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婚約者に私の命を二百二十円で売られたので、偽装死して消えたら、彼女は壊れた

作者: 熾星
掲載日:2026/06/17

 

 1.二百二十円の価値


 作戦報告会で、婚約者の義弟が独断行動によって任務を失敗させたことを謝罪するよう求めただけだった。翌日、俺の個人情報はすべてダークウェブに流された。値段は二百二十円。コンビニのおにぎり一つ分にもならない額だった。


 名前、顔写真、旧住所、旅券情報、医療記録、過去に参加した海外警備任務、そして俺が身を隠すために使っていたセーフハウスの位置まで、一つの圧縮ファイルにまとめられていた。タイトルは、嫌でも目に入るように大きく書かれていた。


『元特殊作戦群のエース、神崎怜司。全資料、二百二十円で販売』


 その文字を見たとき、俺は横浜港区の臨時拠点から逃げ出したばかりだった。左肩を刺され、肋骨は二本折れ、背中の傷口からはまだ血が滲んでいた。本来なら、すぐに東京を離れるべきだった。


 それでも俺は、満身創痍の身体を引きずって葉山家へ向かった。確かめたかった。俺の婚約者である葉山怜奈の口から、この件は自分と関係がないと聞きたかった。


 世田谷にある葉山家の邸宅は、夜だというのに明々と灯りがついていた。俺は正門から入らず、庭の脇にある植え込みの陰へ回った。書斎の窓に近づいた瞬間、中から怜奈の声が聞こえた。


「神崎怜司も、そろそろ分かったでしょうね。悠斗に逆らうとどうなるか」


 その瞬間、俺の身体はその場で凍りついた。室内から、小さな笑い声がいくつか上がる。誰かが彼女に尋ねた。


「怜奈、本当に怖くないの? 彼が知ったら、結婚してくれなくなるかもしれないじゃない」


 葉山怜奈は、軽く笑った。その笑い声を、俺はよく知っていた。三年間、彼女が俺の腕の中で甘えるときも、同じように笑っていた。優しく、軽く、すべてを掌の上に置いているような笑い方だった。


「彼にそんな勇気があると思う?」


 彼女の声は静かだった。


「今の彼は、身元も経歴も全部晒されている。外には彼を金に換えたい人間がいくらでもいるのよ。葉山グループ以外に、誰が彼を守れるの?」


 俺はガラス越しに、ソファに座る彼女の姿を見た。米白色のカシミヤワンピースを着て、長い髪を肩に流し、雑誌の表紙に載る令嬢のように美しかった。彼女は黒いメモリーカードを指先でつまみ、何でもないもののようにテーブルの上へ投げた。


「それに、彼はもともと葉山家で飼っていた犬よ」


 胸の奥を、鈍器で殴られたような衝撃が貫いた。犬。彼女の中で、俺は葉山家の犬でしかなかった。彼女の友人らしき女が、少し迷うように言った。


「でも神崎さんって、元特殊作戦群でしょう? さすがにやりすぎじゃない? 資料が二百二十円なんて、あまりにも安すぎるわ」


 葉山怜奈は赤ワインのグラスを持ち上げ、ゆっくり揺らした。


「だからいいの」


 その声は軽かった。けれど、氷のように俺の胸に突き刺さった。


「彼には分からせたかったのよ。自分がどれほど価値のない人間なのかを」


「行動報告会で悠斗に恥をかかせたでしょう? なら、彼にも泥の中に踏みつけられる気分を味わってもらわないと」


 別の男が笑った。


「怜奈さん、それは殺すよりきついですね」


 葉山怜奈は否定しなかった。彼女はスマートフォンの画面を見下ろし、唇の端を少しだけ上げた。


「これはまだ始まりよ」


「彼の移動ルートは百五十円にするつもり」


「弱点、癖、常用薬、古傷の位置は七十円でいいわ」


「そうすれば、最低ランクの雇われ屋でも、どこかで彼に噛みつける」


 室内に笑い声が広がった。俺は窓の外に立ったまま、血が少しずつ冷えていくのを感じていた。これは一時の怒りではない。葉山悠斗のために俺を少し懲らしめる程度の話でもない。


 彼女は、俺の逃げ道、安全屋、古傷、そのすべてを計算に入れていた。


 俺が彼女を信じていたから、彼女はどんな敵よりも俺を知っていた。


 葉山怜奈は、俺が長い時間をかけてようやく手に入れた女だった。葉山警備グループの令嬢で、聡明で、美しく、冷静で、誰の目にも理想の妻になる女に見えていた。俺たちは三年間、婚約していた。


 この三年、俺はほとんど彼女を人生の中心に置いてきた。彼女のために、陸上自衛隊の特殊作戦群を退いたあと、葉山グループ傘下の海外警備部門に入った。彼女のために、東南アジア、東欧、中東で、何度も危険な任務をこなした。


 彼女のために、葉山グループの表に出せない問題も数え切れないほど処理した。それでも俺は、自分が彼女の中でただの便利な道具だったとは考えもしなかった。


 葉山悠斗が初めて海外任務に参加したとき、奴は勝手に誤った通信妨害装置を起動させ、小隊全体の位置を敵に晒した。あの任務で、隊員が二人死んだ。俺の背中には三発の銃弾が入り、摘出したあとも、雨の夜には傷が疼く。


 事後、俺は葉山悠斗に、報告会で自分の過ちを認めるよう求めただけだった。だが奴は、赤い目をして葉山怜奈のもとへ走り、俺がわざと自分を追い詰めたと訴えた。


 葉山怜奈が病室に来たとき、俺はまだベッドの上にいた。彼女はベッド脇に座り、最初にこう言った。


「怜司、悠斗は新人だと分かっていたでしょう。どうしてもっと面倒を見てあげなかったの?」


 そのときの俺は、彼女が弟を甘やかしすぎているだけだと思っていた。けれど今なら分かる。俺に譲歩を求めた一つ一つの瞬間が、彼女にとっては俺の限界を測るための試験だったのだ。


 先月の作戦でも、葉山悠斗はまた命令を無視し、待ち伏せ地点から勝手に飛び出した。三か月かけて組み立てた計画は崩壊し、小隊は全滅寸前まで追い込まれた。


 俺は奴を殴りもせず、隊から追い出しもしなかった。ただ作戦報告会で、皆の前で謝罪するよう求めただけだった。だが葉山怜奈は、全員の前で俺を責めた。


「悠斗はまだ若いのよ。あなたは先輩として、もう少し責任を負うべきじゃないの?」


 あのときでさえ、俺は彼女のために理由を探した。彼女は少し混乱しているだけだと。家族を大切にしすぎているだけだと。だが今日、ようやく分かった。


 彼女は一度も混乱していなかった。


 彼女は、冷静だった。冷静に弟を愛し、冷静に俺を利用し、冷静に俺を地獄へ突き落とした。


 書斎の中で、葉山怜奈の声がまた響いた。


「彼が限界になれば、必ず私のところへ戻ってくるわ」


「そのときに少しだけ庇護を与えれば、彼は分かる。この世界で自分を救えるのは私だけだって」


 誰かが笑いながら聞いた。


「そのあとは?」


「そのあと?」


 葉山怜奈は、そっとグラスを置いた。


「前よりずっと従順になるわ」


 従順。その二文字を聞いた瞬間、俺はなぜか笑いたくなった。かつて俺は、愛とは隣に立つことだと思っていた。彼女にとっての愛は、飼い慣らすことだったのだ。


 俺は植え込みの陰から離れた。一歩進むたび、傷口が裂けるように痛んだ。だがその痛みなど、胸の内側を踏み潰された痛みに比べれば何でもなかった。


 俺は靴底に隠していた予備の携帯を取り出し、一つの番号にかけた。電話はすぐにつながった。


「怜司か?」


 佐伯剛の声は低く抑えられていた。


「生きていたのか。東京はもう大騒ぎだ。ダークウェブにお前の情報が出回っている」


 俺は塀にもたれ、重い呼吸を整えた。


「葉山グループの監視を通らないルートを用意してくれ」


 電話の向こうが、数秒沈黙した。


「本気か? 葉山の庇護網を離れれば、全員がお前を狙うぞ」


 俺は灯りのついた葉山家の邸宅を見上げ、かすかに笑った。


「葉山家は、俺を守っていたわけじゃない」


「あいつらは、俺の首に縄をかけていただけだ」


 佐伯剛が低く尋ねた。


「どうするつもりだ」


 俺は目を閉じた。


「今日から、神崎怜司は葉山怜奈の人生から死ぬ」


「彼女が自分で放った連中に、この死を完成させてもらう」



 2.安全屋の罠


 俺は荒川区の廃アパートに身を隠した。ここは葉山グループが昔購入した予備のセーフハウスで、配線の老朽化と位置情報の露見を理由に、内部システムからはすでに削除されていた。少なくとも一晩は持ちこたえられると思っていた。


 割れた窓の隙間から、冷たい風が入り込む。壁の隅には黴が広がり、床には埃が積もっていた。湿気と錆と血の匂いが混じる中、俺は壁にもたれて傷を巻き直していた。


 左肩に指が触れた瞬間、携帯が震えた。画面に表示された名前は、葉山怜奈だった。俺はその文字を長く見つめた。最後には、通話ボタンを押していた。


「怜司、大丈夫?」


 彼女の声は、いつも通り優しかった。もし書斎であの会話を聞いていなければ、俺は今も彼女が本気で心配していると信じていただろう。


「まだ死んでいない」


 電話の向こうが一瞬静かになる。


「どこにいるの? 安全屋は全部割れたって聞いたわ。外は危険よ。悠斗が絶対に安全な場所を見つけたの。今すぐ迎えに行く」


「必要ない」


「怜司、意地を張らないで」


 彼女の声には、聞き慣れた叱責が混じっていた。


「今は強がっている場合じゃないの。あなたは私を信じるべきよ」


 信じるべき。その言葉が彼女の口から出ることが、妙に滑稽だった。俺が何かを言う前に、彼女は通話を切った。十分も経たないうちに、階下で車の停まる音がした。


 葉山怜奈は、思ったよりも早く現れた。扉を押し開けて入ってきた彼女の後ろには、黒いスーツの護衛が二人ついていた。血まみれで壁際に座る俺を見ると、彼女の目がわずかに揺れた。


 その瞬間だけは、本当に心を痛めているようにも見えた。


「怜司、どうしてこんな状態になるまで……」


 彼女は早足で近づき、俺に触れようとした。俺は避けた。彼女の手が宙で止まり、顔に傷ついたような色が浮かぶ。


「私を避けるの?」


 俺は彼女を見上げた。


「俺は、お前の何を信じればいい」


 彼女は眉を寄せた。


「どういう意味?」


 俺は答えなかった。頭の中には、少し前に聞いたもう一つの会話が蘇っていた。彼女の携帯は、あのとき完全には切れていなかった。電話の向こうで葉山悠斗が笑いながら言ったのだ。


「姉さん、彼が来たら、あいつらに少し脅かしてもらおうよ」


「自分が今、何者でもないって分からせるんだ」


「そのあと姉さんが助けに入れば、彼は姉さんを恨まない。むしろ今まで以上に依存するよ」


 葉山怜奈は長く沈黙した。最後に、彼女はこう言った。


「命までは取らせないで」


 やめさせなかった。止めなかった。ただ、命までは取らせない。それだけだった。


 俺は目の前の女を見つめ、ぞっとするほど見知らぬ人間に思えた。葉山怜奈は俺の前にしゃがみ込み、声を柔らかくした。


「怜司、今のあなたが疲れていることも、怖いことも分かっているわ」


「でも理解して。私以外に、あなたを守れる人はいないの」


 彼女の指先が俺の腕に触れた。銃創はまだ塞がっていない。彼女が少し力を入れただけで、包帯に血が滲んだ。俺は痛みに眉を寄せたが、彼女は気づかないふりをした。


「悠斗はもう反省しているわ」


「今回の場所も、彼が自分で手配したの。ここより千倍安全よ」


「彼はあなたにきちんと謝りたいの」


 俺は彼女を見つめた。


「葉山悠斗は、まだ子どもなんだな」


 彼女はわずかに言葉に詰まった。


「彼は確かに、まだ未熟なの」


 俺は笑った。二十四歳の成人男性が自分の浅はかさで隊員を死なせ、小隊を露見させ、何度も俺を死の淵へ追い込んだ。それでも彼女にとって、彼は永遠に子どもなのだ。


 そして、彼に泥の中へ引きずり込まれた俺は、何度でも譲らなければならない。


 葉山怜奈が立ち上がった。


「行きましょう」


「怜司、私を困らせないで」


 俺は抵抗しなかった。彼女を信じたからではない。彼女が俺をどこまで突き落とすつもりなのか、この目で見届けたかったからだ。


 車は荒川区を出て、首都高速を走り、最後に東京湾近くの灰色の倉庫の前で止まった。そこは、外見だけは倉庫のまま、内部を私的な会員制施設のように改装した建物だった。


 看板はない。入口には電子ロックが二重に設置されていた。葉山怜奈は車を降りると、血の塊で固まった俺の髪をそっと整えた。その動きは、かつて何度も見た優しさそのものだった。


「大丈夫。ここは安全よ」


 俺は彼女の目を見て尋ねた。


「誰にとって安全なんだ」


 彼女は答えなかった。扉が開いた瞬間、中の灯りが目に刺さり、俺は思わず目を細めた。次の瞬間、室内にいる大勢の人間が見えた。


 ソファに座る者、バーカウンターにもたれる者、酒杯を手に談笑していた者。だが俺が入った瞬間、その全員が静かになった。視線が刃のように俺へ向けられる。


 その中の何人かの顔を、俺は知っていた。マニラの作戦で俺が捕らえた武器仲介人。俺が証拠を出したことで国際刑事警察機構に引き渡された資金洗浄犯。そして、三年前に内部抗争で死んだはずの麻薬密輸組織の頭目。


 ハイエナ。


 そいつは人垣の奥で、歯を見せて笑っていた。


「よう。葉山家の番犬じゃねえか」


 室内に低い笑いが広がる。俺は振り返って外へ出ようとした。だが、体格のいい男二人が扉を塞いだ。


 俺は葉山怜奈を見た。


「これがお前の言う安全か」


 彼女は俺の視線を避けた。


「怜司、今夜はみんなと過去の誤解を解くだけよ」


 誤解。その言葉がやけに耳障りだった。ハイエナが人群の中から出てきた。手にはウイスキーのグラスを揺らしている。


「誤解? 神崎さんよ、あんたが俺を刑務所に送って三年も閉じ込めたことが、誤解だって?」


 そいつは俺の前で足を止め、血まみれの身体を見下ろした。


「だが今のあんたを見ると、たいしたことなさそうだな。二百二十円」


 ハイエナは笑った。


「あんたの命は、俺のグラスに入ってる氷より安い」


 葉山悠斗が二階から降りてきた。高価なカジュアルスーツを着て、顔には見慣れた嘘くさい笑みが張りついている。


「義兄さん」


 彼はその呼び方を、わざと長く引き伸ばした。


「ようこそ。あなたの謝罪会へ」


 俺は彼を見た。


「誰が誰に謝るんだ」


 葉山悠斗は笑った。


「もちろん、あなたが僕に謝るんですよ。報告会で僕に恥をかかせたこと、ずっと覚えていましたから」


 葉山怜奈が低く言った。


「悠斗、やりすぎないで」


「姉さん、ただの冗談だよ」


 葉山悠斗は俺の前に来て、酒の入ったグラスを差し出した。


「これを飲んだら、過去のことは水に流してあげます」


 俺は受け取らなかった。葉山悠斗はスマートフォンを俺の目の前に掲げた。画面にはダークウェブのページが映っていた。俺の写真の横で、懸賞金は三千万円まで跳ね上がっている。


 その下には、赤い文字が並んでいた。


『神崎怜司の最終出現地点、まもなく更新』


 葉山悠斗は笑顔のまま言った。


「ほら、外ではあれだけ多くの人間があなたの死を望んでいる。ここだけが、今のあなたがいられる唯一の場所なんです」


 葉山怜奈が近づき、優しい声で言った。


「怜司、飲んで。今夜、少しだけ頭を下げれば、後のことは私が処理するわ。葉山グループがあなたを守る」


 俺は彼女を見た。彼女は灯りの下で静かに立っていた。まるで俺を罠へ連れてきた人間ではなく、俺が戻るのを待つ救世主であるかのように。


 俺はグラスを受け取った。葉山悠斗の目に、わずかな興奮が走る。


 俺は杯の中の液体を一度見下ろし、それから一気に飲み干した。


「これで、帰っていいのか」


 グラスをトレイに戻し、一歩踏み出した瞬間、膝から力が抜けた。世界が揺れる。近くのテーブルに手をついたが、指に力が入らなかった。グラスが床へ落ち、割れる音がやけに澄んで響いた。


 葉山悠斗がしゃがみ込み、俺の頬を軽く叩いた。


「義兄さん、そんなに急がないでくださいよ。今夜は、まだ始まったばかりです」



 3.彼女は灯りの下で俺が落ちるのを見ていた


 薬の効き目は早かった。普通の睡眠薬ではない。意識は残したまま、身体の力だけを少しずつ奪っていく薬だった。周囲の笑い声が聞こえる。葉山悠斗の目に浮かぶ悪意も見える。


 だが自分の身体は、まるで制御を失った物体のように床へ倒れ込んでいく。ハイエナが俺の前にしゃがんだ。靴先で俺の顎を持ち上げる。


「神崎怜司。海外任務のときは随分と強かったじゃねえか。今は死にかけの犬みたいだな」


 室内のどこかで笑いが起こった。葉山悠斗はスマートフォンを取り出し、俺の顔に向けた。


「みんな、よく見てください」


「これが噂の元特殊部隊のエースです」


「二百二十円で買える男ですよ」


 俺は歯を食いしばり、身体を起こそうとした。だが腕は自分のものではないように力が入らない。ハイエナが俺の肋骨を蹴った。激痛が弾け、喉の奥から声にならない呻きが漏れた。冷汗がこめかみを伝う。


 葉山怜奈は、少し離れた場所に立っていた。俺は彼女を見た。その瞬間、まだ最後の期待を抱いている自分に気づいた。


 彼女が止めればいい。もういいと言ってくれればいい。彼女が一言でも、やめてと言えば。


 俺はまだ、自分に嘘をつけるかもしれなかった。彼女は葉山悠斗に利用されていただけだと。だが彼女は、ただ俺を見ていた。


 その目は複雑だった。痛ましさも、迷いもあった。けれどその奥には、上から見下ろす冷静さが確かにあった。


 葉山悠斗が彼女の隣に立つ。


「姉さん、命までは取らせるなって言ってたよね。大丈夫、ちゃんと加減してるから」


 葉山怜奈は低く言った。


「顔はあまりひどくしないで。あとで説明しにくくなる」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず笑った。彼女が心配しているのは、俺が痛いかどうかではなかった。この後、どうやってそれを事故に見せかけるかだった。


 ハイエナが俺の髪を掴み、床から引き上げた。


「何がおかしい」


 俺は彼を見た。声はひどく掠れていた。


「今日のことを、よく覚えておけ」


「俺は死人にしか、帳簿をつけない」


 室内が一瞬静まり返った。すぐに、葉山悠斗が大声で笑い出した。


「義兄さん、その状態でまだ強がるんですか?」


 彼は腰を屈め、俺の耳元に近づいた。


「まさか、まだ誰かが助けに来ると思ってるんですか?」


「佐伯剛? あなたの古い部下でしたっけ」


「彼の連絡先も資料パックに入っていましたよ」


「あなたの周りの人間は、一人も逃がしません」


 心臓が沈んだ。奴らは佐伯にまで目をつけている。葉山怜奈が眉をひそめた。


「悠斗、その話は聞いていないわ」


 葉山悠斗は肩をすくめた。


「姉さん、やるなら徹底的にやらないと」


 葉山怜奈は、それ以上何も言わなかった。彼女は部屋の隅のソファへ移動し、腰を下ろした。頭上から灯りが落ちる。彼女はスマートフォンを一度見て、それから俺と目を合わせないように顔を背けた。


 その瞬間、俺は完全に目が覚めた。薬が抜けたわけではない。心の中に最後まで残っていた感情が、そこで死んだのだ。


 それからの時間は長かった。彼らはすぐには俺を殺さなかった。殺すよりも、屈服させたかったのだ。


 跪けと言う者がいた。葉山家の犬だと認めろと言う者がいた。酒を頭から浴びせる者もいた。葉山悠斗はスマートフォンで撮影しながら、肩を震わせて笑っていた。


「義兄さん、言ってくださいよ。自分が悪かったって。もう二度と僕に恥をかかせませんって」


 俺は言わなかった。すると拳と足がまた降ってきた。痛みはやがて麻痺に変わった。額から流れた血が目に入り、視界は暗い赤に染まった。


 誰かが言った。


「そろそろやめろ。本当に死ぬぞ」


 ハイエナは物足りなさそうに笑った。


「急ぐなよ。葉山のお嬢さんが言っただろう。命だけ残せばいいって」


 葉山怜奈がようやく立ち上がった。高い靴音が、床の上を一歩ずつ近づいてくる。彼女は俺の前で止まった。俺は床に伏せたまま、彼女の汚れ一つない靴先を見た。


 彼女はしゃがみ、俺の顔の血を拭おうと手を伸ばした。俺は顔を背けた。彼女の手が、宙で固まる。


「怜司。今夜が終われば、外がどれほど危険か分かるわ」


「あなたを守れるのは、私だけなの」


 俺は最後の力を振り絞り、彼女を見た。


「葉山怜奈。今日で、俺はお前に何も負っていない」


 彼女の顔色が変わった。けれど、彼女がそのあと何を言ったのかは、もう聞こえなかった。意識が闇の中へ沈む直前、俺が覚えているのは、彼女が灯りの下に立っていた姿だけだった。


 美しく、冷静で、遠かった。


 まるで、最初から俺が本当に知っていた女ではなかったかのように。



 4.神崎怜司は死んだ


 次に目を覚ましたとき、俺は病院にいた。消毒液の匂いが鼻に刺さる。天井は、目が痛くなるほど白かった。指先をわずかに動かしただけで、全身から痛みが噴き上がる。


 医師は、全身に複数の骨折があり、内臓にも損傷があり、古傷も裂けていると告げた。生きていること自体が奇跡だと。


 俺は何も言わなかった。ただ窓の外を見ていた。そこには、東京の重たい曇り空が広がっていた。


 午後、葉山怜奈が来た。彼女は白い百合の花束を持っていた。後ろには葉山悠斗がついている。彼の顔には、まだ消えきらない得意げな色が浮かんでいた。


「怜司、目が覚めたのね」


 葉山怜奈は病床の横に来て、掛け布団を整えた。動きは慎重で優しかった。まるで、昨夜ソファに座って俺が嬲られるのを見ていた女ではないようだった。


「医師は、数か月の安静が必要だと言っていたわ」


「安心して。私があなたの面倒を見るから」


 葉山悠斗は花をベッドサイドへ置き、笑顔で言った。


「義兄さん、すみません。昨夜のことは、僕の配慮が足りませんでした。あの人たちがあそこまで感情的になるとは思わなかったんです」


 俺は彼を見た。口では謝っているが、目には謝罪の色など一つもなかった。葉山怜奈が振り返る。


「悠斗」


 葉山悠斗はすぐに、傷ついたような顔を作った。


「姉さん、僕は本当に反省しているよ」


 葉山怜奈はため息をついた。俺に向き直ったとき、その声には疲れが混じっていた。


「怜司、悠斗はもう謝ったわ」


「あなたも、これ以上は追及しないで。お願い」


 俺は急に、とても疲れた。身体の疲れではない。魂の奥まで何度も踏み砕かれたあとの疲労だった。


 俺がここまで壊れて、ほとんど半分しか命が残っていない状態でも、彼女はまだ俺に譲歩を求めるのだ。


 病室には長い沈黙が落ちた。葉山怜奈は、俺が痛みで話せないのだと思ったらしい。彼女は身を屈め、俺の手を握ろうとした。俺は目を閉じた。


「出ていけ」


 彼女が固まった。


「怜司?」


「出ていけ」


 俺の声はかすかだった。けれど、温度はなかった。葉山怜奈の顔が少しずつ白くなっていく。葉山悠斗が鼻で笑った。


「姉さん、見たでしょう。姉さんが助けようと必死になっているのに、この態度ですよ」


 葉山怜奈は彼を責めなかった。ただベッドの横に立ち、長いあいだ俺を見ていた。やがて、低い声で言った。


「よく休んで。落ち着いたら、また話しましょう」


 扉が閉まると、病室には俺一人だけが残った。俺は目を開き、ベッド脇のスマートフォンに手を伸ばした。画面のロックを解除した瞬間、ダークウェブ掲示板の新しい投稿が目に飛び込んできた。


『元特殊部隊のエース、神崎怜司の転落の夜』


『葉山の捨て犬、完全版動画』


『二百二十円男の末路』


 動画は、すでにあちこちへ拡散されていた。俺の顔も、傷も、無様な姿も、屈辱も、すべてネット上に晒され、人々の見世物になっていた。


 コメントが次々に流れる。


「これがあの神崎怜司?」


「たいしたことないな」


「葉山家の犬が飼い主に捨てられて噛まれたってことか。哀れだな」


 俺はスマートフォンを閉じた。喉の奥に血の味が上がってくる。泣きはしなかった。今の俺にとって、涙は贅沢すぎた。


 俺は残った力を振り絞り、枕の下から予備機を取り出した。それは佐伯剛が昔、俺に渡してくれたものだった。登録されている番号は一つしかない。


 発信ボタンを押す。三秒後、通話がつながった。


「怜司」


 佐伯剛の声は低く、切迫していた。


「俺だ」


 俺は目を閉じた。


「準備は」


「できている」


「今夜二時。病院の後方搬入口だ。転院車に偽装して、お前を運び出す」


「葉山側は」


 佐伯剛は低く笑った。


「偽情報で引き離してある。お前は生きて出てこい。残りは俺に任せろ」


 午前二時。病室の外の監視カメラが一瞬だけ黒く落ちた。医療スタッフの服を着た二人が、扉を開けて入ってきた。マスクをした佐伯剛の目だけが見えた。その目は赤くなっていた。


 彼は俺を見た瞬間、視線を沈ませた。


「奴ら、お前をこんな姿にしたのか」


 俺は答えなかった。彼は細心の注意で俺を担架に移し、白い布で身体を覆った。病院の廊下には人影がない。エレベーターはそのまま下へ降りた。後方通路の外には、黒い救急車が停まっていた。


 車の扉が閉まる瞬間、遠くから慌ただしい足音が聞こえた。葉山怜奈が来たのだ。


 彼女が病室へ駆け込んだとき、そこはすでに空だった。後で佐伯剛から聞いた話では、彼女は半狂乱になって医師を問い詰め、病院中を捜し、葉山グループのあらゆる人脈を動かしたらしい。


 だが、彼女は俺を見つけられなかった。


 その夜を境に、神崎怜司は死んだ。


 少なくとも、彼女の世界ではそうだった。


 翌日、ダークウェブに一つの情報が流れた。


『神崎怜司、死亡確認』


 写真には、判別できないほど焼け焦げた遺体が写っていた。それは佐伯剛が俺のために用意した偽装だった。葉山怜奈はその情報を見て、丸一日何も言わなかったという。


 葉山悠斗だけは、酒席で笑いながら言ったらしい。


「死んだならちょうどいい。これであいつが面倒を起こすこともない」


 俺がその言葉を聞いたとき、俺はシンガポール行きの民間医療機の中にいた。全身に管をつながれ、意識は朦朧としていた。それでも俺は笑った。


 葉山悠斗は知らない。


 奴が俺の死を信じたその瞬間から、本当の清算が始まったのだ。



 5.白石凛


 俺はシンガポール郊外のセーフハウスで目を覚ました。窓の外には、見知らぬ空が広がっていた。東京の重い雲も、葉山家の影も、俺を窒息させる名前も、そこにはなかった。


 佐伯剛はベッド脇にいた。以前よりも痩せ、目の下には濃い隈があった。


「やっと目を覚ましたか」


 俺は口を開いた。声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。


「ここはどこだ」


「シンガポールだ」


「葉山グループが直接支配できる場所じゃない。少なくとも、しばらくは見つからない」


 俺は窓の外を見た。長い沈黙のあと、低く尋ねた。


「動画は」


 佐伯剛は少し黙った。


「大半は消した」


「大半?」


「怜司、ネットに出たものを完全に消すことはできない」


 彼は俺を見つめ、重い声で言った。


「だが約束する。二度とあれを、お前を傷つける道具にはさせない」


 俺は目を閉じた。灯り、笑い声、葉山怜奈が顔を背けた瞬間。それらが何度も浮かんでくる。


 俺は指を握りしめた。傷口からまた血が滲む。佐伯剛が俺の手を押さえた。


「もういい」


「今のお前がすべきことは、あいつらを憎むことじゃない」


「生きることだ」


 生きる。その三文字は簡単に聞こえる。だがその頃の俺にとっては、死ぬより難しかった。


 それから数か月、俺はほとんどを病床で過ごした。身体の傷は少しずつ塞がった。骨はつながり、切れた腱にも感覚が戻っていく。けれど深夜になるたび、俺は夢から飛び起きた。


 夢の中で、葉山怜奈は灯りの下に座っている。何も言わない。ただ俺を見ている。その沈黙は、どんな拳よりも俺を窒息させた。


 そんな時期に、白石凛が俺の生活に現れた。


 彼女はセーフハウスの主治医だった。三十二歳。かつて自衛隊中央病院に勤め、のちに軍医として海外の人道支援にも参加していた。


 初めて病室へ入ってきたとき、彼女はカルテを持っていた。


「神崎さん。白石凛です」


 彼女の声は安定していた。わざとらしい優しさも、余計な同情もなかった。


「今日から、あなたのリハビリを担当します」


 俺は返事をしなかった。彼女も怒らなかった。ただ傷口を確認し、薬の量を調整し、カルテに数行を書き込んだ。出ていく前、彼女は言った。


「話したくないなら、今はそれで構いません。ただ、痛みのレベルが七を超えたらナースコールを押してください」


 俺は彼女も他の医師と同じように、俺を修理すべき病人として扱うのだろうと思っていた。だが違った。


 彼女は俺の過去を聞かなかった。なぜ傷を負ったのかも、葉山怜奈が誰なのかも聞かなかった。夢の中でその名を呼ぶ理由も、問わなかった。


 毎日、決まった時間に来る。傷を確認し、回復を記録し、薬を飲むよう告げる。必要があれば、俺が無理な訓練をするのを強く止める。それ以外は、ほとんど余計なことを言わない。


 その距離が、俺には安全だった。


 一か月後、リハビリが始まった。最初に立ち上がったとき、俺は三秒も持たずに床へ崩れた。膝を床にぶつけ、目の前が黒くなるほど痛んだ。


 俺は床を殴った。


「くそ……役立たずが」


 白石凛はそばに立っていた。


「誰に言っているんですか」


 俺は答えなかった。彼女はしゃがみ、静かに俺を見た。


「もし今の自分に言っているなら、私は同意しません」


「あなたの身体は重度の外傷を受けました。生き残っただけでも簡単なことではありません」


「もしあなたをこんな状態にした人間に言っているのなら、私は聞かなかったことにします」


 俺は顔を上げた。彼女の目は澄んでいた。憐れみも、好奇心もない。ただ専門家としての冷静さと、揺るがない強さがあった。


 その日、俺は初めて自分から彼女に聞いた。


「俺みたいな人間を、前にも見たことがあるのか」


 彼女は少し考えた。


「身体に傷を負った人は、たくさん見てきました。でも心の傷は、一人一人違います」


 俺は少し笑った。


「医者はみんな、そんなに言葉がうまいのか」


「いいえ」


 彼女は杖を差し出した。


「私はただ、あなたに自分で自分を死刑にしないでほしいだけです」


 その言葉に、俺は長く黙った。


 やがて、リハビリは訓練になった。訓練は再構築へ変わった。俺は再び武器を分解し、組み立て、近接格闘を練習し、見知らぬ都市で安全な移動ルートを作る方法を確認し直した。


 狂ったように、自分を回復へ追い込んだ。朝から深夜まで身体を動かし、限界を超えるまで止まらなかった。白石凛は何度も警告した。


「神崎さん、このままではまた壊れます」


 俺は冷たく返した。


「心理療法は必要ない」


「私も、必要だとは言っていません」


 彼女は水のボトルを俺のそばに置いた。


「ただ、逃避は回復ではありません」


 俺はその言葉が嫌いだった。彼女が正しかったからだ。


 二か月後の嵐の夜。俺は悪夢から目を覚ますと、廊下の突き当たりに立っていた。手には分解した戦術ナイフを握っていた。


 白石凛が数歩先に立っていた。彼女は叫ばず、後退もしなかった。ただ俺を見ていた。


「神崎さん。あなたは今、安全です」


 俺の指が震えた。長い時間が過ぎ、ナイフが掌から滑り落ちた。俺は壁にもたれ、そのまま座り込んだ。


 その夜、俺は初めて彼女に葉山怜奈のことを話した。葉山悠斗のことも話した。二百二十円で売られた夜のことも、自分がどれほど愚かに一人の人間を信じていたかも。


 白石凛は、ずっとそばに座って聞いていた。可哀想だとは言わなかった。忘れなさいとも言わなかった。


 ただ、温かい水を一杯差し出した。


「あなたは悪くありません」


 その杯を握ったまま、俺は初めて目の奥が熱くなるのを感じた。あの事件のあと、初めて誰かが真っ直ぐに言ってくれたのだ。


 間違っていたのは、俺ではないと。



 6.彼女が俺を見つけた


 半年後、俺の身体はほとんど回復していた。佐伯剛は俺のために新しい身分を用意した。俺はもう神崎怜司の名で公の場に出ることはなく、海外の民間警備顧問として、高度な安全システム評価や危機管理案件を受けるようになった。


 白石凛も、もとの契約医療職を辞め、チームの医療顧問として残った。俺たちの関係は、少しずつ変わっていった。


 彼女はもうただの医師ではなかった。俺も、ただの患者ではなかった。


 朝、一緒に走ることがあった。訓練場の端に座って俺の動きを見ながら、古傷に負担のかかる癖を指摘することもあった。深夜に目を覚ますと、廊下の先に灯りがついていることもあった。


 彼女はカルテを整理していたり、チームメンバー用の薬品を準備していたりした。俺は少しずつ、彼女がそこにいることに慣れていった。いつしか、毎日彼女の姿を見るのを待つようにもなっていた。


 けれど、それを口にはしなかった。自分が再び誰かを信じる資格を持っているのか、まだ分からなかった。


 まして、人を愛することがまだできるのか、自信がなかった。


 その日の午後、俺は一人で近くの街区へコーヒーを買いに行った。日差しは明るく、街路樹の影が路面に落ちていた。風には熱帯都市らしい湿気が混じっていた。


 カフェを出た瞬間、道路の向こうに見慣れた姿があった。


 葉山怜奈だった。


 彼女は向かいの歩道に立っていた。淡い色のワンピースを着て、髪は以前より少し短くなっていた。俺を見た瞬間、彼女の身体が凍りついた。次の瞬間、彼女は車道を渡って駆けてきた。


「怜司!」


 声が震えていた。


「本当に、あなたなのね!」


 俺は反射的に一歩下がった。指先が腰の護身用ナイフに触れる。彼女はその動きを見て、顔を青ざめさせた。


「私が怖いの?」


 俺は彼女を見た。


「怖がる理由がないとでも思っているのか」


 葉山怜奈の目に涙が浮かんだ。


「ずっと探していたの」


「みんなはあなたが死んだと言った。でも私は信じなかった」


「怜司、やっぱり生きていたのね」


 彼女は俺の手を掴もうとした。俺は避けた。空を掴んだ彼女の手が震え、涙がすぐにこぼれ落ちる。


 以前の俺なら、きっと心が揺れていた。だが今は、ただ疲れを感じるだけだった。


「葉山怜奈。俺たちはもう終わっている」


 彼女は必死に首を横に振った。


「終わっていない」


「私は一度も、終わることに同意していない」


「怜司、説明させて。あのときのことは、あなたが思っているようなことじゃないの」


 俺は笑った。


「どの件だ」


「俺の資料をダークウェブに流したことか。俺をあの『謝罪会』へ連れていったことか」


「ソファに座って、俺が辱められるのを見ていたことか。それとも医師に、俺の怪我は事故だと言わせたことか」


 彼女の顔から血の気が引いていく。


「全部……知っていたの?」


「最初から知っていた」


 葉山怜奈の唇が震えた。


「違うの」


「怜司、私はただ、あなたに少し頭を下げてほしかっただけ」


「彼らがあそこまで傷つけるなんて思わなかった」


「悠斗は、あなたを少し怖がらせて、外が危険だと分からせて、それから私があなたを葉山家へ戻すと言っていたの」


 俺は彼女を見た。


「なら、俺はお前に感謝すればいいのか」


 彼女は泣きながら言った。


「私が間違っていたことは分かっている。でもあのとき、私にもどうしようもなかった。悠斗は弟だし、葉山グループからの圧力もあった。あなたは強いから、本当に大事にはならないと思っていたの」


 あまりにも聞き慣れた言葉だった。


 あなたは強いから、耐えられる。あなたは大人だから、譲れる。あなたは私を愛しているから、許してくれる。


 俺は低く言った。


「怜奈、俺だって痛みを感じる」


 彼女は固まった。俺は続けた。


「俺にも尊厳はある。かつてお前を愛していたから、何度も自分をお前の足元に置いただけだ。だがあの夜を境に、神崎怜司は死んだ」


 彼女はさらに激しく泣いた。そのとき、彼女の背後から別の声が聞こえた。


「姉さん、やっぱり死んでなかったじゃないか」


 葉山悠斗が街角から出てきた。サングラスをかけ、口元には見慣れた嘲笑が浮かんでいる。


「神崎さん。半年ぶりですね。ずいぶん元気そうじゃないですか」


 俺は彼を見た。以前より痩せていたが、目の軽薄さは変わらない。


「どうしたんです? 葉山家の犬をやめて、今度は海外の野良犬にでもなったんですか?」


 葉山怜奈が振り返って叫んだ。


「悠斗、黙りなさい!」


 葉山悠斗は肩をすくめた。


「姉さんは彼を探すために、何度もシンガポールへ来た。でも見てよ。彼にはもう新しい女がいるじゃないか」


 俺は彼の視線をたどった。少し離れた場所に、白石凛が立っていた。彼女は買ったばかりの薬品を手に、静かに葉山怜奈を見ていた。


 葉山怜奈も彼女に気づいた。表情が一瞬で変わる。罪悪感から、驚きへ。驚きから、抑えきれない不甘へ。


「あの人は誰?」


 俺は答えなかった。白石凛が俺の隣に来て、落ち着いた声で言った。


「神崎さん、車が来ています」


 葉山怜奈は、俺たちの間にある自然な距離を見て、頬に残った涙を止めた。


「怜司。彼女のせいで、私のところへ戻らないの?」


 俺は彼女を見た。


「違う。俺が戻らないのは、お前に吐き気がするからだ」


 葉山怜奈の身体が大きく揺れた。葉山悠斗の顔が険しくなる。


「神崎怜司、調子に乗るなよ。葉山家を離れたお前に、何の価値があると思っている?」


 俺は一歩前に出た。葉山悠斗は反射的に後退した。俺は彼を見つめ、静かに言った。


「葉山悠斗。葉山グループが永遠に倒れないことを祈っておけ」


「倒れたとき、最初に清算されるのはお前だ」


 彼は何も言えなかった。俺はそれ以上、二人を見なかった。白石凛と並んで、その場を離れた。


 しばらく歩いたあと、彼女が尋ねた。


「あれが、あなたの過去ですか」


 俺は頷いた。


「ああ」


 彼女は少し黙った。


「大丈夫ですか」


 俺は前を見た。


「昔は駄目だった。今は、かなりましだ」



 7.俺はもう、お前を憎むために生きない


 葉山怜奈は、シンガポールを離れなかった。数日間、彼女は俺の周囲に現れ続けた。会社へ行けば、ビルの下にいた。レストランへ行けば、向かいの通りの角に座っていた。白石凛と病院へ検査に行けば、駐車場の外に立ち、刺されたような目でこちらを見ていた。


 彼女は俺に電話をかけようとした。俺は着信拒否にした。彼女は別の番号からメッセージを送ってきた。俺は読まなかった。


 三日後、彼女は朝のランニングコースで俺を待ち伏せした。早朝の公園は静かだった。彼女は木の下に立ち、目を赤く腫らしていた。おそらく一晩眠っていないのだろう。


「怜司、話をさせて」


 俺は足を止めた。


「もう十分言ったつもりだ」


「違う」


 彼女は早足で近づいてきた。


「あなたはずっと私を責めるだけで、私の説明を聞いてくれていない」


 俺は彼女を見た。


「いい。言え」


 俺がそう答えるとは思っていなかったのか、彼女は一瞬固まった。数秒後、せき込むように言葉を吐き出した。


「あのとき、私は本当に悠斗があそこまでするとは知らなかったの」


「私はただ、あなたに分かってほしかった。悠斗に対して、いつも上から押さえつけるような態度を取るのはやめてほしかった」


「悠斗は小さい頃から不安定で、父が亡くなってからずっと私に依存していたの」


「私が彼の味方をしなければ、彼は壊れてしまう」


 俺は静かに尋ねた。


「だから、俺を壊すことにしたのか」


 彼女の顔が白くなった。


「そういう意味じゃない」


「では、どういう意味だ」


 俺は彼女を見た。初めて、怒りも痛みもなかった。あるのは、極限まで冷えた明晰さだけだった。


「葉山怜奈。お前は俺を愛していると言った」


「なら聞かせてくれ。お前にとって、愛とは何だ」


「俺の資料をダークウェブへ流し、世界中の敵を俺に向かわせることか」


「俺を仇敵だらけの部屋へ騙して連れて行き、灯りの下に座って、俺の尊厳が踏み砕かれるのを見ることか」


「それとも、俺が目を覚ましたあと、葉山悠斗はもう謝ったのだから追及するなと告げることか」


 葉山怜奈の涙は止まらなかった。


「でも、私はあとで止めたわ。私がいなければ、彼らは本当にあなたを殺していた」


 俺は笑った。


「崖から突き落としてから、最後に縄を少し引いただけで、感謝しろと言うのか」


 彼女は何も言えなくなった。長い沈黙のあと、突然感情が爆発した。


「じゃあ、あなたは?」


「あなたは私のことを、本当に理解しようとした?」


「私があなたと悠斗の間でどれだけ苦しんでいたか、あなたに分かる?」


「葉山グループは私一人で動かせるものじゃない。私にも圧力があったのよ!」


「あなたはあんなに強いのに、どうしてもう少し我慢できなかったの?」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は彼女と話す気力を完全に失った。結局、最後はそこへ戻るのだ。


 あなたは強いのだから、耐えなさい。


 俺は頷いた。


「分かった」


 葉山怜奈は慌てた。


「違うの、怜司。今のはそういう意味じゃない」


 彼女は俺の袖を掴んだ。


「私はただ、あなたを失うのが怖かったの」


「あなたがいなくなってから、毎日眠れなかった」


「目を閉じると、血まみれのあなたが見えるの」


「私は間違っていた。本当に分かっている」


「悠斗とは縁を切ってもいい」


「葉山グループを離れてもいい」


「あなたが戻ってきてくれるなら、何だってする」


 俺は彼女が掴む手を見下ろした。その手は、かつて俺の傷を包帯で巻いたことがあった。同じ手が、俺を地獄へ押し出した。


 俺は静かに袖を引き抜いた。


「怜奈」


 彼女は顔を上げた。その目に、わずかな希望が灯る。


 俺は言った。


「もう、お前を恨んでいない」


 彼女は息を呑んだ。


「……本当に? それなら、あなたは――」


「違う」


 俺は彼女の言葉を遮った。


「恨んでいないのは、許したからじゃない」


「俺の人生を、これ以上お前に使いたくないからだ」


 彼女の顔の希望が、少しずつ砕けていく。俺は続けた。


「過去の三年、俺はお前のために生きた。その後の半年、俺はお前を憎むために生きた」


「今は、俺自身のために生きたい」


 風が木々の間を抜けた。彼女はその場に立ち尽くし、音もなく涙を流していた。


「怜司、私たち、本当に戻れないの?」


「戻れない」


 俺は彼女を見た。


「お前が俺を二百二十円と値付けした瞬間、俺たちは終わった」


 言い終えると、俺は背を向けた。今度は、彼女は追ってこなかった。


 セーフハウスへ戻ると、白石凛がキッチンでコーヒーを淹れていた。扉の音に気づき、彼女がこちらを見る。


「終わりましたか」


 俺は頷いた。


「終わった」


 彼女はコーヒーを差し出した。


「苦いですよ」


 俺は受け取り、一口飲んだ。確かに苦かった。だが、その苦さが妙に心地よかった。これは本物だった。目を覚まさせてくれる苦味だった。


 砂糖のふりをして近づいてくる毒ではなかった。



 8.本当の報い


 三年後、俺は東京へ戻った。葉山家の捨てられた男としてではない。二百二十円で売られた神崎怜司としてでもない。国際警備コンサルティング会社の共同創業者として、東京で開かれる企業リスク管理フォーラムに招かれたのだ。


 佐伯剛は会社の執行責任者になっていた。白石凛は、医療安全と人員危機介入部門を担当している。俺たちの会社は、シンガポール、東京、ロンドンに拠点を持つまでになった。


 かつて俺を辱めた動画について語る人間は、もうほとんどいない。インターネットは本当の意味では忘れない。だが人は前に進む。


 俺も、前に進んでいた。


 フォーラムが終わった日、誰かがふと葉山グループの話をした。


「聞いたか? 葉山家、完全に終わったらしいぞ」


「海外クライアントの機密を漏らして、相手に逆に調査リストへ突き出されたって話だろう」


「葉山悠斗は東南アジアで事故に遭ったとか。昔恨みを買った相手に見つかったらしい」


「葉山怜奈は?」


「精神を病んで、今は療養施設にいるそうだ」


 俺はコーヒーを持ったまま、静かに聞き終えた。口を挟まなかった。胸がすくような痛快さもなかった。ただ、とても平静だった。ずっと昔のニュースを聞いたような気分だった。


 ホテルへ戻ると、白石凛が尋ねた。


「会いに行きたいですか」


 俺は東京の夜景を見た。高層ビル、車の流れ、ネオン。この街は、かつて俺が何より逃げたかった場所だった。今見れば、そこまで怖くはなかった。


「行きたい」


 俺は少し間を置いた。


「彼女のためじゃない。過去の自分に、けじめをつけるためだ」


 翌日、俺は神奈川郊外の療養施設へ向かった。白い壁、鉄の門、きれいに刈り込まれた庭。そこは、冷たいほど静かだった。


 面会室に、葉山怜奈が看護師に付き添われて入ってきた。彼女はひどく痩せていた。髪は短く切られ、顔色は青白く、目は虚ろだった。


 かつてあれほど誇り高く、美しく、冷静だった葉山家の令嬢は、歳月に鋭さをすべて抜き取られたように見えた。彼女は俺の向かいに座った。最初は俺に気づかなかった。


 看護師がそっと声をかけた。


「葉山さん。面会の方ですよ」


 彼女はゆっくり顔を上げた。俺の顔を見た瞬間、瞳孔が大きく揺れた。


「怜司?」


 その声は、夢を起こしてしまうのを恐れるように細かった。


「俺だ」


 彼女は突然泣き出した。昔のような目的のある涙ではなかった。身体ごと崩れるような涙だった。


「来てくれるって、分かっていた」


「みんな、私が狂ったって言うの」


「でも違うの」


「私はずっと、あなたを待っていただけ」


 俺は何も言わなかった。葉山怜奈の両手は震えていた。


「悠斗が死んだの」


「あの子、最後まで私を責めていた。あなたを引き留められなかった私のせいだって」


「葉山グループもなくなった」


「みんな、私たちがしたことを掘り返したの」


「私は毎晩、あなたの夢を見る」


「あなたが床に倒れて、私を見ている夢」


「どうして助けてくれなかったのかって、あなたが私に聞くの」


 彼女は泣き続け、言葉が途切れた。俺は静かに彼女を見ていた。


 長い間、俺はこの瞬間を待っていたのかもしれない。彼女が後悔するのを。崩れ落ちるのを。自分が真心で愛してくれた人間を、どれほど残酷に壊したのか理解するのを。


 けれど実際にその瞬間が来ても、想像していた快感はなかった。胸にあったのは、薄い疲労だけだった。


 葉山怜奈は顔を上げた。


「怜司、ごめんなさい」


「本当に、あなたに謝りたいの」


「やり直せるなら、絶対にあんなことはしない」


「悠斗の言うことを聞くべきじゃなかった」


「あなたの資料を流すべきじゃなかった」


「彼らにあなたを傷つけさせるべきじゃなかった」


「あなたが必ず私のもとへ戻ってくるなんて、思うべきじゃなかった」


 彼女は、何度も「すべきじゃなかった」と言った。そのすべてが、遅すぎた。


 俺は彼女を見ながら、三年前の血まみれの自分を思い出していた。床に這いつくばり、愛した女が灯りの下に座っているのを見上げていた自分を。


 あのときの俺は、きっととても痛かった。きっと知りたかった。なぜ捨てられたのが自分だったのかを。


 今なら、そのときの自分に答えられる。


 お前が足りなかったからじゃない。


 ただ、愛される資格のない人間を、愛してしまっただけだ。


 俺は立ち上がった。葉山怜奈が慌ててテーブルの縁を掴む。


「怜司、もう行くの?」


「ああ」


「まだ、私を恨んでいる?」


 俺は彼女を見た。


「俺はもう、お前を恨むために生きていない」


 彼女は呆然と俺を見つめた。俺は続けた。


「葉山怜奈。かつてお前は俺をダークウェブに売り、二百二十円と値付けした」


「その後の三年で、俺は自分の人生を買い戻した」


「今度こそ、俺はそれを誰にも渡さない」


 彼女の涙が落ちた。


「……それじゃ、私たちは」


「もう、俺たちなんてものはない」


 俺は背を向けた。後ろから、彼女の押し殺した泣き声が聞こえた。今度は振り返らなかった。


 療養施設を出ると、ちょうど陽射しが差していた。白石凛が車のそばで待っていた。彼女は俺が何を話したのか聞かなかった。ただ、車のドアを開けてくれた。


「帰りますか」


 俺は彼女を見た。


「ああ。帰ろう」


 車は療養施設を離れた。東京の街並みが窓の外をゆっくり流れていく。俺は何年も前、初めて葉山怜奈に会った日のことを思い出した。


 あの頃の俺は、彼女こそが人生の帰る場所になると思っていた。だが彼女は、俺を地獄へ突き落とした。


 そして俺は、その地獄から這い上がり、一人の人間として俺を見てくれる人に出会った。


 過去は消えない。傷跡も完全には治らない。それでも俺は、もうそれを恐れていない。傷は、俺が生きて戻ってきた証でもある。


 家に戻ると、佐伯剛がリビングでチームとオンライン会議をしていた。白石凛は上着を掛け、キッチンへ向かった。


「夕食、何がいいですか」


 俺は少し考えた。


「カレー」


 彼女が振り返る。


「この前、辛すぎると言っていませんでしたか」


 俺は笑った。


「今日は少し辛いものが食べたい」


 リビングから佐伯剛が叫んだ。


「俺の分も頼む!」


 白石凛が呆れたようにため息をついた。


「元重傷者の二人は、少しは医師の食事管理に従う気がありますか」


 俺と佐伯剛は顔を見合わせ、同時に視線を逸らした。


 窓の外では、夕日が庭に落ちていた。風が木の影を揺らす。キッチンから鍋の触れ合う音が聞こえ、リビングでは新しい警備案件について誰かが話している。


 何も特別ではない、ただの日常だった。


 けれど、その普通さこそが、俺には久しぶりの安らぎだった。


 俺はかつて、二百二十円という値段で深淵に投げ込まれた。だが今なら分かる。人間の価値は、その人間を裏切った者が決めるものではない。


 過去の神崎怜司は、あの夜に死んだ。


 今ここに生きている俺は、俺自身のものだ。


 そして、俺がこの手で取り戻した未来のものでもある。


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