第39話 変化
「どうしたんすか、それ」
同僚に頬の擦り傷を指差される。
「……ちょっと、野良猫に飛びつかれて驚いてこけて……」
飛びつかれたのは猫じゃなくて角のあるウサギだけど。
角を避けなくちゃと気を取られて、足元の本の山に蹴つまずいてコケたのだ。本の角は意外と痛い。
あははと笑った同僚は、入口からひょいと顔を出した支店長に気付いて、慌てて手にした書類を俺の机に置いた。
「あと、よろしくっす~」
いや、この書類、俺関係ないし。なんとなく流れで置いたな?
「茂部くん、遠山課長は」
「あ~……」
同僚は予定の書かれたホワイトボードを振り返る。
「出てますね。昼過ぎには戻るんじゃないですかねぇ。急ぎですか?」
「ん? うん……まぁ。そうでもないんだが。電話してみるよ」
支店長はちらりと俺を見ると、そそくさと行ってしまった。
何かあったのだろうか。上は上で大変だよな。
ほっと胸を撫で下ろした同僚に書類を突っ返す。同僚は悪びれもせず、笑って自分の席へと戻って行った。
*
怒涛の年度末を越えて四月に入ったからといって、急に仕事がなくなるわけじゃない。後に回していた仕事をぼちぼち片付け始めて、軽い残業のあと家に帰れば、人の話し声がする。少々の警戒をしながら部屋のドアを開けてみると、暗闇の中でオマエがタブレットでアニメを見ていた。
「……電気つけろよ」
「家主がいないのに電気がついているのは不自然かと思いまして」
「暗闇に人がいる方がビビるから!」
くすくすと笑うオマエからはこちらの反応を楽しんでいる雰囲気がある。
軽く笑んだまま、オマエはすいっと指先で画面を払った。アニメがVチューバ―の配信に変わって、さらに次へ次へ画面を変えていく。
「最近、お忙しそうで」
「さすがにな。年度末だったから。そろそろ落ち着くとは」
「店主も少し前は何やら数字や書類とにらめっこしてましたね。こういうもので得られる情報にも少々飽きてきましたし、情報ではお腹は膨れません。なんだか食べ足りないんですよねぇ」
「そう言われてもな。幽霊を呼び込みするわけにもいかないだろうし」
「いい発想ですけど、もう少し手っ取り早い方法があるので。あなたといることで店主もだいぶ油断してるようですから……少し大がかりな狩りをしてこようかなと」
にこりと笑うオマエの発言に、不穏なものが漂う。
「大がかりって……?」
おそるおそる聞けば、オマエはそっと顔を寄せて声を落とした。
「ちょっと異世界、滅ぼしてこようかと。もちろん、この世界に影響のないところです。すごく美味しそうなところ見つけたんですよ。半日もあれば充分ですし、店主にはどうかご内密に……」
「……え……」
思わずオマエの腕を掴んで「やめろ」と口走っていた。
人間を食う気はないと言うが、俺みたいな一般人なんて、いくらでもあしらえるのではないかと思いつつ、それでも一緒に食卓を囲んだり、酒を酌み交わしてきたのだ。話しができると思っていた。
「ハザマさんには何の影響もないんですよ? どうして止めるんです」
「「内密に」って言うからには、店主に知られるとまずいと思ってるんだろ? 内密になんかしないからな。他人の住むところを気軽に滅ぼすとか言うもんじゃない」
「でも、食べないと生きていけないですし。見たことも聞いたこともない世界がひとつ無くなるくらい、いいじゃないですか」
オマエは薄く笑んだまま、棚の中のおやつをひとつつまみ食いするくらい、という軽さで言う。
「せっかく、店主が誰も困ったり悲しんだりしなくていいようにしてくれてるのに、そんなことしたら、今度こそ……」
相打ち覚悟で止めるのではないだろうか。
俺はそれを手伝うのか? 手も出せずに見守るしかないのか?
「ちょっといい酒買ってやるし、週末には心霊スポット巡りに連れて行ってやるから、考え直せ? な?」
オマエは何を考えているのかわからない、曖昧な笑みを浮かべたまましばし黙った。
「……この世界の危機でもないのに、自分に負担をかけてまで止めたいものですかねぇ。店主に頼まれたわけでもないでしょうに」
そう言われて、改めて考えてみる。
「そうだな……そういうことを頼まれたわけじゃない。でも、俺も今の生活を楽しんでるとこもあるから……それを心から楽しめなくなるのは嫌だろ」
ふふっとオマエは笑った。
「本当に、つけ込みやすいお人ですね。覚えていますか? 勇者の定義を」
「え? 何の話?」
「世界を救った人をそう呼ぶのでしょう? なら、あなたは今、世界をひとつ救ったことになりますね」
「は? え? いや……んん!? そういうことに、なる、のか?」
ちょっと納得しかけて、いいやと首を振る。
そんなわけないだろう!?
俺の様子を見ていたオマエは、こらえきれないというように噴き出して、珍しくケタケタと笑った。
「エイプリルフールって、楽しいですね」
はぁ!?
どこまでが嘘だ!?




