こいこく! 第一話 「かいこう!」
作品タイトル:こいこく! 第一話 「かいこう!」
作者:戦国熱気バサラ
※読み方によっては一部文字化けをする部分があります。ご了承ください。
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平世二一年葉月一六日(日)。バリ〴〵の第四次世界大戦下だが、俺は、演劇部の連中と一緒に、西高から近い多摩川まで、暢気に釣りに出かけてゐた。
こゝは、別名タマゾン川とも呼ばれてゐる。何故かと言ふと、昔――よく知らんが、一旦開国した二六〇五年から、また鎖国を始める切つ掛けになつた第三次大戦の勃発する二六三五年までの間の話だらうぜ――外国産の魚を飼ふのが流行つた時、買つたはいゝが世話に困る野郎が続出、こゝいらにわんさか放流しやがつたのゝ子孫がしぶとく生き残り、繁殖してゐるからゝしい。
実際、かうして釣りをしてゝも、日本天皇御國固有の魚とは明らかに違つた感じの奴等が何度も針に掛かつてきた。赤だの青だの黄色だの、信号機かつて話だぜ。
「全く、ブッ壊れた生態系してやがる……」
釣り上げたゴールデンアロワナをバケツに投げ入れると、俺はさう呟く。その中には、他にも、エンゼルフイツシユやらメダカとグツピーとネオンテトラの混血やらベタやらピラニアやら淡水フグやらエイやらがうよ〳〵蠢いてゐる。
中々面白え光景だが、この国には、緑に橙(だい〴〵)に紫といつた髪や目の色の人間がざらにゐるし、それ程不自然な状況でもないのかも分からん。俺のタイプは黒髪だから、そいつらについては特に語らねえがよ。
「はァ、何処かに木崎――いや、今は違うか。みてェな黒髪でちっちゃ可愛いのが、転がってねェかな」
「木崎さんって、あの、転校した筈なのに、図書館付近で未だに目撃されるって噂の、お人形さんみたいな子のこと? 確か、実原と同じ組だったっけ」
糸と一緒くたに垂れる俺の独り言を拾ひやがつたのは、海山八千代。青紫のカールヘアに、摩周湖の底みてえな暗さの瞳。あり過ぎる程ある身長以外、体型は控へめで、凹凸に乏しい女だ。そのせゐか、男らしい釣りスタイルがよく似合ふ。クラスは違ふが、学年は俺と同じ二年。俺が眞理学部長平塚智英に勧められて劇部に入つて以来、何だかんだでよく絡んでくる。
「あァ。そうだが、あいつはもう木崎じゃなくて――」
つい〳〵秘密を口走りさうになつた所で、手に持つ竿が、万力みてえなパワーで引つ張られ始めた。
「ちょっ、凄い引いてるよ、実原!」
「わ、分かってらァ!」
俺は、両手でグリツプを思ひ切り握ると、肩に構へて、そのまゝ川を背にして歩き出す。無茶な方法だが、蜘蛛糸構造の釣り糸とウルトラタングステン合金製の竿は、そんな簡単にはイカれねえ筈だ。
「うッぐぐぐぐぐぐぐッ!!」
唸りながら釣り上げようとするが、一向に前に進まない。
いくらなんでも、向かふの力が強すぎる。ひよつとすると、話に聞くピラルクとかいふ奴かも知れねえ。
「がんばれがんばれ実原ー! 地球の~夜明けは~もう、近い~」
「八千代! 手前ェ、見てばかりいねェで、俺の背中を押せ!!」
「ええー。失敗したら、多分川に落ちる運命だから、やだ」
「だったら、前から竿を何とかしろ!!」
「えっ、前? サオ? ……こ、この変態! 一体うちにナニを期待してるってのよ?!」
余程意識してねエと、そんな微妙な語は拾へないと思ふんだが。
「だから、こいつ釣るのを手伝えってンだよ!!」
叫んだ瞬間一気に力が入り、ズボ、と何かが抜けるやうな感覚。それと同時に、勢ひ余つた俺は、草ムラの中に突つ込んだ。
「痛ってェ……」
重点的にぶつけた、デコと尖つた鼻をさする。一応大した怪我はなく、鋭い葉で腕や脚に幾つか切り傷が出来た程度で済んだらしい。
「ねえ、実原。これって……」
口元を押さへて驚く八千代。
その目線の先を見ると、そこには、明らかに三m以上はあるんぢやねえかつて位のデカい魚が、大口をパク〳〵させてゐた。
真夏の青空の下で、眩しく光る赤白黒金のマダラ模様の鱗。いかにも高級さうな色合ひから、こいつは錦鯉だと分かる。
「白河、お前はまた、とんでもないものを釣ってくれたな!」
一大事とあつて、橙の髪で目を隠した堀嵩部長を初め、他の部員達も集まつてきた。
「こいつは、売ったらかなりのカネになるぞ!」
「じゃあ、新しい大道具を仕入れたりなんかもデキんじゃね?」
「いや、だとして、どうやって運ぶんだこれ」
「写真だけ撮って、情報を売るとかは?」
「それよりも、網を買ってきて、生簀を作るのが確実だと思うな」
皆、口〻に目の前の巨大魚の処遇を話し出す。
そんな中で、俺は、人知れず奥歯をガタ〴〵言はせてゐた。八千代はそれに気付いたらしく、首を傾げて下から覗き込んできやがる。
「どしたの、実原。怖い顔して」
「あ、あァ、ちょっとな……」
実を言やあ、俺は、神を見たことがあんだ。それも、産土神様に森の神様、大国主神様や果ては天照大神様までな。釣り上げた錦鯉からは、どこかそんな存在と同じ様な雰囲気を感ずる。とするとつまり、これは、川の神様とか、さういつたものなんぢやないか。
「すまねェ、皆。こいつのことは逃させてくれねェか」
俺の言葉で、喧騒は一気に止んだ。
「お前正気か? こんなお宝を手にしておいて」
髷に質素な着物姿の弥栄副部長が、不信感の籠つた目で俺を見てくる。八千代情報によると、この先輩は、大小道具の管理や予算繰りなんかも請負つてゐるから、かういふ話にあたつては特にアツくなるらしい。
「えェ。こりャあ多分、川のヌシっスよ。下手なことをしたら、きッとタタリが――」
「何も、今の時代に祟(たゝ)りはないだろう。これは、ただの大きな魚だ」
一欠片も信じてやがらねえ。時代が下つたからつて、現象そのものが消滅することもあるめえに。因みに、俺も祟りまでは見たことねえが、呪ひなんかについては実際に体験したダチがゐる。だから、容易には可能性を捨て切れねえんだ。
「だとしても、この錦鯉は俺が釣ったんス。どうか、扱いは俺の自由にさせて下せェ」
「今日釣った魚は、業者に売って、それを部費の足しにすることで合意していた筈だ。確か、お前もそうだったよな? 白河」
「へィ。ですが、まさか、こんなことになるとは思ってなくて……。ッスから、どうかこの通り、お願いしますッ!」
気付くと俺は、鯉の為に土下座してゐた。何故だ。
「お前、その為りで、結構女々(めゝ)しい奴だったんだな……チッ、まあいい。今回は見逃してやろう」
そこまでして、やうやく弥栄は俺の要求を呑む。
「ありがとうございやッス!!」
礼を言ふと同時に、俺は、奴へ駆け寄つた。大きな錦鯉は、表面が少し乾いてきてはゐたが、そんなに弱つてゐる訳でもなさげだ。
取り敢へず、鼻の上の辺りを押して、川に戻さうとする。――だが、重過ぎて、どうにも動かん。
「もう、見てらんない。仕方ないから、うちも手伝ったげる」
横から、八千代の手が添へられた。
「すまねェ……」
「いいのいいの。――じゃあ、せーのっ」
「そォい!!」
二人の力が合はさつたことで、陸に乗り上げてゐた魚は、ザブングルンと水中に戻つた。巨体に似合はねえ速さで影が遠ざかつていき、忽ち見えなくなつちまふ。
「もう、捕まるんじゃねェぞ!」
すると、俺の言葉に反応するかのやうに、遠くの方で巨大な魚が跳ぬる。それを見て、俺はほつと胸を撫で下ろしたんだ。
皇紀二六六九年 葉月十七日(月) 〇六時一〇分
日本天皇御國 東京都府 新多摩市 白河邸
薄いカーテン越しに差し込む、強烈な朝の陽射し。それにより起床を余儀なくされし実原は、日課である配達箱からの牛乳回収をせむとして、玄関の扉を押し開けつ。
「わぶっ!」
「あァ?」
妙な音が耳に届き、彼は柄の悪い声を出す。下を見やれば、そこには、着物を着た少女が仰向けにのびてゐた。開くに当たつて、ドアの向かふにゐた彼女を突き飛ばしてしまつたりけむ。
混乱の下、彼は呆然とその姿を眺む。身長は低く、年恰好は一〇歳程度か。緻密な細工の施された飾りを着けた髪は、実原の白髪とは対照的に、彼好みの濡れ羽色。肌は、中から水が滲み出てゐるのではないかと錯覚する程に瑞〻(みず〴〵)しい。彼女を包む衣は、赤を基調とし、白黒金の紋様が随所に鏤められてゐる。全体として、どこか、清浄な印象を与へる女児だ。
「やべェ、可愛――て、そうじゃねえ! おい手前、大丈夫か!?」
「あうー、お星様が見えますですー……」
目尻に涙を浮かべ、こす〳〵と額を摩りつゝ、少女は体を起こす。微かに赤くなつてはをれど、出血等の外傷はないやうだ。
「大した怪我はねェようだな、良かったぜ。しっかし手前、一体何モンだ? どォして、こんな場所にいやがったんだよ?」
問ひを向けられた彼女は、円らな眼をぱちくりさせると、いきなり立ち上がり、実原の腰の辺りに抱きついた。
「お会いしたかったのです、さねはる様ー!」
「はァ!?」
彼は、過去最大級の素つ頓狂な声を上げり。何せ、状況が飲み込めない。早朝、ドアの向かふに謎の女児が倒れてゐて、脈絡もなく抱きついてきたなどは、明らかに常軌を逸してゐるだらう。
「だ、だから手前は誰なんだ! こちとら、見ず知らずの幼女にハグられるいわれは、一片だってありャしねえぞ!」
「みなきは、にしきおりのみなきです。さねはる様に、お仕えするためにまいりましたっ!」
実原は、参つたとばかりに額を押さふ。
「……やっぱり、さっき頭打ったのが響いてんじゃねェか。ほら、取り敢えず、中に入りやがれ。冷やしてやるからよ。それから、何がどうなってンのかも、ちゃんと聞かせろな?」
「はい、さねはる様ー」
壜を入手した彼の背、疑ふ素振りなど微塵も見せず、金魚の飾り鰭が如くに着物や髪を揺らして舞ひ込む。古く埃ぽい玄関も、彼女の身にまとふ浮世離れした大気と連れて来た夏の朝の噎せ返るやうな緑の薫りとの作用で、徒に華やぐといふもの。白河家のギシ〳〵と軋む廊下の板とて、厚底の木履を出た小さな足は物音一つ立てず、実原にはそれが新鮮に思へると同時に、また郷愁も感ぜてゐた。
と、居間に着き、取り敢へず牛乳を冷蔵庫に収め、彼女の額に氷枕を宛がつた所で。部屋の襖の辺りから、ドシンといふ音が響く。
「……何やってンだ、お袋」
「サネ! ミ、ミミミヒロが、かえ――!」
「あァ? 誰と勘違いしてるか知らねェけど、こいつはミナキだ。戸を開けたら、何かいてよ。丁度だ、お袋も事情聴取手伝ってくれ」
「よろしくおねがいしますです、お母様っ」
同日 〇九時三〇分
新多摩市街
二時間ほど彼女を問詰めた実原であつたが、回答は一向に要領を得ず、彼は、伝手のある眞理学部へ協力を仰ぐことにした。
「さねはる様とお出かけですー」
じり〳〵照り付ける真夏の太陽の下、着物姿に汗一つかゝず、袖を意気揚々と振つてとこ〳〵歩く。小さな体が何かの拍子に壊れてしまひやせぬかと気が気でなく、実原は片方の手を握る。
錦織水城――彼女はさう名乗つた。正確には、実原が音に対して文字を示し、それに同意させた形なのだが。気付いたら彼の家の前にをり、何処から来たのかは、固有名詞的な意味で分からないらしい。家族と呼べる者もゐないといふ。過去の記憶もほゞ皆無であり、あるのはたゞ、実原への恩義と辛うじて会話に支障のない程度の言語能力だけだ。
(記憶喪失でしかも身寄りのない幼女なんてのは、俺には、ちィとばかし荷が重過ぎンだろォが……)
考ふる内に、目的地である東京都府立多摩西高等学校へと至る。
長方形の敷地、日の丸を模した円筒型の校舎に入つた実原は、窓口の用務員に適当な理由を付け、来校者用のステツカーを得た。水城の衣にそれを貼り付け、四階の文化部部室スペースへと向かふ。
筒の内側に設へられた螺旋階段を上つた先には、階の三分の一を占むる図書室が待ち受けてゐる。蔵書の量もさることながら、天井と壁とが全面ガラス張りで開放感満点といふ中〻の場所だ。しかし、普段から利用者に恵まれず、特に今の様な長期の休みとあつては、図書委員会の当番以外人気が無いのが常である。――ところが、どうしたことか。部屋の入り口の所には、二柱の人影があつた。
「おはよ、実原。今日は遅かったね」
片方が、実原の存在に気付き、親しげに挨拶す。
「おゥ、八千代。ちょィとした事件があってよ。そいで、手前は、こんな時間にこんなトコで何してやがんだ? 稽古はいいのか?」
「うちは……そうだね、暇潰しかな。昨日の収穫が予想外にあったから、色々と買い出しだって、殆ど皆出て行っちゃったんだ。残った人達、堀嵩部長なんかは、より派手な演出がどうのこうので脚本を見直してるんだけどね、うちの好きな超展開はお話にならないってことで、追い出されちゃった」
肩を竦め、八千代は笑ふ。と、そこで、先程まで彼女と話してゐた、もう一方の人物が口を開いた。
「あの、海山先輩……」
「おっと、うっかりしてた。実原には、紹介してなかったね。この娘は一年の君島幸。中学時代からの知り合いなんだ」
その肩に、手が置かる。杉の枝のやうに末広がる薄い茶髪に、スカイブルーの瞳。その上に掛けた、大きな丸眼鏡が印象深い少女だ。
「二年の白河実原だ。ヨロしくな」
「ひょ、ひょろしくお願いしますっ!」
体格の良い実原に、若干脅えたのか、どもりつゝ頭を下ぐ。だが、眼鏡がずり落ちさうになり、慌てて顔を上げた。
「幸は図書委員でね、こないだ、眞理学部にも入ったそうだよ」
実原は、彼女の姿に見覚えがあるような気がしてゐたが、それを聞いて、その件についての納得を得る。
「どこかしらで見た面だと思ったら、諏訪神社の縁日に来てた奴か。確か、赤い双子と一緒に歩いてやがったよな?」
「は、はい……。でも、どうしてそれを?」
「ッとだな、そこのカミ――神主に頼まれて、祭の準備を手伝ったンだ。トムの野郎から聞いてねェか?」
「すみません。あの日は朋絵ちゃ――友達に誘われただけでして、詳しい所までは……」
幸は、申し訳なさげに目を逸らす。そこに、八千代が口を挟んだ。
「実原、まだ寝呆けてるんじゃない? あの神社に神主はいないし、トムにしたって、水無月に失踪したきり、見つかっていない筈だよ」
「あ、あァ、そォだったな。え、えェと――」
何時になく狼狽する実原。彼の友人の眞理学部員・真部勉――通称トムは、諸事情により、世間的には行方不明である必要があるのだ。国家の安全も絡むやうな問題の為、眞理学部外に彼の無事を知らせることは極力避くるべしと釘を刺されてゐる。
窮した実原は、どう話を逸らしたものかと、辺りを見回した。と、そこでやう〳〵、自らの後ろで縮(ちゞ)こまる幼女のことを思ひ出す。
彼は、水城を前に引き摺り出し、二人の注目を集めんと試みる。
「――ンなことより、コイツを紹介するぜ。錦織水城ってンだ!」
思惑通り、彼女らの顔に驚きの色が浮いた。しかし、八千代の眼差しは、やゝあつて軽蔑のそれに変はる。
「実原……あんたのロリコンは無害だって思ってたけど、まさか、幼気な子供を拐かすまでだったなんてね……。何? うちみたいに大きい女は、そんなに嫌だって言うの? ねえ」
何やら黒いエナジーが、彼女から立ち上つてゐるやうだ。たゞでさへ尻込みしてゐた水城は、その迫力に気圧されたのか、大層怯えた風に保護者の腰へとしがみ付く。
「ううー、おっかないです、さねはる様ー……」
「先輩、よく分からないですけど、みなきちゃんが怖がってます! ここは抑えて下さいっ!」
爆発を止めむとする幸、羽交ひ絞めを験すも、体格差からてんで力入らず。こちらもまた、腰に手を回す形となる。結果、同じ様な格好で立ち尽くす男女二人。いとも奇妙な構図は、八千代の激情の治まるまでの数分間に亘り維持されてゐた……。
「ふぅん。じゃあ、本当に攫ってきたんじゃないんだ」
実原渾身の弁明に、彼女は何とか折れた体だが、未だに反感の籠つた視線が続く。
「ッたりめェだベラボウめ! 仮に攫うにしたって、バレねェ様にやるに決まってんだろォが。莫迦か手前ェ」
「何よっ、それはそれで、犯罪者の素質十分じゃない!」
「ひゃうっ!」
「あわわ、抑えて下さい、海山先輩っ」
再び無暗に慌てふためく水城と幸の姿を見れば、然しもの八千代も興を殺がれ、深い溜息の後、実原を問ひたり。
「まあ、信じてあげてもいいけどさ。……でも、『様』付けで呼ばせるのは、ちょっとアレだと思うよ? 鬼畜の臭いがさ」
「そりャア、俺の所為じゃねェ。水城が勝手に言ってんだ」
侮蔑の目がぶり返しかけたが、それを何とか仕舞ひ込み、前傾して幼女と目線を合はす。
「ねえ、何で、実原『様』なんて言うのかな?」
「さねはる様には、おんぎがあるです! やちよ様にも助けていただきましたから、お仕えしますっ」
「うち、あなたとは、どう考えても初対面なんだけどな……」
八千代の困惑、海より深く、山より高し。
「ほれみろ、この調子だ。俺の気持ち、少しは分かったろ」
「はいはい。でも、流石にこのままは不味いって。何か、他の呼び方をさせないと」
「そォだな、じゃあ……お兄ちゃん、て呼んで――ゴばァっ!?」
実原の顎を、強烈な掌底が突き上ぐる。
「見損なったよ、このシスコンっ!」
「そ、そんなんじゃねェ!? 妹って設定なら、人に怪しまれることもねェだろうって話だ!」
八千代は応へず、胸倉を掴んで額を突き合はす。半ば衝動的にした行為ゆゑ、頬が赤らみ汗が滲むのだが、当の実原は、然様なことは気にしてゐられない。
「やちよ様っ、さねはるお兄ちゃんを放してあげて下さいっ!」
「ぐはァッ!」
悶絶の、白河実原一七歳。理由はお察し頂きたい。そして、水城の言葉に驚いた八千代は、我に返つて彼を突き飛ばした。
「み、みなきちゃんが抵抗ないなら、いいんだけどさ、別に……。あ、ついでにうちのことも、お姉ちゃん、って呼んでくれるかな」
「分かりました、やちよお姉ちゃん」
この上なく従順な水城。
「海山先輩、ひょっとして……」
「余計なことは、考えないでよろしい! でさ、これからどうすんの? 今日の眞理学部は、みんな何だか忙しいみたいだよ。幸以外」
「あァ? どういうこった」
「ええとですね、心皇都に消える魔球を投げる小学生がいるということで、その調査の為に、半数以上が遠征中なんです」
「へえ、そういうことだったんだ。全く、豪勢な話だよね。幾ら平塚先輩の私費で運営されてるって言っても、限度があるよ」
心底呆れたやうに言ふ。眞理学部は、倉越重工社長代行・平塚智英の私設団体であることに加へ、諸〻(もろ〳〵)の事情から校内の噂の的になりがちである。しかし、八千代の持つ情報はさういふ経路からではなく、実際に学部の活動に触れて得たものだ。結局肌に合はず、進級時に演劇部に乗り換へたのだが。
「いえ、経費は掛かっていないみたいですよ。陸軍の将校さんに、連れられて行かれましたから」
それを聞き、実原の脳裡を、飄々(へう〳〵)たる地底人の顔が過る。
「あァ……あの姐さんなら、それでも不思議はねェな」
「誰のこと?」
「いや、手前には関係ねェ話だ。そんで、誰々が残ってんだ?」
彼女のことを話せば、嫌でも勉達のことが絡んでくる故、またも適当にはぐらかす。
「私以外には、部長さんと部長補さん、それと同級生の故里朋絵ちゃんです。今日は、彼女の極めて個人的な問題を解決することになっていたんですが、私は図書委員会の当番がありまして。今の段階で出来ることもなさそうだったので、お暇を貰いました。でも、前に仕事を代わってあげた子が、今日に限って借りを返したいということで……」
「断るのも悪いから、そのまま任せて出てきちゃった、と。相変わらず、難儀な性格してるよ、幸ってば」
悄気る後輩の頭を、ぽん〳〵と。その仕種が、また何ともサマになつてゐるのだが、また不興を買ひさうだつたので、それに関しては言葉を飲み込む。
「つうことは、手前ら、二人揃って暇人なのか。ザマぁねェな」
「実原も、仕事がないって点ではうちらと一緒だし。もうっ、そんなこと言うと、みなきちゃんの身元探し、付き合ってあげないよ?」
「はッ、頼んでねェっての」
「ちょっ、実原ひっどぉーい!」
「まあまあ、お二人共、どうか落ち着いて下さい。お互いの心に素直に向き合って――あれ、みなきちゃんの姿が見えないような……」
「何ッ?!」
元〻からして借りてきた猫が如くに萎縮してはゐたが、流石に静かが過ぎたと言ふもの。いつの間にやら、彼女の姿は消えてゐた。
「実は、幽霊だったとかって、オチカナ?」
「ねェよ。大方、あンまり八千代が怖いんで、逃げちまったッて所だろうぜ。遠くに行かない内に、探さねェと……ッ!」
実原は、文句も聞かずに走り出す。円筒形の校舎の内側は、中庭が見える硝子窓になつてをり、階段で死角になる部分を除き、同じ階の様子は容易に見て取ることが可能。少なくともその範囲に水城はをらず、赤の着物姿を求め、二段飛ばしで駆け下りてゆく。
「あっ、待ってよ実原っ!」
「階段、走ると危ないですよ!」
女子高校生二人の声が背中を追ふ。だがこの男白河実原、無駄に身体は鍛へてあるもので、不安定な疾走を器用にこなしてのける。よつて止まる気配もない――と思ひきや、二層目に差し掛かつた辺りで、急にその足を止めた。
実際、水城には何の危険もなく、振袖をひら〳〵させながら蝶々(てふ〳〵)を追ひかけるのは、ちよい不良を気取る青少年の目にも否応なく微笑(ほゝゑ)ましい。後から降りてきた八千代と幸も、見るなり緊張を解したり。
「ちょうちょに誘われて、ここまでついて来ちゃったんですね」
「おゥい、水城」
「あ、お兄ちゃん!」
彼の声を耳にして、丁度、花の放出する物質や生体電気、照り返すさる種の電磁波に引き寄せらるゝパピヨンと同じ具合に、ぺたん〳〵とスリツパの音を立てゝ歩いてくる。
「ッたく、一人で勝手に歩き回るんじゃねェぞ。心配しただろうが」
「ごめんなさいです……」
しゆんとする。と、そこに、先頃まで後を追はれてゐたてふ〳〵が。名残惜しくなつたのだらうか、水城の周りをふら〳〵と舞ひ、す、と金の髪飾りに居場所を定む。彼女の髪色によく似た黒、青緑と紅白の斑を散らした翅を、優雅に結んで開くのは、慰めてゐるかにも見える。あまりにほの〴〵した様に、実原はとやかく言ふ気がまるで失せてしまつた。
「ミヤマカラスアゲハだな。まァ、手前ェが追いかけたくなる気持ちも分からんでもない。ホント、黒ってのァはいいぜ……」
「実原、白髪のくせして」
「俺はあくまで、黒を愛でる立場なんだよ。黒に何が映えるかっていえば、白だろォが!」
蝶より遠き方の拳を握り、力説する。
「ちょっと、変態入ってない?」
「あはは……でも、本当に綺麗ですね、このちょうちょ。何処から迷い込んだんでしょうか?」
「さァな。とにかく、こんな殺伐とした所に一頭で置いといても仕方がねェ、中庭にでも逃がしてやるか」
そつと指を近づけると、二、三度|羽撃(はゞた)き、そちらに。
「さねはるお兄ちゃんは、やっぱりよいお方です。みなきのことも、そうやって助けて下さいました」
「んなこたァねェ、ただの偽善だ。俺ァ多分、人よりちィッとばかし、痛みを知ってるってだけさ……」
「そこ、カッコつけないっ。中庭に出るなら、一階だね。ついでに、保健室にも行ってみようよ。ドサ子ちゃんだったら、小さい子の扱いにも、心得(こゝろえ)があるかもだし」
「ドサコ、さんですか?」
聞き覚えのない名前に、幸は首を傾ぐ。
「校医で、劇部の顧問でもある藤堂桜子先生のこったよ。失礼に当たるから、その呼び方はやめとけっていつも言ってンだがな」
「いいじゃん、別に。本人嫌がってないし、スフィアちゃん達だってそう呼んでるんだから」
「遠慮して言い出せない人もいるってことを分かりやがれ。それから、教師をちゃん付けで呼ぶな」
「もうっ、実原ったら堅物すぎ! 不良みたいな恰好してるくせにさ。そんなんじゃ、この破界の世紀を生きのこれないよ?」
今更だが、実原の服装は、夏服のワイシヤツではなく詰襟である。加へて、色は通常と異なる白で、おまけに矢鱈と丈が長い。
「るせェ。これでも、生徒指導部の許可は取ってンだかんな。それに、いざとなったら、アガリクス農家にでもなりャアいい。それよりだ、行くなら早く行こうぜ。アゲハが逃げる」
「そうですね。行きましょうか」
「あれ。実原、うちに一緒に来て欲しいの?」
「……はァ。行くぜ、水城、君島」
「はい、さねはるお兄ちゃんっ」
付き合ひきれん、と歩き出す。
「ああんっ、待って実原! うち、すっごい暇なんだよ~!」
そんなこんなで、四人は保健室へと向かつたのである。
府立多摩西高等学校 保健室
実原一行は、藤堂教諭と接触し、水城は一対一のカウンセリングを受くる運びとなつた。して、やがてそれも終はり、全体的に桜色の校医は、複雑な面持(おもゝ)ちで彼らの前に戻つてくる。
「それでドサコちゃん、何か分かったの?」
「う、ううん……。取り敢えず、白河君と海山さんに関係があるらしいことと、嘘を吐いているきらいはないということ位しか分からなかったわ」
「まァ、見るからに天真爛漫って感じっスからね」
寄つてきた彼女の頭に手を乗せ、実原はしみ〴〵言ふ。
「でもね、そうなると、水城さんは、何もない場所から突然現れたことになってしまうのよ」
片頬に手を当て、悩む風の桜子。手を変へ品を変へて訊ねたれど、住所は言ふも疎か、両親やその他縁者の情報も、矢張り一切取得出来なかつたのだ。
「神隠しの、逆パターンですか」
「逆ってえと、神の降臨、か……ん?」
実原の頭の片隅に、何かが引つ掛かる。
「そいえば実原、昨日さ、神様がどうとか言ってなかったっけ?」
「あァ、あの錦鯉な。妙に神々しくて、俺ァ、釣り上げたあいつが売り飛ばされるのを阻止して、八千代と協力して川に返したんだ」
「はい! ありがとうございました、さねはるお兄ちゃんっ!」
一同、絶句。やゝあつて、恐る恐る、八千代が口を開く。
「ど、どうして、みなきちゃんがお礼を言うのカナ?」
「助けていただいたからですっ!」
「え、えっと……」
「つまりだな? 俺達が逃がした鯉は正真正銘川の神で、そいつが化身した姿がこの水城だと考えりャア、全部説明が付くんだよ」
がち〴〵と歯を鳴らす程震へながら、言葉を吐き出した。
「は、はぁ? なな、何言ってんのよ、実原。そんなこと、常識的に考えて、ある訳ないじゃん! ね、幸もそう思うよねっ?!」
縋るやうな目で、後輩を見る。
「いえ、その、私も、白河先輩と同じ意見、です……」
躊躇ひがちに視線を逸らす。
「ドサ子ちゃん! ドサ子ちゃんは、もちろん信じない――」
「悪いけど、私も、はっきりそうじゃないって言い切ることは、出来そうにないわ。海山さん、私達が認識しているのは、広大な宇宙の、ほんの一部分でしかないのよ……」
胸の前で、両手の人差し指を突き合はせて言ふ。
「ねえ、みなきちゃん。本当は、迷子になっただけなんだよね?」
「何のことですか? あ、やちよお姉ちゃんも、昨日は助けてくれてありがとうございましたっ」
「うわぁぁぁぁぁぁぁあ~~ん!!」
その場の誰一人、彼女の味方をする者はをらず、しく〳〵と愚図りながら備品のベツドに走り、俯せに倒れ込んだ。
「どォやら、ほぼ確定と見ていいらしいな」
「鶴ならぬ、鯉の恩返し……機を織る姿を見られた鶴は、翁の前を去って行ってしまいますが、この場合はどうなんでしょうか?」
「さァ? 制約とかみてェなモンは、一つも聞いてねェぜ」
二人して水城を見るも、彼女はにこ〳〵とするばかり。
「こりャア、同じ神様を頼るしか、他に方法はねェか」
「白河君、その手の話にいやに詳しいみたいだけれど……あなた、何を知っているの? それに、木崎さんの転校(、、)の時も、真部君と一緒になって来ていたわよね。もしかして、それと何か関係が?」
詰め寄られ、う、と言葉を詰まらす。実原には、桜子の心配が本物だといふことが痛い位に分かつてゐたが、約束がある以上、事実を語ることは不可能である。その秘密といつても、眞理学部歴一週間弱の幸に明かされてゐるやうなものなのだが、彼の誠実さは、断じて反故を許さない。挙句、ぐつと奥歯を噛み締め言つた。
「すいやせん、トム達のことは、俺の口からは」
「そう、話せないことなの……」
伏せ目がちに、悲しさうに。やはり忍びなく、即ち二の句を継ぐ。
「ですが、霊なり神なりが実在しているってこたァ、言わせて下せェ。そィで、暗黒病も、そォいった世界に深く関係してンです」
「良かった、原因が分かったのね。それなら、きっと対処法もあるわね。良かった……」
胸の辺りを押さへ、感慨に浸る藤堂教諭。それでも実原の中には申し訳なさが燻り続け……だがそこで、携帯コンピウタを弄つてゐた幸が、やをら右手を挙げた。
「どォした、君島」
「将校さんから、許可が出ました。全部話しちゃって大丈夫、みたいなんですけど……」
もう色〻と、台無しである。
一一時三八分
新多摩市 諏訪神社境内
やけになつて洗ひざらひを語つた実原は、眠つてゐた八千代を起こして桜子の保健室を後にし、水城及び幸と共に、彼の信仰する小さな神社に参詣してゐた。
「ねえ実原、どうして神社なんかに来たの?」
「今に分かるぜ。――諏訪呼サーン!」
虚空に向けてその名を呼ぶ。すると光の柱が立ち、その中から、一人の女性が現れる。風にうねる髪と、理知的な瞳は、大地の土の色をさながら映しこんだかのやう。紐のついた麦藁帽子を被り、身に着くるは、清楚――とは言ふまじかる、肩や脇や胸元で健康的な肌を大胆に晒すタイプの白いワンピースドレス。超自然的に登場した彼女は、自然な笑みを浮かべ、実原達に語り掛けり。
「いらっしゃい、実原、幸、八千代。それと――ミヒロ?」
人間が幻でも見た時の風に、不思議さうに首を傾ぐ。
「いえ、こいつァ錦織水城です。今朝、いきなり俺の前に現れまして。色々あって川の神サマなんじゃねェかって当たりを付けたンスけど、諏訪呼サン、ご存知ありやせんか」
「みなき……ああ、あの水城ね。てっきり、また理生が浮遊霊を生き返らせたのかと思ってしまったわ」
「お兄ちゃん、こちらはどなたですか?」
ぽかん、と口を開くる水城。それは、八千代もまた同じであつて。
「それ、うちも聞きたいよ。あなたは一体?」
「私は諏訪呼。この神社の祭神で、この辺りの産土神も務めているわ。水城には、八坂刀売神と言えば、分かって貰えるかしら」
「……マジ?」
「大マジだ。つゥか、この期に及んで、嘘ついてどォすんだよ」
吐き捨つるが如くに言ふ。あまりにつれない態度に、彼女はまた、不機嫌モードに突入する。
「この期に及んで、とか言われても、うち、寝ててその辺の事情知らないんだけど」
「自業自得だろ、んなモン。もう、話す気が起きねェ。トムなり藤堂先生なり、君島なり平塚学部長なり、大徳寺先生なりに聞いとけや。それより、今は水城だ」
裾を掴む彼女を引き剥がし、諏訪呼神と対面せしむ。
「どう? そろそろ、何かを思い出しはしない?」
「えーっと、うーんと」
「だったら、こうするより、仕方がないかしら…………んっ」
身を屈(かゞ)むると、水城の前髪を手で除けてやり、露になつた額にそつと口を付けた。なべて人の目には知覚能はぬ領域において、本質的な交はりが行はれ、送り込まれた情報が嘗てのあの日を想起せしめ、少女の容をした神は、はつとして瞠目す。
「あ、思い出しましたです、やさか様っ!」
「私の方でも、あなたの置かれた状況は把握したわ。これは、ちょっと困ったことになってしまった様ね。ど、どうしようかな……」
帽子の解れた所を指で捏ねつゝ、眉を寄せて思案の顔。やがてぴんと弾くと、幸に向かつて指示を与ふ。
「幸、至急、理生に連絡して欲しいのだけれど。こっちに、理世を送って寄越してはくれないかって」
「は、はい、分かりました」
携行PCを操り、再び特務中尉に電文を送る。すると、地球の裏側から、光速の百万倍近い速度で、金髪の翼神が飛来した。この場では、諏訪呼と水城以外、その姿を捉へられる者はゐなかりせど。
「おっきな鳥さんが来ましたです」
<鳥じゃねえ、天使だ。まあ、本当は天使でもねえんだけどな……。で、諏訪呼、あたしを呼んだのは、そこのちんちくりん関連か?>
「そういうことよ。取り敢えず、実原達とも話せるように、窮屈でも強制的に顕現させて貰うわ」
先に比較して小規模な光の柱。それが収まれば、跡地には、一頭の獣が凛として佇(たゝず)んでゐた。翳りなき黄金色の毛皮を纏ひ、ぷくと膨らんだ尻尾は、根元から九つに分かれてゐる。
「げ、よりにもよってこの姿かよ。昔を思い出して、激しく憂鬱(いうゝつ)な気分になるんだが……」
「きゃあぁっ! いきなり出てきた狐が喋ったー?!」
「いい加減、慣れろ八千代。手前はもう、完全にこういう世界に足を踏み入れちまってンだ」
肩に手を置く実原。彼女にはどうやら効果覿面なるらむ、大人しくなるにはなつた。
「これ、あの理世さんなんですか?」
「これ言うな。コンなでも一応神なんだからな」
「わぁい、ふっかふかですー」
「おいこら、頭を撫でるな! 尻尾をもふるな! 喉くすぐるな! 話を進められねえだろうがさ!」
幸と水城に揉みくちやにされながらも、何とか振り切つた理世は、総毛立たせて牙を見せ、威嚇のポーズ。しかし、傷付くる気がさら〳〵ないことはすつかりばれてをり、結局追撃を許した。
「ならば、そのまま聞いてくれて構わないわ。実はその水城、中級の土地神でそんなに力は無いのだけれども、何故か本来の能力を超えて、完全な形で肉体を持ってしまっているのよ」
「すると、エントロピーの制限も突破して、すっかり一個の人間って訳か。五階神乙種非限定のあたしでも、肉体の構成すら無理なんだがな。なああんた、何をしたんだ?」
「さねはるお兄ちゃんにお仕えしたいって、おいのりしましたです」
かう来たもんだ。諸手を挙ぐる代りに、理世はきゆうんと一声啼く。
「ハイヤーセルフが見当たらねえ。本体は別の場所にあるらしいな」
「そォなんすか? てっきり、鯉がそのまま化けたモンかと」
「違うわ。水城は紛れもなく、あなた達と同じ魂を持つ、人間なの。異なるのは、母親の胎から生まれたか否かという点だけよ」
三人と一柱と一頭が、揃つて水城を見る。
「こうなった以上、こいつは人として生きてゆくしかねえ。白河、こいつは手前が面倒見な。心配せずとも、富士山様の許しは出てる」
「その前に、親の許しが出るかどォか、微妙なんスけど」
「その前の前に! 実原の所にみなきちゃんを置いとくのは、物凄く危険だよ!」
八千代、いやに真剣に。理由はご推察頂きたい。
「実原にそんな度胸がないことは、八千代が一番よく分かっているでしょう? 白河夫妻の説得も、恐らく心配は要らないわ。生活に必要な物は、勉の置いて行った金塊でどうにか出来る筈」
社の扉を開け、床下にびしり詰まつたインゴツトから、二本ほど取り出し、彼に渡す。
「うわ、スゴっ……」
「水城のことを、よろしく頼むわね、実原」
「は、はいッ、諏訪呼サン!!」
一三時〇八分
新東京市 渋谷町 百貨店<ノイエ=トキオ>
銀行で一本の金を通貨に換へた実原一行は、水城の衣類を揃ふるべく、中心街まで出張つて来てゐた。
「やっぱり、みなきちゃんには赤が一番似合うかな。こういうひらひらしたのなんか、超いい感じだと思うんだよね」
「こっちのふりふりも、中々どうして捨てがたいですよ! ちょっと過剰装飾かなって位が、却ってみなきちゃんの可愛さを引き立てるんです! うへへへっ……」
「こ、こうさんがこわいですー……」
姦しい三人娘。壁に寄り掛かつて彼女らを眺むる実原は、場違ひの感と手持無沙汰さから、大きく欠伸をしたり。
「じゃあ、試着室行っちゃいますね!」
「あうー、引っぱらないで下さいですー」
「ん、行ってらっしゃい。幸、みなきちゃん。……さてっと」
残された八千代は、呆けてゐる実原の元に歩み寄る。やゝ迷ひし後、その傍らに、不自然でない程度の距離を置いて納まつた。
「暇そうだね、実原。みなきちゃんの服はうちらに任せて、実原は他の所を見て回っててもいいんだよ?」
「俺ァ携帯なんざ持ってねェからな、こんな場所ではぐれたら、一巻の終わりだろォが」
「子供かっ! いや、ある意味子供より酷いよ、それ!」
「放っとけ。単独行動しかしたことねェし、勝手を知らん。それに、町は物騒だ、万一水城に何かあったら、諏訪呼サンに申し訳が立たねェってモンだ」
聞いた彼女は、頬を膨らませ、不満を顕にす。
「何よ、うちのことは心配してくれないの?」
「はッ、君島ならいざ知らず、手前がそんなタマかよ。悪漢に狙われても、間違いなく返り討ちだろォぜ」
本人は毛嫌ひするが、彼女の恵まれた体格から放たるゝハンマーパンチやフライングキツクは、男のそれに勝るとも劣らない威力。事実、鉄人目指して鍛へる実原に対し、常に優位を保ち、的確な打撃を与へてゐるのである。尤も、単に彼が弱いだけとも取れるが。
「なっ……確かに好き勝手される気はないけど、女の子に対して、言っていいことと悪いことがあるでしょ!?」
「いやァ、何故か手前に対してだけは、そォいった配慮をする気が、ミジンコ程にも起きやがらねえンだよな」
「そ、それって、どういう意味……?」
一応、特別扱ひではあるが為なるらむ、急に失速。
「さァな」
言ふ実原の、胸部を横目にしてゐたるは、諸賢承知の通り也哉。
「はっきり言いなさいよ、もうっ」
「まァ、この機会に、携帯に挑んでみるのもいいかも知れねェ。メーカニィック・スイッチ・オン! ってヤツだ」
「ちょっと、話戻さないでよ!」
「手前も、好きな服を選ぶといいぜ。水城プロデュース料だ」
「え、いいの?」
「例えば、そこの全天候型トレーナーとかな」
イン・ザ・ワゴン、三枚で四九八円の品である。
「うわ、セコっ! クリームヒルト=ブレートヒェンでは、あんなに気前良く奢ってくれたくせにさ! 一億とんで五六八〇万四〇〇〇円の資金が聞いて呆れるよ!」
「流石に大事に使うべきだろォ、こういうのは。それに、さっきはだな、手前がパンばかしあんなに喰らうとは思わなかったんだ」
「だって、スフィアちゃんがことある毎にお勧(すゝ)めしてて、すっごく気になってたんだもん。こんな機会、そうそうないって思ったら、そりゃ気合入れて食べるでしょ」
「せめて栄養が、然るべき所に行きゃアいいんだがな……カハッ!」
鳩尾に めり込む拳 ゆくりなく 散る実原は 木の葉にも似て。
「今度言ったら、お天道様の下を歩けなくなるかもよ?」
「スキンシップにしては、ちょっと威力が高すぎるんじゃ……」
試着を終へてきた幸、眼鏡の蔓を押さへ、批難の姿勢。
「お兄ちゃん、しっかりして下さい! こんな所でねると、おかぜをめしてしまうみたいですよっ!」
「おゥ、水城、俺ァ、もう、駄目だァ……。君島、悪ィ、これで、会計、済ませて、くれェ……。ついでに、手前も、好きな、服、買って、いいからよォ……」
懐から、福沢諭吉氏の肖像を三枚ばかり取り出す。受け取つた彼女は、平凡な高校生には過ぐる金額に、ふと眉を顰めた。
「本当に、よろしいんですか? 私、そんなに大したことはしていないので、何だか悪いです……」
「だとさ、八千代」
蹲りつゝ、横目で天仰ぐ実原。
「な、何よっ」
「気にすんな、こいつに、較べりゃ、働いてる……。ところで、この後、電機屋、それから、八千代の服選びに紳士服のモナカに行くんだが、手前も来るか? 面倒なら、ここで別れて帰っても――」
「白河先輩」
立ち上がつた彼を、冬空のやうな冷たい瞳が見上ぐ。普段のおど〳〵した調子は奥の方に仕舞ひ込まれ、完全に、説き伏せる為の用意が整つてゐるのである。びゞりの実原としては、唾を飲み下し、辛うじて虚勢を張るのが関の山。
「どど、どォした?」
「さっきの言い方は、正直ないと思います! 海山先輩だって、歴とした女の子なんですよ? もっと、発言にも気を遣ってあげないと、ダメダメです!」
「やれやれ、手前もか……」
「そいえば、さっきうちも、そんなこと言ってた気がするよ」
「全然、反省してないんじゃないですか! やだ――!!」
詰め寄り、あはや頭突きといふ事態に。
「はァ……いや、な? 俺ァ、人付き合いがあんましなくてよ。特に、適当につるめる女なんざ、八千代が初めてで――」
「そんなの、理由になりません! こう、筆の毛先で撫でるように、針に糸を通すように、飴細工に触れるようにですね!」
がみ〴〵と、投げかけらるゝ、妙な比喩。
「あー、もういいって、幸。合うサイズの服がないのは、事実なんだしさ。ほら、着れない分、うちが気合入れて幸の見立てたげるよ」
「え? あ、ありがとう、ございます……?」
よく分からない内に、肩を抱かれ、連れ去られてゆく。八千代としては、見てをれない気持ちのが強かつたりけむ。実原といへば、然様な乙女心など露とも知らず、幼神相手に呟くだけである。
「なあ水城、八千代の前で、身長と胸の話は絶対するなよ?」
「分かりましたです、さねはるお兄ちゃんっ」
屈託ない笑顔で応ずる彼女は、その意味する所をこそ解せざりなめれ。指摘するも不毛と見た実原は、取り敢へず、別のことを。
「手前も、何か欲しいモンがあったら、遠慮なく言えよ」
「みなきは、お兄ちゃんにお仕えできれば、それでいいのです」
どうぞ読者の皆々様、我らが白河実原の、豚箱に強制連行せられぬことを、共に祈つて頂きたい。リア充爆ぜよとの念強ければ、無理にとは言はぬが。
「そんなんじゃ、将来つまんねェヤツになっちまうぜ。趣味や興味の一つ二つねェと、人間強度もさがるってモンだ」
「うう、よくわかりませんのです……」
「例えばな、玩具なり絵本なり――つうか、手前、そォいう人間の文化は知らねえのか」
「ぞんじてますですよ。でも、おもちゃよりも、さねはるお兄ちゃんとおあそびしたいですっ!」
意外や、既知のやうである。不思議を感ぜし彼だつたが、川原で遊ぶ子供達を見てのことゝ、一人納得す。
「そォいや、さっきパン喰ってたが、神だから、肉なんかはやっぱり駄目なのか?」
「お肉より、こけとか虫とかがすきです」
実原、嘆息のこと。一般常識を教へ込む必要ありと、腹を括(くゝ)る。
「じゃあ、菓子なんかはどォだ」
「あっ、みなき、べちごやきが食べたいのです!」
「ベチゴヤキ……? 知らんが、ひょっとして、神様関係か」
「ちがうです、人のよの食べものですよ」
さう言はれて、再検索を掛けて見た所で、該当するデータはつや〳〵見つからず。こゝは他力本願以外になし。
「……じゃあ、八千代が帰って来たら、聞いてみような」
「うちに、何を聞くって?」
水城と実原の間隙に、突如挟み込まる彼女の顔。
「のゥわッ! な、なんだ、早ェじゃねえか」
「ある程度、目星は付けてたからね。で、何の話?」
「あァ、手前、ベチゴヤキって知らねェか」
その問ひに、八千代はかなり驚いた表情を見せた。
「え、実原知らないの!? べちご焼きと言えば、十年ぐらい前に、駄菓子界に彗星のように出現。一世を風靡したものの、工場が謎の爆発。製法も永久に失われて、全国のファンに惜しまれつつも生産中止になった、伝説のお菓子なのに!」
迸る情熱の律動が、まるで形を成して、直接目に映るかのやうである。これには実原、ほと〳〵呆るゝばかり。
「何で水城は、そんな妙なモンを知ってンだ……」
「なんとなく、分かるですよ。どこかが、おぼえてますのです」
「多分、水神の祠にお供えでもされてたんじゃないかな」
「まァ、妥当なセンか」
釈然としないながらも、さういふことで決着がつく。と、そこで、第四者の声が響いてきた。
「お待たせしてしまって、申し訳ありません」
「お、幸も戻ってきたね。じゃ、次行こっか」
「あの……私実は、すごいお邪魔虫になってません?」
「何言ってんだ、一番役に立ってるぜ。ほら、荷物貸せって」
「あ、ありがとうございます、白河先輩……」
気取られぬ程度にむす、として、手提げ袋を渡す。幸が内心「駄目だコイツ」と唱へたことは、隠すまでもないことだらう。
二〇時一五分
白河邸 風呂場
諏訪呼神の言葉通り、実原の両親は、いやにすんなりと水城の存在を受け入れた。それは、納めた一億五千万円の効能か、はたまた何か別の理由があるのか。どちらにせよ、逼迫した問題は、全て片が付いたことになる。
「ッたく、妙に疲れたぜ……」
湯船の中で、肺の空気を殆ど吐き出した。肉体的には、八千代のハンマーパンチ五発程度の軽いダメージだが、精神はさうもいかない。状況に次ぐ状況で、混乱の度合も相当な物。彼は、多少なりともそれを和らげむと、虚空に向けて言葉を紡ぐ。
「なあミヒロ、ちィっと整理してくれや」
「何のことはないよ。助けた鯉が、実原の望んでいた出会いを齎してくれた。単にそれだけのことだろ?」
己が内のみに響く声。それは全く幻覚に非ず、彼の本質的な部分から伝はつてくるものだ。実原の魂を一軒の家とするなら、ミヒロはそれを含めた街全体――然様な存在である。正確には、ミヒロも町内会のやうなものなのだが、こゝでは多くを語るまい。兎も角、私達はそれを、ハイヤーセルフと称してゐる。
「随分、簡単にまとめたな」
「ことをあまり複雑にし過ぎては、肝心なものが見え難くなる。この位単純化した方が、却っていいのさ」
「はァ……。ミヒロ、俺ァこの状況を、喜んじまっていいのかよ? あまりに事がとんとん拍子に進み過ぎてて、何だか空恐ろしいものを感ずるんだが……明日、いきなし死んだりしねェよな?」
「さあね、我等の口から言えたことではないよ、それは。既に賽は投げられたんだ、あれこれ考えずに、流れに身を委ねてみるのもいいのではないかい?」
「そォいうもんかね」
両掌を合はせ、思ひ切り伸びをして、浴槽に沈む。因みに、溢るゝまでに湯を注ぐのは、久方振りの出来事である。恐るべしは、財の齎す心の余裕か。
「で、どうなんだい水城は。好みなんだろう? 仮面の下に隠した獣の様な愛欲を、ここぞとばかりに解き放ってしまうのかな?」
「抜かせ。あの水城に対して、そんな気を起こせる訳ねェだろうが」
「双方向の愛は、罪ではないよ。それに、彼女は神、年齢などはあってないようなものさ」
退かぬミヒロに、実原は、大きな溜息で以て返答と為す。
「ッたく、分かってんだろ、俺の気持ちは。あいつに対して湧いてくるのは、そういったドロドロしたモンじゃない。こう、見てて危なっかしくて、守ってやりたい、守って、やりたかった――ぐッ」
胸の辺りに痛みを覚え、思はず手をやる。
「傷に触れてしまったようだね。この話は、もう終わりにしよう」
「ミヒロ……手前は、一体、何を知ってンだよ」
「知らぬが花という言葉がある。今はまだ――」
その時、浴室のドアが元気よく開け放たれた。
「お兄ちゃん、おせなかおながししますですっ!」
水城か、といふ声も出せずに、彼女と見詰め合ふ。そして、神子は大きな叫び声を上げた。――しかし、皆の想像とは違ふ形の。
「お、お兄ちゃんが、つるつるです~!!」
嗚呼、ぼくらの白河実原は、ヅラである。
この物語はフイクシヨンであり、実在する人物や団体等とは、関係がない場合が殆どです。
尚、本作は、http://ncode.syosetu.com/n8256q/のスピンオフ作品となつてをりますので、宜しければそちらもご覧下さい。