故ならその手には、未だ確りと刺叉の湾曲部分が握られてゐるのだ。
「いンや、ちゃんと使ってやすぜ。ほら、見て下せェや」
「ハァ?」指の向く方、高を括つて見遣れば、勝利の齎す昂揚などは忽ち霧消した。頼みの武器は封ぜられ、他を出す余裕もない。
「悶絶っ、スタンショック☆フィンガぁ――っ!!」
ガードの上から、八千代の電気が流れ込む。如何な強敵と雖も、神経を揺さ振られては敵はず、かの黒服は芝生の上に沈んだのである。
同刻
南方生物館 地下五階 特別『賓客』室
非常灯の光にのつぺり塗られた豪奢な部屋で、幼神は蹲り啜り泣いてゐる。何が何やら分からぬまゝ、目が覚めたらば知らぬ場所。あの日の八千代の如く、慕ふ者の部屋であつたらどんなにか幸せかしら。しかし現実として、大好きな実原お兄ちやんとはこゝの所満足に遊べてもをらず、今日は一日父母に連れ回されてゐた。決して楽しくなかつた訣ではない。だけれどふとした瞬間、思考の端〻(はしばし)に、彼の顔が表象されるのである。
嗚呼、そんなものだから、水城は大層取り乱した。出して〳〵と戸を敲いた。転がり回つて駄々を捏ねた。生憎と八千代停電で、先方がそれを目にすることはなく、見てゐたからどうであつたか。詰まる所の、この有様である。
「ふえぇっ……お兄ちゃぁん……ぐすっ」
口を突くのはそればかり。水城の世界は未だ狭く、実原はその半分にも及ぶ。何せ人に身を落とす切つ掛けを作つた者であり、化身後も幾つも優しくして貰つたのだ。仮令それが彼自身の満足の為であつたとしても、彼女の受けたものが消える道理でなし。気持ちが募るのは八千代と同じだ。
彼の名を百度は呼んだ頃合か、カチヤリと鍵の回る音が響く。心が実原で一杯の水城は気付かぬが、扉が開けば流石に分かつた。今まで二度救つてくれた実原を期待するのは勿論のこと。しかし人影は見るからに覚えのない茶髪の女で、直ぐに怯えた眼で後退る。
「怖がらないで。あちきは清狼、君を助けに来たんだ」
普通、あつさり耳を貸さうとは考へない。だが、今の水城は藁にも縋る思ひである。
「お兄ちゃんの所に帰れますのです……?」
「そうだよ。君の様に小さな子が、こんな所に閉じ込められていいものかい。力を尽して連れ出そう。――さ、停電が続いてる内に」差し伸べられた手を、水城は躊躇はず、切実に取つた。
「実はあちきも、元は神なんだね」気を滅入らせまいとの配慮であらう、本邸まで続く地下通路の道中、清狼は語る。
「それなりに名のある狼でさ、何度も転生しては幾つもの山を任されものだった」
「みなきは、あんまり、鯉になったことはなかったのです」
「へえ? 水神の事情は知らないけど、それで化身出来るとは、君結構凄いのか」
彼女が驚くのも無理はない話で、どんな生物に生まれるかは、往〻(わうわう)して霊格により決まるらしい。生後の精神活動によつて質の変動はあれど、魚になるべきモノと人間に生まるべきモノとでは明らかに質が異なる。通常、霊格の上昇に比例して量に当たる霊威も増すから、霊から物質を作り剰へ肉体を構築してのける様な神となれば、即ち相当の高級霊といふことになるのだ。
「お兄ちゃんのことをいっぱい想ったら、こうなりましたっ」
「愛の力――あちきもそれでこうなれた。でも、魚が? この身体にしたって、身を売られて絶望した娘のものだし……」清狼は腕を組み、つられて水城も首を傾ぐ。「まあ、気にしても仕方がないか」
「せいらんさんは、どうしてここにいますのですか?」
「うん、ああ、そうね……」鼻の頭を掻くのは、気まづさ故か。「あちきがこの邸にいるのは、ご主人、寅次に助けられたからさ」
「みなき、あのお爺ちゃん、こわくていやなのです……」
「根は、優しい人なんよ」眉を下げ、震へる水城の頭を撫でる。
「さっきの続き。近代になると外から酷い病気が入って来てさ、それで仲間が大勢狂って、暴れ回る様になったんだ。それだから、人間はあちき等狼を駆除し始めた。病んだのはともかく、無事なのまでね」
「そんな……おおかみさん、すごく可哀そうなのですよっ」
「ありがとう。そう言って貰えると、仲間達も浮かばれる」清狼は、悲痛な面持ちで胸に手を置き、霊魂の記憶を呼び覚ます。
「――どんどん群れが小さくなっていってさ、しかも山神だから、誰がどうやって死んでいったのかが全部分かった。でも、何も出来なくて……そして、残されたあちきは、呪念に駆られて禍津神になったんだ」
水城には、禍津神との接触経験がない。しかし、研修や神有月の出雲で、その危険性は何度も耳にしてゐる。理世が戦ふべき敵と言つた餓鬼的人間が、そのまゝ神になつた様な物――彼らが奪ふのは富ではなく霊そのもので、欲望により果てしなく低まるエネルギー構造で以て巻き込み取り込み肥大化する、恐るべき存在なのだ。
「本当に、到る所で悪さをしてしまったものだよ。沢山喰らって、穢した……。そして最後は、とある山中に封印されたんだね」
「悲しいお話なのです……」水城は、重ねてしゆんとする。
「でもね、救いはまだあったんだよ。三十年前、地震で封印の祠が壊れて、あちきは自由に動き回れる様になった。それで、また捕まっては堪らないから、自分で作った狼の身体に隠れて細々とやってたんだけど……ご主人と出会ったのは、そんな時さ」
宙へと注ぐ追憶の眼差しは、先程までとはまるで違ふ。恍惚とさへ言つていゝだらう。
「あちきを見たご主人は、ハッと目を見開いた。そら、誰だって狼に遭ったら驚くけど。あちきは人間に恨みがあったから、こいつも喰ってやろうって、すぐに飛び掛かった。そしたら、ご主人はどうしたと思う? ――何と、抱き締めて頬ずりして来たんだよ」
「びっくりなのです」水城とて、好んで剛虎魚には近付かぬ。
「あちきだって、その行動と心に伝わってくる熱さには、ひどく驚いた。――いや、それに止まらない。あちきのどこまでも冷え続ける霊魂は、ご主人の愛で、もうすっかり温め直されてしまったんだ」
「お兄ちゃんの魂も、ぽかぽかで良い気持ちなのです。でも、この前のとらつぎは、生ぬるくて気持ち悪かったのですよ……?」
水城の指摘を受け、清狼はうゝと呻く。が、それは、主を貶された悲しさから出たものではない。寧ろ痛い所を突かれた類のものだ。
「『根は』優しい人だって言ったのは、それだからさ。ご主人は、あちきを連れ帰って、死ぬまで世話してくれた。その後人間になって、嫁に貰われて……。あの人は相当の人嫌いだったけど、あちきのことは信じてくれて、それで暫くの間は幸せに暮らしてたんよ」
「だったら、何でとらつぎはああなりましたですか?」
「ご主人が神を攫う様な人になったのも、こうして停電の中逃げなきゃいけないのも、元を辿れば、全部あの男が来たのが原因だ」清狼の目が、悲しみ、怒り、恐れといつたものゝ綯ひ交ぜになつた火を点す。そしてその者の名は、暗澹たる表情の裡に吐き出されたり。
「桐谷龍毘――あいつさえ、あいつさえ来なかったら……!」
***
水城の檻への道の途中、俺と八千代は壁までブツ飛ばされた。
「う、く……ま、また、不意打ち?!」俺の上で腹を押さへながら漏らす不平も、尤もだ。明弘サンのことがあつた手前、相当辺りに気を配りながら進んで来たんだからな。だのに、一体どんな奴が――
攻撃の来た方、非常灯の赤の向かうで暗闇になつた部分に目を凝らすと、だん〴〵何かゞ見え始める。空中にポツカリ浮かんだシヤツの襟口、蝶ネクタイ。そして――頭を丸ごと包む、無地の覆面。
俺は戦慄する。あの日、寅次の隣で不気味に佇んでゐた黒服の存在が、どうしてかあからさまに抜け落ちてやがつた。どう考へても、一度見たら忘れられん様な奴なのに、だ。更には、つい人の気配を気にしちまふ俺が、向ひ合つたこいつのそれを感じ取れねえ。実際そこにゐる筈なのに、存在してゐると断言し辛い、つふか……。
「ド、ドーモ。リュービ=サン。マツダイラです。先日お会いシマシタネ? コチラの方に、ウチのミコが来とりませんでショーカ」つい、末法めいた挨拶が口を突く。そこまで動転してやがつたか。
「カノ神子ハ、先ノ室ニ是アリ候。然ルニ、何人ト雖モ此処ヲ通シ候ハズハ、吾ガ主君二賜ハリ候御用命ニ候ヘバ、全霊ヲ以テ貴公ラヲ阻ムモノニテ候」そんな無機質な声をタイプライターよろしく空気中に打ち付けると、携へた鎖を構へ直し、一転スゴイ殺気を放つ。
「ねえ、何だろアレ。得体が知れなくて、超コワイんだけど……」
「俺に聞くな。兎に角、油断ならぬ相手だっつゥことは確かだが」
二人怖気付きながらも、改めてリユービを睨む。薄暗い中でのあのフル面頬だ、目なんざ見える訣がねえ。こつちの声は聞こえてるみてえだから、もしかしてあれで聴覚一本に絞つてんのか。……いや、耳も隠れてるから、インプラントの線を疑ふべきかも知れん。
俺は、用心の為に外で拾つておいた石を投げ付ける。するとそれは、太い鎖の一閃によつて粉〻に砕かれちまつた。どうやらあいつは、何らかの方法でこつちの姿を見通してゐるらしい。
「よし八千代、さっきのアトモスフィアで行くぜ」囁(さゝや)けば、決断的に走り出す。
瞬時に返された鎖攻撃は途轍もない威力で、姿勢低めでガードしても、最初と同じく吹つ飛ばされる。だがそこを、肩のスラスターで緩和。代はりに増えた衝撃、そして鋼の嵐への恐怖に耐へながら、何とか腕を伸ばして、鎖を絡め取つた。
「今だ、ハンマーパンチで――」言ひかけた所で、全身に痛みが走る。駄目だ、筋肉に力が入らない。さうかうしてゐる内に鎖は抜き取られ、キツい一撃を八千代共〻モロに貰つて弾き飛ばされた。
「痛ってて……実原、一体どうしちゃったの? 急に放したりして」
何が起きたのか解らなかつたが、八千代の声で見当が付く。
「……感電だ。多分あの鎖は、電気を流せる仕組みになってんだよ」
「えっ、マジ!? 上手く扱える様に色々勉強したんだけど、感電って、一歩間違えるとヤバいんだって。ちょっと、大丈夫?」
深刻な顔して言ふもんだから、あちこち動かしてみるが……問題ねえな。
「憂ヒ候コト是ナク候。殺ムベカラズ、ト主君ノ吾ニ宣ヒテ候ニ付キ。而シテ、貴公ラニ一片ノ勝機是ナク候ハヾ、早々ニ往ニ候ヘ」
黙りきりかに見えたリユービの言葉は、思ひの外に胸を突いた。圧倒的な力と業前を受けて、勝ち目がないんぢやねえかつて気持ちがフツ〳〵湧いてくる。
――だが、隣にゐる奴は違ふらしい。「へえ、それはいいこと聞いたよ。殺さない様に注意する分、うちらが付け入る隙が増えちゃうんだからさ」とか挑発的に言ひやがつた。
「詮ナキ事ニ候。丁度ニ候ヘバ、教ヘ候ヤ。吾ガ名ハ桐谷龍毘、狭霧ガ忍ニ是アリ候」
念を押す様に告げられた内容は、普通の感覚からすれば、性質の悪い冗談だ。けどもその流派は、その苗字は……
「シノビだからどうしたって――ほええぇ!? ニンジャ?! 忍者何で!? ……ふ、ふんだ! そんな嘘、騙される訣ないじゃん!」
「いや、八千代。残念ながら、忍者ってのは実在するんだぜ……」
「然様、吾ガ言ハ真実ニ候」
明りの下まで進み出て、龍毘は覆面を脱ぐ。表れたのは血の気のない顔で、白布とはまた違ふ、蝋みてえな質感で赤光を照り返す。つてのはどうでもいゝ。何をおいても目を引くのは、その両眼だ。瞼の上から刃物で刺し貫かれた痕があつて、どう見ても使ひ物になりさうにない。
「此ノ傷、郷ニ叛キ候兄ニ受ケテヨリ、吾ガ光ハ失ハレテ候。野山ノ内ニ朽チ果ツルノミト候所、主君ニ拾ハレテ候。以来、格別ノ恩義ニテ、吾幽世ヲバ視ル事得テ候。由ツテ貴公ラガ技、悉ク我ガ知ル所ト相成ルベク候」
「アンタ、龍祐大佐の縁者だったんだな……」
俺はしきりに納得する。寅次が水城の正体を暴いて攫へたのも、敷地に神封じの結界を展開出来たのも、この龍毘の眼と術の存在で説明が付くだらう。
「ホ、吾ガ兄ヲ知ツテ候カ。――然レド、今ヤ用是ナキ事ニ候。吾ガ主君ニ侍ル喜ビニ比スレバ、復讐ヨリカ、寧ロ感謝スルベク候」
「そんな、人を攫わせる様な奴に仕えるのが、幸せだって言うの!?」
リアル忍者シヨツクから立ち直つたらしく、音量高めの八千代の反駁。だが、それを耳に入れた所で、龍毘は眉一つ動かさない。
「吾ハ剣ニ候。磨カレ、振ルハレ候フ事ゾ、誠ノ幸ヒニ候」
平然と言ひ放つのに混じつて、あいつが歯軋りする音が聞こえる。俺も同じ気持ちだぜ、さう思ふと、諦めかけてゐた心に熱が戻つて来た。
「幸福が何か分かってんなら、手前や手前ェの主人が人の幸せを奪うなんてのは、真っ先に避けなきゃいけねェことだろ。忠義は確かに尊い物かも知れねェがな、手前のそれは、人の形をした分それと気付けない、遥かに悪い麻薬だぜ! 桐谷リュウビ……何と言おうが、手前はあくまで人間だ! 感性を働かせる義務があんだよッ!」
俺が捲し立てた後、龍毘は暫く黙り込んだ。そして、何も言はずしめやかに腰を落し、明らかに俺達を阻む態勢を整へやがる。
「ちょっと、そこ退いてくれるんじゃないの?!」
「果然、吾ガ主君ハ正義ニ候。神子トテ、主君ニ侍ルガ幸ヒニ候ヨ」
「やんなるね、この分からず屋っ! 実原、こいつ倒そう、うちらで! ほら、諸行無常! 猛き者も終には亡びるって言うでしょ!」
俺が頷くと同時に、過度に発奮した八千代はカブームと駆け出す。ガキン〴〵と音を立てゝ鎖を防ぎ、掴んだ所で、俺も迷はず突進。あいつの〈劇雷〉は、電子を霊に還元することも可能だ。
「うおオオォ、喰ゥらいやがれェ――――!!」
雄叫びを上げながら、俺は熱に浮かされてゐた。
だから、龍毘の動作に気付けない。
「ガ、は……ッ?!」
腹に巨大な衝撃を受けて、吐き気が襲ふ。どうしてもそつちに気を取られ、スラスターの制御が疎かになる。その隙を見逃す敵ぢやなく、一瞬で距離を縮めたかと思へば、深〻と刺さつたソレ――非常灯とは違ふ赤で染まつた苦無を引き抜き、おまけにバツクステツプからの激烈な体当たりを繰り出す。例によつて、その威力は体を宙に舞はせ、やがて容赦なく地面に叩き付けた。
「ほぇ――さ、実原? ちょ、そ、まっ、や……いやあぁぁっ!!」
八千代の悲鳴が、徐々に遠ざかる。痛みよりも、無性な寂しさの方が先に立つ。……だがそれも長くは続かず、俺は意識を失つた。
***
一九時二二分
南方本邸へと続く地下通路
「十五年前かな、龍毘も、あちきと同じでご主人に拾われて来たんだ。何でも、両目を潰されて、三重の山中を半死半生で彷徨ってたとかいう話。だからご主人は命の恩人で、昔も今も、あいつの懐き方ったら従順なわんこのあちきを軽く上回ってるんだよ……」
清狼は、げんなりと溜息を吐く。対する水城の表情もまた、微妙である。
「本当の妻より好きだなんて、何だか、気味が悪いのです」
「そりゃ、愛情の強さだったら、負けてないつもりさ。龍毘が怖いのは、ご主人の願ったことを、何でもやり遂げてしまうってこと」
「宇宙の眞理をときあかしたりも、出来ますですか?」
「いや、流石にそこまでは行かないと思うけど、少なくともやろうとはするだろうね。何でも文句言わずに手を着けて、大抵のことはこなしてしまえる力を持っているのが、龍毘なんだ」
水城は、天井を眺めながら考へる。しかし想像が上手く行かなかつたらしく、学部で教はつた常套句。「具体的に願えますですか?」
「例えば、動物の採集だね。指示を出して山や海に放てば、どれだけかけても必ず見付けてくる。他にも、機密文書を走って届けるとか、ご主人の身辺警護だとか……。あと、難しい交渉なんかでも、龍毘の力をちらつかせれば、立ち所に相手は折れてしまう」
「鎖国前の皇國軍みたいなものです?」
こゝで言ふ鎖国とは、三五年の第三次大戦終結後に行はれたものである。第二次大戦において既存の権力構造を全て破壊した大日本帝國、改め日本天皇御國は、圧倒的な軍事力から、その後の世界において敬遠された。
「武力だけを見れば、そんな感じだね。でも龍毘は、ご主人の為だけの武器。そしてご主人の臣民に当たるのは、あちきと息子と龍毘、それからここの園の生き物達だけ。天皇陛下の大御心は人神一般に及ぶらしいけれど、ご主人は、人間の為には生きてないから……」
「みんなの思いが、聞こえてきませんのですね」
「ああ、あちきも、嫌われるのが怖くて何も言えなかった。後、龍毘の力が恐ろしかったのもあってさ」
清狼は、如何せんと唸る。一匹狼などは、望んでなるものではないといふことか。
「ご主人には金も財閥の人脈もあって、そこに強力な護衛ときた。もう向かう所敵なしで、その内ご主人は、その力を神捕りに注ぐ様になったんだ」
水城の生乾きのトラウマがじく〳〵と疼く。己以外にも、不本意に連れて来られた者がゐるだなんて――彼女の純朴な心は、鈴の様に震へた。
「どうして、そんなひどいことをしますですかっ!?」
「ご主人は、それを非道なこととは思っちゃいない。ほら、あちきと龍毘って前例があるから、外から何かを拾って来るってのを、無条件に善いことと決めつけてしまってるんだろうね」
信じられない、と目を瞑る。あの辛かつた一週間を何年も続けている仲間がゐる、さう思ふだけで、幼い神が涙腺を綻ばすには十分なことであつた。さてしもこゝで足を引つ張る訣にもいかず、頑張つて開き、訊く。
「……捕られた神々(ひとたち)は、何て言ってますのです?」
「大体は、結界で不利になったとはいえ、龍毘に負けたのは自分の責任だって諦めてる。あちきは何も出来ない代り、その話し相手になって退屈を紛らせさせてやってたんだ。一応君の所にも何度か行ったんだけど、大層取り乱してたし、気付かなかったよね」
「ごめんなさいなのです……」下がつた頭に、清狼はまた手を載せる。どうやら水城の形は、余程人の撫で回したい心を誘ふらしい。
「いや、謝らなくて良いよ。鯉ならまだしも、人間の感覚でも体験してしまったんだから。それにさ、言っちゃ悪いけど、君のお蔭でこのままじゃいけないって思えたんだ。――っと、ほら出口」慰めつゝも、扉を見付けた清狼は、脇目もふらず駆け寄る。……ところが、背後から猛スピードで回り込まれゝば、驚いて足を停めた。
「何処へ行く気じゃ、清狼や」
和装の老人、正体は推して知るべし。
「ご主人っ!? いや、これは、その……」
何の備へもなく、彼女は狼狽へる。それでも、握つた小さな手から伝はるものを、もう見過ごせはしない。
「こ、この子を、元の居場所に返してやるんだ! ほら、可哀想に、こんなに怯えてしまってるじゃないか!」
「ほう、お主が儂に意見するとは、珍しいこともあったものよ。じゃが清狼、今一度よく考えてみい。果たしてその神子にとって、外界で暮らすのは、本当に幸せなことなのじゃろうか?」
「あ、当たり前さ、こんなに帰りたがってるんだから! どうしてご主人は、そんなことを訊くのさ」
面食らひながら応へる彼女を見て、寅次は「矢張り、頭はまだまだ狼じゃな」と漏らす。
「のう清狼や。今、無一文でここから追い出されて、お主は生きて行けるかの?」
夫の指摘に、妻はうつと息を詰まらせるより他ない。
「無理じゃろうな。仮に仕事にありつけたとして、人の善いお主の事、簡単に騙されて終ろう。何を隠そう、儂も若い頃は、金絡みで随分と酷い目に遭わされたものじゃ」
年季の入つた声には、それだけの説得力があつた。返せないのを良いことに、寅次は説き続く。
「かと言って、自然界も修羅の国ぞな。か弱い人間となったお主らでは、到底生き抜けん。ほれ、行き場がないじゃろが。じゃから、金も力も持て余した儂が、救い上げてやろうと言うんじゃよ」
清狼は、反論の言葉が見付けられない。彼女の世界もまた、寅次に依存したものであつて、そこにおいて幸福を感ぜてきたのだから。
しかし、水城は違ふ。怖さに打ち克ち進み出で、懸命に我を通す。
「それでも、みなきは、お兄ちゃんたちと一緒がいいのです!」
「ふん、他愛ない感傷よ。勉強や注射を嫌がるのと同じこと、詰り行く先が見えてないのよな。――ほれ、つべこべ言わず戻るんじゃ」
寅次は、二人を促す。しかし、どちらも動かうとはしない。
「どうした清狼、連れて行けと言ったであろが」
「……嫌だよ、ご主人。この子の言葉で、目が醒めた。あちきはご主人のことが大好きだ、絶対に一緒が良い。だからこそ、この子にも、大事な人達と離れ離れになって欲しくはないんだ!」
「あくまで無理解を貫くか。ならば、実力行使も致し方なし」彼は、背負つた長袋から竹刀を出し、慣れた調子で構へる。対して清狼、神力を以て狼に変ぜむとしたが、上手く運ばず舌を打つ。
「龍毘の結界に気付かなんだとは、勘が鈍った様じゃな」
「くっ……こんな身体でだって、やってやるともさっ!」
さう宣言すれば、彼女は遠吠えを上げ、敢へて主人に牙を剥くのであつた。
***
「い、嫌、實原……」うちは、どうしていゝのか分からなくて、情けない聲を上げる。刺し傷、出血、開かない瞼――目の前の光景が繪か何かみたいに感じられて、それ以上考へが深まらない。
そんな時、うちの身體に衝撃が走る。何も出來ずに倒れ込んだ後、見ると、鎖が卷き附いてゐた。殺られる、さう思つたけど、攻撃は來ない。何處にゐるのかと見囘せば、龍毘は實原の傍に屈み込んで、何かしてゐる風だ。
「ちよつと、何、離れてよ、實原から……」
「出來ヌ沙汰ニ候。汝殺ス勿レトハ、主君ガ宣ヒ事ニ候」
さう言つた後、背廣のポツケから取り出したのは、何と包帶。さつきまでは止血してゐたらしく、慣れた手付きでそれを傷口の上に卷いてゆく。そして終ると、何事もなかつたかの樣に定位置に戾つた。
「あんた、そんなんで、そんなことで濟ませると思つてるの?」
「然リ。人閒ハ、斯クノ如キ傷ニテ死ヌル物ニ是ナク候ヘバ」
「だからって――」言ひかけて、途中で止める。うん、無駄だ、この手の人に何を言つたつて。今、うちが爲すべきことは一つ。
「あんた、實原の魂とか、見えてるんだつけ。……確かに、肉體なんて單なる噐に過ぎないのかも知れないよ。でも、人として生きてるからには、そのあり方で不幸になつたりするのは分かつてるよね。だから、實原を傷附けたあんたを、うちは許さない。こつちから仕掛けておいて、理不盡かも知れないけどさ」
立ち上がる。囘転で鎖を解かうとすると、武噐を奪はれるのを恐れたのか、凄い勢ひで囘收された。あの鎖の圧倒的破壞空閒に、接近戰用の苦無……でも、退いて堪るもんか。怒りと片想ひの鬱憤を、全部力に變へてやる!
――と、叩くなら大人數だよ。惠逹の方はどうなつてるんだつけ。
電話を掛けると、『ごめんね、結界を守るロボツトが結構強くて…』と言つて切れた。はい〳〵、こゝはうちが頑張る場面つてこと。
「覺悟しなよ、このマシーン人閒! 戀と勇氣と熱血で倒す! はゝ、身體が熱いや。うち今、體溫何度あるのかな――!?」
***
何処だ、こゝは。見慣れた青い空、威勢の良い草ツ原、流れる水――多摩川か。それにしても、視線が低いな。しやがんでゐる様な感覚もねえのに。まあいゝ、それより、何だつて俺はこんな所に?
辺りを見ようとすると、今度は首が動かねえときた。金縛りか、さう考へた所で、少しばかり強い風が吹く。頭の上から何かゞ無くなつた様な気がする。ヅラが外れる感覚とは、また違ふんだが……。
首が勝手に動き、上を向いたかと思へば、中洲の所に固定された。そこに生えた木には帽子が引つ掛かつてゐて、自然と手が伸びる。
「仕方がないな、実原は。格好つけてあまり浅く被るものではないと、何度も言っておいたろう。まあ、取って来てあげるんだが」
肩を叩いたそいつの声はひどく耳慣れたもので、駆けて行く後ろ姿はまるで水城と瓜二つだ。――! ま、待て、そつちに行くな!
だが、声は出ない。そいつは服を脱いで川に飛び込み、島に向かつて泳ぐ。だが、その、途中で、大きな 顎が 水中から
暗い。目を閉ぢてるからか。腹が痛い。龍毘に刺されたからか。……あゝ、さつきまでの違和感はねえ。夢は醒めたんだ。
そんで、思ひ出したぜ、全部。
俺のアネキは、十年前、川で剛虎魚に襲はれて死んだ。下らねえ、俺の帽子なんかを取りに行かうとしてよ。どこまでも馬鹿な話だが、俺の塞ぎ込み様は半端ぢやなかつた。目の前で、自分の所為で、家族が死んだんだ。無理もねえよな。親父とお袋は、お前は悪くねえと言つてくれた。学校の連中も、濁つた目をした俺を、茶化す様なことはしなかつた筈。アネキのダチの中には、「君の為に死ねたんだから、あの子、本望だったと思うよ」的な妙な慰め方をしてくるのもゐた位。だが、俺は俺のことを、到底赦す気にはなれなかつた。
先づやつたのは、剃髪だつたな。頭を丸めて、出家でもした気分でゐたらしい。それから、アネキを殺した罪を埋め合はせようと、善いと言はれる事なら何でもやつた。さうすると、人から尊敬される様になる。それがアネキに申し訣なくて、ガラの悪い親父の口調を真似し始めて、合はせて服装も不良染みたモンにしたんだ。
アネキについての記憶に鍵を掛けたのは、何時だつたか。そこまでは知らねえや。まあ一旦忘れちまへば、後に残つたのは、ヅラと倫理道徳をこよなく愛する変態一人、つふこつたよ。あヽコラ〳〵。
重い瞼を、無理矢理に開く。おう、八千代、あんなに血を流してまで、俺や水城の為に戦ひやがつて。可愛い奴だな、本当に。
……だが、あれぢや駄目だ、龍毘に攻撃が届いてねえ。かといつて、今の俺には、奴を押さへたり決定打を放つ様な力は出せねえよな。これ以上、大事な人を喪はない為に、何をすればいゝ?
答へは、もう貰つてたんだつたか。なあミヒロ――いや、アネキ。
「(そうとも。いみじくいじらしく、いとも愛しき我が弟、実原よ)」
その調子、記憶の中の白河実寛と少しも違はねえぜ。それにしても、一体何時から、俺のハイヤーセルフのふりをしてやがつた。
「(名をミヒロと決めた時からさ。それ以前も、守護霊として、ずっと分霊を張り付かせていたけれどね。可愛かったよ、実原の敬虔)」
ハイ〳〵、よござんしたスね。――なあアネキ、こんなこと言へた義理ぢやねえかも知れねえが、それでも、それでもよ。俺に力を貸して欲しい。過去を受け止めて、『乗り越え』た上での頼みだ。
「(いや、断る理由が何処にあろうか。……そうだね、我輩が撹乱する、その機を狙い何とかし給え。では、準備が出来たら合図を)」
俺は、大きく一呼吸。腹が痛む、んなのは関係ねえよな。
「八千代、来いッ!!」立ち上がつた後、声の限りに叫んだ。あいつはかなり驚いた風だつたが、すぐに駆け寄つて、心配を言葉にする。
「ちょっと実原、起きちゃって大丈夫なの?! 龍毘はうちが何とかするから、安静に――」構はず、俺は、強引に八千代の口を塞ぐ。
「――むぐっ?! ん、ふ、ふあっ……は、んんっ……ちゅ」最初は何が起きたのか分かりかねる風だつたものゝ、ダバつと涙を流した後、自分から唇を押し付けて来やがつた。一人の戦ひが余程心細かつたのか、俺がこいつと自分の気持に気付くのが遅すぎたのか……どつちにせよ、これからじつくり取り戻して行けば良い話だ。
放つておけば何時までもかうしてゐさうで、肩を叩いて中止させる。改めて顔を見れば、真赤な上に、血と涙でグシヤ〳〵だ。だが、そんなのは何の問題にもならねえとも。「愛してるぜ、八千代」
これから何を言ふか、流石に分かつてたらうさ。それでも八千代は、目を見開いて、頬を更に赤くして――笑ふのはその後だつた。
「うちもだよ! 劇部で会う前から、ずっと好きだったんだからぁ! ……でも、ひどいよ実原。こんな時に、こんな場所で告白するなんてさ。いや、嬉しい、すっごく嬉しいんだけどね……?」拗ねた様に付け加へるのが可愛くて、今言つて正解だつたかといふ気持ちが起こる。しかし後が怖い、こゝは素直に謝つておかう。
「あァ、本当に済まねェ。けどよ、こォいう場面だからこそだ。溜め込んでおいたんじゃ、出るモンも出せねェって寸法だぜ。俺達の愛の力で、あいつに、リュービに立ち向かおうじゃねェか!」
「これが、初めての共同作業って訣。……うん、ナイスな展開だね! 何だか、上手い具合に利用されてる気もするけどっ!」
「それも、この後一生かけて埋め合わせしてやるぜ。望むなら、死んだ後もずっとだ。その為にも、今の戦いに勝たなきゃなんねェ!」
「よーし、じゃあ出力一二〇%で行くからね! ――あれ、でもあいつ、恐ろしい程に付け入る部分がなくて、ソーローソーロー言ってる癖して全然疲れてそうな気配ないし……打開策とかあるの?」
「そこは、どうにかなる。少し人の力を借りることになるが、まあ、ノーカンの範囲内だろ。神風が吹いたってことにしとけ」
「うーん……まあ、実原がそう言うんなら、うちも気にしないよ」さう言つて、八千代は身構へる。よし、頼んだぜ、アネキ。
「(やれやれ、そこまで乗り越えろと言ったつもりはないんだがね? 気付いて貰った以上は、お姉ちゃんにも一縷の望みが――はあ。我輩が三つ数え終わったら、その時点で走り出すといいよ)」
この時、俺は何をしたのか見えなかつたが、龍毘は回れ右してそつちに鎖を振るひ始めた。後で聞いた話によると、大量の分霊を作つて、背中からけしかけたらしい。間もなく、カウントが始まる。
「(ひぃ、ふぅ、みぃ――さぁ、祝福しよう、君達の門出を)」
「よっしゃ、行くぜ八千代」俺達は、推進器を最大出力に設定して、片腕を合はせて走り出す。力が漲る。これなら……負けねえ!
「これで決まりだよ! 超必殺☆天上天下相思相愛拳――っ!!」
八千代の声に振り向く龍毘、その胸を、二つの拳が確かに叩いた。二打、三打、そこから顎まで殴り抜けて、やうやく足を停める。
「勝ったッ!」これは、文句なしの勝利の確信だ。俺達は拳を合はせ、ついでに額も軽くぶつける。それ以上は、今は我慢だよな。
「さあ、水城を助けに行こうぜ! 笑って明日を迎える為にッ!」
***
一九時四〇分
南方本邸へと続く地下通路
「思いの外、善戦したものじゃのう。見直したぞい清狼や」
「ご、ご主人を……悪人、に、したく……ないからっ」膝を突いた清狼は、身体を起しかけて、途中で咳き込んでしまふ。それを見るに忍びなく、水城は走り寄つて、各所の打ち傷をしきりにいたはる。
「じゃから、悪ではないと言っておろうに。そろそろ諦めい。清狼、戦い慣れぬお主では、どう足掻いても儂には敵わん。黙って言う事を聞いておれば良いのじゃよ」
寅次は、あくまで自説への固執を崩さず。清狼の体力も最早底を突けば、進退窮まつたかに思はれた。
「儂の下におれば間違いはないのじゃ。お主も、そこの神子も」
「はッ、どォだかな!」
若い声が響き渡る。耳に入つた途端、水城の表情に、希望の色が浮かぶ。我らが手負ひのヒーローの登場だ。
「間違ってないなら、何でその人や水城ちゃんは泣いてる訣!?」
ヒロイン、同上。人間不信の老爺も、それは聞き飽きたと顔を顰む。
「此奴らのは、人参が食えん子供の癇癪の様な物。本当の幸せが解らんで、目先の楽ばかりを見ているからこその愚かな反抗よ」
「確かに南方寅次、手前ェの世話になれば、物質的に困窮することは有り得ねェだろォさ。だがな、そもそも何が悲しくて、人間は生き抜かなきゃならねえんだ? ……それだけの見返りが、未来の幸福があるからじゃねェのかよ! となれば、キモは心だ!」
「そう、心の大事さが分かってないから、あのリュービみたいな人間ロボットが生まれちゃうんだよ! もうさ、猛省してよねっ!」
「小癪なッ、不法侵入の鼠風情が、分かった様な口を利くでない!」熱り立つた寅次、忍者仕込みの摺り足で、間合を詰めて竹刀を振る。負傷の実原、こゝに来て動きが鈍り、もろにその餌食となりぬ。飛び退り、もう一撃を狙ふのを見るに付け、恋人の矜持を胸に抱く八千代は、迷ひなく援護防御に入る。だが、軽さ故の取り回し易さを考慮に入れず、三太刀目への対処が追ひ付かない。あはや転倒して実原の傷を抉るか、さういふ所で、間に第三者が割つて入つた。
「そこまでよ!」とは、理世を召喚した理生の、馴染の台詞である。
「な、お主ら、何処から現れよった!? 結界で、高位の神なぞ入って来れん筈。その守りとて、警備員とメカで完全に固めて――」
「つまり、覚悟の程が違うということだ。俺達は、天皇陛下の大御心の下、全地球人類の幸福の為に戦っている。所詮自分自身の得しか考えていないSS達は、尻尾を巻いて逃げて行ったぞ!」
「蒲田さんとロボットには、かなりてこずったけどね…」
勉と恵は平然と語るが、その格好には、激戦の跡があり〳〵と。
「おゥ、トム。手前にしては来るのが遅かったんじゃねェのか。俺達なんか対忍者戦で、こんな傷まで受けちまったぜ、ワッショイ」
「まさかとは思うたが、お主、あの龍毘までもやりおったと言うか!くっ、これだから人間は、信用ならんのじゃ……!」
「そう言うあんた自身が、駄目な人間の一翼を担ってちゃ、な」人外の最たる理世は、翼で以て寅次の竹刀を叩き落とし、拘束。そこに脹れ面の理生が転移して行つて、彼の手首に手錠を物質化した。
「弁明は、後日裁判所で、検察相手に願えるかしら。取り敢えず、掠取及び傷害の現行犯、並びに贈賄の疑いで逮捕させて貰います」
具体的な罪名を出され、寅次はがくりと項垂れる。見て見ぬふりをしてきた事実を、この期に及んでやうやつと直視したのであつた。
――しかし、それに異議を申し立てる者がある。彼の妻の清狼だ。
「お待ち、下さい……。ご主人は、あくまで、あちきら、神のこと、考えて……少し、間違った、だけ……連れて、行かないで……」
かういふ話に弱いのは、次元上昇隊も同じ。だが、超法規的に対処すべき問題と、すべきでないものゝ区別は付く。故に理生は、その隊長として、普段通り恨まれ役を買つて出る。
「残念だけど――」と、その言葉を、被疑者が遮つた。
「清狼や、儂は、償わねばならん。神のお主と忍の龍毘を従えて、何時しか自分も神になった気でおった。じゃが、人の世に生きるからには、法には従わねばの」
「主君ノ、サウ仰セ候ハヾ、吾モ、同行致シタク、存ジ、候……」
「げぇーっ、龍毘!?」倒した筈のがぬつと現はれ、八千代が叫ぶ。だが、戦意がないのは明らか。どうやら、命令を守れなかつたことをこちたく気にして、物陰から一部始終を窺つてゐたらしい。
「ほれ、この通り龍毘も付いておる、案ずることはない。じゃからお主は、儂が戻るまで、この園の皆を世話しておいてくれんかの。勿論、お主がそう判断するならば、元の場所に返して構わん」先程までとは、まるで違つたこの言ひ草。人は気付き一つでかうも変はるか。その目を見ては、さしもの清狼も引き留むる事能はず「……分かった、ご主人。どうか、その日まで、お達者で……」と送る。
以上を経て、南方寅次、桐谷龍毘の身柄は検察に引き渡されたり。
***
姐サンが検察に行つてゐる間、俺達は水城の側のことを聞いた。「何つゥか、そんなことが。清狼サン、水城を助けようとして下すって、ありがとうごぜェやした。寅次のことは、まァ残念ッしたが」
「……いや、いいんさ。ここで素直に送り出すことこそが、ご主人の言っていた、先を見据えた行動の本当だって気がするんだね」しみ〴〵と言ふ清狼サンは、気丈さうに見えて、実際かなり堪へてゐる風だ。よく聞けば、寅次もそれ程悪い奴ではなかつたさう。一歩間違へたら、俺と八千代も、この人逹みたいになりかねないつふこつた。もつと、バン〴〵言ひ合へる様な関係を作らないとな……。
「(君達に関しては、そう大袈裟に考える必要はなかろうさ)」
「さて、手続きは終わったわ。ついでに幸ちゃん連れて来たから、重傷者から順に〈治癒促進〉を受けて頂戴。最初は白河くんね」
姐サンに言はれて俺を向いた君島は、途端に肩を怒らせて、ズケ〴〵と迫つてくる。
「白河先輩。どういうことですか、その傷は!」
「油断してたつゥこったよ。まァ、死ぬよォなことじゃねえ」
「それは分かってます。問題は、海山先輩が悲しむってことですよ!」
こ、この女やけに俺に手厳しい……つふか八千代に甘いのか。
「いや、さ、幸。確かにかなりショックだったけど、後の方で格好良く復活、からの大胆な、トライダーな――」言ひかけて、顔がボツと茹だる。思ひ返してみれば、それなりに恥づい愛の告白だつた。うぐ、八千代手前え、今、そんな潤んだ目で俺を見てくれるな……。
「二人して顔赤くして……何をシたですか――っ!? そういうのって、世間的には吊り橋効果で説明されると思うんですけどっ!」
「あら、そんなのじゃないわよね? 今日も日中はデートでしょ」姐サンの暴露で、君島の表情が凍り付く。何なんだ、一体。
「そういう大事なことは、もっと早く言って下さいよ!」
「言われても……急な話だったし、出来るだけ二人っきりの思い出にしたかったし、恥ずかしいし、そもそも幸に言ってどうにかなる様な話でもないし」などゝ、一頻りモジ〴〵する八千代だつたが、何度か俺に視線を送つた後、グワシと俺の腕を抱き締めた。
「分かった、じゃあ今言うよ! うち、海山八千代は、白河実原と恋人として付き合うことになりました! そこん所よろしくっ!」
儀礼的な拍手が響く。このメンバーでは、大した騒ぎもないわな。
「おめっとさん。ようこそ、こっち側へ」トムが、右の剛腕を差し出す。こいつなりの祝福、これ程清〻しい気分での握手は初めてだ。
「二人はこれからも、今日みたいな感じで、一緒に戦ってくれるんだよね…? 色々大変だと思うけど、支え合って頑張って」
「言われるまでもないよ、恵。妬かされたら妬かせ返す所存だし」
「どういう宣言ですか、全く。まあ、先輩がそれで良いなら、もう私から口は出さないんですけどね……はぁ」何か知らんが、君島の方はどうにか決着した様だ。眼鏡を拭く姿が、妙に物悲しい。
「(本当にね。しかしお姉ちゃんとて、とっても悲しいのだぞ?)」
突つ込まねえが、正体バレたからつて開き直り過ぎだ、アネキ。
「それにしても意外だったな。俺はてっきり、水城ちゃんを、こう」トムの言葉で、はつと気付く。さういや、あんまりに喋つてねえな。
ドド〳〵ドド〳〵! そんな漫画の効果音じみた音が聞こえ始めたのは、まさにその時だつた。そつちを振り返ると、少し離れた場所から、巨大な水柱が空まで伸び上がつてゐやがるぢやねえか。
「な、何だこりゃア!?」思はず叫ぶ。だが待て、水と言へば――
「ええ、あれは間違いなく、水城が形成しているものね」飛んで来た諏訪呼サンは、跳ね回る仔犬でも見る様な目で、上へと落ちる滝を眺める。その内空は灰色に変はつて、強い雨が降り始めた。
「水城は、地脈と同調しているわ。霊力は無限と言って差し支えない。けれど、使えば使うだけ、他への配分が減るのは事実よ。更には、このまま地球に水が増え続ければ、大洪水の再来も有り得る」
「いや、流石にふざけてるよね、諏訪呼さん……」
「ふざけてるかどうかは抜きにして、止めなきゃならんのは事実だ。さあ、どうする白河実原。あんたの責任なんだ、あんたが決めな」
薄透明のバリアーの中からビシツと指差す理世サンも、何処か楽しげにしてゐる感じがある。ひよつとして、俺を弄つて遊んでんのか。
「……俺と八千代で、ケリを付けるっスよ。それが最善スからね」
「そうだね。水城ちゃんの気持は、うちもよく知ってたし」
見詰め合つて、一つ頷く。流石は俺の選んだ女、きちんと分かつてるな。
「オーライ、二人共。装備の面でなら、俺が手を貸してもいいな? 必要な物資があったら、反則にならない程度で言ってくれ」
「そんじゃトム、拡声機を二つ頼むぜ。とびきり通りのいい奴だ」
オメガフオンを持つた俺達は、水柱の近く、飛沫の来ない辺りに立つ。こゝからならば、水音に負けずに俺達の声を伝へられる。
先づは水城を探す。水城の作る水は純水で透明だが、力の暴走で水になりきれなかつた酸素水素の泡が大量に混じつたり何だりで、中の様子が今一分からない。精々、着物の赤が見える程度か。
声が聞こえるだけぢや、恐らく水城を安心させるには足らねえ。だから〈幻影〉の応用――いけるか、本物のハイヤーセルフ?
「(あの水は、霊圧によって上がっている。でも、地中を通せば大丈夫さ。ああ、今後もお姉ちゃんが口利き役を務めてあげよう。何、余計な気遣いは無用だ。甘んじてサーヴィスを受けると良い)」
アネキだからこそ、不都合なこともマヽあるんだがな……。文句を垂れても仕方ねえか。そんぢや、俺のイメージ通りに頼むぜ。
俺と八千代の周り、そして水城のゐる空間を――〈交映〉だ!
目の前に座り込んで泣く水城の姿、反対に、水の中には俺達の影が映し出される。〈幻影〉は光の反射情報を切り取つて他の座標に転送するモンだつたが、この〈交映〉はその情報を複製、持つて来て持つて行く。つまり、俺達側と水城側、それ〴〵に三人ゐる様に見える訣だ。俺の認識空間に限られて、普段なら使ひ途なんてねえ。それでも、今この場面で、互ひのことをしつかり実感する役に立つ。
「せーのっ」八千代の合図で、一緒に名前を呼ぶ。ビクつと震へて俺達を見る水城。が、また固く目を瞑つて、水の勢ひを強めた。
『もう、やなのですっ! 来ないで下さいですよ――っ!!』
水をスピーカにして、拒絶の声が大きく響いてくる。辛えな、これは。
『水城ちゃん……ごめんね、実原取っちゃって。でもうち、もう、この人がいないとダメなんだ。実原の為なら幾らだって強くなれるけど、一緒にいられなかったら、きっとどこまでも弱くなっちゃう。だから、こればっかりは、絶対に譲れないんだよ!』
『みなきだって、お兄ちゃんがいないとだめなのですっ!』八千代には負けじと、水を揺さぶる。水城が俺に懐いてんのは、そら良く分かつてたぜ。それが恋なのか、刷り込みなのかは知らねえが。
『じゃあ、どうしてこんな真似してんだ、手前は。俺が、こォゆう風に色んな所に迷惑掛ける様なの嫌ェなことぐらい、分かんだろ?』
『きらわれたいからなのですよっ!』絞り出す様に叫ばれのは、正直予想外の言葉だつた。
『お兄ちゃんがお姉ちゃんと結ばれたら、もう、水城は近くにいられませんです! 相手がいる人には、かべを作ってあげるのが淑女のたしなみだって、れみいさんが言ってましたっ! だから、みなきは悪になって、退治されるしかありませんのですよ……』
『また、えらく飛んだね……気持ちは分からなくもないけどさ』
往年の「いっそ殺して」論法か。さう言はれて、討てる奴がゐるとはとても思へねえが、その辺りはまだ〴〵子供つてこつた。
『何つゥかよ……。水城、手前のソレは、ちィとばかし曲解が過ぎるぜ。そら、赤の他人だったらそれなりに気を使わねえとだろォが、手前は俺の家族じゃねェか。苗字だって、白河になったろ?』
さう、今のこいつは、もう錦織水城ぢやない。白河家の戸籍に載る、俺の義理の妹だ。だからこそ、寅次を掠取の現行犯で逮捕出来た。
『じゃあ、おそばにいてもいいのですか……?』
『ッたり前だっての。どうしてここまで来て、必死こいて戦ったと思ってんだ。手前を連れ戻す為だろォが』
俺が言ふと、水城は〈水生〉を停止。二次的な雨までは止まないものゝ、空に上る水はすぐに霊に還つてゆく。俺も〈交映〉を解除して、八千代と一緒に水城の方へと足を運ぶ。向かうからも「お兄ちゃぁぁぁんっ」と声を上げながら走つて来るんだが、抱き付かうとする所を、途中で制した。
「どしたの実原。うち割と嫉妬する方だけど、このぐらいだったら大目に見るよ?」事情を知らない八千代もまた、首を傾ぐ。
「いや、な。水城、辛いかもしれないが、一つ約束してくれ」相変はらずよく分からない風の所に、意を決して言ふ。「今はまだ甘えてもいい。けどこれから先、手前は俺から離れる努力をすんだ」
予想通り、水城の顔には影が落ちた。ついでに八千代にもな。
「んー、まあ、そうだよね。でもさ、それって今言う事?」
「早いに越したことはねェし、丁度、水城の謎も解けた所だからよ」
「みなきは、何もかくしたりなんかしてませんのですよ?」
「確かに隠しちゃいねェ。だが手前、どうして人間になれたか分からねェっつったな。その答えは、死んだ俺のアネキが手を貸したからだった。そして、水城の身体は、生前のアネキのモンなんだ」
二人の反応は、案の定信じられないつふ感じだ。そして、アネキは「(我輩がやったという、証拠でもあるのかい?)」と非協力的。そこでトムを呼び付けて、預けておいたリユツクを物質化させる。
「水城、ほら、地下都市土産のべちご焼きだ。好きなんだよな」
「わぁいなのですっ」極彩色の菓子だが、躊躇なく食つた。
「アネキも好物で、十年前、よく食わされたのを思い出したぜ。この菓子は十年ぐらい前に製造中止になったな? そして水城は、その存在を知っていた。つまり、アネキの脳に残っていたべちご焼きに関する情報を、水城は意味記憶として引き出した訣だ」
「少し、弱いのではないかい。別に、我輩である必要はなかろう」
菓子に誘はれてまんまと化身したアネキを、俺はこゝぞとばかりに指し示す。
「これが、俺のアネキの実寛だ。見ての通り、まるで成長した水城だろ? 何でか知らんが、成育状況まで弄って化身出来る様な神格になったアネキなら、水城に身体をやるのも造作ねェ」
「そう褒めてくれるな、実原。君への愛情で、お姉ちゃんはここまで成長出来たのだからね。水城の件は、その御礼という具合さ」
「下手すりゃ近親の一大事だろォが。……まあそォいう訣で、俺と水城の恋愛は土台無理だったんだ。その辺が分かっとけば、今後の俺達の生活は取り敢えず安泰ってよ。了解してくれるな、水城?」
「は、はいなのです……?」
どう聞いても、一応返事をしてみた体だつた。遺伝子重複で障碍云々は、まだ教へるには早いか。
「今の内の話だよ。神界には、一夫一妻なんて決まりはないのだからね?」アネキの目が妖しく光る。それでいゝのか、高位神。
一方、そんな姉弟のやり取りを見て、八千代は頭を抱へてゐた。
「何か、五十万年周期くらいの長きに亘る戦端が開かれちゃった様な気がする……。うーん、取り敢えず夜露死苦ね、お・義・姉・さん?」
「うむ、いい牽制だね。八千代、君となら楽しく闘れそうだよ」
アネキも、一歩も退きやがらねえで火花を散らす。それを見てトムなんかは「俺、モテなくて良かったわ……貴官の健闘を祈る」とか囁き掛けて来やがんの。これぢや、俺の不安も天井知らずだ。
「歓談の所悪いけど、そろそろ家まで送るわ」つふ、姐サンの言葉の嬉しさといつたら。
まあ、俺の道徳は、さう簡単には折れねえんだがな。
***
二〇時三〇分
白河邸 玄関
「ただいま戻りましたのですっ」
娘が元気に扉を開けば、父母は足音高らかに。しかし、彼等の想像より人数が多いのには、流石に動揺を隠せない。
「ミィ、サネ、よぐ帰って来たねエ。そいで、そっちの二人は?」
視線は、先づ長身の八千代に注がる。緊張でがち〳〵の。
「は、ずめますてっ。こ、こここの度、実原――くんとお付き合いさせて頂くことになりまちたっ、海山、八千代、でず!」
「手前、幾ら何でも噛み過ぎだ……。そんな気負うなって」
やり取りを見れば、悪にあらざることは瞭然。父は安堵して呟く。
「はーア、とうとう実原も、スミに置けなくなってきやがってンのな。ヌ、するってエと、もう片ッポの別嬪サンは何なんデイ」
「父さんに褒められても、あまり嬉しくはないね。――ほら、今は亡き娘の実寛、可愛い可愛い本物のミィちゃんだよ。ちょっとした誤解を解く為に、神世から舞い戻って来たのさ」
誤解とは即ち、水城は実寛の生まれ変はりだとする思ひ込みである。白河夫婦は、実原と違つて、彼女に関する記憶を失つてはゐなかつたのだ。
「ど、どういうこったい? 母ちゃん、頭が追っつかないよ」
「それも含めて、色々と話をしようか。遺言もなかったんだ」
勝手知つたる自分の家、下駄を脱いだ実寛は迷はず居間へと向かふ。呆気に惚られる親二人、されど不思議と納得し、水城と後に続いた。
「おら突っ立ってねェで。心配すんな、俺が一緒だぜ」手を繋ぐ。固まつてゐた八千代は、その力で以て、敷居を跨いだのだつた。
【恋克・完】