第36話 桃源郷
高級チョコレートを一粒口に入れて、オマエは幸せそうに微笑んでいる。
神気の味って、やっぱり桃の味に似てるんだろうか。桃源郷とか言うし、桃は不老長寿の果実とも言われるみたいだし。
羨ましげに見えたのか、オマエは俺に一粒差し出した。
「食べてみますか?」
「いいのか?」
「いつもお酒をご馳走になってますし、有名なお店なんでしょう? チョコの味はハザマさんの方がわかるんじゃないですかね」
珍しいこともあるもんだと、気が変わらないうちにもらっておく。口に放り込んだ瞬間からチョコは溶けだし、滑らかな舌触りとカカオの芳醇な香りが鼻に抜けた。
うん。よくわからんけど、高級な気がする。桃っぽくはないね。
俺がもらったのも美味しかったけど、やっぱりどこか違うもんだな。
これはお返しもそれなりの――
そこまで考えて、はたと気付く。
オマエはバレンタインやホワイトデーのことちゃんと解っているのか?
解っていたとして、相応のお返しを選べるのか?
オマエと目が合う。
にこりと微笑まれる。
「あなたも食べましたよね?」そう、言ってる気がした。
いや、何も言ってないんだけど!
『お伽堂』のアルバイト代は、こういう時のために平均より多めに出してくれてるんだろうなぁ~。
小さく息を吐き出す。
「……バレンタインにチョコをもらったら、一ヶ月後にお返しをするんだぞ?」
「そうみたいですね。ハザマさんもお返ししますか?」
「するよ。社会人が高校生にもらいっぱなしじゃ情けない。……一緒に選ぼうか?」
そう言われるのを待っていたというように、オマエはにっこりと笑った。
「お願いします」
*
スーパーの特設コーナーを覗きに行ったが、田舎で手に入るものなどたかが知れている。そして、半分はひな祭り用の商品が並んでいた。ひなあられや菱餅などを横目に、オマエは甘酒の缶の前で足を止める。
「それはアルコールほとんど入ってないぞ」
「そうなんですよね。桃花酒も見かけませんし、白酒も数は多くないですよね」
「とうかしゅ?」
「桃の花を浮かべたお酒ですよ。ほら、以前に菊を浮かべたり漬け込んだりしたことがあるじゃないですか。あれの桃版です。上巳の節句は、邪気祓いとして桃花酒を飲むのがルーツのはずですから」
「そうなの?」
俺は菊に悩まされた一日を思い出した。
「花屋にはあるかもしれないが……」
山にまで行く気はないし、住宅地では、あってもよその庭だ。
「さすがにそこまでわがままは言いません。白酒なら酒屋に行けばありそうですよね」
「まあな」
正直、女の子のお祝いというイメージが強くて、あまり縁がなかった。実家ではちらしずしを食べる日、くらいのイメージしかない。父親も普通にビールを飲んでいた気がする。
「桜餅は食べたけど、酒のイメージはないんだよな」
「子供はそうですよね。ああ、ほら、歌では右大臣が赤い顔をしてると言ってるじゃないですか」
「最近は右大臣まで揃った段飾りは珍しいだろ」
「そうなのですか」
しまい込んだまま飾られないと、押し入れや納戸の中から話し声やお囃子が聞こえる、なんて怪談もつきものだよな。そう思ったものの、口に出すのはやめた。
うちにお雛様はないが、テディのようなことがないとも限らない。
結局、混ぜるだけのちらしずしの素を買って帰る。酒屋のある商店街まで出るのは面倒だったので、白酒はまた今度ということに。ただし、ビールは買った。お返しはネットで探すことにした。
アパートに戻れば、共用部の集合ポストの奥に大きなダンボール箱が置いてあった。階段下が物入れになっていて、大家さんが掃除道具なんかを入れているのだが、その前にどーんと鎮座している。行きには気づかなかったが、置き配か何かだろうとあまり気にせず階段を上った。
オマエが少し気にして視線を向ける。
「何かあったか?」
「ああ、いえ。人が入りそうな大きさだなと」
「ちょっと不穏なこと言わないで!?」
確かに、膝を抱えて体を折り曲げれば小柄な大人でもすっぽり収まりそうだが。
「人が詰められていればわかりますから、大丈夫ですよ」
「わかる?」
「そんなところに詰められれば、出たいとか、詰めた人への恨みとかが染み出しますから」
「へ、へぇ……」
大丈夫だというのだから、深追いはやめる。事件性が無ければそれでヨシ!
ビールを飲みながら二人でタブレットを覗き込み、あれこれ検索していたらあっという間に日付けが変わっていた。
ぐっすりと眠っていたはずなのに、どこからか雅な音楽が聞こえてきた。
桃色の花咲く木々の下で、酒を酌み交わしている……夢だったような気もしたが、音楽はリアルに聞こえているとわかって目を開けた。
辺りは真っ暗で、カーテンの隙間から街灯の灯りがぼんやりと入り込んでいる。
目を開けても、どこからか聞こえてくる笛や太鼓の音は消えない。うるさいというわけではなく、夜中だから耳を傾ければ聞こえてくるという程度。
しかし、この辺りに雅楽をたしなむような住人はいなかったと思う。
部屋の中を見回してもオマエはいなかった。タブレットもテーブルに置いてあり、画面は暗い。動画や音楽サイトを開いている線も消える。
買い物中に考えていた怪談のことが頭をよぎり、脈が少し早くなった。
しかしうちには人形の類は置いていない。ひな人形など以ての外だ。いったいどこから……
気になってそっと起きだす。何かあればオマエを呼べばいいだろう。
耳を澄ましながら玄関に続くドアをそっと開ける。少し鮮明になった音は、玄関の外から聞こえてきた。家の中じゃないことにほっとして、玄関の方へ視線を向ければ、暗闇でオマエがぼぅっと立っていた。
ぎゃぁ! っとあげそうになった悲鳴をどうにか飲み込んで、声を掛ける。
「い、いたのか」
オマエは肩をすくめてこちらへ来ると、俺を部屋へと押し返した。
「聞こえましたか? 目が覚めるほどうるさくもないかと思ったのですけど」
「あれ、どこから聞こえてくるんだ? ってか、みんなに聞こえる系か?」
「どうでしょうね。周波数が合った人は聞こえそうですが」
「ラジオみたいに?」
「そういうものです」
ベッドまで押しやられ、寝ろとジェスチャーされる。
「うるさかったら黙らせてきますけど」
「なんかまずい感じか?」
オマエは残念そうに首を振った。
「まずい感じにこちらに来るようなら食べたんですけどねぇ。楽しんでるだけのようですから。まあ、たぶん『お伽堂』に来るでしょうから、急がなくても」
「見張っててくれたのか?」
「そういうわけでも。ああ、でも、そういうことにしておけば、白酒をねだれましたかね」
「……わかったよ。明日帰りに買ってくる」
ふふ、と笑って、オマエはまた玄関の方へ出て行った。
*
次の朝、少々寝坊して慌てて家を出る。階段を駆け下りたところで、共用玄関を掃除している大家さんと鉢合わせた。挨拶して通り過ぎようとしたのだけど、「そうだ」と呼び止められた。
「間くん、時々『お伽堂』でバイトしてるだろ? それ、引っ越した住人の置き土産なんだけど、持って行ってくれないかな」
大きなダンボールを指差されて、しかしそれよりもバイトしていることを知られていたことにドギマギする。
「え? あ。その……中身は?」
「お雛様だよ。七段飾りらしい。もうみんな独り立ちしちゃって、置くところもないからってさ。リサイクルショップにも渋られちゃって。急がないから。頼んだよ」
そう言って「行ってらっしゃい」と送り出される。
昨日のお囃子……最後の宴会って感じだったのかもなぁ。
しばし箱を見つめてからハッとした。のんびりしてる場合じゃなかった!




