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お気持ち価格

作者: あかみんご
掲載日:2026/07/05

ある朝、坂本は目覚めた瞬間に、言いようのない違和感を抱いた。


自分の部屋のベッドの上。見慣れた天井。

しかし、何かが決定的に違っていた。


アラームを止めようとスマートフォンを手に取ると、画面に見覚えのないアプリアイコンが並んでいる。SNSを開くと、タイムラインに流れる日常の愚痴やニュースの文脈が、どれも微妙に噛み合わない。


『【お気持ち価格法】が施行されてから三年』

『みなさん、新しい経済には慣れましたか?』

『さっきスタバで前にいた客が十円しか払ってなくて草』


――お気持ち価格法?なんだそれ。


寝ぼけた頭で首を傾げながら、彼はいつも通り出勤支度をして家を出た。が、街の様子もどこか奇妙だった。あらゆる店の看板から「激安」「お買い得」「セール中」といった宣伝の決まり文句が消え、代わりに『お気持ち決済』という共通のロゴマークが掲げられている。


まだ夢を見ているのか、あるいは頭がおかしくなったのか。冷や汗をかきながら立ち寄ったコンビニのレジで、坂本はその違和感を確信することになる。


「お会計、お客様のお気持ちでどうぞ」


茶髪の店員が、いつもと変わらないマニュアル通りの笑顔でそう言った。レジの液晶画面には金額の代わりに『¥[]』という空欄と、金額を入力するためのテンキーが表示されている。


坂本の手元にあるのは、今までなら百五十円のはずの缶コーヒー。


「はい。えっと……」


手動で「150」と打ち込んで決済すると、何事もなく処理された。


「ありがとうございます。百五十円、確かに頂戴いたしました」


品物を受け取り、店を出てコーヒーをすする。


味は普通だ。

どうやら本当に、決済だけが「買い手の言い値」になった世界に紛れ込んでしまったらしい。


会社での昼休み、同僚たちの会話から、坂本はさらにこの世界の詳細を知った。


「聞いたか?阿形部長、昼に三千円の特上寿司食って、お気持ちで『百円』だけ払って帰ってきたらしいぞ」

「マジで?やばっ」

「『お気持ち制なんだから』って突っぱねたんだってさ」


――そんなことが、許されるのか?


坂本はゴクリと唾を飲み込んだ。


お気持ち制。


それはつまり、いくら払うかは完全にこちらの自由ということだ。法的な義務も、罰則もない。前の世界では、汗水垂らして働いても給料は増えず、高い税金と物価高に苦しめられてばかりだった。


だけど、もし今の話が本当だったら。

律儀に元の値段通りに支払うなんて、ただの馬鹿じゃないか……!


その日の夜、坂本は実験を兼ねて、普段なら絶対に行かないような高級ステーキハウスの暖簾をくぐった。注文したのは、最高級A5ランク黒毛和牛のシャトーブリアン。とろけるような肉を堪能した後、運ばれてきた伝票にはやはり『お気持ちで』と書かれていた。元の値段なら、一万五千円は下らないコースだ。


坂本は、財布から一枚の硬貨を取り出した。

銀色に輝く、ちっぽけなアルミニウムの丸板。


「……これで」


キャッシュトレイに置かれたのは、一円玉だった。

給仕の青年の表情が、一瞬だけ凍りついた。


見間違いか、あるいは冗談かと言いたげに一円玉と坂本の顔を往復させている。

周囲の客からも、突き刺さるような冷ややかな視線が背中に集まる。


だが、坂本はフンと胸を張った。


「どうかしたの?」

「……いいえ。お客様のお気持ち、確かに頂戴いたしました。ありがとうございました」


店員は冷ややかに答えた。


やった。

坂本は心の中で快哉を叫んだ。

本当に一円で済んだ。


気まずさなんて、一瞬我慢すれば消えてなくなる。それだけで一万五千円のステーキが一円になるなら、こんなに割のいいゲームはない。元の世界のしがらみから解放された気分だった。


――ここは最高の天国だ!


この日を境に、坂本のブレーキは完全に壊れた。

コンビニの弁当も一円。毎月八万円のマンションの家賃も、大家に一円玉を投げ込んだ。持病の病院でも、受付に一円だけ置いた。国内線飛行機のチケットも一円。一流ホテルのスイートも一円。


周囲の人間は、坂本を軽蔑するように遠ざけたが、坂本はそれを『ケチな自分への嫉妬』だと解釈した。通帳の残高は減るどころか、みるみるうちに膨れ上がっていく。こんな最高のライフハック、使わないほうがバカなんだ。


――どいつもこいつも、世間体なんていう実体のないものに縛られちゃって、本当に頭が悪いな。


世界の勝者は、自分のような賢い人間だ。出費は減って、貯蓄はどんどん増えるばかり。そんな「一円生活」が始まってから一ヶ月が過ぎた頃だった。


最初に異変を感じたのは、旅行先ホテルのラウンジだった。以前なら予約なしでも利用できたはずなのに、受付係は端末を確認した後、申し訳なさそうに頭を下げた。


「本日は満席でございます」


店内には明らかに空席があった。


次は電車だった。


改札を通るたびに、「ピッ」という決済音ではなく「ピピッ」という短い警告音が鳴る。


駅員は何も言わない。

だが周囲の視線が妙に気になる。


スマートフォンもおかしくなった。

ローン会社の広告が表示されなくなった。

資産運用アプリが利用停止になった。

配車サービスは近くに車がいるのにマッチングしない。

問い合わせても「ご利用条件を満たしていません」としか返ってこない。


会社での昼休み。

給湯室で坂本がマイカップにコーヒーを注いでいると、背後から声がした。


「なぁ、坂本」


振り返ると同期の木村が立っていた。

顔色が悪い。ここ最近、妙に避けられていると思っていた。

向こうから話しかけてきたのは久しぶりだった。


「何?」

「お前、本当にやめろ」


またその話か。

坂本はうんざりした。


「だから何をだよ」

「一円決済だよ」

「合法だろ」


木村はしばらく黙っていた。

それから低い声で言った。


「お前、自分のランク見たことあるか?」

「ランク?」

「政府ポータル」


意味が分からない。

だが木村の表情は冗談には見えなかった。


「見ろ」


それだけ言うと木村は背を向けた。

呼び止めても振り返らない。

まるで厄介事から逃げるように給湯室を出ていった。


嫌な予感がした。


デスクに戻った坂本はスマホを取り出す。


政府ポータル。


この世界で目覚めた日から入っていたアプリだ。「マイナンバーや税金関係の面倒なアプリだろう」と決めつけて、開く気になれず通知を切っていた。


顔認証。

読み込み。

そして画面が切り替わる。


【ユーザー識別:坂本晴】

【決済回数:745回】

【平均お気持ち支払額:1.2円】

【人間性ランク:G】


坂本は眉をひそめた。なんだこれは。

画面をスクロールする。

説明文が表示された。


【市民信用制度に基づき、個人の社会貢献度・相互尊重度・共同体参加度を総合評価しています】

【ランクG】

【要観察対象】

【推奨取引制限中】


心臓が一拍止まった。


その日の午後、先日契約更新を申し込んでいたクレジットカード会社から通知が届いていた。


【契約継続を見送らせていただきます】


更には社内システムにログインできなくなった。


流れるような人事部からの呼び出し。

会議室。

机を挟んで二人の担当者。

どちらも目を合わせようとしない。


「坂本さん」

「はい」

「当社規定により、人間性ランクE未満の社員は重要業務への従事ができません」

「……は?」


言葉が出なかった。


帰宅後。坂本は必死になってネットを検索した。画面には、自分が今まで完全にスルーしていた「この世界の常識」が、冷酷な文字で並んでいた。


―――

■【3分でわかる】『お気持ち価格法』の仕組みと罠

三年前に施行された「お気持ち価格法」。一見、買い手が自由に値段を決められる究極の消費者優位の法律に見えますが、その本質は「国民の道徳性と信用を数値化する国家規模のスクリーニングシステム」です。

店側は、提示された「お気持ち」に対して拒否権を持ちません。一円と言われれば一円で売る義務があります。しかし、その決済ログはすべて政府の『市民信用管理機構』にリアルタイムで送信され、個人の「人間性ランク(A〜G)」に反映されます。


・適正価格(またはそれ以上)での決済:「共同体への貢献意欲が高い」とみなされ、ランクが上昇。各種ローンの優遇、公共サービスの優先利用、高級施設の予約権などが与えられます。


・原価を大幅に下回る決済(例:1円決済など):「他者の労働を搾取する利己的な人間」と判定され、ランクが急落。E未満(F・G)になると『要観察対象』となり、クレジットカードの停止、重要職務への就業制限、最終的には「適正な社会生活が困難」として居住区の制限対象となります。

―――

記事のコメント欄には、

『口座売買と一円決済は絶対に駄目』

『脳のブレーキ壊れてるサイコパスって国が認定してくれる神制度』

『うちの近所でも一円おじさんが隔離されました。草』

といった書き込みが並んでいた。


知らなかった。

震える指で過去の決済履歴を開く。


ステーキ店:一円。

病院:一円。

家賃:一円。

クリーニング:一円。


一円。

一円。一円。


一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。一円。


画面いっぱいに並ぶ数字。

その時ふと思い出した。

ステーキ店の店員

大家。

病院の受付。

ホテルの受付。

木村。

全員が同じ顔をしていた。


怒りではない。

軽蔑でもない。

もっと別のものだった。


「違う、俺はただ、ルールの通りに……!」


坂本は叫びながらスマホの画面を叩いた。


だが、過去の『一円』の履歴は冷酷にそこに居座り続けている。スクロールしても、スクロールしても、自分がケチった代償が血痕のように画面を埋め尽くしていた。


翌朝、坂本は文字通り正気を失いかけていた。会社からの解雇連絡は、スマートフォンのプッシュ通知一通で済まされた。家賃一円を投げつけ続けたアパートの管理会社からは、「ランクGの入居者との契約は自動解除となります」と、即日の退去を命じられた。


すべてを失う。

このままでは、社会から消される。


いや――待て。


金を払えばいいんだ。

溜め込んだ貯金は腐るほどあった。


坂本はATMから大金を引き出すと、狂ったように街へ飛び出した。

向かったのは、すべての始まりだったあのコンビニだ。

自動ドアをくぐり、棚から百五十円の缶コーヒーをひったくるようにしてレジへ叩きつける。茶髪の店員が、かつてと同じ無機質な笑顔で坂本を迎えた。


「お会計、お客様のお気持ちでどうぞ」


坂本は血走った目でテンキーを睨みつけた。これまでの罪滅ぼしだ。これで一気に平均値を引き上げてやる。彼は震える指で、一、〇、〇、〇、〇、〇、〇――と打ち込んだ。


百万円。


百五十円の缶コーヒーに対する、これ以上ない「お気持ち」だ。

これで文句はなかろう。坂本は勝利を確信して、決済ボタンを強く押し込んだ。


ブブーッ。


静かな店内に、鼓膜を刺すような不快な電子音が鳴り響いた。

レジの液晶画面に、真っ赤な警告文が浮かび上がる。


『警告:低ランクユーザーによる不自然な高額決済を検知しました。本行為は「点数稼ぎのための偽善・詐欺行為」とみなされ、お気持ちの更新には反映されません。決済を拒否します』


「な……んだって……?」


坂本の喉から、ひび割れた声が漏れた。


「あ、あの!反映されないってどういうことだ!金ならあるんだ、払わせてくれ!」


店員は、困ったような、しかし一切の感情が籠もっていない目で坂本を見た。


「恐れ入ります。システム上、過去の信用ログを金銭で帳消しにすることはできません。お客様の『本当のお気持ち』は、すでに過去の履歴によって証明されておりますので……」


過去は消せない。

一円を払い続けたあの瞬間、坂本の人間性の価値は「一円」として確定し、

二度と書き換えることはできない仕様になっていたのだ。


「嘘だろ……頼むよ、受け取ってくれよ!」


坂本がすがりつこうとした瞬間、店内の自動ドアが開いた。


胸元に『市民信用管理機構』のバッジをつけた、黒いスーツの男たちだった。

彼らは坂本の両脇を無言で固めた。


「坂本晴さんですね。ランクGの推奨取引制限および居住区制限に基づき、適正な環境へご案内いたします」

「放せ!俺は法律を破ってない!自由だって言ったじゃないか!お気持ちでいいって言っただろ!」


坂本の悲鳴は、誰の心にも届かなかった。

店員も、通りすがりの客も、誰も彼を見ようとしない。

ただ、哀れみの視線だけが彼の背中に突き刺さっていた。


一ヶ月後。


高く聳え立つコンクリートの壁に囲まれた、薄暗い街。そこは、人間性ランクが底をついた者たちだけが集められる「お気持ち特区」と呼ばれる隔離エリアだった。


かつて坂本が「世間体に縛られた馬鹿ども」と見下していた世界は、ここにはない。

代わりにいるのは、「いかにシステムを出し抜いて安く済ませるか」を賢さだと思い込んでいた者たちばかりだった。


「おい、新入り。それ、一口よこせよ」


配給所の列で、痩せこけた男が坂本の手にあるスープを睨みつける。


「嫌だ」

「ケチくせぇな」


男は吐き捨てるように言った。


別の場所では怒鳴り声が上がる。

配給の順番を巡る口論。

置きっぱなしにされた荷物の盗難騒ぎ。

壊れた設備の修理を誰が負担するかという押し付け合い。


誰も譲らない。

誰も信じない。

誰も助けようとしない。


坂本はぼんやりと周囲を見渡した。


そして、ふと気づく。

ここにいる全員が、かつての自分だった。


「払わなければ得をする」

「他人のことなんて知ったことじゃない」

「ルールの範囲なら何をしても構わない」


そう信じて生きてきた人間たち。

だから誰も他人のために払わない。

誰も他人のために働かない。

誰も他人を信用しない。


結果として、この街そのものが壊れていた。


坂本は足元に転がる一円玉を拾い上げた。

銀色の硬貨。

かつては宝石のように輝いて見えたもの。

世界の裏をかいた証。

自分だけが得をするための切符。


そう思っていた。


しかし今、その硬貨は驚くほど軽かった。

ただの冷たい金属片だった。


坂本は一円玉を握りしめたまま、長いこと動けなかった。

脳裏に浮かぶのは、これまで出会った人々の顔だった。


ステーキ店の店員。

大家。

病院の受付。

ホテルの受付。

木村。


彼らが向けていたのは怒りではなかった。

軽蔑でもなかった。

あれはきっと「この人は、自分で自分を不幸にしている」という憐れみだったのだ。


坂本は震える息を吐いた。


自分は金を失ったのではない。

仕事でもない。

家でもない。


もっと前に。

もっと根本的なものを失っていた。


人から向けられる信頼。

敬意。

善意。


――お気持ち。


それを一円で売り払ったのは、他の誰でもない。自分自身だった。


遠くでまた怒鳴り声が響く。

誰かが誰かを罵っている。


坂本はうつむいたまま、一円玉を握り続けた。


その硬貨は最後まで軽かった。

けれど今さらになって、その代償だけが、どうしようもなく重かった。

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これを思い付くのはすげぇや
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