第9話 アルバイト初日
「慣れるまでは午前中だけでいいから。そのかわりちょっと早く来てもらえるとありがたい」
店主さんに「八時くらいでどうだい?」と提案されて承諾した。
歩いても十五分程度。多少の前後は気にしなくていいと寛大だ。
店を開けるのは九時から。何か事務作業でもあるのかと思ったのだが……
「おはようございま……」
「おぅ。時間通りか。真面目だな。足元に気をつけて入ってくれ」
『お伽堂』の店内は本や紙が散らばっていた。強風でも吹き込んだんだろうか。
何冊か拾い集めながら奥へと進む。
「手荷物があれば、カウンター下のカゴに入れておいてくれ。トイレはこの間使ったところだ。紙貼っておいたから他のドアやふすまは開けないようにな。迷子になるぞ」
「アッ、ハイ」
すでに妙なものを見聞きしているので、素直に聞いておく。迷子になるというのなら、本当にそうなるのだ。君子危うきに近寄らず……
「うん。理解が早くて助かる。アレも余計なことばかりじゃねぇな。で、さっそくだが、まずここの片付けだ。夜のうちに通過するやつらによっては、こんな感じで荒れてることもある」
「え……結構大変ですね」
「毎日じゃねぇから安心しな。だいたいは数冊落ちてるくらいだ。普通の客も早くからは来ねえ。昼くらいまでに元の位置に戻っていれば問題ねぇから」
「わかりました」
ひとまず紙類を分けてカウンターに積み上げる。落ちている本は近くの棚を見てみたけれど、どこに入っていたのかよくわからなかった。
「普通の古本は作者の名前順に並んでる。が、多少場所が違ってもかまわねぇ。非売品の紙やスタンプが押してあるやつは裏表紙に番号が書いてあるから、カウンターのあんちょこで調べて戻してくれ」
「……あんちょこ?」
「戻す場所一覧を書いたノートがあるんだ。簡易地図もあるから見比べて間違わんようにな」
カウンターへと視線を向ければ、茶色のクマが年季の入ったノートを掲げ上げていた。
「クマ公も手伝ってくれるってよ」
苦笑する店主はクマの頭をわしわしと撫でて「人の前では動くなよ?」と釘を刺していた。
「えーと……ありがとう?」
礼を口にしてみれば、クマはちょっと嬉しそうだった。張り切ってノートを開き始める。
そういえば、と少しかがんでクマに視線を合わせてみた。
「キミに名前はついてたのか?」
クマはきょとんと動きを止めて、少しだけ首を傾げた。
「お祓いを受けて、祈祷もされたようだからな。前の中身のことはあまり覚えてないかもな」
「でも、オマエのことは涙目で避けてるような……」
「食われかけてるからなぁ。怖い思いだけ残っとるんだろう」
確かにそれは怖いかもしれない。
「クマって呼ぶのも可愛げがないし、テディでいいか」
意味的にはそう違いは無いと思ったのだが、店主は呆れた顔をして、テディはキラキラと嬉しそうなオーラを出しながら小躍りした。
「間さんよ。名前を付けるというのは縁を深める行為だ。クマ公はあんたがアレから守ってくれたと思って恩を返そうとしているようだから、まあいいが、迂闊なことをしない方がいいぞ」
「え……でも、テディベアだからと思っただけで、感覚的には「クマ」も変わらないんですけど……」
「そっちの方が可愛いとか思っただろう。選んで付けたらその思いは届く。コイツは役に立ちたいというか、誰かと関わりが欲しくて付喪になったみたいだからな。気のすむまで相手してやればそのうち消えるとは思うが……」
「気のすむまで……」
「数日なのか数年なのか一生なのか。どこまでいけば満足なのか、コイツにもわからんだろうから、迂闊なことはするもんじゃねぇ。言っただろう? 怪異たちは無視するくらいでちょうどいい。お人好しはつけ込まれるぞ」
そういえば、前にオマエにも言われた気がする。
「……気をつけます」
「ま、人間的にはいいところでもあるからな。気軽に取引をしない。名前を付けたり教えたりしない。対処の分からないときはおれかアレを呼べ。それだけ頭に叩き込んどけ。マニュアルの最初にも書いてあるからな」
「わかりました。店主さんもオマエも出かけてるときは……」
「おれの返事がない時はアレを呼べ。あんたんとこに入り浸ってんだろ? 呼べば来るだろうよ」
「店にいなくても?」
「どこにいてもだ」
疑いの表情をしていたのか、店主はにやりと笑って「呼んでみぃ」と言った。
昨夜寝る頃に狩りに出ていくのを見送ってからオマエを見ていない。店にいる様子もないので、どこにいるのだろうとは思っていたけれど。
一応辺りを見渡して見当たらないのを確認してから小さく呼んでみる。
「オマエー?」
「ご用事ですか?」
背後から両肩を掴まれて、耳元で囁くような声がした。
全身の毛が逆立つような感覚に叫び声が喉元まで駆け上がる。覗き込むような視線に顔を向ければ、アイドル顔がにこりと笑った。
「い、今、いなかっ……いたの、か?!」
「いませんでしたよ? 昨夜はいい獲物が見つからなくて。隣町まで行ってました」
「となりまち!?」
本当なのかどうかさえ判らない。
「大丈夫そうだろ」
店主の声にオマエは少しだけ不服そうな顔をした。
「用事はないんですか」
「初日だから、いろいろシミュレートしてんだよ。新人に手ほどきしてくれるなら、あとでドリンクくれてやる」
その一言で、オマエの瞳がキラリと光った。舌なめずりしてにこにことカウンターに積んである本を手に取る。
現金だな。
「この手のこちらの言語に翻訳されてる非売品は、こっちの棚に分類されます。裏表紙の番号を見て、所定の位置に収めればいいだけですから」
てきぱきと棚に本を戻すオマエに倣って、テディの開くノートと首っ引きで片付けていく。おかげで、店を開く時間には床に散らばる本は無くなっていた。
一息ついてから店を開けたものの、店主の言う通り客らしい客はやってこない。
しかし、店の中には何かしらの気配があって、なんだか落ち着かなかった。マニュアルを読んでも「見えない気配は気にするな」としか書かれていない。
「見えねえもんはこっちに影響あるもんじゃねえ。慣れるしかねぇな。非売品以外は好きに読んでいい。おれは奥にいるから、何かあったら呼んでくれ」
「店主、ドリンクは」
「……そうだったな。じゃあお前は一緒に来い」
二人が連れ立って行ってしまうと、店の中が急に広く感じられた。カウンターの端でテディがボールペンを構えて勇ましく立っていたのだけど、それを振り回すような出来事もなく……ボールペンを手放し、座り込み、足をぶらぶらさせて眠そうに舟を漕ぎだすところまで観察してしまった。
妙な気配は時々感じるけれど、テディが和ませてくれるのでありがたい。
何事もなく午前が終わろうとして、どこか棚の上から紙が一枚落ちてきた。
拾いに行けば、棚の影で積み上がった本の山に向かってしゃがみ込んでいる女性がいた。
見えない気配に気を取られ過ぎて、客が来ていたのを見逃したのかもしれない。今更声を掛けるべきか迷って、あちらが声を掛けてこなかったのなら一人で吟味したいのだとカウンターに戻ることにした。
体の向きを変えた時、何か声が聞こえた。
思わず耳をすませば、すすり泣きのように聞こえる。
何かあったのか。具合が悪いのかも。
思い直して、俺は女性に近づいて声を掛けた。
「どうしました? 具合でも悪いですか?」
突然立ち上がって振り向いた女性の顔は、のっぺりと目も鼻も口もなく――
驚いて近くの本の山を崩してこけた俺を笑うように(口もないのに!)、ケタケタと笑い声が走り抜けて消えていった。
物音に気づいたのか、店主とオマエが顔を出す。
「やられましたね。無視するくらいでいいんですよ」
笑いを含んだオマエの声が妙に癇に障る。
崩れた本を見渡して、思わず天井を仰いだ。
――くそっ! 脅かすなら片付けもしていけよ!




