第41話 寝耳に水
仕事も一段落した月の半ば、課長に飲みに誘われた。
飲みニケーションなんて言われたのも今は昔、最近の新人たちは軽やかに断りを入れるものだが。
お疲れさん会みたいなものかなと、深く考えずに承諾した。意外と頑張った自覚はあるし。
まさか縁談とか持ち出されないよな? いくら田舎だからって、そこまで古臭い風習はないだろう。ない、よな?
のんきにそんなことを考えつつ乾杯して、刺身などつついていれば、課長が言いにくそうに切り出した。
「実はな、異動の話があって……」
「えっ。課長、どこかの支店長にでも?」
課長は苦笑して猪口に口をつけた。
「俺は動かんよ。ここに骨を埋めるつもりだからな。君にだ」
きょとんとしてしまって、それからちょっと青褪めた。
「え!? 俺、なんかやらかしました?」
今度は声を出して笑って、それから課長は息を吐き出した。
「逆だよ。逆。こちらとしてはまだ居てほしいんだが……本社の圧が強くてね。年度末も越えたことだし、と詰められて」
大きな失敗もしていないと思うが、本社に何か言われるほど業績を上げたわけでもない。俺は首を傾げてしまう。
課長は新しく猪口を取って俺の前に置くと酒を注いだ。
「君が来るとき、客先にずいぶん迷惑をかけたと聞いていたから、こんな田舎に飛ばされたならすぐに辞めるのではと思ってたんだ。実際、そういう人も多かったからさ」
「ああ……まぁ……」
気まずい思いで注がれた酒に口をつける。
大事な会合の席を無断ですっぽかした。簡単に言えばそういうことだ。
もちろん、わざとではない。前日の晩に高熱を出して、上司に連絡を入れたのだけど、その電話を取ったのがどうやら上司ではなかったらしい。
「わかった。任せておけ」と言ったのが誰なのか……朦朧としていたから、もしかしたら気のせいだったのかも。
着信履歴はあったようだが、上司はそれに気づいておらず、会合場所には連絡もなく誰も行かなかった。もちろん顧客はカンカンだ。
会社から連絡が来て慌てて対応に走ったけど、熱も引いてないし、その後もぐだぐだだったのは想像に難くないと思う。思い出したくないのもそうだが、なんなら半分くらい本当に覚えていない。
「でもね。働きぶりを見ていたら、何か行き違いがあったんじゃないかって気もしてたんだよ。仕事らしくない仕事も真面目にしてくれるしさ。話を突っぱねてこのままいてもらおうって話しもあったんだけど……チャンスを潰すのも、なぁ。やっぱり、戻りたいだろう?」
その質問に、俺は即答できなかった。
正直、こちらの仕事は張り合いに欠ける。給料も下がった。でも、気持ちよく働けていたのは間違いない。同じ上司の下に戻るとは思わないが、やってしまったミスに対して、ただただ愚痴と嫌味を浴びせられるようなあの環境なら、仕事のモチベも下がるというもの。
「……一晩、考えてもいいですか」
「おや。考える余地がうちにあるということかい? 断ればもうこんな話は来ないよ? うちは嬉しいけど……いいよ。どちらにしても、うちはうちのできることをするから」
「ありがとうございます」
徳利を持ち上げて促せば、課長は猪口を空けて差し出してくれた。
*
店を出て課長と別れ、ひとり歩き始めれば、火照った頬を夜風が撫でていく。
繁華街を過ぎれば人通りはほとんどない。ほろ酔いだと自覚しているけれど、心の芯までは酔えなかった。
「呼びましたか?」
ひとつ向こうの街灯の下に、オマエが立っていた。
「……呼んでないよ」
その姿を見て、少しホッとしている自分がいる。暗がりを歩くのが怖いと、どこかで思っていただろうか。
まあ、そう思うようになった元凶はコイツなんだろうけど。
「そうですか。お家までボディガードしましょうか」
「うちには発泡酒しかないぞ。それでよければ」
並んで歩き始めれば、出会った頃のことを思い出した。胡散臭くて、押しの強い奴だと思っていた。いや、今も思ってるけど、不思議と不信感はない。
テディがいなければ、オマエともこんなに関わらなかっただろうか。
莉音ちゃんや寺のお坊さんとも親交を深めることはなかっただろうし……
「何かありましたか?」
「そうだな……都会に戻れるかも。本社から異動の話が出てるらしい」
「栄転ってやつですか」
「まあ……そう、なるのかな。詳細がわからなくて、ちょっと気持ち悪い」
「こちらに来た時よりは悪縁は切れているので、それでじゃないですかね。輪をくぐったり、人形に厄を移したりした甲斐があったじゃないですか」
悪縁……
「オマエが食ったり……」
「してませんよ。そういうことで切れていく程度のものは、そう旨味もありませんし」
「あ、そう」
「でも、そうですか……もう楽にあれこれ食べられなくなりますね」
ここは、餌扱いするなと突っ込むところだろうか。
でも、異動すればもう顔を合わせることもないのだと、ふと実感する。
「……都会にはこことは違う魑魅魍魎がたくさん居そうだぞ。たまに、遊びに来ればいいじゃないか」
オマエはこちらを向いた。しばしじっと俺の顔を見つめてから口を開く。
「言ったじゃないですか。この界隈から外には行けません」
「本当に?」
「本当です。だいたい、得体のしれないものを気軽に誘うものじゃありませんよ。どこまでお人好しですか」
「呼んでも?」
「行けません」
すっと手を差し出された。
ほろ酔いの頭は何も考えずにその手に手を重ねる。
オマエは微かに笑って、その手を口に運んだ。
あっ、と思ったときには遅かった。右手の小指の付け根辺りに軽く噛みつかれる。
怖さも痛さもなかったけれど、ぷつりと何かが切れた――そんな気がした。




