雨中の作家
外は生憎の雨であった。わざわざ新幹線に乗って訪れたというのに、この空模様では外出する気など起きない。井崎は窓からの景色を何の感傷に浸ることもなく見ていた。これが晴れの日であったならば、今はひたすらに雨が落ちていくことを表す波紋が広がるだけの海が太陽によって輝き、美しく見えるだろう。
「はぁ……」
一つ溜息をついて、井崎は畳の上に寝転ぶ。彼がこの地へ旅行してきたのは、まだ名の売れていない小説家である彼が雑誌に載っていた一つの記事を読んだからだ。その内容は、数多くのベストセラーを出している人気作家のインタビューだった。
「構想に行き詰った時、私はよく旅に出ている」
書いてあったことの一つに、このようなことがあった。井崎もそれを真似して旅に出たものの、何一つ思い浮かばない上に観光も楽しむことができない。二十代で小説家として有名になることは大変難しい。それは承知している。しかしながら、大成をしたいという野心もあった。その野心も、美しい景色が雨によってかき消されてしまうように、自らの創造する力が乏しいためにかき消されようとしていた。
「雨、ねぇ……」
昔から、何かにつけて悪天候となってしまう。井崎はいわゆる「雨男」であった。それも重度のものである。例えば小学校の時に、運動会は六年間に四年は雨で延期となってしまったことがある。中学、高校の体育祭においても、晴れて当日開催されたという記憶のほうが少ないような気がする。高校の修学旅行も初日が雨で、予定されていた観光が無くなってしまった。これだけならば井崎以外の人間が「雨男」という可能性もあるのだが、個人で外出する際も、良く雨が降っていた。外出予定が無いときは恨めしいくらいに快晴。
そういった経験から、
「自分が遥か昔に生まれていれば雨乞いの必要は無かった」
「砂漠に行けば雨が降って水不足が解消される」
などとポジティブに考えていた時期もあったが、結局のところ自分が雨男であることは変わりがないので長続きしなかった。また、現在彼が生業としている小説を書く際には雨の音というのがとても邪魔になる。窓を閉めていても雨音は聞こえるために、なかなか集中することができない。やっと、新人賞において賞を取り、出版社に認められ、晴れて作家と名乗ることが出来たのだが、その後が続かない。このままではすぐに作家を辞めることになるだろう。そのような考えもあって旅に出て宿に泊まっているのだが、やはりここでも雨が自らの創作意欲を下げてしまっている。
「はぁ……」
本日何度目か分からない溜息をつき、原稿用紙を丸めて投げ捨てる。彼が書いているのは高校生を主人公とした青春小説であるが、書いているうちに井崎自身と架空の世界を比べてしまい、あまりにも差があるために先が書けなくなってしまう。物語は明るいものだが、井崎の心はどんよりと曇ってしまっている。そんなに激しい格差があるのだから、物語を続けることが出来るはずもない。そう思っている井崎は早朝から何枚も原稿用紙を丸めて、投げ捨てて、溜息をついている。
「結局のところ、小説家としての器の差だよ。旅に出た所で、元から才能がない俺は何も浮かぶ訳がない。才能がある作家はここで何かのアイデアを見つけて、また売れる小説を思いつくんだ」
一人、暗い部屋で呟く。その声も雨によってかき消されてしまいそうな弱いものだった。そのままふらふらと立ち上がって、井崎は窓から雨中の景色を眺める。
「ここで雨が降るっていうのも差だよな……。いつも通り、美しかったら俺にだって何か思い浮かぶチャンスはあるはずだ、多分」
誰に聞こえるでもない独白は続く。
「でも俺は雨男だしな。しょうがない、これはしょうがないんだ」
一人で勝手に結論づける。その行動がいかに醜いものなのか、井崎はよく分かっていた。分かった上でしょうがないと言っているのは、自分を強引に納得させたかったから。才能が無いと思っていながらも、それを口に出してしまうと何も出来なくなってしまうような気がするのだ。
ひとしきり言った後振り返って見ると、そこには丸められた原稿があちらこちらに散らばっていた。それらを一つ一つ拾って、原稿用紙の束があるテーブルに置いていく。ある程度の数を置いたら、更にその上に積み上げていく。丁寧に積んでみると、綺麗にピラミッドが出来上がった。
「……明日には、帰るか」
完成したものを見て、空しい気持ちがこみ上げてくる。どれだけの紙を無駄にしたのだろうか、と普段なら全く思わないことが頭に浮かぶ。そうして今度は丸められた用紙を開いて、クシャクシャになった原稿用紙を、まだ何も書かれていない用紙の横に置いていく。これらの行動に全く意味は無い。しかし、井崎は動いていなければどうにかなってしまいそうな精神状態にあった。
「何か、気分転換でも……」
言って、携帯電話を開く。電話はおろか、メールもここ数か月はやっていない。久しぶりに高校時代の友人に電話をしてみようかと思って、あまり登録件数が多くない電話帳を開く。誰にかけても良かったのだが、電話帳を下にスクロールしていると、一人の友人の名前が目に入った。
「大下か……」
高校時代、井崎は文芸部に所属していた。大下という少女もまた同様である。あまり話をしたことはなく、電話をかけるという気も無かった。井崎がそこで止まったのは、在りし日の文芸部での活動を思い出していたからである。頻繁に活動があった訳ではないが、井崎にとっては今の作風に少なからず影響を与えている。
「あの頃は行き当たりばったりでも書けたな……」
文芸部の活動として、「お題」を誰かが出して、それに沿って短編小説を書くというものがあった。勢いだけで書いていたものだから、作品の質は低かったものの、間違いなく楽しく書いていたと断言できる。
「じゃあ、久しぶりにやってみるか」
携帯電話をしまって、部屋を出る。そのまま階段を降りて一階へ。先ほどから比べれば気分は高ぶっている。心の中で高校時代の友人に感謝しながら歩いていると、玄関から声が聞こえた。
「観光目的で来たのに雨とかついてねーな」
「本当にねー。明日には晴れてるかな」
若い男女であった。今日は観光をする予定だったのだろうが、見るからに意気消沈している。井崎はそれを見て、少しばかり申し訳ない気持ちになった。
「やっぱ雨って俺のせいだよな……」
雨が降っていることが井崎のせいであるとは直結しないのだが、雨に対して良いイメージを抱いていない彼は、男女のこういった姿を見ると、また心が曇ってしまう。そればかりが気になってしまって、お題を探す気持ちが早くも薄れてしまう。このまま部屋に戻ろうか、というネガティブな考えが頭を支配する。そんな井崎であったが、全く気にしていないかのように新しい声がもう一つ耳に届いた。
「雨だ雨だー。お父さん、ねえ雨だよ雨」
甲高い少女の声で、その言葉は玄関中に響いた。たった今玄関から去ろうとしていた若い男女や、井崎も思わず振り返る。そんな人々の反応を全く気にせず、声の主は傘を持って玄関の外に出る。その後からは、父親と思しき人物が同じく傘を持って娘についていった。二人の表情は楽しげであり、外に出ない井崎達に対して、逆に何故外に出ないのかと言っているようでもあった。
「……」
そして、井崎は驚いていた。雨中の外出は珍しいことではないが、あんなに楽しげにしている姿を見たことは無かった。大抵の人間は、そういった状況の時はつまり外出しなければ行けない時であり、あまり気が乗らないものである。しかし、目の前の父娘は違った。自分の意思で雨中に外出し、そうして楽しそうでいる。特に少女のほうは傘をくるくると回しながら、今にもスキップしそうな勢いで歩いていた。
「俺にも、あんな頃があったのかな」
もう思い出すことはできないが、小学生の時は今ほど雨に対してマイナスのイメージを持っていなかったのではないだろうか。それが成長するにつれて、一方的にしか雨を見られなくなってしまい、雨男である自分を勝手に卑下しているのではないか。井崎は、雨と自分の姿をもう一度捉え直したい気分になった。
「……よし」
井崎は微笑ましい光景をもう一度見てから、自分の部屋へと戻る。もう既に書くための「お題」は決まっている。今度は心の中で少女とその父親に感謝しながら部屋の扉を開ける。そしてテーブルの前に座り、原稿用紙を数枚取って、ペンを握る。そうして原稿用紙の欄外に一行。
「制限時間は一時間。お題は【雨】。」
結末も、展開も、何も考えてはいない。即興で思いついた出だしを数行書くと、後は不思議と続いていった。原稿用紙を半分使って、そしてすぐに一枚を使い切る。その頃には大筋が井崎の頭の中で作られていた。雨が窓を打ち付ける音は気にならない。むしろ、その音を聞くことによってペンが進む速度がどんどん増していく。
「……」
井崎は黙々とペンを走らせる。制限時間の三分の一である二十分が経過した頃には、原稿用紙は六枚目に突入し、全体の流れが見えてきていた。井崎のペースが衰えることはなく、むしろ加速しているとも言えた。井崎は自分自身のことを才能がないと評価していたものの、一度調子が上がってくると、そのまま発想が泉のように湧き出る。新人賞において井崎の作品が品評者の目に止まったのは、井崎の卓越した発想によるところが大きい。
「よし完成。後十分あるけど、粘っても蛇足だよな」
ペンをテーブルに置いて、原稿を整理する。計十五枚、四千字に及ぶ作品である。雨の中で佇む少女と、それに関わる少年を描いたもの。字は乱雑であったが、描写そのものは丁寧であり、文の端々からセンスが伺い知れる。
そして井崎は原稿用紙をまとめて立ち上がる。窓から再度景色を見てみると、全く変わらないものではあったのだが、雨によって海に広がる波紋、濡れる草木など、見えなかったものが見えてきている。
「色んな角度から捉え直す、か」
一人呟くが、今度の呟きは雨よりも力強く響いていた。
「それにしても、雨は書きやすいな。人より見慣れているからだな、これは」
景色を見ていると、先ほど出かけて行った父娘がちょうど宿に戻ってきている所だった。出ていく時と変わらず楽しげな表情である。雨の中で歩くということはそんなに楽しいことなのだろうか。幸い、自分ならば歩こうと思えば雨が降るので、もしそれが面白いことならば、「雨中旅行」などと題して、紀行文を書くのも良いかもしれない。井崎にとって紀行文は書いたことがないジャンルであったのだが、可能性を広げることは自らの技術の向上につながる。
「とりあえず、傘持って出かけてみるかな」
外は絶好の雨であった。