ゴシック・アンド・ロリータ
作品タイトル:ゴシック・アンド・ロリータ
作者:釼鋒 金
Ⅰ
私の半生を語る上で、ある少女の話をしておかねばなるまい。
その少女は私の生涯を導いた、或いは狂わせたかもしれない魔性の聖女であった。
姿以外の素性は今になっても全く知れないが、今や彼女は確かに私の人生の指針であり、それを切り替えるポイントにもなっている。
大の大人が少女に恋焦がれる話にもなってしまいそうだが、私は彼女を捕まえたところでどうするなどということは考えていないし考えられそうもない。ない答えを探すのは間怠っこいから、まずは話そうか……。
私、岳本久之助は明治三十四年、兵庫の淡路で生まれた。生家はそこら一帯の地主で、家を境目にして表に民家、裏に山が広がる所だった。
尋常小学校に入る少し前の時分だったろう。私は家の裏の山で虫や木の実をとるなりして遊んでいた。そこは斜面もなだらかで、人が通った跡も充分あったから、私の恰好の遊び場だった。
川だけは、親の言いつけで危険だから行くなと言われていだのだが、その日私は好奇心から、人が踏みしめて出来た道を離れて森の中にある川の下流へ向かった。
川の近くは、流れてきて角の取れた丸い石や倒れた木なんかで足場が悪かったが、幼い私は見知らぬ場所へ足を踏み入れようとする腕白さでもってそれを飛び越え、岸へたどり着いた。
すると向こう側の岸に、私は山の緑にそぐわない黒い影を認めた。
見ると、少女が苔むした岩に腰掛けていたのだ。
その時の季節は確か六月だったと思う。気温もぐっと上がり始めた初夏であるにもかかわらず、少女は上から下まで汗の吹き出そうな黒い服を着ていた。
しかもその服は、当時の私や周りの人々が着ている「着物」というには、帯もたすきも無いものだった。肩口で切り落とされた黒い服の下からは、白くて細長い袖が肘まで続き、そこから先は日焼けを知らぬ白い腕が見えていた。
着物とは違い、膝下までしかない裾――今となってそれがスカートであるとわかったのだが――それには、どんな織り方をしたのか想像もつかない、細かい穴で形どられた模様の白い布地が蛇腹に飾られていて、それと同じ型どりをした穴あきの布地を飾った、柄まで黒い傘も持っていた。
そしてふくらはぎまで伸びた靴下を履いた足を、裏から甲まで包んだ黒靴で固め、川の水面にやや沈めて小さくしぶきを立てていた。
少女は彫りの深い顔立ちだった。長い睫毛と黒く縁取られた瞼に抱かれた大きな灰色の瞳に、眉間から顔の中央へかけて通る、凹凸なくすらりとした鼻筋、桜の花弁が触れたような唇とが、雪田たる肌と絹糸の髪の中で侵し難い光を湛えている様に私は見とれた。年は二十歳頃に見えたが、そうした西洋風の顔からして、もっと若かったろう。
少女は私に眼を向けると、靴が濡れるのも構わず川を渡って私のもとに寄ってきた。
山中に、見たこともない格好をした、東洋人らしからぬ風貌の少女がいることに私は多少の恐怖さえ感じた。しかし、温かみを持った彫刻のごとき美貌――少女に美貌という言葉はどうかとお思いだろうが――に圧倒され、魅了されてもいた。
少女は固まったままの私の横で立ち止まり、何やら呟いたかと思えば、私が振り向くと既にいなかった。すぐに家に戻り、親に少女が誰なのかを問い詰めようとした。
――少女は何と言っていたのかって? そうだな、まずはそれを言おうか。といっても、少女の言っていた言葉の意味はまったくわからんのだ。何と言ったかはしっかり記憶しているのだが……日本語でもなければ英語でもない。私はヨーロッパの言葉には明るくないしな。
君は、大学でイギリス英語を研究しているんだっけな。アメリカとイギリスにどこまで差異があるか知らんが、ちょっと考えてほしい。
少女は、こう言ったんだ。
「ろ、ちさ、がらない。 いじん、ざ、ろんさん、らたいあす」
……発音が多少よろしくないのは勘弁してほしい。私も下手ながら英語を人に教える立場であったが、こうして脳を悪くしてしまって、めっきり病院の床で過ごすようになってからはとんと学問の方には……。
発音がよろしくないと言ったが、そもそも日本人の舌やら口腔やらの造りが、英語には会わないと思うがね。……ところでどうだい、今ので何か思い当たる節はあるかい?
…………ハハア、なるほど。イギリスの英語はアメリカよりも滑らかでないハッキリとした発音なのか、知らなんだ。しかしそれを踏まえてもイギリス英語とは言い切れないと……。まあいい、記憶の片隅にでも留めておいてくれ。
それでだ、少女が消え去った後、私は急いで自宅に戻って針仕事をしていた祖母に、「山に変な洋服の子がいよった」と言ったが、当然祖母はそんなことだけでは何のことかわからないようだった。
「この辺に洋服を着た子はおらへんよ」と祖母は言った。はばかられる言い方だが、故郷では一番の分限者だった私の家ですら洋服は持っていなかったからなあ。いわんや他の家をや、だ。
学校から帰ってきた兄姉に「友達に黒と白の着物を着た子っておるけ」と話をしても、「そんな葬式みたいなケッタイな着物のやつがおるかいや……」とあしらわれた。
「妖怪にでも会うたんやないか……おおかた取って食われるところやったなあ」と五つ上の兄貴が茶化したのを聞いて、私はぞっとした。
ほかの兄貴等もそれに輪をかけて、山姥の子供に会ったんだと輪をかけたが、最後は女親が山の神だろう、今に良いことが起こる兆しだと場を収めた。
その後、少女の放った言葉を両親に行って聞かせても、その意味が分かることはなかった。まあ、男親は十八で中学校を卒業してすぐ仕事を始めたから、金を稼ぐ術は知っていても教養は十分でなかったのだ。
……枯木枯竹の中で見た黒衣の少女は、鏝か何かで恋を知らぬ私の脳裏にその姿を焼き付けて消えてしまった。それから十数年の間、少女は私の記憶の片隅に、動きもせずにポツリと座り続けていたのだ。
Ⅱ
私が黒衣の少女と再び合間見えたのは、大正十年、二十歳の時だった。
中学を卒業した後、私は第三高校へと進学した。……そうか、今は京都大学と改まったんだったな。
高校に入ったはいいが、実はその時私は学校で何をなすべきかをほとんど考えていなかったのだ。さっきも話したように、私の両親は高校を出ていないから、息子共を最高学府へ、娘共を高等女学校へ行かせることに躍起だった。
まあ、そのせいで男親に反発する兄弟も少なくなかった。私の家は五男三女だったが、高校に入ったのは長男と末弟の私だけだった。長男は第八高校――名古屋大学で教授をやっている。君も縁があったら会えるかもなあ。
もう二人の兄貴は大阪で身を固めて会社員。もう一人の兄貴は何を思ったか出家しちまった。木魚をポクポクやりながら、同人に俳句なんぞを投稿しているらしい。姉貴三人の方はというと、揃って高女に入っていたよ。そうしてシッカリ嫁入りした。
……それで、なんの意思も持たぬままに大学予科をチャンチャンと受ける日々が一年続いた。私は親元を離れて学生寮で暮らしていたのだが、そこは広々とした田舎の家の座敷みたいなものでなく、狭い板張りの二人部屋に万年床だ。劣悪な環境だったかも知れないが、サバイバルのごとき食うや食わざるやの状況をあの頃は楽しんでいた。今となってはできそうもないね。嗚呼善哉学生時代だ。
だが、少女に関する手がかりは何も掴めないでいた。学友たちに当時の記憶を話しても、返ってくるのは、「ただ通りがかったのが本当のところではないか」「狐が化けていたのでは」といったあけすけな返事だ。
「久之助君、君のふるさとは兵庫なんだろう? 兵庫には宝塚歌劇団があるじゃあないか。きっと、ヨーロッパからやってきたそこの役者嬢にでも会ったんだろう」
みたいなことまで言い放つ人間もいたものだから、たまらず言い返してやったね。
「君、本当に宝塚歌劇団が何たるかを知っているのかい。一度兵庫まで来てレビュウを見てみることだ。僕が金をもってやってもいいね。
それにあの少女は傘を持っていたんだ、邪魔で踊りなんてできないだろう。第一、ヨーロッパこそショウの本場じゃないか。何だってわざわざ東洋まで来るんだ……」
私があまりにも熱狂的にまくし立てるものだから、周りのやつらが尻込みしてしまった。当時は舞台とは女子供の世界だったから、しばらく私は女さながらに見られていたものだよ。
そうしたら、ある一人の学友が少女の服装についてこう言ったんだ。
「君が見た少女の話を聞くところによると、白黒で統一した洋服らしきものを着ていたんだね? きっと厳格、荘重を極めた服装なんだろうな。まるでずいぶん前に流行った、ゴシック小説の登場人物みたいじゃないか」
ゴシック小説と聞いて、私はどういった小説なのかはわからなかった。しかし、学友のその言葉をもって初めて黒衣の少女を定義づける要素――「ゴシック」たる言葉を見出したのだ。
……ゴシック小説、知っているかい? 知らないなら教えよう。もう百年以上前に西洋におこった、中世の城や教会を舞台にした怪奇風味のある文学様式のことだ。「フランケンシュタイン」や「ドラキュラ」がそれにあたるね。
その中に登場する女性の服装が、貴族の服装を模したロングスーツであったり、コルセットであったりしたわけだ。少女の服装が完全にそれに当てはまるものではなかったが、黒衣の少女は「ゴシック」の少女となり、私のうちにいっそうその天使的かつ悪魔的な容貌を喚起させたのだ。
黒衣の少女は私の生きる指針でもあると言ったが、そのあたりから私は服装に気をつけるようになった。
よくつるむ友人に、ハイカラな奴と蛮カラな奴がいたのだが、三人して街を歩くときなんぞは、まあ二人は周りの女学生や中学生らの目を引くんだ。ハイカラな奴の方は、スラックスと黒靴を履いてステッキを欠かさず持ち歩いていた。蛮カラな方はつばの割れた学帽、グザグザに破れた制服、音のよく響く下駄を履いていた。
私の方はというと何の事はない。制服を飾り気なく着て、足には巻きゲートル――兵隊が足にグルグル巻いているあの布だ――、ほかの二人よりずっと幼く見えたか知らんね。
そんな格好の私を、学友二人はハイカラ蛮カラに引き込もうとしていた。
ハイカラな奴が「久之助君、僕等はこれから日本を魁ける存在にならなければならない。もっと新しい文化を取り込んでいくべきだ。そんなきついゲートルはそれこそ君の了見を縛ってしまうぞ」と言えば、蛮カラな奴が「俺も了見を狭めるのは良くないと思う。だが見てくれを重んじたようなのは駄目だぜ。見ろ、この弊衣破帽は質実剛健の証だ。男は中身で勝負ってことを知らしめようじゃないか」と熱烈な説得。
しかし、私は「いつか見た少女が厳粛な身なりをしていたなら、自分も常日頃からそうしておかないと、どこかでまた会った時に恥ずかしい。すまないが、僕はこのままがいいんだ」と応じなかったね。年をとると頑なになるらしいが、むしろ私は若いときのほうが頑固だった。「だったら、君寝るときも制服を着るのかい?」と笑われたものだ。
……まあ、そうは言ってもやはり寝るときは楽な服装がいい。その日の夜、寮に帰った私は自室の薄汚れた布団で休もうとしていたんだ。すると、もう一人布団を並べていた寮生が街中の店で譲り受けたらしい食パンの耳とカステラの切り落としを分けてくれてな、質素な生活に漬かりきっていた私は飛びついた。
すると、寮の最古参が寝泊りしている隣の角部屋から「ウオオッ……」と雄叫びが聞こえるや、廊下をドカドカと歩く音、次いで私の部屋の戸が壊れんばかりに開け放たれた。
運悪く、上級生がストーム――抜き打ちの馬鹿騒ぎを敢行したんだよ。そのころの学生寮では珍しいことじゃなかった。
久々の甘いものがおあずけで、隣の部屋の上級生の一人が寮歌を叫び、一人が食堂の厨房にあったらしいお玉と鍋をガンガンと叩いて私を廊下に引っ張り出した。
それに触発されてほかの部屋のやつらも廊下に転がり出て、ある者は肩を組んで歌う、またある者は番傘や扇子を持ち出して踊る。寮内はたちまち興奮の坩堝だ。
「クーレナーイモーユル、オーカノーハナア……、サーミドーリニーオウキシーノーイロオ……」ってな具合に、私も寮歌を歌った。
ついには庭まで追い立てられてしまって、火は焚くわ、服は脱ぐわ、近所の住人まで参加するわでもうシッチャカメッチャカだ。いつしか私も軍隊喇叭を持ち出してあらん限りに騒ぎ立てた。
ふと往来に通じる庭の門を見ると、そこだけがガス灯から発せられる光を吸い込んでいて真っ暗だった。目を凝らしてよく見てみると、ガス灯の光を暗く受け止めているのは、傘だった。
私の胸は鉄砲で撃たれたように跳ね上がった。左胸を押さえてゆっくりと傘の下に目線を落としてゆくと、……薄い亜麻色をした長い髪、胸の辺りで結わえた棒タイ、傘を持つ白い腕……。十数年前と変わらぬ姿で、黒衣の少女が立っていたのだ!
しばし呼吸すら忘れたよ。そして私が少女に駆け寄ると、ほかの寮生たちもそれに続いて奇声を上げて少女のもとへ大挙して押し寄せた。私から話を聞いていた者たちは、確かに見たことない服装だと驚いていた。
少女はやおら傘を上げて私の目を見つめた。灰色の瞳は、黒く荘重な洋服と違い、降り積むガス灯の光を集めて私に投げかけていた。
私は少女と言葉を交わさなかった。今にも少女に飛びかかってしまいそうな程に昂ぶる感情を抑え、やはり心のどこかで叶わないとも思っていた幻想的な邂逅を、互いの熱烈な視線で持って噛みしめていた。
……いや、少女はどうだったかは知らない。しかし、私の顔に血が昇るのに同調して、彼女の乳白色の頬にも確かに赤みがさした気がした。
その時、私はようやく自分が下着一枚で軍隊喇叭を片手に持っている間の抜けた格好であることを思い出した。自分の体を隠しかねておろおろする様を寮生たちがはやし立てた。
少女は、桃色の柔らかな光を放つ唇の端をやや緩ませたかに見えた。そして再び目深に傘を下げて、翻したかと思うともはや誰もおらず、そこには人無き後の寂寥すらも残っていなかった。
寮生たちはすかさず私に少女との間柄をしつこく聞きにかかったが、私の脳はそんな言葉も、少女との再開に湧く感情すらも遮断した。一目散に自室に逃げ帰っては、喇叭を抱えたまま布団に潜り込み、瞼の裏に残る不変のゴシックの少女の姿を執拗に追い求め、愛で続けるうちに眠ってしまった。
会えはしたものの、少女は哀しくも私に記憶のみを留めるだけで、女去りし際の残り香さえ無かった。
Ⅲ
三高を卒業した後、私は高等師範学校に進み教師となった。そして兵庫に戻って県立高女――高等女学校で教鞭を執りだした。
かつて教育は天皇から授かった職だったが、私はそんな聖なる使命感のもとで教職に就いていたのではない。ただ単に、私の赴任した県立高女の制服は黒色だったから、それを着た女学生たちをどこかゴシックの少女と重ね合わせて見ていた。そうして一人満足する性癖じみたものに日々の生活を捧げていただけさ……。このことは他言無用だ。きっと昔の同業者に袋叩きを喰っちまう。
そんなだから、齢が三十に近づこうとも結婚しないでいた。もちろん、恋とはどんなものかしらと考えもしたさ。しかし若き時分の私の心はゴシックの少女の虜だった。街の喫茶店の女給なんかと世間話をしつつ、ゴシックの少女を考えていたことなど一度や二度ではなかった。
まあ結局は二十九で見合いをして身を固めた。当時としてはだいぶ晩婚だったから、故郷では奴もとうとう、と軽い祭にもなりかけたものだ。
私も男だから、妻を生涯守ると誓いを立てたが、ゴシックの少女のことを考えることが減ることはなかった。むしろ、さっき言ったように、制服という黒衣に身を包んだ少女たちが集まる場所に勤務していたわけだから拍車はかかるばかりだ。
――結婚して三、四年経ったころだったろう。朝、高女に出勤すると、私の受け持っていた学級の少女が一人、私の机の前にチョンと立っていた。私を見つけるなり、足早に駆け寄って「コレを……」と茶封筒を差し出した。
「放課後にでもお返事を頂ければ……」と言って、その少女――仮にT君としておこう――T君はそそくさと去っていってしまった。
中を確認すると、丁寧に三つ折にされた便箋だ。内容は熱烈に愛を語ったものだった。詳しくは言うまい、あまりに野暮だ……。
私は驚いた。女学生が学校の教師に恋文を渡すなど、女性と靴下が強くなった昨今でもはばかられる。ましてや戦前に少女が教師を恋い慕うなど、口に出すべからざる禁則もいいところだったからそうそうできやしない。
しかし、幼少よりゴシックの少女に心を奪われていた私のもとに、私を慕う制服という黒衣の女学生。通常の教師なら怒鳴りでもして改めさせたのだろうが、その時私は頭の周囲に意識をふらつかせたまま封筒を握り締めているだけだった。
――その女学生は、学級の面々に聞くところによると、
「Tさんは、年上の方が好みらしいわ……」
「でもこの前、高等小らしい男の子と話されていました……」
「そもそもTさんって、男性の方に移り気はしても恋とは言えない程度の付き合いですもの……」
と、なにやら地に足つかぬ交友らしい。
「『少女病』ならぬ『少年病』といった風ね」と呟いた少女もいた。――「少女病」とは、恋するわけでもなくただ少女に見とれる男の話さ……田山花袋だね。
いつの時代も女性は噂好きなものだ。学級の面々はすでに私が貰った恋文の存在を知っていたらしく、今度こそ彼女の初恋か、否またいつもの移り気かとあちらこちらでヒソヒソやっていた。
浮き足立つ者、勘ぐる者――、まだまだ女性が権利を勝ち取れなかった時代に、そこには確かに「少女」としての本来の姿を垣間見るものがあった。しかし、ゴシックの少女の非人間的な眩さが網膜に焼き付いてしまった私としては、やはり女学生たちを彼女と同一視できない。我が恋情を真に受けるゴシックの少女はただ一人と、確固とした信念を改めて持った。
……アッ、今言ったことは、妻には内緒にしておいてくれ。妻への愛情と、初恋の相手への恋情はいつまでたっても平行線でいいはずだ。君も男ならわかるだろう? ……よろしい。戦争が終わって世の中も開けだしている。これからは皆、西洋人のように恋する時代だ。…………ちょっとばかり気障過ぎたな。
教室の一隅に座ったT君を横目に、一日中教壇に立っていた。T君は元来、集団で映える容姿ではなかった。眼鏡をかけていて、……ただ、髪結いが流行していた中で、T君は長い髪を後ろで一つに束ねただけの髪型だった。他の女学生と違うところといったらそれくらいなもので……。
しかしそんな目立たない容姿でも、まるでずっと私を見ている気がして落ち着かない。いつもと同じく私の授業に耳を傾けているはずなのだろうが、妻とゴシックの少女への情が揺らいでしまわないようにぐっとこらえた。
放課後、私が業務を終えるより早くT君が私のもとへやってきた。
「先生、今朝はいきなりのお手紙、申し訳ございません……。ですが妾は……尊敬し、お慕いする先生にはいずれ一切を打ち明ける心積もりをしていました。このようなこと、到底許されることでないとは重々承知いたしております。ですがどうか……先生のお心をお聞かせ願えませんか……」
T君は微笑を浮かべたままゆっくりと、噛んで含めるように話した。
私は椅子に座ったまま、制することなく黙って聞いていた。だが、それっきりT君は私を見据えたままなので、返事を待っているのだろうと知った。ずいぶんと揺らぎそうだったが、そのときになって私の精神は落ち着いていた。妻とゴシックの少女がいる手前、T君にはちゃんとさせておかねばなるまいと、私はT君に言って聞かせた。
「T君。女性がおおっぴらに色恋を語るのは感心できないよ。この県立高女は、良妻かつ賢母たる女性を国に送り出すための場だ。私には君を、そして学級の皆の温良貞淑な資性を育てる義務があり、君たちにもそれを育む義務がある。そういった不倫なことを考えていては人のため、国のためにならない。教師を恋い慕うなんてことはいけないよ」
T君は小さく「ハイ……」と言い目を伏せた。私はいささか突っぱね過ぎたかなと思い、続けてこう諭した。
「しかしだな、だからといって私は君や皆をただの育てるべき人間としてのみ見ているわけではない。私は君に良き生徒として、『教育として』の愛を持って指導に当たっている」
……ウン。今は皆が恋する時代だとさっきは言ったね。確かに言ったが、あくまで私の今の意見だ。当時の日本は、「秘める」ことを美徳として、皆恋は明かさぬものと思って生きていた。べらべらと喋っては白い目で見られたんだ。
私の言葉を聞いたT君は再び目を開けた。彼女の視線はなお柔らかく、ゆらゆらとした光を湛えていた。
「先生……。私に『愛を持っている』と言って下さいましたね。大変嬉しいです……。妾も、愛をもって先生にお答えしなければ……」と、T君は静かながら、さらに熱のこもった言葉を返してきた。
どうもT君は私の言った「愛」を誤解してしまったらしい。
「待ってくれ、T君。愛というのはだな……、そう、君の御両親は、むろん君を愛しているだろうが、それは恋い慕うという意味でのことではないだろう? 私が君に持つ愛もそうしたものだよ」
と言い聞かせれば、またT君も応じる。
「ハイ、先生が私に持つ愛の意味はわかっています。ですが、殿方に対して嘘を吐かないのもまた、求められる女性像ではありませんか? 『殿方』である先生に嘘は吐きたくありません。私は先生を恋い慕っています」
T君の言い分は、当時ではあまりに露骨が過ぎたものだった。しかし、T君のあまりに激しい訴えに私はタジタジとなり、「しかし……」の次が出てこない。ゴシックの少女のみを追い求め、女をろくろく知りもせず見合いで結婚した私にとって、この求愛は息をつかせぬほどに私を責めたてた。
「先生。今や恋は隠すべきものではなくなっているのです。カルピスだって『初恋の味』と銘打ってあるではないですか、ウフフ……。先生は、女性から好かれるのはお嫌なのですか?」
T君はたかだか十五、六であるにもかかわらず、成熟した女さながらに私を説き伏せようとしている。首筋をなでるような言葉を、私は一途に大学の制服を着崩さなかった自制心でもってとうとう振り払った。
「T君、わからないかッ……教師と生徒の恋仲は絶対に許されざることだッ。第一、私は既婚の身だ。日本の男たるもの、二人の女を愛することなどあってはならんのだッ、君とて同じだ……」
私は声を張り上げた。しかし、口をついて出たのは妻とゴシックの少女、二人の女の間にいる私にとって最も説得力のない言葉だった……。実に愚かだ。自分で自分の言葉にハッとして、そこから言葉を発せなくなってしまった。T君もまた押し黙っていた。
私は、汗ばむ手のひらにしばし視線を落としたままでいた。
T君はゴシックの少女の存在を知らないから、さっきの私の言葉を真なるものとしてとっているであろうだけに、叱っておきながら私のほうがT君に顔向けができなかった。
だが、教育者としてT君の「少年病」の是正のため、私は意を決して、痛い沈黙を破ろうと顔を上げた。
――T君は、おもむろに後ろで結わえたリボンを解きだしていた。すると両手でまとめきれないほどの長く揺れる髪が耳や横顔を隠し、顔を残してたちまち頭部を覆った。
……次いでT君は眼鏡もはずした。見てみるとどうだ。絹糸さながらの髪に包まれた長い睫毛、唇、頬……、髪や目の色こそ違うものの、私はゴシックの少女の面影をT君に見たのだ。
私の視界の中でT君がどんどん大きくなっていった。いや、感覚的なことでなくて、実際T君が私に近づいていたんだ。それに気づくのに少し時間がかかった。
ひざ下を叩けば足が動くように、もはや私はゴシックの少女に対しては反射で体が強張ってしまっていた。
目の前にいるのはゴシックの少女ではない。ちらと似通った顔を見出しただけで、迫る少女を振りほどこうとする自制心は遠くへ追いやられてしまった。噫、我が意思のなんと薄弱なるか――。
椅子に腰掛けた私の前にT君が屈みこむと、私の視界はいよいよT君のみになった……。
……一瞬、目の前が真っ白になり、同時に唇に何か押し当てられる感覚を覚えて……。
再び我に返った時には、T君はすでに帰宅する身支度を始めていた。いつものように髪を後ろでひとつにまとめ、渕無しの眼鏡をかけて、黒の制服にいささかそぐわない風呂敷にノートや筆箱をつめていた。
「申し訳ありません。妾、本当は先生が結婚なさっていることを知っていましたの」T君がそっと口を開いた。
私の頭にはまだ白い光が残っていて、口を聞くことができなかった。
「……先生、『ライジーア』ってご存知ですか?」T君が唐突に言い放った聞きなれない単語が、私の頭にまとわりついていた光子を消し飛ばした。
やっとのことで「イヤ、知らない」と返事をすると、T君は続けた。
「妾のお父様が読んでいらした、ポオという方がお書きになった小説です。妻の亡骸がたちまちに昔愛した女の姿に変わってしまうのです」
私は黙って聞いていた。
「妾が先生を愛しているのは変わりません。たとえ先生が結婚なさっていても、いつかライジーアになってみせますわ。その時は……」
T君はそう言って、教室からヒョイと出ていってしまった。
……と、まあこのように、私はこれまでの四十有八年をゴシックの少女に踊らされて生きてきたというわけなんだ。いや、大いに笑ってくれて構わないんだ。さっきも言ったとおり、私は言葉に反して二人の女を愛した人間なんだからな、ハハハ……。
ンッ、どうした。ここまで聞いて、何か心当たりがあるのかい? ヘエ、話の最後の「ライジーア」に関して? それは一体どんな……。
……、イヤ、ちょっと待ってくれ、めまいがするな。また発作が来たのか? 脳がやられるのは嫌だなあ……。
……、ウッ……、待てッ、頭が痛むッ。これはただ事じゃないかも知らん……君、……、看護婦を呼んでくれッ……。頭が痛いッ…………早く……。
……………………。
Ⅳ
私の意識が回復した時、視界は一切が暗転していて、ただ周囲の音やら声やらが聞こえるのみだった。おそらく、身体を差し置いて覚醒してしまったのだろう。
右奥の方で蝉が一匹だけ鳴いていた。今は夏かなと推測したが、私の最後の記憶では、大学から来てくれた彼にゴシックの少女の話をして、人事不省に陥ったのが六月上旬。となると、一ヶ月は意識がなかったのだろうか? すると、今度はすぐ左のほうで声がした。
あら、もう蝉が鳴いていますね。まだ夏至も過ぎていないのに。
梅雨に鳴いてもらっちゃうと、何やらおかしな気分になりますね。
どうやら、意識が無かったのはほんの数日らしかった。声の主は妻と、彼だ。雨の降る音は聞こえないが、二人の声はどこか湿り気を帯びている。
世間話にしては、煙のようにふっと立ち上って消えるような、翳りのある会話だ。目を覚まさぬ私の前で、取りとめのない話題で平静を保とうとする二人を思うと辛いものがあった。
奥さん、先生の様態は――。
おとつい倒れられてから、また目を覚ます保障はないと、お医者様が――。
妻の言葉に愕然とした。意識はこうして鮮明であるのに、目を開けることも体を動かすこともできぬままに私はいつとも知れぬ日を待たなければならないのだろうか?
私は動かない身体よりも、見えない目に絶望した。もはや、これからまた会うとも知れなかったゴシックの少女を目に焼き付けること能わぬ体になってしまった。たとえ今私の伏せる病院の床の脇に少女が訪れたとしても、女の香無き彼女を感じる術はない。
噫! なまじ死んだほうがどれほどいいことか!
顔をしかめることもできない窮屈さの中でどれほど嘆こうが、妻と彼の目に映る病床の私は感情のないマヌカン同然だ。
今の私を見て、ゴシックの少女は何を思うだろうか。血の昇らぬ、昂ぶらぬ私の顔をただ覗き込む、記憶のままの黒衣をまとう少女を想像する。
二人合い動かぬ様は絵画のようでも、その内壮絶な悲痛が秘められている。さらにそれは第三者には知れることがない。込められた感情が汲み取られないうちはその絵画は完全な価値を持つだろうか? 私の、幼少のころからの少女への恋慕の結末は、これほどに陰惨たるものだったのか?
途方にくれる私の耳に、妻の声が割って入り込んできた。
ところで、その本は何ですの?
先生に読んでいただこうと持ってきたものです。アメリカの小説なのですが……。
ちょっと、見せていただいてもよろしいかしら?
ええ、ようござんすが……。なにしろアルファベットで書かれていますので、私がかいつまんで説明いたします。
……この一番大きな字が題名でしょうね。何と読むのです?
ハイ、「ライジーア」と読みます。
ライジーア! 結局聞けずに終わったライジーアの話を、幸いにも彼は妻に話してくれる。今になってゴシックの少女についてわかることが増えるかもしれない。さしてうるさくもない病室で、私は耳をそばだてた。
この話は、語り手がかつて愛した女のことを回想する話なのです。この話の語り手は、ヨーロッパの都で、ライジーアという聡明で美しい女性に出会います。語り手は、ライジーアをひたすらに愛し、結婚した後も彼女に導かれるままに学問の道に進むのですが、数年でライジーアは病に伏せってしまいます。
そして、ライジーアは死ぬ間際に語り手に自ら作った詩を読み上げさせるのですが、先生にはここを読んでほしかったのです。
案ずることはない。私はしかと聞いているぞ。さあ早く教えてくれ。彼に聞こえることはない懇願を繰り返す。たとえゴシックの少女を感じられぬ身体になっても、少女を手放す気は無いと、支配欲のようなものがふつふつと沸いてくる。
この文をご覧になってください。ここには――、
ろ、てぃす、あ、がら、ないと。 うぃずいん、ざ、ろんさむ、らたあ、いやあす。 ――と、書いてあります。
私より幾分流暢な彼の発音でも、間違いなく数十年前に少女がただ一言発した言葉だった。
なぜ彼女は「ライジーア」の詩の一節を、初めて私と会ったときに言って聞かせたのだろう?
妻と彼の会話は続いた。
意味はわかりかねますが、どうして主人にこれを?
それは……ええ、この前先生の初恋の話を聞いたもので、それで、その初恋の方がこの小説がお好きだったらしく、大学の資料室から引っ張り出してきたのです。
マア、この人ったら……そんなお若いときもあったのね。フフフ……。
よかった。妻には知られたくなかったゴシックの少女の話を、彼はうまい具合に誤魔化してくれた。単調に動く胸を、意識の上でなでおろす。
――それで、傷心の語り手は放浪の末に再婚します。しかしライジーアのことが気になるばかりで新たな妻を愛することができない。そのうちに、ほどなくしてその妻も死んでしまいます。
妻の亡骸を前に夜を明かしていると、突然死んだはずの妻の顔が、生気が見せては消えることを繰り返しているのです。そうしているうちに妻の姿はみるみる変わり、ついにはライジーアとなって生き返ってしまったのです。
……そういうお話なのですか。アメリカには私には思いもつかないような話がおありですのね。
ハイ、外国には様々な小説があるのです。これは、世間ではゴシック小説と呼ばれています。
彼の話を聞くうちに、私の脳内で点同士が線を産みつつあった。
ゴシック小説……。ライジーアの詩……。それを言って聞かせた黒衣に身を包んだ少女……。その少女に心奪われた私……。
……その時、ドアを開けて誰かが病室に入ってくる足音。軽く、小さく床が鳴る。
あらまあ、ずいぶんかわいらしいお嬢さん……。あなたのお知り合いですか?
イエ、この方は……、……おそらく先生に……。
うちの主人に? 外国の方とつきあいがあったかしら……。
私が感づくのが早いか、伏せる私の真横で足音が止まった。そして私の額に、冷たく柔らかな手の平が乗せられる。
その瞬間、瞼を押さえつけていた力が抜け、反作用のように大きく目が開いた。何色もの光がわっと飛び込んできて、また反射で目をつむる。今度はゆっくりと瞼を持ち上げ、目を慣らす。
光が四方八方にあふれる純白の病室。しかし視界の左端がまったく黒い。
もしや? 視線をそちらに移すと、垂れ込める黒と亜麻色の中に私を見据えるゴシックの少女の白い顔!
私は跳ね起きた。……しかし、やはりそれも意識のみの感覚で、私の体はピクリとも動かなかった。
ゴシックの少女がここにいる! 彼女を黒く照らすような傘は今は畳んでいた。あわよくば手を伸ばして彼女をこの腕にとも思ったが、それは叶わないらしい。口惜しさと、額に乗せられた少女の手の感触を同時に噛みしめる。
すると少女はやおらその手をどかし、ほんの少し前かがみになり、あの懐かしい言葉をまた私に言って聞かせた。
Lo! Tis a gara night.
Within the lonesome latter years!
少女のあまりにも優しい声の響きは幼き日の母の子守唄か、はたまたそれ以前の胎動の音を思わせた。少女の灰色の瞳を見ると、いつか見た涼やかな眼差しが、カメラのシャッターのごときまばたきと一緒に私をとらえる。
――奥さんッ、先生の心電計が弱まってきています。お医者様を呼んできてくれませんか? 私は先生にッ……先生ッ、聞こえますかッ。
少女の後ろから、彼が呼びかける。少女から目を離したくなかったので、たった一瞬だけ彼に視線を移して再び彼女の明るい髪を眺める。
彼はごく短い合図をわかってくれたのか、続ける。
――先生に、このライジーアの詩の一節の意味をお教えしなければなりません。
この詩は、どうやら古英語で書かれていたのです。どうりで英語に似ているのにピンとこないはずでした。で、それを訳すところによると……「見よ、寂寞とした晩年のうちに迎えたこの歓楽の一夜を」となるのです……。
歓楽! まさにこの一瞬は歓楽ではないか! 寂寞に支配されるかに思われた私のもとにゴシックの少女はやってきた。私の今際の際を告げると共に!
彼女は死神なのだろうか? いや、死神ならばそれでも構わない。私の人生は、私の名を題名とする、死神に恋した男の喜劇もしくは悲劇であったのだろう。
嗚呼、私の最期をきっと唇を固く結んで見届ける妻よ。笑わば笑ってくれ。だが、最初に愛した人間と、最後に愛した人間とに抱く情は許されざる矛盾ではないはずだ!
私ははじめに死神とも天使ともつかぬ少女を愛し、最後に妻を愛した。そして、少女に連れられて旅立つ。
……とはいえ、一人愛することを誓った妻がいながら、やはり私は少女に屈してしまうのはいささか悔やまれることではあった。
私が心の中で妻に許しを請うと、少女はまた私の方へ体を倒し、ささやいた。
,Man doth not yield him to the angels ,
nor unto death utterly,
save only through the weakness of his feeble will.
それを聞いて、身体と脳がいよいよ宙に浮くような感覚を覚え、もう秒読みだな、と私は悟った。
少女がますます体を倒すと、おびただしい髪が私の顔を覆い、彼女は私の額に口づけをした! 視界がパッと真っ白に輝き、遠くまで響く鐘の音を私は空耳する。
私は聞けない口で妻に別れを告げる。
愛する妻よ、私は何にも屈せずに君といたつもりだ! たとえ君が私を、この少女を恨めしく思うなら、どうか今しばらく待っていてほしい。いつか必ず、君の前に現れる新しい人間の体を借りてでも、君に会いに舞い戻ることを約束しよう!
私は、この昇天の途にあって人生で至上の歓びを得た。このまま、最も幸福な人間として昇っていこうではないか!
ゴシックの少女に声なく絶叫した。
私の名を題した劇に白く光る緞帳を下ろしてくれ!
君に彩られた生涯を、やはり君をもって終わらせてくれ!
さあ、私を連れて行ってくれ!
嗚呼! 私だけの少女よ!
我がライジーアよ!
了
「ライジーア」翻訳引用 新潮社刊 訳・巽孝之