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体がビクンと跳ねて、真っ暗な部屋が視界に飛び込んで来た。
隣のパンダじゃない美佐子はビックリして起きた。
「美佐子ちがうんだよ。重いに決まってるし重い方がいいに決まってるんだよ。軽いわけ無いじゃないか」
何言ってるの?という顔をしながらも、顔を触ってくれた。その手はいつものパンダじゃない美佐子の手であり、握ると柔らかく、柔らかくと言っても肉球のような感触のそれではなかった。
ただ、手を引き寄せ抱きしめた手で背中を触るとひんやりとしており、その触った部分から鳥肌が広がった。
【後ろになんか戻らない】
背中を触った手の平からは、汗が噴き出し自分の背中に戦慄が走った。
抱き寄せた腕をそっと放し、頭の中にあるのは、パンダの美佐子であったが実際に目に映っているのは、いつも通りの美佐子であった。
先ほど脳に響いた声は幻聴で、空耳というやつなのだろう。
まだ寝ぼけているからだろうか夢を見たすぐ後のようであり、二度寝をした後にみる夢の続きのようだ。
こんなにもハッキリと鮮明に覚えている夢を見たのは何時ぶりだろうか?
しかも、夢の中で直接脳に語りかけてきた美佐子の恐ろしい低い声を目覚めてからすぐに聞くなんて。
「ひどい顔してるけど、どうしたの? 何か嫌な夢でも見ましたか?」
と、クチを動かしながら美佐子は言った。
顔と顔の距離の近さと寝起きであるということで口臭が少ししたが、好きな人の口臭であるというだけで、たいして気にはならないというようなことを考えられるぐらいに、パンダではない美佐子に安心をした。
話すべきか迷ってはいたが、僕のするつまらない話を楽しそうに聞く美佐子の顔を思い出すと、自然に話し始めた。
「パンダのね。パンダの美佐子が夢に出て来た」
「パンダ?」
「そう、パンダ」
「あのパンダ?」
「そう、そのパンダ」
「白と黒の?」
「うん。白と黒の」
「竹をボリボリかじる。あのパンダ?」
「そう、熊のくせに草食で」(近くで見ると目つきの悪いと、これは余計か)
「パンダってさ」と、突然何かを思い出したように美佐子は話し始めた。
「何?」
「パンダって何で白黒なのか、知ってる? あれってアルビノの亜種なのかな?」
「アルビノって何?」
「家に帰って、お母さんに聞いてみるといいよ。お母さんアルビノって何?って」
「ははは、どうせエロいことだろー」
顔では笑って茶化してはみたが、昔の嫌な思い出が蘇ってきて奥歯を噛みしめる事しかできない。昔に美佐子が手料理を作ってくれた時に苦戦してておかあさんに聞いてみろよとか言ったら『お母さんいないし』とか泣かれたことがあって、なんとか謝り倒して時間が経って今ではこうしてギャグにまでしてくれているのだけど、さすがに加害者側である僕の傷はそのたびにえぐられるわけなんだけども、まぁその傷は一生癒えなくてもいいほどの罰だし、これぐらいのバツの悪さは受け入れようと思う。
「ねぇ聞いてる?」
なにか話を、していたようだけど、正直パンダについてのウンチクにはあまり興味はない。たしか、進化論では草食動物から肉食へと進化したがパンダだけは逆で、肉食からまた、草食に、という話。草食動物の胃や腸の形状ではないのに……というような内容の話だったはず。
「聞いてるよ。パンダって不思議だよねー」
「興味がない話は、すぐにつまんない顔になるよね」
「そんなにわかりやすい?」
「わかりやすい。すぐに顔に出る」
「嘘はつけないな」
雪だらけの寒い冬に、食べるものがまったく捕れず、お腹が空いたパンダの始まりのクマの家族が、生きていく為に硬い竹を子供への愛情と将来の希望だけで、お母さんが先の不安をかき消すように噛み砕き、口移しで赤ちゃんに与える。
そのような光景が頭に浮かぶ。生きたかったのか、死ねなかったのか。
「でねぇ、パンダのさ、毛を全部剃ったとしたら皮膚は何色だと思う?」と、楽しそうに笑いながらパンダの話を続けてきた。
「ええ? 色?」
パンダの毛をバリカンで刈っていく映像が頭に浮かんだ。刈っても刈っても皮膚まで到達せずに、どこまでいっても手に毛は貼り付くし、足下へとモコモコと毛が積もっていった。
「パンダの皮膚はね、ピンク色なんだって」
その瞬間に、バリカンの感触が変わり薄いピンク色をした皮膚が出現し、手を動かした一直線のピンク色のスジが出来た。
「へー、そうなんだ」
「でさ、なんで、あんなにも目立つ白と黒なんだとおもう?」
「ええ? さっきのアルビノの話? それって答えがあるの?」
「ある!」得意げに美佐子は鼻を膨らませながら答えた。
「なんだろうか? 森の中では違和感のある配色で外敵に対して威圧感とか違和感とか不気味さを与えて戦うことを避けた……とか? 毒のありそうな奇抜な配色と同じ効果をねらって……」
「わお! 新説! ああ、それもあるのかも」
美佐子は感心したように、ふむふむ頷きながら話はじめた。
「色んな説はあるらしいんだけど、雪深いところでの保護色……」
「ちょっと待った。話の途中で悪いが、それならシロクマのように真っ白で良くないか?白と逆の色の黒は凄く目立つよ」
「そう、そうなんだけど……」
「動物が色盲だとしても、黒と白と赤、空の青さや植物の緑の区別ぐらいは付くと思う。」
「それは、あなたがそう見えているから他もそう見えるはずだ。それに近い物や、劣化した物が見えているはずだという仮定でしか無くない?」
「え?」
「それって、酷く上からじゃない」
「上からというわけではないよ。トンボの眼鏡は水色眼鏡だし」
「昆虫はね、宇宙生物なの」
「へ?」
「昆虫は人間には理解できないと思ってます」
「は、はぁ」
「それよりもさ、パンダのしっぽって黒でしょうか白でしょうか」
「なに? なに? 急に? クイズ?」
「ちっ・ちっ・ちっ・ちっ・」
「え? なに? どっちだろう黒?」
「ぶー」
「白いの?」
「そう! 白いの」
「まじかー」
「デザインの神様がいるのだとしたら、あそこは黒だと思うのだけど、そういう意味ではデザインの神様というのはいないのかもね。あのさ、パンダの私のおしりにはシッポ、はえてた?」
【こんな風な?】
また脳に声が響いて、お尻を向けてきた目の前の美佐子が一瞬パンダの美佐子になり、確かに白いぼんぼりのようなふわふわの丸い玉がおしりの上、ちょうど背骨の一番下あたりについていた。
確認するやいなやすぐに元の美佐子に戻った。どうにかなってしまったのだろうか、と目をぎゅうとつぶる。
驚きすぎて声を上げることも出来ないほど混乱していた。
白塗りに黒く縁取られた瞳、赤くはじけ飛ぶ血液、それで赤く染まるパンダ。笑うと黒く濁った歯。そんな映像がパン。パン。ときりかわり、首を振ることで映像を振り払う。そのような動作をすると、ますます心配した様子の美佐子は「どうしたの?」と、もぞもぞと体が動き出し冷たい手が僕の股間へと伸びてきた。
「パンダの。パンダの美佐子の夢を思い出した」
「そう」
かすれた声で、「こわかったね」と小さくつぶやいてから、親指と人差し指のほうから掴んでくるような握り方で僕自身を包み込んだ。自分でも信じられないほどの怒張を感じる。すべての血液が集中しているようだ。寝起きだからだろうか?
胸の谷間に顔を埋めると温かく抱きしめてくれた優しさに包まれて頭の中がうすいピンク色で一杯になった。そして本能的に乳首を吸う。
美佐子は体はこんなに大きいのに赤ちゃんみたい。怖い夢を見たんだね。と言った。
その言葉は皮膚と肉その奥の骨をふるわしながら脳へと伝達された。
「パンダの私ってそんなに怖いのかな? パンダかわいいのに」
「……パンクロッカー」
「パンク?」
「白塗りで目の周りが黒いんだ」と、胸に顔を埋めたまま答えると、「夢に出てくる事には何か意味があるとは思わない」と聞いてきた。
「動物の夢?」
「そう、なにかの暗示や、精神状態。動物は象徴的な物だから」
「ふうん」
「意味のないことや無駄な事なんてひとつもない。そうは思わない?」
「無駄なことだらけで、意味のないことばかり繰り返してると思う」
「そう?」
抱きしめられた腕の力がゆるりとゆるんだ。
密着していた体に隙間が産まれて、どこからともなく風がながれたような気がした。
ゆるんだのは手の力ではなかった。僕の体が縮んでいっているのか。
「意味のないこと、無駄なこと。同じ事を繰り返してると思ってるかもしれない。それは【あなたにとっては】でしょう?」
「意味はある。あるけど、ない」
そのまま調子に乗り続けてしまう。
「自分が意味があると思えばあるし、他のだれかがあると言ってくれればある」
「そういうものの言い方やめてくれる?」
問いに対して何かを答えようとするも、こうも体が縮んでいっては縮むことに意識が持っていかれてしまいそれどころではない。
「ごめん」
「気持ちのない謝り方をされても余計に腹が立つんだけど! 何を考えているのか? どうしたいのかサッパリわからない」
なんかおかしな事をいったのかな。と、考える間にどんどんと体が縮むし、頭が回らない。昔からこういう空気になると眠くなるし、上手く頭が回らない。争い事を避けて、時間が解決してくれることを信じてはいたけども、自分の都合のいいように解決するのではなく自分の都合のいいように解釈しか出来なかったのではないか、避けて避け続けたところでたどりつく場所に自分以外は誰も納得はしていないんじゃないか?
それが【あなたにとっては】ということなんだろうか
縮まって気がつくこともある。だけど、これもまた自分にとって都合の良い解釈でしかないのかもしれない。
【白黒はっきりつけなさいよ】
パンダだけにか。
縮む体でパンダの美佐子を上目使いに眺めていると黒く光る瞳が光の反射で銀色に光り、自分の姿を映し出した。
白い体に赤い目をした、ちいさなネズミがそこにいて、パンダの美佐子は何かをしゃべりクチを動かしてはいるのだけど、内容が全く頭に入ってこず、自分がこの先何を考え、どう動かせばよいのか。その司令を待つにしてもその指令は誰が出すのか、そもそも自分は誰なのかもわからないまま電流が流れて視界にノイズが混じり心配そうなパンダではない美佐子の顔が張り付いたまま剥がれることはなく時間は止まった。